ざあざあと、大きな雨粒が透明なビニールの向こうを滑り落ちていく。
ジョーイが好意で借してくれた傘は、時折吹く風で頼りなく攫われそうになった。
地面にたっぷり溜まった水は綺羅が踏み込むたびに、靴下に染み込んでいく。
『おい、綺羅!』
「なに?」
『"なに"じゃない。何度風邪でぶっ倒れたら気が済むんだお前は!いいからどこか雨宿りするぞ!』
「だい、じょうぶ」
『聞き分けのないことを言うな! おい!』
「大丈夫だから。今は、雨に当たりたいんだ」
『綺羅さん! だめですよ、蓋の言う通りです!』
「思い出せそうなんだ。雨に当たってると、何か……大切なことを」
ぴり、と指先に震えが走る。
何処にも触れていないはずなのに静電気のようなものがつま先まで駆けていくのがわかった。
ズイの遺跡を探検した後(特に何もなかったので麗水や魅雷がすぐ飽きてしまった)まだ時間も早かったため早々にズイタウンを出発した。
雨の予報だからとジョーイが持たせてくれた傘は思ったより早くその役目を終えることになる。
降り出した当初は優しい小雨だったのだが、ズイタウンを離れていくにつれて雨脚は強まり、横風も吹きだしたため傘はもう殆ど役に立っていなかった。
にも関わらず綺羅は、たっぷり水分を吸った髪が頬に張り付くのも気にせずただ前を目指して歩く。
あの日も、そうだった。
走っていたら雨が降り出して、全身から流れる血がどんどん地面に吸われていって、体力も一緒に逃げていって。
どこかわからない森の中で力尽きて、倒れこんで。
嘲笑と、貫くような冷たい視線と、血に濡れた靴底が見えた。
「……俺は、一度、」
それ以上の言葉は、震えて出なかった。
* * *
『綺羅ちゃん、大丈夫かな』
壁を隔てた向こう側、綺羅が一人で眠っている部屋を鈴は不安げに見つめる。
その正面に座る蓋も眉を顰め、小さく溜息を零した。
ここは道中で見つけた小さなポケモンセンター。
決して大きくはないけれどズイタウンからトバリシティへと続くこの地域は雨が降ることも多く、よく雨宿りに使われるのだという。
天から降り続ける水でずぶ濡れになりながら薄暗い空を見上げて動かなくなってしまった綺羅を半ば無理やりこのポケモンセンターに引きずり込み、一人にしてほしいと力なく懇願する彼女のため部屋を二つ借りて、現在。
「なんか様子変だったよな。心ここにあらず、っつーか、なんか、違う奴みたいだったっつーか……」
壁に寄りかかりながら陽葉は目を伏せる。
小さく手が震えていた。
『マスター、風邪引かないと良いけど』
『なんか悩みでもあんのかな……相談してくれないってことは、俺達頼りないのかな』
しゅん、と魅雷の尾が力なく項垂れる。
「蓋」
「なんだ」
「貴方、綺羅さんと一緒に暮らしていたんですよね」
窓の外を見上げていた炎が部屋の脇に設置されたベッドに腰かけた。
その目は微かに揺れている。
「僕は違和感の正体を知りたい。知ったところでどうということもないですが、それでも」
「……何が言いたい?」
蓋は足を組みなおし、背後にいる炎に視線を流した。
ごくりと生唾を呑み込む音がする。
「貴方も薄々勘付いているんじゃないですか。あの人は……」
炎の言葉を遮るようにどこかで硝子が割れるような音が響き渡る。
同時に室内の警報器がけたたましく鳴いた。
音の発信源は、
「ッ綺羅!!!」
蝶番が酷く軋むのも気にせず蓋は部屋を勢い任せに飛び出し、隣の部屋に飛び込む。
だが、遅かった。
外から割られたらしい窓の破片は室内に散らばっており、それを踏みしめる音がぴしりと響く。
綺羅が一人で寝ているはずのその部屋には顔半分を布で隠した数人の大男がいて、綺羅がいるはずのベッドは空になっていた。
代わりに、数人の大男のうち一人に綺羅の小さな身体は抱えられている。
目は開いているようだが、虚ろに濁っていて意識があるとは言えそうにない。
しかし頬だけは異状に赤く染まっていた。
そう、丁度、薬物でも摂取したかのような。
男たちは部屋に飛び込んできた彼らを見て、綺羅を抱える腕に力を籠める。
「お前ら、コイツのツレか」
抱えられた綺羅はされるが儘、青白い腕がだらりと垂れた。
「テメェ等、そいつに何をした」
「教えてやるよ。俺達の言うことを聞いてくれたらな」
ぐしゃり、と男たちの目元が歪んだ。