『だから、救って。綺羅』
その言葉の真意を、まだ自分は知らない。
「綺羅?」
はっと我に返ると蓋が不安そうにこちらを覗き込んで来ていた。見慣れた瞳と目が合って、思わず安堵の息を吐く。
ゆっくりと首を振って異常がないことを伝えるも彼は相変わらず不安そうだった。
「大丈夫か? ぼーっとしているようだったが」
「ん。大丈夫だよ」
手の中で先ほどスモモから受け取ったばかりのジムバッジが転がる。
四角いひんやりとしたそれをケースの中に仕舞い込んだ。
"そういえば風の噂で聞いたのだが、ギンガ団の奴らノモセシティに何か荷物を運んだらしい。何をするつもりかわからないがあまり良い予感はしないな。君も無茶をせずくれぐれも気を付けるんだぞ"
ギンガ団倉庫で別れ際に彼が言っていた言葉を思い出す。
「"良い予感はしない"、ね。確かに」
ふいと空っぽだったギンガ団倉庫に視線を移した。
その奥にある悪趣味なビルがボヤける。
これはただの予想だがあのギンガ団倉庫、隣にあるビルとつながっている気がする…というか配置的に殆ど確実につながっているだろう。
何かあったときの緊急脱出口、とかそんな感じで。
ドアは酷く錆び付いていたし衝撃を与えてやれば破れそうな感じだったけれど、まあ警察が隣に居る手前できまい。
無茶をするなと釘を刺されたばかりだったし。
「皆、今日はまだ日も高いしこのままノモセまで行こうと思うんだ。疲れてないか?」
たった今出てきたポケモンセンターに振り向きながらそう尋ねると彼らはこくりと頷く。
『綺羅さんこそ、疲れていませんか?』
「大丈夫だよ。ありがとな」
少し不安そうに震えるボールを撫で、何故かずっと不安そうに外に出ていた蓋に視線を向けた。
「蓋」
「……わかった」
渋々ボールに戻る彼に苦笑しながら綺羅はトバリシティを後にする。
きっと、また戻ってくることになるだろうとどこかで感じながら。
* * *
トバリシティを抜けて真っ直ぐ南へ。
岩肌が露出しながらも柵など人工物が設置された道を抜けると景色は開け、木々と水の匂いが鼻先を掠める。
少し湿った空気の所為か二の腕がひんやりとして思わず腕を擦った。
どこか懐かしい匂いに思わず周囲を見渡す。
ふと視界に映った木々の隙間の向こう、何かに吸い寄せられるように恐る恐る草むらに足を踏み入れた。
あまり良いとは言えない足場をゆっくりと進んでいく。
視界が開けた瞬間、木々によって遮られていた陽の光が勢いよく振ってきて、思わず目を細めた。
『あら。また来たの? また迷子になっても知らないわよ』
『まあまあいいじゃんか。今日も一緒に遊ぼ?』
『ねえ、これ見て。この間来た人間が落としていったの。これ、文字っていうんだよね。きみは読める?』
……?
なんだろう、この感じ。
脳みその奥で記憶がチラつく。
懐かしい……けど、知らない声。
『え? あなた、親とはぐれたの? ……なんだ、だからよくここに来てたのね』
『大丈夫だよ、僕たちがいるもん!』
『そうだよ。この辺には木の実もたくさん生えてるし湖の水も飲めるし!』
最初はシンジ湖のほとりに似ているから懐かしさを感じているのだと思ったが、どうやら違う。
それよりも、もっとずっと前から自分はこの空気を知っている。
シンジ湖ではなく…ここにある湿った空気を肺一杯に吸いこんだことがある。
ノイズと一緒に瞼の裏に走る記憶が、声が、景色が、それを裏付けてくれる。
桃色と青色と、それに黄色。
ぼんやりとその姿が脳裏に浮かんだ。
ふわふわと自分の頭上を漂う彼らの声だけがぐらぐらと脳髄を揺らす。
なんだか気持ち悪くなり、綺羅は思わず口元を覆った。
喉の奥から空気が漏れる。
自分の知らない記憶が存在しているという事実は手足が震えるほどの不安を酷く煽った。
今まで何度も知らない記憶がフラッシュバックすることは決して少なくはなかったが最近は特に頻度が増えていることに気が付く。
フラッシュバックする記憶が徐々に鮮明になっていることにも。
「綺羅さん……大丈夫ですか?」
いつのまにかパートナー達が出てきていて、こちらを不安そうにのぞき込んでいた。
相変わらず胸元で燻るぐちゃぐちゃな感情を無理やり飲み下して口角を持ち上げる。
「大丈夫だよ。ありがと」
「大丈夫っつったって、顔真っ青だぞ。どっかで休もうぜ」
「え? だ、大丈夫だって。ほら。な」
「いいからいいから! ほら、いこいこ!」
両手を振って体調が良好であることをアピールしてみたが彼らの表情は頑として変わりそうにない。
休もう休もうと彼らに手を引かれて湖の出口まで引きずられる。
少し遠くで珍しく口を噤んでいた蓋に思わず視線を向けるも彼が味方になってくれることはなさそうだ。
というのも、彼は湖の奥の方をじいと見つめたまま微動だにしない。
その視線の先にあるのは風に揺らぐ水面だけなのに。
「蓋ー?」
名を呼ぶと彼ははっとしたように肩を震わせ、ゆっくりとこちらに視線を移す。
頬に反射した水面が彼の中で揺らいだ。
「……綺羅。何だったとしても、どうだったとしても、お前は俺の大事な娘で、相棒だからな」
彼のその言葉に込められた真意を理解するのは、もう少し後になりそうだった。