神ミ真ん中BD

 その日の昼仕事は事務作業の内容で、十七時にあがるから。
 三木からそう予定を聞いて、夜に数時間アシ作業に入ってもらうのはいつものこととして、来る途中で買い物を頼んだのは失敗だった。

 午後に起き出した神在月は、家のことを済ませて原稿に向かう。十七時過ぎに三木から「今終わった」と連絡が来た。途中でスーパーに寄ってもらって、数点の食品を買ってもらって……直接来るより十五分ほどプラスして見ておけばいいだろうか。
 もうじき会えると思ったら、何も手につかなくなってきた。 
 せめてここは進めなくては、と筆を入れては原稿をぐるぐる回して矯めつ眇めつし、作業の済んだ紙の束を必要以上にトントンと揃える。

 バラララララ

 突然細かく何か打ち付けるような音が響いて、神在月はビクリとした。
 雨音だ、と気付く。予報では天候は基本的に曇りだが、不安定で局地的に降ると言っていた。思い返しながら昼から閉じたままのカーテンを開ける。まだ明るい時刻のはずが、すでに暗く陰っている。ガラス越しでも感じるかすかに水っぽい、雨の匂い。窓外の景色は大粒の本降りだった。不安定な天気の局地に選ばれたらしい。
 外の様子を理解してから、神在月は慌てて時計を見た。
 三木はどうしただろう。まだ買い物先にいてくれればいいのだが。傘を買うなり、雨宿りしてくれればいい。そう思った途端に、ドアチャイムが鳴って、神在月は再びビクリとした。足がもつれそうになりながら玄関に向かう。
 ドアに取り付いた勢いのまま開けると、驚いた三木の顔があった。今日は事務仕事と言っていた。白いシャツとスラックス姿が頭からずぶ濡れだ。
「おい、ちゃんと確認を」
 三木の声には反応せず、神在月はきびすを返して室内に戻る。タオルを取って急いで三木に渡すと、呆れたような柔らかい苦笑が応じた。
「サンキュ」
 礼を言った三木は、自分ではなく手に持ったエコバッグをタオルで拭いていく。
「夕飯の弁当と、牛乳とヨーグルト」
「あ、ああ。ありがとう。すまん」
 渡されたものを受け取って、神在月は乳製品を冷蔵庫にしまい、弁当は流しの脇に置いておく。その間にようやく三木は自分の髪と体を拭きだした。
「店に入る前に暗くなってきてるのは気付いたから急いだんだけど、途中でパラッと来たかと思ったら一気にだよ」
「ほんとにすまん。買い物頼まなかったら間に合ったのに」
「いや、これくらいならもう運でしかないだろ」
 濡れた靴下を脱いで足先まで拭いた三木が玄関を上がった。そこで少し困ったような顔をする。
「…シャワー借りていいか。仕事上がりの上に生乾きだと臭くなりそうで」
「どうぞどぞどぞどぞ使って」
 神在月がありあまるほどの肯定と共に視線で勝手知ったる場所を示せば、礼で応えた三木は、足跡がつくのか気になるのか歩幅を目一杯に広げながら風呂場に入っていった。
 ほどなくシャワーの音が聞こえてきて、神在月は着替えを置きに洗面室に入った。三木が脱いだ服は棚の隅にこじんまりと畳まれていた。持ってきた着替えを棚に置いて、代わりに手に取った元の服は湿っている。スーツのスラックスだけは扱い方がよくわからないが、他のものは洗濯機に放り込んだ。自分の分はそんなに溜まってなかったので、洗濯の予定日ではなかったが構わない。ついでにタオル類を交換して洗濯槽に足すと、スイッチを入れる。
スラックスはハンガーに掛けて部屋の入り口に吊した。資源ゴミに出すはずだった梱包用の新聞紙を1枚抜いて、三木の靴の中に丸めて入れておく。
 そこまで済んだところで、風呂の扉の音がした。早い。本当にただ流すだけだったのか。
 神在月が出しておいた服を着て、三木が洗面室から顔だけ出した。
「着替えと、洗濯まで悪い」
「いや…え、ミッキー、お湯使わなかったの!?」
 三木の様子が風呂上がりにしては何かが足りない。熱量だと気付いて神在月は声を上げた。
「ああ、まあ、すぐだし」
「なんで、いや、すぐ髪乾かしなよ」
 寒い季節ではないが、今日の三木は肉体労働してきたわけではない。体が冷えてしまう、と慌てた神在月の反応に軽く笑っただけで三木は引っ込んだ。すぐにドライヤーの音が響き出す。
息を一つついてから、神在月は弁当を電子レンジにつっこんだ。ドライヤーとレンジ、二つの音の唸る間で立ち尽くす。先に温めが終わって弁当をローテーブルに運んだ。ついでに麦茶を淹れている間に、ドライヤーの音もやむ。
「お待たせ」
 やってきた三木とテーブルにつく。それぞれ弁当の蓋を取って箸袋を開けたところで、いただきます、と食べ始めた。
 しばらく黙々と食べる。
 何度となく繰り返した光景。
 一人では原稿作業が追いつかなくて、仕事をはしごする三木が来てくれて、出来合いの飯を一緒に食って、このあとは机で並んで作業して…。
 いつのまにか神在月の箸は止まっていた。ぼーっと見つめていたせいで、三木が反応する。
「どうした?」
「あ、いや、なにも」
 ぼーっとしていただけなので、神在月は答えようもない。三木は気にする様子もなかったが、ふと気付いたように表情を緩めた。
「そうだ、ズボンと、あと靴もやっといてくれてありがと」
「え、あ、すぐ済むことだし」
「…今日は世話してもらってばっかりだな」
「別に、そんなことは」
 言われるほどのことはしていないので否定しかけて、三木の目元が柔らかいことに気付き、神在月は言葉を止めた。
「今日は原稿進んだか?」
「うん。…まあ、うん」
 思わず返事を曖昧にしてしまったが、三木は気にした様子もなく軽く笑った。
「お礼にしっかり追い立ててやるから」
「うひぃ」
 反射的に悲鳴をあげたものの、進捗は大丈夫な範囲だと三木には伝わっているようだ。ずっと側で手伝ってくれているのだ。神在月の焦りの度合いなどお見通しだった。
 漫画家になる前から、ずっと同じ。
 神在月が一人で原稿を描き、どこかで働いてきた三木が手伝いに来て、この狭い部屋で食事を共にする。
 だが変化はある。
 机の上にあるのは、読んでもらう当てのないものではない。仕事として出版社と契約している原稿だ。締め切りに呻いているものの、先の見えない絶望感は遠のいて、少しは心にゆとりができた自覚はある。
 ゆとりができたのは、三木も同じかもしれなかった。知り合ってからずっと面倒を見てくれている三木は、神在月が泣きつくのを先回りして助けてくれることも多い。以前なら、困ってることはないか、と手を差し伸べてくれるときの声は、誠実どころかむしろ深刻さを感じることすらあった。
 役割の決まった関係性。
 今でも役割は続いているが、先ほどの世話ともいえない世話を三木は心地よく受け入れているようだった。
 三木の変化の理由はわからない。ただ、その変化が喜ばしいものなのは確かだ。
 お互い時間をかけて整って、それでも寄り添える形でいられることが嬉しい。
 顔が緩んでしまった神在月に、三木は少し戸惑ったようだった。それも一瞬のことで微笑みを返す。そして弁当に目を落とし、やはりいつの間にか止まっていた箸を再開させた。
「………そういえば、昨日の仕事先でさ」
 世間話をしながら二人で囲む食卓。騒がしい町の騒がしい日常を聞きながら、笑ったりおののいたりのゆるやかな時間。
 静かな気力に満たされていくのが気持ちいい。調子が良くなって神在月の声のテンションが高くなってしまっても、三木は時にたしなめ、時に声を上げて笑ってくれていた。

「ごちそうさま」
 弁当を食べ終わって、少しのんびりしてから三木が手早くテーブルを片付ける。
 原稿の時間だ、と意識した途端に、満ちていた気力が反射的にスンと下がる気配を感じる。神在月がぼんやり座ったままでいると、ゴミを片付けた三木が戻ってきた。神在月の姿を見て、ふ、と息を一つ吐く。
「ほら、神在月先生」
 伸びてきた手に、頭をぽんとされるかと思ったら、励ますように髪をわしゃわしゃとされる。
 うんと頷いて、神在月は立ち上がり、長年のアシスタントに笑顔を見せたのだった。

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