恋をしてアホになるプラシド
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プラシドはゴーストを制作する都合上、材料集めや改良データ催促を目的に人間の元へ行くことも多い。時には気分を晴らすため、Dホイールで移動することだってある。
そんなある日、大企業の駐車場に停まったプラシドのT・666を見て、通りすがりの人間が呟いた。
「かっこいい……」
そしてそれを、今まさに帰ろうとやってきたプラシドは聞いた。
その人間は、まるで初めてDホイールを見たかのように純粋な眼差しを向けている。間違いなくこの手の類に詳しくない。そんな知識や偏見のない者による透き通った感動は、プラシドの心に何か見知らぬものを残した。
プラシドは、無意識にあの日いた企業への訪問を増やしていた。毎回律儀にDホイールに乗って向かっている。これは作戦として必要なことだ、それがプラシドの心境だった。
「ねえ、最近あそこ巡回しすぎじゃない? そんなに行く理由ないだろ」
だが悲しいかな、同じ記憶を分けた存在には筒抜けだ。ルチアーノが最近のプラシドの行動に言及する。
「これは作戦として必要なことだ。俺のやり方に口を出すな」
「あの人間が好きなんだろ。」
「おおおおおお俺が、にににににに人間を好きだと!?」
帰ってきたばかりで立っているプラシドは、玉座のある場から落ちそうな勢いで身を退く。
「そもそも、何故あの人間のことを知っている!」
「最近プラシドが変だから、ホセといっしょに調べたんだよ。人間のこと嫌いなクセに人間を好きになっちゃったんだ、キャハハハハハハ!!」
「ッ…………!」
俺が人間を好きだと、愛しているだと? そんなはずはない。プラシドはそう否定するが、『作戦』をやめることはなかった。
幸か不幸か、プラシドはまたあの人間と出会うことになった。一週間後の同じ時間だ。プラシドが今まで触れたことのない、のほほんとした様子で、同じように歩いてきている。
プラシドはコツコツとヒールを鳴らして歩く。ごく自然に、T・666へと向かう。人間の顔が動いた。首を回して、視線はこっちを見ている。
「わあ、あなただったんですね〜」
プラシドがヘルメットを持ったその時、先週と同じ飾り気のない声が届いた。
「先週も見かけて、とってもかっこいいDホイールだなって思って。あなたが持ち主なんですね」
「あ、ああ、そうだ」
「こんなDホイール初めて見たから、『かっこいい』って伝えられたらいいなって、ちょっと思ってて。Dホイールとばっちりお似合いで、乗り手の方もかっこいいんですね」
「そ……そうか」
何を言えばいいのか分かっているのに、何故だかすんなり受け答えできない。
人間は、去ることなくプラシドを見ている。……その姿に、彼はつい言葉を続けてしまった。
「このDホイールが走るところを見せてやる。そうすれば、素晴らしさをより感じ取れるだろう」
「えっ!? いいんですか?」
「ああ。これは光栄なことだ、よく見ておけ」
そう言い放つと、プラシドは泰然とヘルメットを被り、長い脚で大きくDホイールをまたいで、エンジンをかける。
駐車場の門は、出庫する車を認識すれば自動でゆっくりと開く。しかしプラシドはそれを待たず、軽く助走をつけると、大きく前輪を上げ、見事に門を飛び越えてみせた。
「わあ〜……!」
その姿はさながら、戦場を駆ける騎士だった。
摩擦音を立て着地すると、ぐるりと回転して人間の隣に静止する。プラシドが感想を訊く前に、人間が歓声を上げた。
「すごい! 乗りこなす姿はもっとかっこいいんですね!」
「っ…………」
人間は先程よりももっと強く、純粋な眼差しを向けてくる。それを捉えて、プラシドの攻撃的な赤い目が逸れる。
「お前、名前はなんて言うんだ」
「***です」
「俺はプラシド。次はふさわしい場所で存分にこのマシンのスペックを見せてやる。一週間後、この場所へ二十時に来い」
プラシドがDホイールの画面を操作すると、***の端末へマップが送られた。
「必ずな」
「うん、わかった!」
一週間後の午後八時。プラシドが呼び出したのは旧サテライト地区の湾岸。潮風に揺られながら、彼は***を待つ。彼は一時間前からここに来ていた。言葉にすれば否定するだろうが、その心には期待と不安が入り混じっていた。まず、あの人間は来ないのではないか。次に、自分はうまくやれないのではないか──いや、そんなことは絶対にない。
風と波が囁く中、定刻を少し過ぎた頃、バタバタと走ってくる音が聞こえた。
「ご、ごめんなさい……! この辺り来たことないから、少し迷っちゃって……!」
***だ。先週や先々週とは違うファッションに身を包んでいる。息を荒げる姿に、プラシドの胸の奥が少し痛んだ。
「遅いぞ。……だが、今回は許してやる」
「よかったあ〜……」
「ついてこい」
早速プラシドは歩き始める。***はT・666を置いていくことに疑問を抱きながら、『なにかあるのだろう』と素直に後ろを歩く。
プラシドが案内したのは、廃ビルだった。
「この屋上で待機していろ。ここなら見晴らしがいい」
正面玄関は破壊され、窓もほとんど枠しかなく、もちろんエレベーターなど動いていない。屋上への鍵は開いているのだろうか。
「えーっと……」
「なんだ」
「そういえば、なんて呼べばいい?」
「好きにしろ」
「じゃあ、プラシドくん。屋上の鍵が開いてるかわからないから、ついてきてもらってもいい?」
完全に失念していた。普通の人間なら、鍵を壊すことなどできない。
「……いいだろう」
プラシドと***は、廃ビルの中を歩き始める。元はオフィスとして使われていたのだろうか。白い机が並び、時たま書類が散乱している。
階段は暗く、光源は外から入るわずかな光しかない。その中でプラシドの白い姿は、ぼんやりとしながらも後ろを歩く者の道標 となった。床は常に砂か何かでジャリジャリとしている。プラシドはつい早足になりそうなところを、意識してもう一人の足音に合わせたリズムを保った。それは普段とはまったく違う苦労を感じさせた。
不意に、何か小さなものが走っていく音がする。
「キャッ……」
同時に、手すりに大きく衝撃が加わったであろう金属音がする。***が強く手をついたのだろうか。走っていく音の正体はすぐにどこかに身を隠し、目で確かめることはできなかった。
「大丈夫か」
その言葉が自分から出てきたことに対し、内心プラシドは驚く。
「うん、大丈夫だよ」
その言葉で場は収まり、ふたりは再び歩く。
そして屋上に着いた。案の定扉は鍵がかかっていたため、プラシドがノブをひねった勢いで壊した。
「え、今の音……」
「問題ない。何かあれば俺の力で揉み消す」
「?」
***の疑問をよそに、プラシドはドアの向こうに歩を進める。
確かに彼が言う通り、ここからは辺りの道がよく見えた。
「期待して待っていろ」
そう言い残し、プラシドはビルの屋上から道まで飛び降りる。
「大丈夫かな……?」
***が見下ろした先で、白い影が大股で歩いて行った。
T・666の元に戻ると、プラシドはメットを被り、いつにも増してエンジンを吹かす。何もない胸の奥が、ほのかに熱く滾っている。
体を低く構えると、彼は、一気にスピードを上げて走り出した。風と溶け合うようなそれは、マシンにも搭乗者にも危険がすぎる速さだった。だが彼は違う。技術の粋をもって作り上げた圧倒的な安定感により、一切のゆらぎを許さない。点在する街灯はもはや、彼のためのスポットライトだ。
90°のカーブすら、まるで遠心力など存在しないかのように無駄なく曲がってみせる。向かった細い道には、行く宛のないゴロツキども。硬直する彼らを横に、見事に蛇行する。
そのまま廃ビルの前に停まり、階段を上がるふりをして、瞬間移動機能を用いて瞬時に屋上の手前まで上がった。
「どうだ」
興奮冷めやらぬプラシドは、うまく言葉が選べず、ついぶっきらぼうに言葉を放つ。
「すっご〜い……! あんな運転、プロでも見たことない!」
「フッ。そうだろうな」
目を輝かせて見上げてくる***を見て、プラシドの胸の奥に、何かふわふわと掴みどころのないものが広がる。
「でも……人がいるところを走るのはよくないと思う。もう次はしないって、言ってくれる?」
「あ、ああ……」
***の意外な意思の強さに、プラシドは呆気にとられたまま返事をしてしまう。危険な運転など、彼の仕事の一つと言っても過言ではないのに。
「よかった」
再び笑みが戻った***の姿が、薄暗い中でもはっきりと、プラシドの目に焼きつく。ぼんやりとした胸の感覚が、輪郭を帯びていく。
「もう一度。一週間後、会うことはできるか」
「もちろん」
シティの夜景が遠くで、絵画のように非現実的に煌めく。冷たい風が、彼の体の熱さをより自覚させた。
この一週間、プラシドはどこに行くにもメモを持ち歩き、時間があれば筆を走らせた。そうだ、この世に二つとない、他の何よりも心震わすものを贈ってやろう。それが彼の思いついた最大級のサプライズだった。デジタル媒体が発達したこの時代、ペンの一つも握っているだけで少々特異に見える。──プラシド達がやってきた未来ならなおさら。プラシドに会う者は皆、彼が紙に何かを書いていることに注目した。時にはそれを話題に話しかける者もいたが、そうした者は、決まってプラシドの紅い目に睨まれた。だが、それ以上のことは何もなかった。彼は自分の書くものに集中していて、そのような者に構う時間などなかったのだ。
記憶を分けた存在にも、最早彼を止めることはできない。
サーキットを前に作戦の擦り合わせを行う時でさえ、プラシドは自分が書いたメモの内容をじっくりと確認しながらだった。
「おい! プラシド! 僕らの会議くらいちゃんと参加しろよ!」
「結局いつも『現状維持』で終わるもののどこが会議だ。会話には参加しているから問題ない」
「っ〜〜〜〜! どーっせくっだらないものしか書いてないクセに!!」
「フッ……お前にこの良さは分からないだろうな」
そうドヤ顔をして以降、ルチアーノも呆れて何も言わなくなった。
***と会う日が迫る。プラシドはたっぷりと編み出したものの中から少しずつ削ぎ落として至高の語を目指す。時には良いフレーズが思いつかず苦しむ日もあった。彼の白い左手には、すっかり黒いインクの跡がついた。
その日が来た。今回待ち合わせた場所は、夜の街を見下ろす、比較的小さな展望台だ。長官権限で人払いも完了済みだ。
プラシドの回路がうずく。この建物の高さは彼の想いの高さだ。天を衝くほど尊大ではない。どこか日常に寄り添うようなもの。
エレベーターが昇る音がする。ほどなくして到着を知らせるチャイムが鳴り、先週よりもフェミニンな格好をした***が出てきた。
「あれ、もしかして今日も遅刻しちゃった……?」
「いや。俺が早いだけだ」
プラシドはあえて振り返らず、街を見下ろしたまま答えた。
それから改めて***の方を向く。額や胸元のクリアパーツが光を受けてつやめく。プラシドは左手に持っていたA5サイズのノートを、手渡した。
「俺が書いたものだ。読むがいい」
***は素直に受け取る。その感触の新鮮さに驚きつつも、1ページ目を開くと、そこには固い文字で、以下の短文が書き連ねてあった。
夜空輝く night view
甘やかに受けられしもの
裏にあるのは 苦痛 苦難 苦悩
凡て傍だけ
ロンリネス
だけど抱き締めるよ
テンダネス
真に光るは見えないもの
形ないからこそ -不壊 -
𝓯𝓸𝓻𝓮𝓿𝓮𝓻 𝓵𝓸𝓿𝓮
読み終わった***が、ゆっくりと顔を上げた。
「すっごく素敵……! でもちょっと分からないところがあるかも……。プラシドくん、よかったら解説してくれる?」
「駄目だ、解説はせん。これはお前の人生に課された課題だ。それを読み解くまで、お前は俺のそばを離れることを許さん……。」
プラシドはキメ顔をした。片目しかないが、なんとなくウィンクしている気がする。
「プラシドくん……!」
その後、ふたりは街の光を浴びながら、じっくりと彼の文字に向き合った。
「プラシドくんって本当にすごい……。Dホイールの運転だけじゃなくて、詩まで上手なんて……」
プラシドは無言で少し口角を上げる。それは肯定を意味していた。
「紙に書いてくれたのも嬉しい……。もう手書きなんて一生するつもりない人も多いのに……」
「前時代的な方法を使うからこそ伝わるものもある。お前なら、この意味が分かるだろう」
「もちろん! 私も、あえて不便だから良いものもあるって、思ってる」
窓の外では、老若男女がそれぞれの日々を生きていた。無論、カップルも。
「このノートは、私がもらっちゃっていいの?」
「ああ。だがこの先、俺に返す時が来るだろう」
「?」
「また、新しいものを読ませてやる。より優れ、さらに難解なものをな」
「えー? ……ふふっ、楽しみにしてるね」
もうどれぐらい時間が経っただろう。正確な時間を把握することなど容易いはずのプラシドが、そんなことを感じていた。
「ねえ、次に会う約束は、私が決めてもいい?」
「ああ」
「お昼って、空いてる?」
「……ああ」
「ピクニックに行こうよ。きっと、プラシドくんも好きになる場所があるの。少し、遠いんだけど」
「どこだ、それは」
「シティの外れの植物公園。あんまり人がいなくて、すごく落ち着けるの。私は電車で行くけど、プラシドくんは──」
「迎えに行ってやる。待ち合わせ場所だけ決めろ」
「……じゃあ、甘えちゃうね。場所は……」
夜は、昼へのバトンを渡しながら、更けていく。
そんなある日、大企業の駐車場に停まったプラシドのT・666を見て、通りすがりの人間が呟いた。
「かっこいい……」
そしてそれを、今まさに帰ろうとやってきたプラシドは聞いた。
その人間は、まるで初めてDホイールを見たかのように純粋な眼差しを向けている。間違いなくこの手の類に詳しくない。そんな知識や偏見のない者による透き通った感動は、プラシドの心に何か見知らぬものを残した。
プラシドは、無意識にあの日いた企業への訪問を増やしていた。毎回律儀にDホイールに乗って向かっている。これは作戦として必要なことだ、それがプラシドの心境だった。
「ねえ、最近あそこ巡回しすぎじゃない? そんなに行く理由ないだろ」
だが悲しいかな、同じ記憶を分けた存在には筒抜けだ。ルチアーノが最近のプラシドの行動に言及する。
「これは作戦として必要なことだ。俺のやり方に口を出すな」
「あの人間が好きなんだろ。」
「おおおおおお俺が、にににににに人間を好きだと!?」
帰ってきたばかりで立っているプラシドは、玉座のある場から落ちそうな勢いで身を退く。
「そもそも、何故あの人間のことを知っている!」
「最近プラシドが変だから、ホセといっしょに調べたんだよ。人間のこと嫌いなクセに人間を好きになっちゃったんだ、キャハハハハハハ!!」
「ッ…………!」
俺が人間を好きだと、愛しているだと? そんなはずはない。プラシドはそう否定するが、『作戦』をやめることはなかった。
幸か不幸か、プラシドはまたあの人間と出会うことになった。一週間後の同じ時間だ。プラシドが今まで触れたことのない、のほほんとした様子で、同じように歩いてきている。
プラシドはコツコツとヒールを鳴らして歩く。ごく自然に、T・666へと向かう。人間の顔が動いた。首を回して、視線はこっちを見ている。
「わあ、あなただったんですね〜」
プラシドがヘルメットを持ったその時、先週と同じ飾り気のない声が届いた。
「先週も見かけて、とってもかっこいいDホイールだなって思って。あなたが持ち主なんですね」
「あ、ああ、そうだ」
「こんなDホイール初めて見たから、『かっこいい』って伝えられたらいいなって、ちょっと思ってて。Dホイールとばっちりお似合いで、乗り手の方もかっこいいんですね」
「そ……そうか」
何を言えばいいのか分かっているのに、何故だかすんなり受け答えできない。
人間は、去ることなくプラシドを見ている。……その姿に、彼はつい言葉を続けてしまった。
「このDホイールが走るところを見せてやる。そうすれば、素晴らしさをより感じ取れるだろう」
「えっ!? いいんですか?」
「ああ。これは光栄なことだ、よく見ておけ」
そう言い放つと、プラシドは泰然とヘルメットを被り、長い脚で大きくDホイールをまたいで、エンジンをかける。
駐車場の門は、出庫する車を認識すれば自動でゆっくりと開く。しかしプラシドはそれを待たず、軽く助走をつけると、大きく前輪を上げ、見事に門を飛び越えてみせた。
「わあ〜……!」
その姿はさながら、戦場を駆ける騎士だった。
摩擦音を立て着地すると、ぐるりと回転して人間の隣に静止する。プラシドが感想を訊く前に、人間が歓声を上げた。
「すごい! 乗りこなす姿はもっとかっこいいんですね!」
「っ…………」
人間は先程よりももっと強く、純粋な眼差しを向けてくる。それを捉えて、プラシドの攻撃的な赤い目が逸れる。
「お前、名前はなんて言うんだ」
「***です」
「俺はプラシド。次はふさわしい場所で存分にこのマシンのスペックを見せてやる。一週間後、この場所へ二十時に来い」
プラシドがDホイールの画面を操作すると、***の端末へマップが送られた。
「必ずな」
「うん、わかった!」
一週間後の午後八時。プラシドが呼び出したのは旧サテライト地区の湾岸。潮風に揺られながら、彼は***を待つ。彼は一時間前からここに来ていた。言葉にすれば否定するだろうが、その心には期待と不安が入り混じっていた。まず、あの人間は来ないのではないか。次に、自分はうまくやれないのではないか──いや、そんなことは絶対にない。
風と波が囁く中、定刻を少し過ぎた頃、バタバタと走ってくる音が聞こえた。
「ご、ごめんなさい……! この辺り来たことないから、少し迷っちゃって……!」
***だ。先週や先々週とは違うファッションに身を包んでいる。息を荒げる姿に、プラシドの胸の奥が少し痛んだ。
「遅いぞ。……だが、今回は許してやる」
「よかったあ〜……」
「ついてこい」
早速プラシドは歩き始める。***はT・666を置いていくことに疑問を抱きながら、『なにかあるのだろう』と素直に後ろを歩く。
プラシドが案内したのは、廃ビルだった。
「この屋上で待機していろ。ここなら見晴らしがいい」
正面玄関は破壊され、窓もほとんど枠しかなく、もちろんエレベーターなど動いていない。屋上への鍵は開いているのだろうか。
「えーっと……」
「なんだ」
「そういえば、なんて呼べばいい?」
「好きにしろ」
「じゃあ、プラシドくん。屋上の鍵が開いてるかわからないから、ついてきてもらってもいい?」
完全に失念していた。普通の人間なら、鍵を壊すことなどできない。
「……いいだろう」
プラシドと***は、廃ビルの中を歩き始める。元はオフィスとして使われていたのだろうか。白い机が並び、時たま書類が散乱している。
階段は暗く、光源は外から入るわずかな光しかない。その中でプラシドの白い姿は、ぼんやりとしながらも後ろを歩く者の
不意に、何か小さなものが走っていく音がする。
「キャッ……」
同時に、手すりに大きく衝撃が加わったであろう金属音がする。***が強く手をついたのだろうか。走っていく音の正体はすぐにどこかに身を隠し、目で確かめることはできなかった。
「大丈夫か」
その言葉が自分から出てきたことに対し、内心プラシドは驚く。
「うん、大丈夫だよ」
その言葉で場は収まり、ふたりは再び歩く。
そして屋上に着いた。案の定扉は鍵がかかっていたため、プラシドがノブをひねった勢いで壊した。
「え、今の音……」
「問題ない。何かあれば俺の力で揉み消す」
「?」
***の疑問をよそに、プラシドはドアの向こうに歩を進める。
確かに彼が言う通り、ここからは辺りの道がよく見えた。
「期待して待っていろ」
そう言い残し、プラシドはビルの屋上から道まで飛び降りる。
「大丈夫かな……?」
***が見下ろした先で、白い影が大股で歩いて行った。
T・666の元に戻ると、プラシドはメットを被り、いつにも増してエンジンを吹かす。何もない胸の奥が、ほのかに熱く滾っている。
体を低く構えると、彼は、一気にスピードを上げて走り出した。風と溶け合うようなそれは、マシンにも搭乗者にも危険がすぎる速さだった。だが彼は違う。技術の粋をもって作り上げた圧倒的な安定感により、一切のゆらぎを許さない。点在する街灯はもはや、彼のためのスポットライトだ。
90°のカーブすら、まるで遠心力など存在しないかのように無駄なく曲がってみせる。向かった細い道には、行く宛のないゴロツキども。硬直する彼らを横に、見事に蛇行する。
そのまま廃ビルの前に停まり、階段を上がるふりをして、瞬間移動機能を用いて瞬時に屋上の手前まで上がった。
「どうだ」
興奮冷めやらぬプラシドは、うまく言葉が選べず、ついぶっきらぼうに言葉を放つ。
「すっご〜い……! あんな運転、プロでも見たことない!」
「フッ。そうだろうな」
目を輝かせて見上げてくる***を見て、プラシドの胸の奥に、何かふわふわと掴みどころのないものが広がる。
「でも……人がいるところを走るのはよくないと思う。もう次はしないって、言ってくれる?」
「あ、ああ……」
***の意外な意思の強さに、プラシドは呆気にとられたまま返事をしてしまう。危険な運転など、彼の仕事の一つと言っても過言ではないのに。
「よかった」
再び笑みが戻った***の姿が、薄暗い中でもはっきりと、プラシドの目に焼きつく。ぼんやりとした胸の感覚が、輪郭を帯びていく。
「もう一度。一週間後、会うことはできるか」
「もちろん」
シティの夜景が遠くで、絵画のように非現実的に煌めく。冷たい風が、彼の体の熱さをより自覚させた。
この一週間、プラシドはどこに行くにもメモを持ち歩き、時間があれば筆を走らせた。そうだ、この世に二つとない、他の何よりも心震わすものを贈ってやろう。それが彼の思いついた最大級のサプライズだった。デジタル媒体が発達したこの時代、ペンの一つも握っているだけで少々特異に見える。──プラシド達がやってきた未来ならなおさら。プラシドに会う者は皆、彼が紙に何かを書いていることに注目した。時にはそれを話題に話しかける者もいたが、そうした者は、決まってプラシドの紅い目に睨まれた。だが、それ以上のことは何もなかった。彼は自分の書くものに集中していて、そのような者に構う時間などなかったのだ。
記憶を分けた存在にも、最早彼を止めることはできない。
サーキットを前に作戦の擦り合わせを行う時でさえ、プラシドは自分が書いたメモの内容をじっくりと確認しながらだった。
「おい! プラシド! 僕らの会議くらいちゃんと参加しろよ!」
「結局いつも『現状維持』で終わるもののどこが会議だ。会話には参加しているから問題ない」
「っ〜〜〜〜! どーっせくっだらないものしか書いてないクセに!!」
「フッ……お前にこの良さは分からないだろうな」
そうドヤ顔をして以降、ルチアーノも呆れて何も言わなくなった。
***と会う日が迫る。プラシドはたっぷりと編み出したものの中から少しずつ削ぎ落として至高の語を目指す。時には良いフレーズが思いつかず苦しむ日もあった。彼の白い左手には、すっかり黒いインクの跡がついた。
その日が来た。今回待ち合わせた場所は、夜の街を見下ろす、比較的小さな展望台だ。長官権限で人払いも完了済みだ。
プラシドの回路がうずく。この建物の高さは彼の想いの高さだ。天を衝くほど尊大ではない。どこか日常に寄り添うようなもの。
エレベーターが昇る音がする。ほどなくして到着を知らせるチャイムが鳴り、先週よりもフェミニンな格好をした***が出てきた。
「あれ、もしかして今日も遅刻しちゃった……?」
「いや。俺が早いだけだ」
プラシドはあえて振り返らず、街を見下ろしたまま答えた。
それから改めて***の方を向く。額や胸元のクリアパーツが光を受けてつやめく。プラシドは左手に持っていたA5サイズのノートを、手渡した。
「俺が書いたものだ。読むがいい」
***は素直に受け取る。その感触の新鮮さに驚きつつも、1ページ目を開くと、そこには固い文字で、以下の短文が書き連ねてあった。
夜空輝く night view
甘やかに受けられしもの
裏にあるのは 苦痛 苦難 苦悩
凡て傍だけ
ロンリネス
だけど抱き締めるよ
テンダネス
真に光るは見えないもの
形ないからこそ -
𝓯𝓸𝓻𝓮𝓿𝓮𝓻 𝓵𝓸𝓿𝓮
読み終わった***が、ゆっくりと顔を上げた。
「すっごく素敵……! でもちょっと分からないところがあるかも……。プラシドくん、よかったら解説してくれる?」
「駄目だ、解説はせん。これはお前の人生に課された課題だ。それを読み解くまで、お前は俺のそばを離れることを許さん……。」
プラシドはキメ顔をした。片目しかないが、なんとなくウィンクしている気がする。
「プラシドくん……!」
その後、ふたりは街の光を浴びながら、じっくりと彼の文字に向き合った。
「プラシドくんって本当にすごい……。Dホイールの運転だけじゃなくて、詩まで上手なんて……」
プラシドは無言で少し口角を上げる。それは肯定を意味していた。
「紙に書いてくれたのも嬉しい……。もう手書きなんて一生するつもりない人も多いのに……」
「前時代的な方法を使うからこそ伝わるものもある。お前なら、この意味が分かるだろう」
「もちろん! 私も、あえて不便だから良いものもあるって、思ってる」
窓の外では、老若男女がそれぞれの日々を生きていた。無論、カップルも。
「このノートは、私がもらっちゃっていいの?」
「ああ。だがこの先、俺に返す時が来るだろう」
「?」
「また、新しいものを読ませてやる。より優れ、さらに難解なものをな」
「えー? ……ふふっ、楽しみにしてるね」
もうどれぐらい時間が経っただろう。正確な時間を把握することなど容易いはずのプラシドが、そんなことを感じていた。
「ねえ、次に会う約束は、私が決めてもいい?」
「ああ」
「お昼って、空いてる?」
「……ああ」
「ピクニックに行こうよ。きっと、プラシドくんも好きになる場所があるの。少し、遠いんだけど」
「どこだ、それは」
「シティの外れの植物公園。あんまり人がいなくて、すごく落ち着けるの。私は電車で行くけど、プラシドくんは──」
「迎えに行ってやる。待ち合わせ場所だけ決めろ」
「……じゃあ、甘えちゃうね。場所は……」
夜は、昼へのバトンを渡しながら、更けていく。