世間一般的に、幽霊と称されるものは恐怖の対象となっている。
幼少期はメディアというものから離れて暮らしていたため、幽霊というものの存在を知ったのは旅を始め、宿に設置されたテレビを使うようになってからだった。
得体のしれない、生者たちでは到底太刀打ちできないであろう、未知の存在。
本当に存在しているかどうかさえわからないが、火のないところに煙は立たぬともいうし、あながち全て嘘っぱちとも言えないのであろう。
テレビで流れていた映像は、視聴者を驚かせるには良いだろうが、それは突然大きな音が鳴ったり大きな声が響いたりと演出による効果も決して小さくない。
とはいえ確かに、気が付いたら知らない場所にいるという、ホラー映画のような展開は恐怖心を十分に煽った。
これが人間の所業だったらと思うと尚怖いけれど。
「…うわ、きったね」
目の前、こんもりと埃を被ったドアノブを見て、綺羅は呟いた。
確か自分はあの後ポケモンセンターに寄り仲間たちと眠りについたはずだが…。
ふと目を覚ました時、目の前に広がったのはセンターの白く清潔な天井ではなく、装飾は剥げ、色褪せたシャンデリアが掛かった天井だった。
降りたベッドのシーツは酷く汚れていて、つんと鼻を刺す臭いがする。
「なんだ…?ここ…」
仕方がないのでドアノブに着いた埃を軽く払い、そっと握った。
その時。
「ッ…?!」
ぞくりと背筋が粟立つ。
膝から力が抜けて褪せたカーペットの上に座り込んだ。
何かがいる。
自分の背後に、明らかに、少なくとも生き物ではない気配が。
声が出ない。
震える自分の肩を抱きしめた。
その気配はゆっくりと、だが確実に真後ろまで迫ってきている。
「っく、はあ…」
なんとか震える腕に力を込め、ドアノブを再び握った。
何度か捻る。
「嘘だろ…開いてくれ…ッ」
がちゃがちゃと取り乱しながら何度も回した。
耳元に吐息を感じるほどに気配が近づいてきたその時。
「わ…ッ」
頑なに拒んでいたドアがやっとその身を委ねてくれた。
ドアと共に廊下に転がり出る。
ドアノブに長年積もって来たであろう汚れが手のひらを真っ黒に染めた。
「っは…はぁ…は…」
恐る恐る振り向く。
そこにはお世辞にも綺麗とは言えない部屋があるだけで、先程感じた気配の正体も、その気配も無かった。
ほっと安堵の息を吐いたその時。
『綺羅ッ!』
視界の端に黒い目が滑り込んで来て、綺羅は驚きで思わず後ろに転がった。
勢い余って廊下の壁に後頭部を強打する。
『ちょ、だ、大丈夫か?!』
「……だ、大丈夫…」
膝の上に前足を乗せ、黒い瞳の持ち主、陽葉が顔を覗き込んできた。
小首を傾げ、心配そうにおろおろしている。
じんじんと痛む後頭部を摩り、上半身を起こした。
『なあ、綺羅。ここどこだ?』
「俺もわかんない…気が付いたらそこの部屋のベッドに居た」
『そうなのか。俺は気付いたら玄関近くに居てさ、玄関のドア触ってみたんだけどうんともすんとも言わなくて。ドアノブも鍵も手ぇ届かないし。とりあえず室内は粗方回ってみたけど、俺たち以外誰もいないみたいだ』
気が付いたら知らない場所に居る恐怖というのはどうやら人間の方が強いらしい。
陽葉はけろりとした顔でそう言い、綺羅の膝から降りる。
「そうなのか…ともかく、俺一人じゃなくて良かった…」
『さっさと玄関から出ようぜ。案内すっから』
「ああ。頼むよ、陽葉」
彼は、任せろ、と目を細めた。