痛い。
全身が引きちぎれそうな程に痛い。
低い目線、見下ろす影。
幾度となく振り下ろされる痛み。
浴びせられる罵声も鮮明に聞こえた。
痛い、痛いと声を上げて訴えるが届いていないらしい。
片目は潰れてしまったのか開かない。
口の中からは血の味がした。
『痛い…痛いよ…』
譫言の様に呟く。
まだ届くかもしれないと信じていたのだろうか。
意識が遠のいて、瞼が重くなる。
その時だった。
『今すぐ逃げて!』
『僕たちが道を作る』
『さあ立って。あなたはまだ生きている』
「ッ!!!」
飛び起きた衝撃で腰を痛めた。
嫌な汗が頬を伝う。
汗で濡れた上着を乱暴に脱ぎ、浅くなっていた呼吸を整える。
「う…」
口元を抑えてトイレに駆け込んだ。
便器の前に跪き、上がって来た嫌悪感を吐き出す。
痛みが、血が、感触が、瞼の裏に鮮明に張り付いている。
「く…は、あ…」
やっと落ち着いた頃、ふいと視線を上に向けると設置されている小窓から星が見えた。
洗面台で汚れた口と手とを洗う。
濡れたままの手の甲で口元を乱暴に拭った。
そのままインナーとズボンを脱いでその辺に放り、シャワールームに足を踏み入れる。
汗で頬に張り付いた髪をかき上げながらバルブを捻るとシャワーヘッドからはお湯が溢れ出し、ルーム内は蒸気に包まれ、熱めのお湯を被ったところでやっと深く息をした。
「気持ちー…」
冷たかったタイル張りの床がゆっくりと熱を帯びていく。
ふと視線をタイルから持ち上げると鏡の中の自分と目が合った。
「…はは…こんな顔してたら、蓋に怒られるかな」
にこりと笑ってみる。
鏡の中に居る彼女も同じように笑った――が、無理しているのが見て取れる。
「あー…もうダメだダメだ!クヨクヨすんな俺!」
自分の両頬を叩く。
痛みがじんじんと頬を撫でるが、おかげで脳みそは冴えた。
気合を入れる様に心地の良い音をさせながら勢いよくバルブを閉めた。
* * *
「…」
シャワールームの前。
ドアの横にある壁に背を預ける様にして、蓋は立っていた。
本当は森の中からずっと起きていた。
いや、起きたのは出口が近づいてきた頃なのだけれど。
"こんな顔してたら、蓋に怒られるかな"
沈んだ声。
彼女の表情を想像するのは難くなかった。
お湯を止める音がすると同時にベッドへと戻る。
「綺羅…」
普段は笑顔が眩しい彼女。
彼女の人生の殆どを共に過ごしてきたにも関わらず、彼女は自分の知らない何かを持っている。
それはとっくに気が付いていた。
幾度となく踏み込もうと試みたが、飛び込むその瞬間にいつも足が竦む。
「何が"相棒"だ…」
ベッドに拳を叩きつける。
吸収されたのは衝撃だけで、自分の非力さは腹の底に燻ったままだった。
苛立ちを隠さないままベッドに腰掛け、片手で目元を覆う。
吐き出したかった言葉はため息に変わり静かな室内に溶けていった。
* * *
綺羅とは森の中で出会った。
日課の木の実集めの最中に、木々の隙間、生い茂る草木の中に彼女の小さな体は投げ出されていた。
野生の世界であれば何てことはない。
天敵に襲われて親とはぐれた、群れに見捨てられた、人間に捨てられた。
多い、というわけではないが一定数存在しているのが事実、現実だ。
だが人間の子供が一人で倒れているのを目撃するのは初めてだった。
彼の中で"人間"は"危険な生き物"のカテゴリーに入れられていたので初日は遠目から隠れながら観察した。
何度かその場を離れたりしてみたが、やせ細った指先はぴくりとも動かないし周囲に人の気配を感じることもない。
数日様子を見たところで、やっと彼女に近づいた。
人間に関しては詳しい方ではないのでよくわからないが、覗き込んだ子供の顔を見るに恐らく生後二年も経っていないだろう。
目を閉じ、死んだように眠っている。
耳をすませば辛うじて呼吸音と心音とが聞こえた。
結局、熟考の末震える手で子供を抱え、住処に連れ帰った。
何故そんなことをしたのかはわからない。
ただ思ってしまった。
独りなのだと、自分と一緒なのだと。
その日から、蓋はその子供と共に過ごした。
元々いた住処は岩場を掘ったものであまりに無骨だったため途中で森の中にぽつんと建っていた空き小屋に引っ越した(後にそこがシンジ湖の畔にある森の中だったと知る)。
まだ歯が生え揃っていない頃には木の実を磨り潰して与え、噛めるようになったら小さく切って食べさせた。
やがて、ボロボロだった子供は、少女になった。
長い黒髪に大きな瞳。
若々しくぷっくりと膨らんだ柔らかい頬は果実の様に赤みを孕んでおり、笑みを浮かべると可愛らしく潰れた。
「ねー!」
「ん、どうした?」
「だっこー」
先日、街に連れて行った。
人間はあまり好きではなかったが彼女を楽しませることができれば、と思い立ったからだった。
結果的に二度と彼女が街に出たいということは無くなり、人間への疑心を強めただけだったが良いこともあった。
やはりポケモンの姿では出来ることに限界があるということを学んだ。
と同時に、擬人化の術を手に入れた。
自分の足元をちょろちょろと活発に走り回る彼女はポケモンだった頃の目線よりも小さく見え、愛おしさが増した。
彼女の要望通り抱き上げると、彼女はふんわりした頬をそっと擦り付けて来る。
それに応える様に彼女の黒くて長い髪を撫でた。
「あのね、おれね、名前、"綺羅"っていうんだって」
ある日、少女はそう言った。
教えたわけでもなく本当に突然そう言った。
というか野生のポケモンとして生きてきた彼にとって名前は重要ではなかったのだ。
「名前ってすっごくだいじなんだって。だから、おれも、名前つけてあげる!」
「名前?」
「そう!えっとねぇー…本当は、ずがいどすって名前なんでしょ?」
「あ、ああ。誰から聞いたんだ?」
「ピンクの子と、あおい子と、きいろい子!たまにみずうみのちかくにいて、あそんでくれるの!」
ズガイドス、というのは人間が勝手に呼んでいる種族名なので、本当の名前などではないのだけれど。
それはともかく今までそんな奴らと会ったことは無い。
色からするに恐らくポケモンなのだろうけれど…今まで彼女の傍を離れたことも殆ど無いはずだった。
「わかった!名前ね、"がい"!どう?うれしい?」
にんまりと、嬉しそうに微笑む彼女の背中を撫でる。
気が付いたら昔よりも重くなっている彼女をそっと抱え直して頷いた。
「ああ。嬉しいよ。ありがとう、綺羅」
その7年後、更に成長した彼女はずっと伸ばしていた太ももまであった髪を自ら切った。
サラサラの綺麗な髪だったので勿体なかったが、それが彼女のけじめなのだという。
何故そんなことを、と目を丸くする蓋に彼女は言った。
「…ねえ、蓋。一緒に行こう」