物心ついたころには、綺羅の隣には蓋がいた。
両親は居なかった……というより、記憶にない。
あまり手入れの行き届いていなかったプレハブのような家を思い出す。
ある程度育つまで人間の親はポケモンなのだと信じて疑わなかった。
というか、自分のことをポケモンだと思っていた。
ポケモンの言葉がわかるのが当たり前だと思っていた。
まだ擬人化を会得していなかった蓋に連れられ、シンジ湖の畔にある森の中を出て、人が行き交う街に出るまでは。
優しそうな二人の仲睦まじい男女に挟まれ、楽しそうに腕を振って歩く自分と同じくらいの大きさの子供。
彼らはみんな、赤と白の丸いものを持っていて、そこからポケモンを出していた。
そして何より……ポケモン達が何を言っているのか分かっていないことが何よりもショックだったのを覚えている。
そのときにやっと自分は普通ではないのだと気が付き、そしてそれ以来、街に出ることはなくなった。
何てことは無い。
もう……あんなに冷たい視線を浴びたくないから。
ただ、蓋といつもどおり話をしていただけなのに、可笑しなものを見るかのように冷たく細められたあの視線が。
警察(当時はわからなかったが)に迷子かと声を掛けられ、迷子ではない、親はここにいると蓋の爪の生えた固い手を握った時に向けられた、憐れむような顔が。
野次馬から投げられた、気持ち悪い、という言葉が。
幼心を折るには十分だった。
蓋が擬人化を身に着けたのは恐らくそれが原因だったんだろう。
埃っぽかったプレハブは手入れの行き届いた小屋に進化を遂げた。
彼の赤い目は、親にも兄弟にも成り得た。
母親のように優しさを持ち、父親のように厳しさを持ち、兄弟のように寄り添い、姉妹のように遊んだ。
彼の苦労は見事功を成し、綺羅は優しい少女へと成長することになる。
男手一つで育てたので少し……いや、かなり男勝りな性格になってしまったが蓋はそれでも良かった。
胸を張って、自慢の娘だと言える。
蓋がそう思っていることを、果たして綺羅が知っているかどうかは別だが。
親の心子知らずとも言う。
その証拠に、彼女は未だに"気持ち悪い"という言葉に眉を顰めるのだから。
きっとまだ自分は普通ではないなんて思っているに違いない。
「…あっ、少し明るくなってきたね」
他愛もない話をしながら、歩みを進めること数十分。
モミが負けじと明るく声を零した。
彼女が指さす方向へ目を向けると確かに若干ではあるが明るくなっている。
この辺りにはこまめに日が差し込むのか地面は乾いており、先程までの沈み込むような感触はもうない。
「ねえ!あれ出口じゃない?」
小さな看板がちょこんと建っている。
劣化したが辛うじて読めるその看板は出口の方を指し、その身に≪この先ハクタイシティ≫という文字を刻んでいた。
「よかった…ここまで来れたんだ」
足早にその看板の指示通りに進むと待ちわびていた陽射しが落ちてきた。
久しぶりと言っても過言ではない爽やかな風を浴びながら、安堵の息を吐く。
「なんだかすっごくまぶしく感じるね。ありがとう、綺羅ちゃん。一緒にここまで来てくれて」
「いや、俺は何も。俺の方こそ、ありがとうございます」
それから一言二言交わし、またどこかで会おうという約束を取り付け、モミと別れた。
モミの背中が小さくなっていくのを見送り、歩き出す。
ハクタイシティにはジムがあるため本当は今日挑む予定だったが、すっかり太陽は西に行ってしまったし、なんだか今日は疲れた。
休むことにしよう。
ポケモンセンターで受付を済ませ、宿泊用の部屋を一つ借りる。
「結局誰一人として起きなかったなお前ら…」
通された部屋でそう恨めしそうに悪態を吐き、未だ深く眠っているらしいパートナー達が入ったモンスターボールをベッド脇のテーブルに乗せた。
森の空気で若干湿った服を脱ぐこともなくそのままベッドへダイブし、枕を抱きしめる。
「…過去、かぁ」
蓋が居たおかげで総じてそれなりに楽しい過去ではあった。
苦い思い出もあるがまあそれはそれだ。
だが、一つだけずっとどこかに燻っているものがある。
見たこともない景色がフラッシュバッグするのだ。
物心がついてから一切見たことも聞いたこともない光景が、音が、声が、脳みそを揺さぶる。
低い目線で草木をかき分け、必死に逃げた。
血を、浴びながら。
「ッくそ…せめて全部覚えてろよ、俺…」
忌々しい自分の脳みそにそう吐き捨てたのを最後に、彼女は沈むように眠りへと堕ちていった。