濃紺の夜空に、ぽっかりと欠けた月が浮かんでいる。
時折灰色の雲がその月を覆い隠し街灯が殆ど設置されていない道は暗闇に包まれた。
星はきっと濃紺の奥に飽きるほど浮いているのだろうけれど、残念ながら今綺羅が居るところからは観測できそうにない。
「今夜は冷えるな……」
ぽつりと呟き、身体を縮こませながら両腕を摩る。
『寒いのか? 無理せずもう一泊すれば良かっただろう。ジム戦の後なんだし』
「うーん。まあ、そうなんだけど。なんとなく夜風を浴びたかったんだよ。……あ、そうだ。炎、起きてる?」
『起きていますよ』
少しだけ眠そうな炎をボールから出し、そっとその身体を抱え上げた。
触れ合った胸元と腕とにじんわりと温度が浸み込んできて、はう、と息を吐く。
「炎あったかーい……」
思わずきつく抱きしめて頬を摺り寄せた。
炎タイプであるからか若しくはポケモンだからか、ふわふわした彼の体温は人間のそれよりも高く、冷え切った指先はすぐに温度を取り戻す。
『綺羅さん、手、冷たいですね』
そう言うと炎は両前足を綺羅の手に重ねた。
ぷにゅ、と肉球の柔らかい感触に癒される。
「しばらくこのまま歩いていい?」
『勿論。いくらでも』
少し歩くと、腰に提げたボールから寝息が聞こえてきた。
麗水と魅雷はとっくに夢の中。
陽葉も少し前まで会話に参加していたが寝てしまったようだし、とうとう蓋も眠りに落ちてしまったようだ。
「みんな寝ちゃったな」
『そうですね』
「……炎も眠い?」
『少しだけ。でも、折角綺羅さんと二人きりなので、もうちょっとお話したいです』
そう言うと彼は綺羅の胸元に顔を擦りつける。
「ん、わかった。なんの話をしようか」
『僕と、出会う前の話を聞きたいです』
「炎と出会う前?」
『はい。だめ、ですか?』
「いや。大丈夫だよ。そうだなあ、何から話そうか」
少しずり落ちてきていた炎をそっと抱えなおして、夜空を見上げた。
「俺は、えっと、蓋と一緒に湖の近くに住んでたんだ。旅に出たのは……なんとなく、っていうか。まあ色んなところを見てみたいって思ったのがきっかけだな。そんでコウキくん達と……あ、ヨスガシティで助けてくれた男の子な。あの子たちと会って、陽葉と出会って」
炎は嬉しそうに、時々相槌を打ちながら話を聞いている。
彼と出会ったところまで話して、一息ついた。
「と、まあ、そんなところだな」
『あの。綺羅さんは、なんで、ポケモンである蓋と一緒に?』
恐る恐る、腫れ物に触れるかのような声で彼はそう言い、首を傾げる。
「んー……なんで、かあ」
綺羅は頬を掻いた。
その眉は申し訳なさそうに下げられている。
「覚えてないんだ。気がついたら隣に蓋が居た。家は古臭い小屋だったから鏡なんてなくって……だから自分はポケモンだって信じて疑っていなかったよ。蓋はなんか、何も話してくれないし」
『そう、なんですか』
「そんな顔するなよ。大丈夫だから。それに、正直なところ過去なんてどうでもいいんだ。今、お前らと一緒に居られて楽しいからさ」
そっと炎の頭を撫でた。
『……綺羅さん、僕、あなたに会えて良かったです』
「な、なんだよ。どうしたんだよ急に」
『ふふ。あなたと出会ってもうどのくらいになりますかね。なんだか、もうずっと一緒に居るような気がします』
鼻先が手のひらにあたってくすぐったい。
『人間って、どこか僕たちと距離を置いているような気がするんです。一線を引いているというか。ブリーダーに育てられていた時から、なんとなくそう思っていました。でも、あなたはそんなことないというか、どちらかというと僕たち側に近いような、そんな気がするんです』
「……それ、麗水にも言われた。人間っぽくないって。まあ、当たり前かもしれないな。昔は本当に自分のことをポケモンだと思っていたし、育ての親がそもそもポケモンだし」
環境が環境なだけに、ポケモン側に寄ってしまうのは仕方がないだろう。
『いえ、まあ、それもそうなのでしょうけれど、もっと根本的な何かが……』
その時だった。
ちりん、と、鈴の鳴るような音が聞こえたのは。
「今、何か聞こえなかったか?」
『いえ、僕は何も』
途端、炎の小さな体は暗闇の中に放り出された。
『う、わっ?!』
なんとか空中で身体を捻り、地面に着地する。
少しその場でよろめいたが何とか体勢を安定させて振り向くと、背後で倒れている綺羅に駆け寄った。
『綺羅さんっ?! 綺羅さんっ!!』
受け身も取れず倒れこんだようで、彼女の頬には砂で切ったらしい傷がついている。
真っ青になっているその顔には生気が籠っておらず、目が虚ろだ。
『だ、誰か……っ! どうして、誰も出てこないんですかっ?!』
持ち主が倒れたことで発生する振動だ、ボールの中も激しく揺れたに違いない。
少なくとも蓋なら我先にと飛び出してくるはず。
なのに。
綺羅の腰に提げられているボールを前足で叩いてみるが、うんともすんとも言わない。
ボールについているボタンを押してみても、かちかちと音が鳴るだけだ。
『起きて、起きてくださいっ……! 綺羅さん……!』
その時、視界の端でふわりと白い布が揺蕩うのが見えた。