シンジ湖。
フタバタウンの北側に位置する、巨大な湖。
しっとりと湿った空気の中、艶やかな黒髪を短めにすっきりと揃えた、どこかボーイッシュに幼さが残る少女はぐい、と両手と背中とを伸ばして深く息を吐き出した。
まだ朝方だからだろうか、吐き出された息は一瞬だけ白い衣を纏い、消える。
旅立ちの日だからとどこか思い出深いこの場所を訪れたが、湖は相変わらずそこに存在しているだけで、ここに初めて来たときと同じく歓迎も、また歓送もしてくれなかった。
まあ、そんなに頻繁に来ていたわけではないので歓送については当たり前かもしれないけれど。
「ここは何度見ても広いな……」
『おい、綺羅。いつまでそうしているつもりだ』
綺羅と呼ばれた彼女の足元、固そうな頭を持ったポケモン。
種族名ズガイドス。そして、綺羅のパートナーだ。
「んん。わかってるよ、蓋」
綺羅はそう言いながらも、きょろきょろと辺りを見渡す。
出口へと足を動かす様子は無さそうで、蓋は彼女に倣ったように深くため息を零した。
まあそれもそうだろう。
かれこれこんなやり取りを20分近く続けているのだから。
まるで旅立ちを足踏みしているかのような、そんな彼女に蓋はやきもきしていた。
その時、からころと鈴の鳴るような可愛らしい別の声が聞こえてきて、彼はふいと背後を振り向く。
蓋の視線の中に映ったのは、その小さな体には似合わない大きな鞄を持った少女と、白衣を羽織った初老の男性だった。
「こんにちは」
少女は鞄を地面に置きつつ、ぺこりと綺羅に頭を下げる。綺羅も同じように頭を下げた。
一方、男性も軽く会釈をした後、辺りをぐるりと見渡して、ふむ、と立派な顎髭を撫でる。
「博士。どうかしましたか?」
「いや……何となく、昔とは違うような気がしてな」
「そうでしょうか……私は何も感じませんけれど……」
博士と呼ばれた男性は少女の言葉にもう一度ふむ、と息を吐いた後、くるりと湖に背を向けた。
「行くぞ、ヒカリくん」
「はい、博士」
少女は湖に来た時と同じように綺羅に頭を下げると、一足先に湖を離れるため歩き出した男性に続いた。
入れ違うようにして、二つの影が少し深い木々を通り抜けて湖へと近付いてくる。
どうやら少年らしいその二人は時折背後を振り向きながら恐る恐る空間の最奥へと進んできた。
「なんだ…?今の」
「ナナカマド博士だよ。知らないの?」
「全く知らん!そんなことよりギャラドスだよ、ギャラドス!」
黄色い髪の彼はその癖毛のようにぴょんぴょんとその場で飛び跳ね、飛び込んでしまいそうな程の勢いで湖に近付き、水面を穴が開きそうな程見つめる。
一方、帽子を被った少年は、そんな黄色い彼を心配そうに少し背後から見守っていた。
「ジュン……いた? 赤いギャラドス」
「んー。それっぽい影も見えねえなあ。あ、なあアンタ!赤いギャラドス見てないか?!」
二人の世界に突然引きずり込まれた綺羅は思わずびくりと肩を揺らす。
赤いギャラドス…?
そういえば今朝の新聞にそんなことが書いてあったような。
「いや…見てない、けど」
「なんだあ。もういねえのかなあ」
黄色い少年が詰まらなさそうに両手を頭の上で組み、唇を尖らせたその時だった。
空を覆う分厚い雲を切り裂くような、劈く鳴き声が聞こえたのは。
声と同時に木々の間をすり抜けて、ポケモンが3匹、少年たち目掛けて突進してきた。
ばさばさと両翼を忙しなく動かしながら少年二人の周りを飛び回り、時折足の爪を突き出しながら少年たちへと急降下する。
「ムックル…?! 蓋、行ってくれ!」
『任せろ』
そう言うと、蓋はずん、と自信ありげに一歩踏み出す。
敵意を感じ取ってか、ポケモン……もとい、ムックルは少年二人の周りを飛び回すのをやめ、こちらへ眼光を向けた。
「蓋、"しねんのずつき"!」
綺羅の指示を受け、蓋はその場で一瞬力を貯めたかと思うとしっとりと湿気を含んだ地面を蹴って走り出し、徐々にスピードを上げる。
威嚇か、ピイピイと喉の奥から声を張り上げるムックルに向かって、固い自慢の頭から相手の腹に飛び込んだ。
諸に攻撃を喰らったムックルは力を失って地面に落ちる。
これで残りの二匹が逃げてくれれば、と思ったのだけど、残念ながら残された二匹は一瞬怯みはしたものの逃げることは無く、まるで仇討ちだとばかりに声を上げた。
その時、背後から最近やっと聞きなれたモンスターボールの開く音と、飛び出したポケモンが地面に着地する音がする。
「いけっ、ヒコザル!」
「お前もだ、ポッチャマ!」
ボールを投げたのは、少年2人だった。
一方、突然ボールから弾きだされたポケモン達は何やら不思議そうに首を傾げている。
振り返った視界の端で巨大な鞄が口を開けているのが見えた。
あれは先ほど、博士と、その助手の少女が持っていた鞄だ。
一匹だけでは不利だと踏んで、手伝おうとしてくれているのだろう。
「ヒコザル、"ひっかく"攻撃!」
「ポッチャマ、"つつく"!」
不思議そうにしていた彼らだったが、そう指示があると的確にそれぞれ技をムックル達に直撃させた。
まさかの増援に驚いたらしい二匹は慌てて森の外へと逃げていく。
ふう、と胸を撫で下ろした綺羅に対し、少年二人は両手を上げてぴょんと飛び上がった。
無邪気に笑う二人に綺羅は蓋をつれて近付き、に、と笑みを向ける。
「二人とも、ありがとう!助かったよ」
そういうと二人は顔を見合わせてから、恥ずかしそうに、だけどどこか誇らしそうにはにかんだ。
…が、その後すぐに手の中にあるモンスターボールと近付いてきたヒコザルとポッチャマとを目にして我に返ったのか、青ざめる。
「ポケモン、勝手に使っちゃった」
しゅんとする二人に、綺羅は慌ててフォローを入れた。
「だ、大丈夫だって!緊急事態だったし…ほら!俺も博士んとこ一緒に行って事情説明して、謝ってやるから!」
な、と二人の顔を覗き込むが、やはりまだ不安そうだ。
確かによくよく思い出してみると博士は相当強面だったし、無理もないだろう。
二人を勇気づけるため一緒に行くなどと言ったけれど実際自分だって怖くないと言ったら嘘になる。
しかしこのまま黙っているわけにもいかない。
どちらにせよ行くしかないだろう。
少年二人と自分との背を押す為に、よし、と声を出そうとしたが、それに被るようにして少し前に聞いたばかりの少女の声が耳に飛び込んで来て、せっかく吐き出しかけた意気込みは再び喉の奥へと引っ込んでいった。
「忘れもの忘れもの…って、あれ?」
少女は目の前に広がる光景を何度か確かめるように見てから、恐る恐る言う。
「ポケモン、使っちゃったの…?!」
それだけ言い残すと、ばたばたと慌てた様子で湖の畔から姿を消した。
一瞬希望を取り戻しつつあった少年二人の表情に再び影が差す。
雨どころかもっと凄いものが降ってきそうな程落ち込んでしまった二人にどう声を掛けようか言葉を迷いながら口を開いた。
「と、とにかくさ。博士んとこ、謝りに行こうぜ。俺も一緒に行くからさ」
しかし、少年二人は弱々しくも、だがしっかりを首を横に振り、手に持ったボールをぎゅうと握りしめる。
ヒコザルとポッチャマとは不安そうに彼らを見上げていた。
「ポケモン使っちまったのは俺たちだし…アンタが怒られる必要はないだろ。ちゃんと俺たちだけで謝りに行く。な、コウキ」
「…うん。そうだね、ジュン。僕たち、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう、お姉さん」