夏の名残の水底から
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暑い夏だった。
この夏が、このまま永遠に続くのではないかと思うほど。空はどこまでも澄んで、圧倒的な太陽が毎日飽きることなく輝いていた。
長い夏休み、ユウは程々に学び、程々に遊び、正しい夏の日々を過ごしていた。
集中講義に出席したあと生クリームやシロップがたっぷりのせられた胸焼けするほど甘く冷たいコーヒーを飲んだり、楽しみにしていた美術館の企画展に行ってあまりの人の多さにイライラしたり、決して読み終わらないと分かっていながらプルーストの『失われた時を求めて』をテーブルに積み上げたり、時には友人たちと終電近くまで誰も聞いていない電子音楽を大音量で流し続ける店の色水のようなカクテルで喉を潤したり。
極々ありきたりで、平凡な大学生の夏休み。
この日常だけ切り取れば、ほんの数年前にユウが所謂昏睡状態に陥っていたなんて誰も思いもしないだろう。
高校生の秋のある日、ユウは突然倒れ、まるで童話の主人公のように眠ったまま目覚めなくなった。
様々な病院で様々な検査が施され、ユウは体の外側も内側も余すところなく沢山の医師の目や複雑な機械のカメラの下 に晒された。
けれど血液にも神経にも臓器にも、一つとして異常は見つからなかった。呼び掛けられ、ガラス戸を叩かれることに飽きた動物園の動物がひっそりと瞳を閉じて静止するように、昏昏と眠り続けるだけだった。
そして、倒れたときと同じように、ユウは突然目覚めた。
真っ白のカーテンと蛍光灯の光が滲んで見えて瞬きをすると、ユウの瞳の泉に溜まっていた涙が一滴零れた。
とても大切な夢を見ていた気がして、忘れてはいけない気がして、懸命に薄れゆく夢の糸端を掴もうとしていた。でもそれは、小さな子供が手放してしまった風船の紐のようにふわふわと記憶の靄の中に紛れて遠くなっていく。
手を伸ばしても空を切るようなもどかしさにもう一滴の涙が零れたとき、「ユウ!!!」と彼女の名を呼ぶ女性の悲鳴で夢の糸端は完全に靄の中に消えた。
泣き叫んだのはユウの母だった。
彼女が押したナースコールで駆けつけた看護師や医師たちに再び様々な機械にかけられ、様々な質問をされたユウは、白く清潔な箱庭のような病室で食事と歩行の回復訓練を受けた後 退院した。
体の外側にも内側にも、どこにも異常は見つからなかった。
目覚めた時に感じた焦燥感は、耳の奥に入り込みじっと息を潜ませて震える埃のように、ユウの中に曖昧な存在として残っていた。もどかしさは消え、痛みや痺れもなく、それは揺蕩うような不可思議なものだった。
目覚める前までは、その感覚の呼び名を知っていた気がする。けれども今は、記憶の靄に隠れて思い出せない。
眠っていた1年間を取り戻すためひと学年遅れで高校を卒業し、大学に進学して、ユウの身に起きた出来事を知らぬ友人たちと平穏な日常を過ごす中で、思い出すことは諦めたものの、時折耳の奥で震える埃を細いピンセットでそっと摘み出し、シャーレに置いて顕微鏡で眺めるように、その不可思議な感覚と対話をしたくなるときがあった。
例えば、鏡を覗くとき。
洗面所の飾り気のない鏡、手のひらに収まる小さなコンパクト。それらの鏡はユウが近付くまではまるで森の奥の湖のように、しんと静かに、ただそこに存在している。
だがユウが自分の姿を映すと、湖に小石を投げると広がる波紋のように、鏡が微かに呼吸を始めるような、そんな空気の揺れを感じた。
その微妙な変化を驚かせないように、逃さないように、そっとそっと辿っていくと耳の奥の埃のような曖昧で不可思議なあの感覚の正体を思い出せる気がしてユウは真面目に鏡に映った自分を見つめる。
瞬きもせずに鏡と向かい合っていると、遠くの方から微かな声が聞こえるような気がした。
懐かしいような、切ないような、穏やかなテノールの声。
だがいつも家族の呼び声や窓の外のサイレン、オーダーしたコーヒーがテーブルに置かれた音に邪魔されて、結局鏡はすぐに元の澄ました佇まいに戻ってしまうのだった。
それから、水音によって不可思議な感覚を手繰り寄せることもあった。
きっかけは、キッチンに置かれた型遅れの冷蔵庫だった。
家族が寝静まった夜更けに喉の乾きで目覚めたユウはミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出した。
扉を開けると橙色の灯りが暗闇のキッチンを包むように照らし、手首の上を冷気が通り過ぎていく。
スツールに腰掛け、夜の静寂と夕飯の甘じょっぱいような残り香が肌を撫でるキッチンでグラスに注いだ冷たいミネラルウォーターを喉に流し込む。
扉の開閉で生じた温度差で、冷蔵庫がミシッと収縮音を立てる。続いてポコポコとまるで胎児の心音のような水音がした。冷蔵庫を冷やすための冷媒が流れる音だ。
その音を聞いた瞬間、視界の隅に鮮やかな色の魚の尾びれがゆっくりと翻った。暗闇だった筈のキッチンに仄かな青と紫の磨硝子のようなぼんやりとした光が揺らめく。
だがやはりそれも、もう一度見ようと瞳を動かせば消えてしまい、もう一度思い出そうとする時にはもう、記憶の靄がその形状を覆ってしまう。
ユウは再び暗闇と夕飯の生ぬるい匂いの中に取り残される。
着色料がふんだんに使われたケーキの写真をスマホのアルバムに収め、流行りの映画を見たあとその感想を手帳にメモし、夏休みだというのに難儀なレポート課題を出す教授への恨み言を友人たちとのチャットに打ち込みながらパソコンに向かう。
側から見れば健康で健全な日常を送りながらも、自分の中のなにか、一番大切なものが欠けているという予感。そのなにかを思い出すのはあまりにも曖昧すぎる記憶。日々の暮らしの中で、立ち止まっては心許ない不可思議なその感覚に耳を澄ませることが次第に多くなっていた。
そんな夏休みの終わり頃、ユウは友人から紹介されたアルバイトを始めた。
ホテルのプール清掃のアルバイトだった。ホテルは新しくはないが清潔で、慎ましやかな佇まいだった。
コの字型の宿舎に抱き抱えられるように、ホテルの中心に設計された屋外プールは日が落ちる頃に水が抜かれ、清掃スタッフが利用客の汗や溶けた化粧品やどこからか飛んできた木の葉、溺れてしまった小さな羽虫など夏の日の残滓をデッキブラシで擦り取る。
ユウは、太陽が沈んだ夕方から数時間だけのこのアルバイトが気に入っていた。
二人一組でシフトが組まれるのだが、どのスタッフも皆寡黙で、まるで僧院の修行僧が祈るように静かにプールの底にブラシを滑らせる。
太陽が紫陽花のような色を残して沈み、代わりに白い月が姿を見せる。宿泊客たちはプールとは反対側に位置するレストランに夕食を取りに行く。楕円形の深いプールの底には賑やかなレストランのざわめきも、街の帰路を急ぐ人々の足音も届かない。塩素の匂いの中で黙々と汚れを落としていると、あの不可思議な感覚がそっと身体から抜け出して水のないプールの中を漂い始めるように感じた。
アルバイト中だけは外野の声や音に邪魔されることなく、抜け出した感覚を意識することが出来た。
あともう少しで、記憶の糸端が掴めるような気がして、ユウはアルバイトの度、実直にプールの底を擦っていた。
永遠に続くかのように思われた夏も、やはり終わりの時は訪れる。アルバイトの契約期間は残すところあと数日だった。
ひたすら燃えるようだった太陽が、柔らかく屈折して印象派の絵画のような淡い色味を持ち始め、頬を撫でるぬるい風に、少しずつ秋の気配が紛れ込むようになった。
薄い月が昇る頃には、晩蟬 の残響に松虫や鈴虫が前翅を擦り合わせる透き通った音が重なる。
ユウが従業員用の更衣室で着替えていると、シフトリーダーが今日のペアであるスタッフが体調不良で休みになったと告げに来た。
「一人だと大変なようなら社員で手が空いてる人を応援にいかせるけど」というリーダーの申し出を丁寧に断って、ユウは一人で薄闇のプールの底にいる。
プール清掃は一人でも充分こなせる単純な仕事だ。
底にブラシの先を滑らせると、プールサイドのライトが点灯した。磨硝子のような厚みをもった青と紫。
そういえば、秋の間プール利用は休止されるが、清潔な水を張りライティングで照らして景観を楽しめるようにすると従業員が話しているのを聞いた気がする。テスト点灯だろう。水を張っていない乾いたプールの底を、青と紫がヴェールのように覆う。
その灯りの下で、床に描かれた貝殻の模様の溝に恥じらうように身を潜ませている利用客の汗や溶けた化粧品や、どこからか飛んできた木の葉や溺れてしまった小さな羽虫たちの儚い汚れをブラシで擦る。
いつものように、あの不可思議な感覚がユウの中から抜け出して、水のないプールの中を漂い始める予感がしたときだった。
視界の片隅で、なにかが光った。
その物体とユウの間には距離があった。消滅する星が最後に瞬くように小さく鋭い輝きを放つなにかがプールの底に落ちている。
ユウを誘うように、その光はゆっくりと揺らめく。
ふと、耳のなかが真っ白になった。その白さは染み込むように濃度を増していく。うねるような圧倒的な静寂が、プールの底を覆っていることに気付いた。
手から滑り落ちたデッキブラシの柄が床を叩いたはずなのに、その音は静寂に吸い込まれる。
ユウはふらふらと、その光り輝く物体の方に向かった。
耳の奥の埃のように存在していたあの不可思議な記憶の感覚が完全に身体から抜け切って、薄明かりのプールの底を歩くユウの周りを揺蕩い始めた。
目の端に、鮮やかな色の魚の尾びれが翻る。磨硝子の青と紫のぼんやりとした灯り。乾いたプールで鳴るはずのない、胎児の心音のような泡音がこぽりと弾ける。
セイレーンの歌声に導かれて水底に手を伸ばす船乗りのように、ユウは少しずつその光との距離を縮めていった。
「…ピアス?」
それは、菱形の翡翠石が3つ連なったピアスの一片だった。海底でじっとうずくまる貝のようなピアスは、ユウが一歩近づくたびに小さく瞬く。
そっと拾い上げて手のひらに乗せると、硬質な冷たさと重みを感じる。
「ああ、やっと。気付いてくださいましたね」
鼓膜のすぐ傍で、囁く声がした。声帯の奥深くで微かにビブラートがかかったような、鷹揚な響きのテノール。
「……っ……!!!」
驚いて息を呑んだはずだった。けれど空気の代わりにユウの喉に流れ込んできたのは、冷たい水だった。
何が起きているのか分からない。
数秒前まで乾ききっていたプールに、ユウの頭まで完全に覆ってしまう量の水が満ちている。嗅ぎ慣れた塩素の匂いではない、もっと生々しく荒々しい匂いのする水。これは、海水だ。
淡い青と紫の灯は消え、どこまでも暗く冷たい海の奥底の色をした水がユウの視界をぼやかしていく。
水を吸ったTシャツが鉛のように重く、体をより下へ、下へと沈めていく。貝殻の模様が描かれたプールの底は消えてユウの足は混乱したまま水を掻く。
口から泡が漏れて、息苦しさと冷たさに全身が総毛立った。
「お久しぶりです、ユウさん」
涙と海水で滲む瞳を声のする方に動かすと、そこには異形の姿があった。
ユウの手のひらが握っているピアスと同じ色、緑がかったターコイズブルーの尾ひれは気が遠くなるほど長く、暗い水中で絡まるように揺蕩っている。
その尾ひれに支えられた半裸の上半身も、人のそれとは異なる海の色をしていた。
─人魚だ。童話で描かれる姿よりも遥かに大きく、妖しく、そしてぞっとする美しさ。
その瞳はゴールドと深いオリーブ色のヘテロクロミアで、薄い唇から鋭い歯列が覗いている。
人魚は水の中でも普通に喋れるのか。どうしてこの人魚は私の名前を知っているのだろう。懐かしいような、苦しいような気持ちになるこの声は。この人は誰。知らないのに知っている。冷たい水。ヘテロクロミアの虹彩。曖昧な輪郭の、穏やかなテノール。
ごぽ、と一際大きな泡がユウの口から生まれた。息苦しさの限界を越えると、体だけでなく瞼まで重く、必死に動かしていた手足がだらりと脱力する。
今この身に起きていること、そして目の前に現れた人物が、記憶の靄に消えてしまった夢の糸端を明確な存在として再びユウの元に呼び寄せているのは分かっていた。けれども、それに手を伸ばそうとしても、喉から胸へ、胸から肺へ海水が流れてきてとても重い。
ああ、沈んでしまう。耐えられなくなって瞼を閉じれば、そこはさらに深く冷たい暗闇だった。
「おやおや……」
脇の下にぬめりを持った硬い皮膚が滑る感触がして、ぐいと引っ張られると同時に静寂を破る水飛沫が上がった。
「…っかはっ…!!うっ…はぁ…!!」
鼻と口に空気が流れ込んで、嘔吐 く度に体を満たしていた海水が零れていく。喉がひゅっとか細い音を鳴らし、涙と唾液が顔を濡らす。
ユウは人魚に抱えられ、水面に浮かんでいた。
「僕としたことが、失礼しました。…魔力を持たない陸の人間 と長く接していなかったので、そういう生き物が水中にいるとどうなるか、すっかり失念してしまいました」
申し訳無さそうに眉を下げた人魚の瞳が、ユウの顔を覗き込む。ヘテロクロミアの双眸が細められて、ユウの手のひらの中のピアスを水掻きのついた指がつまみ上げた。器用に、左耳の小さな穴に引っ掛ける。黒曜石色の一房の髪が一瞬風に靡いてまた落ちる。
この人魚は、誰。知らないはずなのに知っている。この瞳も、この声も。夢の記憶の糸端がもう少しで掴めそうなところまで降りてきているのを感じた。手を伸ばせば届くところまで。
「僕を置いて消えてしまって、その上忘れてしまったあなたとおあいこ、ということにしていただけませんか?」
「…な…に……」
「おや、まだ混乱していますね。ではこれでどうでしょう?」
人魚が宝石のついたペンのようなものを一振りした。すると水が嘘のように消えて、ユウは馴染みのあるプールの底で、尾ひれの代わりに2本の足で立つ男の腕に抱かれている。
べっとりとした海水に濡れていた髪もTシャツも、一滴の水滴も残さずにプールの底と同じようにからからに乾いていた。
「あなたは誰……?」
「相変わらず頑なな方ですね。ふふ、ユウさんらしいと言えばそうですが。でも、不思議なマジックの時間は終わりです」
男は長い指でユウの顎を掴むと、丁寧だけれど抵抗する気が削げるには充分な力加減で夜空の方を向かせた。
すっかり夜の帳に覆われた空には、白い三日月が昇っている。まるで夜空にできた切り傷のような。あまりにも薄く、細いその月の光は、プールの底までは届かない。
「さあユウさん、見てください。“今夜は月が綺麗ですよ”」
極小さな囁き声だった。けれど、その言葉は渦のようにユウの脳内で徐々に大きくなり反響していった。
そのテノールの響きを合図に、万華鏡を落として割ったかのような鮮やかな光の残像が脳内で古いフィルムのように再生される。
─覗くと揺らめく鏡、教室に並んだ色とりどりの薬瓶と錫の大釜、宙を舞う本、喋る肖像画にゴースト、太陽が西から昇り、時計は左回りに進む捻くれた世界。
賑やかでトラブルメーカーの友人たち、個性の塊のような教授陣、次々と起こる事件。
そして、磨硝子のようなぼんやりとした青と紫の灯りと水音、美しい鱗を光らせる深海魚、夜明けの海の色のお茶、ターコイズブルーの艷やかな髪に全てを見透かすヘテロクロミアの瞳、穏やかなテノール。その声で名を呼ばれた時の、切ない胸の高鳴り。
──目に痛いくらい大きく明るかった満月の夜。
これまでユウのどこかで眠っていた記憶の逆流に、体が震えるのを感じる。
こちらの世界で体が昏睡している間に見てきたものすべてが今、明確に、自分自身の記憶として一つ一つ、あるべき場所にしまわれていく。
「どうやら、記憶が修復されたようですね。それでは、あなたが最後に僕に残した残酷な小さな穴についても、思い出してくれましたか?」
「…………」
「…泣いているのですか?僕が怖い?」
彼は、薄く微笑んで冷たい指でユウの瞳から零れた涙を拭った。
彼が何者であるか、ユウは思い出した。ユウが最後の日に、彼に残した言葉と、その言葉に隠された残酷な意味を彼が後に知ったのであろうことも。
そして長い眠りから覚めて感じたあの感覚が、“悲しみ”という名を持つ感情だということを。
「ジェイド先輩…っ…」
「…………!」
ユウの中で、なにかかやさしく静かに破けた気がした。懐かしい、大切な人。どうして忘れていたのだろう。
ユウが名前を呼ぶと、彼─ジェイドの鈍い光をまとっていた瞳の奥が微かに揺れた。仄暗い輝きの奥で揺れたそれは、かつて自分に向けられていた優しく切ない瞳の色だった。
「ジェイド先輩…ジェイド先輩!!ジェイドせんぱい…っ…!!」
「ユウさん……」
ユウは、ジェイドの胸に縋りついた。涙が彼の服を濡らしていく。
目覚めてから、耳の奥に残った埃のような曖昧な感覚として残っていたものが記憶として明確な姿を現した。
─あの日、ジェイドが淹れてくれたお茶の海の色、磨硝子のような仄暗い灯りに照らされた夜のラウンジ、先輩が伝えようとしてくれた言葉、それを聞く勇気を持てなかったずるくて弱い自分、そして懐かしいあのオンボロの部屋で一人見上げた最後の満月。
それらの記憶が溢れるような“悲しみ”の感情を伴ってユウの胸を締め付けていく。
「ジェイド先輩…私…っ」
「それ以上、喋らないで」
ジェイドの大きな手のひらがユウの口元を覆った。ユウを見つめる彼の瞳は再び夜空で嗤う月のように鋭く、海水のように冷たく昏い色に凍っている。
「その悪い口で、今度はどんな残酷な言葉を語るつもりでしょうか…。ねえユウさん。どうしてあの日、あの言葉を残していったのですか?あなたが姿を消した後、あの言葉の本当の意味 を知った僕がどんな苦しい想いをしたか、あなたには分からないでしょう」
ユウに語りかるジェイドの指が唇をなぞり、そのまま首筋まで降りてくる。
まるで蛇が獲物の身体に巻きつくようにゆっくりと、人のものではない冷たい体温がユウの首の皮膚を粟立たせた。
「僕が想いを告げることは許さず、もう二度と手の届かない場所に逃げるあなたは呪いの言葉を残していく…あなたがピアスホールと言った穴は、僕の心を膿で満たして、腐敗がどんどん広がるばかりでしたよ。いえ、決してあなただけを責めているわけではないんです。僕も間違っていたのですから。だからもう泣かないで」
気道に沿って置かれた指の冷たさがより鋭くなっていく気がした。
じっとユウの瞳を覗き込むヘテロクロミアは笑みを浮かべている。でもその笑みや彼の語る言葉が穏やかであればあるほど、背筋が薄ら寒くなる。
この人はもう、ユウが知っているジェイドではない。本能でそう感じた。けれど昏い瞳から目を逸らすことができない。
「本来の僕は、自分が心から欲するものが出来たとき、船乗りを惑わすセイレーンのように狡猾に、そして確実に忍び寄り、相手が気付いたときにはもう自らの手中に収まっているようなやり方をする生き物なんです。でも、あなたにはそれをしなかった。どうしてでしょう?恋、というものが僕を腑抜けにさせてしまっていたのでしょうね。お恥ずかしい限りです」
彼がマジカルペンを握る。そのペン先が、ユウの喉元にコツと当てられた。自分の身体が震えているのが分かる。
「まずは、残酷な言葉を紡ぐその声を奪ってしまいましょう」
大丈夫、痛くないですよと耳元で囁かれたと同時に喉に凍てつくような冷気が走った。
「……っ……!!」
彼の、名前を読んだ筈だった。
けれどもユウの喉を通っていった空気が音になることはなかった。壊れてしまった笛のように、乾いた空気を洩らすだけ。
「そして、僕の傍から離れていこうとするその悪い脚も。いりませんね?」
ジェイドが呟くように不可思議な言葉を唱えると喉に感じたのと同じ、痛いくらいの冷たさがユウの両脚を駆け巡り、視界が傾いだ。倒れそうになったユウをジェイドの腕が抱き止め、そのまま横抱きにかかえる。
ユウの目に映る二本の脚。確かに存在しているのに他人のもののように見える。微かに指を動かそうと試みても、じっと沈黙する。触れても、なにも感じなかった。脚の感覚だけ、ユウの身体から分離されてしまったかのようだった。
「これでもう…あなたが僕の前から消えることはありません。やっと…やっと…捕まえました……」
ジェイドは、笑っていた。冷たく、昏く。その微笑みはやがて震えを交えた声となり、水のないプールに狂気じみた笑い声が響き渡る。
ユウは声にならない声を出そうと声帯を締め付けた。だがどんなに力を込めても、乾いた空気が漏れるだけでジェイドの名前が音になることは無い。
細い銀色の月の光は、プールの底まで届かない。
ヘテロクロミアの瞳が放つ歪んだ光だけが、冷やかに輝いている。
ユウはその瞳を見上げた。
金色と、オリーブ色の双眸に狂気の膜が蠢きながら揺らめいている。
斬りつけるような鋭い視線が、ユウの瞳を捕らえる。かつての彼は決してこんな瞳をユウに向けたことはなかった。
だが自分の弱さのせいで、彼は壊れてしまったのだと、ユウは悟った。
彼の想いを知って元の世界に帰ることは、当時のユウには耐えられなかった。だから彼の告白を聞くことを拒絶した。
けれど、恋心を一人で抱え続けることからも逃げ、自分はジェイドに卑怯なやり方で想いを置いていったのだ。
違う世界、ましてや海の中で生まれ育ったジェイドがあの暗喩を知るわけがないと思っていた。
でもどこかで、もしかしたら後に彼がその隠された意味を知ることがあるかもしれない。それならそれでいいと。
─これは罰だ。
優しさに甘え、逃げ出して、拒絶して、自分だけは重荷を降ろし、彼に呪いの言葉を残した卑怯な自分への罰。
生ぬるい雫がユウの頬を伝う。なんて卑怯なんだろう。本当に泣きたいのは、彼の筈なのに。
声を失ったユウが流す涙を、ジェイドは冷たい瞳で見つめている。
ユウは涙を手の甲で拭い、そっと指先を伸ばした。
「………!」
人の肌とは違う温度の頬を撫で、かつてユウの秘めた気持ちを暴こうと向けられた金色の瞳に、自分を映した。ジェイドの瞳の光が微かな動揺に一瞬その鋭さを欠く。
自分が去ったあと、彼はどんな気持ちで過ごしていたのだろうか。どんな気持ちで境界を越える魔法を探し、どんな気持ちで自分を追ってここまで来たのだろうか。
瞳を見つめていると、金色の昏く冷たい膜の奥深くに隠された彼の“悲しみ”がユウの身体に流れ込んでくるように感じた。目の前が真っ暗になる絶望、身を裂くような痛み、のしかかるような虚しさ、それらが膿のように溢れ、やがて身体全体へ侵食していく。
ユウはジェイドの抱えたものを思うと、胸が締め付けられて潰れそうだった。
あんなに優しかったジェイドを、この凶行に及ばせたのは全て自分のせいなのだ。ならば今、自分できることは。
彼の悲しみも絶望も痛みも虚しさも、そしてその末の狂気もこの胸に抱き締めること。それが償いで、それがあの時耳を閉ざした告白への答えだった。
ジェイドはきっと、ユニーク魔法をかけないだろう。それでも、この心が彼の胸に届くようにと。ユウはジェイドをただ見つめ続けた。
「……っ…」
金色の瞳に映る自分の姿が揺らめき、視界が暗転する。ジェイドの震える腕に、抱き締められていた。彼の心臓の鼓動が、近くで聞こえる。懐かしい香りがする。あの書割のような海底のラウンジで過ごす時間に、ユウの心を落ち着かなくさせたジェイドの香り。
「あなたはやっぱり…残酷な人です。僕を憎んで、絶望してくれたらどんなに救われたかもしれないのに…。あなたのその優しさにどれだけ僕が打ちのめされるか、あなたは分からないでしょうね」
ユウの頭を抱え込んだまま話すジェイドの言葉から、先程までの狂おしい冷たさは消えていた。
かつて磨硝子のような紫と青の光の中で語り合った時の、懐かしい穏やかなテノールがユウの鼓膜に染み込んでいく。
そっと、ジェイドがユウを解放した。
ユウがした動作をなぞるように、ジェイドもユウの頬を優しく撫で、そのまま視線を空へ移し、儚い月の光を探すように見上げる。ジェイドの横顔を見つめるユウは、彼の金色の瞳から、一筋の涙が音もなく流れるのを見た。
その透明な雫はゆっくりとジェイドの頬を伝い、顎を滑る。そしてジェイドの身体を離れる刹那、彼は手のひらでその雫を受け止めた。
雫はジェイドの手のひらで、液体から固体へと変容していた。
ミルクを一滴混ぜたような柔らかな白。艶々とかすかな虹色に輝く、一粒の小さな真珠。人魚の涙。
ジェイドはその真珠を、ユウの手のひらに握らせた。
「さようなら、ユウさん。─あなたと見る月は、とても綺麗でした。……今も」
ユウは音の鳴らない喉で息を呑み、ジェイドの腕を掴もうとした。だがその瞬間、プールの底は再びユウの全身を覆ってしまう海水に満たされる。
海水と涙で滲んでいく視界の中でユウは必死に藻掻いた。ジェイドの腕を離さないように、彼をもう、独りにしないように。
けれども海水は無情にユウの身体を湿らせ、瞼を意識を、重たく沈み込ませる。
薄れゆく視界の中、喉と脚が海水とは違うあたたかな感覚に包まれ、遠くの方で翡翠色のピアスが星のように瞬いたのを見た気がした。
「………!!!!」
カラン!とデッキブラシの柄がプールの底に倒れた鋭い音に、ユウはびくりと身体を震わせた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなる。ほの暗いヴェールのような紫と青の照明、微かな塩素の匂い、床に描かれた貝殻の模様。いつものバイト先。今日は欠員が出て一人で掃除をしていたのだ。いつものようにデッキブラシで汚れを擦り、そして。
──なにか大切な夢を見ていた気がする。忘れてはいけない、大切ななにか…。
だが、懸命に薄れゆく糸端を掴もうとすればするそど、それは、小さな子供が手放してしまった風船の紐のようにふわふわと遠くなっていく。
ユウは小さくため息をついてかがみ込み、床に倒れたデッキブラシを拾おうとした。
「なに………真珠…?」
無意識に強く強く握りしめていた自分の手のひらの中に、小さな白い珠があることにユウは気付いた。
柔らかな乳白色が、先程より高くまで昇った銀の月の微かな光に照らされて優しく輝く。
何故ここにあるのか分からないその美しい真珠を見つめていると、ユウの心に切ないような懐かしいようなあたたかな痛みがじんわりと生まれた。
ふと、デッキブラシの柄にどこからか飛んできた蜻蛉が止まり、また空へと飛び去った。
ユウの頬を撫でる静かな風に、これまでとは違う温度と香りが混ざる。少しだけ冷たくて、乾いたような、新しい季節の匂い。
──夏が終わる。
ユウは秋の訪れを予感させる銀の月に照らされたプールの底で、いつまでも手のひらの涙のような真珠を見つめていた。
End.
この夏が、このまま永遠に続くのではないかと思うほど。空はどこまでも澄んで、圧倒的な太陽が毎日飽きることなく輝いていた。
長い夏休み、ユウは程々に学び、程々に遊び、正しい夏の日々を過ごしていた。
集中講義に出席したあと生クリームやシロップがたっぷりのせられた胸焼けするほど甘く冷たいコーヒーを飲んだり、楽しみにしていた美術館の企画展に行ってあまりの人の多さにイライラしたり、決して読み終わらないと分かっていながらプルーストの『失われた時を求めて』をテーブルに積み上げたり、時には友人たちと終電近くまで誰も聞いていない電子音楽を大音量で流し続ける店の色水のようなカクテルで喉を潤したり。
極々ありきたりで、平凡な大学生の夏休み。
この日常だけ切り取れば、ほんの数年前にユウが所謂昏睡状態に陥っていたなんて誰も思いもしないだろう。
高校生の秋のある日、ユウは突然倒れ、まるで童話の主人公のように眠ったまま目覚めなくなった。
様々な病院で様々な検査が施され、ユウは体の外側も内側も余すところなく沢山の医師の目や複雑な機械のカメラの
けれど血液にも神経にも臓器にも、一つとして異常は見つからなかった。呼び掛けられ、ガラス戸を叩かれることに飽きた動物園の動物がひっそりと瞳を閉じて静止するように、昏昏と眠り続けるだけだった。
そして、倒れたときと同じように、ユウは突然目覚めた。
真っ白のカーテンと蛍光灯の光が滲んで見えて瞬きをすると、ユウの瞳の泉に溜まっていた涙が一滴零れた。
とても大切な夢を見ていた気がして、忘れてはいけない気がして、懸命に薄れゆく夢の糸端を掴もうとしていた。でもそれは、小さな子供が手放してしまった風船の紐のようにふわふわと記憶の靄の中に紛れて遠くなっていく。
手を伸ばしても空を切るようなもどかしさにもう一滴の涙が零れたとき、「ユウ!!!」と彼女の名を呼ぶ女性の悲鳴で夢の糸端は完全に靄の中に消えた。
泣き叫んだのはユウの母だった。
彼女が押したナースコールで駆けつけた看護師や医師たちに再び様々な機械にかけられ、様々な質問をされたユウは、白く清潔な箱庭のような病室で食事と歩行の回復訓練を受けた
体の外側にも内側にも、どこにも異常は見つからなかった。
目覚めた時に感じた焦燥感は、耳の奥に入り込みじっと息を潜ませて震える埃のように、ユウの中に曖昧な存在として残っていた。もどかしさは消え、痛みや痺れもなく、それは揺蕩うような不可思議なものだった。
目覚める前までは、その感覚の呼び名を知っていた気がする。けれども今は、記憶の靄に隠れて思い出せない。
眠っていた1年間を取り戻すためひと学年遅れで高校を卒業し、大学に進学して、ユウの身に起きた出来事を知らぬ友人たちと平穏な日常を過ごす中で、思い出すことは諦めたものの、時折耳の奥で震える埃を細いピンセットでそっと摘み出し、シャーレに置いて顕微鏡で眺めるように、その不可思議な感覚と対話をしたくなるときがあった。
例えば、鏡を覗くとき。
洗面所の飾り気のない鏡、手のひらに収まる小さなコンパクト。それらの鏡はユウが近付くまではまるで森の奥の湖のように、しんと静かに、ただそこに存在している。
だがユウが自分の姿を映すと、湖に小石を投げると広がる波紋のように、鏡が微かに呼吸を始めるような、そんな空気の揺れを感じた。
その微妙な変化を驚かせないように、逃さないように、そっとそっと辿っていくと耳の奥の埃のような曖昧で不可思議なあの感覚の正体を思い出せる気がしてユウは真面目に鏡に映った自分を見つめる。
瞬きもせずに鏡と向かい合っていると、遠くの方から微かな声が聞こえるような気がした。
懐かしいような、切ないような、穏やかなテノールの声。
だがいつも家族の呼び声や窓の外のサイレン、オーダーしたコーヒーがテーブルに置かれた音に邪魔されて、結局鏡はすぐに元の澄ました佇まいに戻ってしまうのだった。
それから、水音によって不可思議な感覚を手繰り寄せることもあった。
きっかけは、キッチンに置かれた型遅れの冷蔵庫だった。
家族が寝静まった夜更けに喉の乾きで目覚めたユウはミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出した。
扉を開けると橙色の灯りが暗闇のキッチンを包むように照らし、手首の上を冷気が通り過ぎていく。
スツールに腰掛け、夜の静寂と夕飯の甘じょっぱいような残り香が肌を撫でるキッチンでグラスに注いだ冷たいミネラルウォーターを喉に流し込む。
扉の開閉で生じた温度差で、冷蔵庫がミシッと収縮音を立てる。続いてポコポコとまるで胎児の心音のような水音がした。冷蔵庫を冷やすための冷媒が流れる音だ。
その音を聞いた瞬間、視界の隅に鮮やかな色の魚の尾びれがゆっくりと翻った。暗闇だった筈のキッチンに仄かな青と紫の磨硝子のようなぼんやりとした光が揺らめく。
だがやはりそれも、もう一度見ようと瞳を動かせば消えてしまい、もう一度思い出そうとする時にはもう、記憶の靄がその形状を覆ってしまう。
ユウは再び暗闇と夕飯の生ぬるい匂いの中に取り残される。
着色料がふんだんに使われたケーキの写真をスマホのアルバムに収め、流行りの映画を見たあとその感想を手帳にメモし、夏休みだというのに難儀なレポート課題を出す教授への恨み言を友人たちとのチャットに打ち込みながらパソコンに向かう。
側から見れば健康で健全な日常を送りながらも、自分の中のなにか、一番大切なものが欠けているという予感。そのなにかを思い出すのはあまりにも曖昧すぎる記憶。日々の暮らしの中で、立ち止まっては心許ない不可思議なその感覚に耳を澄ませることが次第に多くなっていた。
そんな夏休みの終わり頃、ユウは友人から紹介されたアルバイトを始めた。
ホテルのプール清掃のアルバイトだった。ホテルは新しくはないが清潔で、慎ましやかな佇まいだった。
コの字型の宿舎に抱き抱えられるように、ホテルの中心に設計された屋外プールは日が落ちる頃に水が抜かれ、清掃スタッフが利用客の汗や溶けた化粧品やどこからか飛んできた木の葉、溺れてしまった小さな羽虫など夏の日の残滓をデッキブラシで擦り取る。
ユウは、太陽が沈んだ夕方から数時間だけのこのアルバイトが気に入っていた。
二人一組でシフトが組まれるのだが、どのスタッフも皆寡黙で、まるで僧院の修行僧が祈るように静かにプールの底にブラシを滑らせる。
太陽が紫陽花のような色を残して沈み、代わりに白い月が姿を見せる。宿泊客たちはプールとは反対側に位置するレストランに夕食を取りに行く。楕円形の深いプールの底には賑やかなレストランのざわめきも、街の帰路を急ぐ人々の足音も届かない。塩素の匂いの中で黙々と汚れを落としていると、あの不可思議な感覚がそっと身体から抜け出して水のないプールの中を漂い始めるように感じた。
アルバイト中だけは外野の声や音に邪魔されることなく、抜け出した感覚を意識することが出来た。
あともう少しで、記憶の糸端が掴めるような気がして、ユウはアルバイトの度、実直にプールの底を擦っていた。
永遠に続くかのように思われた夏も、やはり終わりの時は訪れる。アルバイトの契約期間は残すところあと数日だった。
ひたすら燃えるようだった太陽が、柔らかく屈折して印象派の絵画のような淡い色味を持ち始め、頬を撫でるぬるい風に、少しずつ秋の気配が紛れ込むようになった。
薄い月が昇る頃には、
ユウが従業員用の更衣室で着替えていると、シフトリーダーが今日のペアであるスタッフが体調不良で休みになったと告げに来た。
「一人だと大変なようなら社員で手が空いてる人を応援にいかせるけど」というリーダーの申し出を丁寧に断って、ユウは一人で薄闇のプールの底にいる。
プール清掃は一人でも充分こなせる単純な仕事だ。
底にブラシの先を滑らせると、プールサイドのライトが点灯した。磨硝子のような厚みをもった青と紫。
そういえば、秋の間プール利用は休止されるが、清潔な水を張りライティングで照らして景観を楽しめるようにすると従業員が話しているのを聞いた気がする。テスト点灯だろう。水を張っていない乾いたプールの底を、青と紫がヴェールのように覆う。
その灯りの下で、床に描かれた貝殻の模様の溝に恥じらうように身を潜ませている利用客の汗や溶けた化粧品や、どこからか飛んできた木の葉や溺れてしまった小さな羽虫たちの儚い汚れをブラシで擦る。
いつものように、あの不可思議な感覚がユウの中から抜け出して、水のないプールの中を漂い始める予感がしたときだった。
視界の片隅で、なにかが光った。
その物体とユウの間には距離があった。消滅する星が最後に瞬くように小さく鋭い輝きを放つなにかがプールの底に落ちている。
ユウを誘うように、その光はゆっくりと揺らめく。
ふと、耳のなかが真っ白になった。その白さは染み込むように濃度を増していく。うねるような圧倒的な静寂が、プールの底を覆っていることに気付いた。
手から滑り落ちたデッキブラシの柄が床を叩いたはずなのに、その音は静寂に吸い込まれる。
ユウはふらふらと、その光り輝く物体の方に向かった。
耳の奥の埃のように存在していたあの不可思議な記憶の感覚が完全に身体から抜け切って、薄明かりのプールの底を歩くユウの周りを揺蕩い始めた。
目の端に、鮮やかな色の魚の尾びれが翻る。磨硝子の青と紫のぼんやりとした灯り。乾いたプールで鳴るはずのない、胎児の心音のような泡音がこぽりと弾ける。
セイレーンの歌声に導かれて水底に手を伸ばす船乗りのように、ユウは少しずつその光との距離を縮めていった。
「…ピアス?」
それは、菱形の翡翠石が3つ連なったピアスの一片だった。海底でじっとうずくまる貝のようなピアスは、ユウが一歩近づくたびに小さく瞬く。
そっと拾い上げて手のひらに乗せると、硬質な冷たさと重みを感じる。
「ああ、やっと。気付いてくださいましたね」
鼓膜のすぐ傍で、囁く声がした。声帯の奥深くで微かにビブラートがかかったような、鷹揚な響きのテノール。
「……っ……!!!」
驚いて息を呑んだはずだった。けれど空気の代わりにユウの喉に流れ込んできたのは、冷たい水だった。
何が起きているのか分からない。
数秒前まで乾ききっていたプールに、ユウの頭まで完全に覆ってしまう量の水が満ちている。嗅ぎ慣れた塩素の匂いではない、もっと生々しく荒々しい匂いのする水。これは、海水だ。
淡い青と紫の灯は消え、どこまでも暗く冷たい海の奥底の色をした水がユウの視界をぼやかしていく。
水を吸ったTシャツが鉛のように重く、体をより下へ、下へと沈めていく。貝殻の模様が描かれたプールの底は消えてユウの足は混乱したまま水を掻く。
口から泡が漏れて、息苦しさと冷たさに全身が総毛立った。
「お久しぶりです、ユウさん」
涙と海水で滲む瞳を声のする方に動かすと、そこには異形の姿があった。
ユウの手のひらが握っているピアスと同じ色、緑がかったターコイズブルーの尾ひれは気が遠くなるほど長く、暗い水中で絡まるように揺蕩っている。
その尾ひれに支えられた半裸の上半身も、人のそれとは異なる海の色をしていた。
─人魚だ。童話で描かれる姿よりも遥かに大きく、妖しく、そしてぞっとする美しさ。
その瞳はゴールドと深いオリーブ色のヘテロクロミアで、薄い唇から鋭い歯列が覗いている。
人魚は水の中でも普通に喋れるのか。どうしてこの人魚は私の名前を知っているのだろう。懐かしいような、苦しいような気持ちになるこの声は。この人は誰。知らないのに知っている。冷たい水。ヘテロクロミアの虹彩。曖昧な輪郭の、穏やかなテノール。
ごぽ、と一際大きな泡がユウの口から生まれた。息苦しさの限界を越えると、体だけでなく瞼まで重く、必死に動かしていた手足がだらりと脱力する。
今この身に起きていること、そして目の前に現れた人物が、記憶の靄に消えてしまった夢の糸端を明確な存在として再びユウの元に呼び寄せているのは分かっていた。けれども、それに手を伸ばそうとしても、喉から胸へ、胸から肺へ海水が流れてきてとても重い。
ああ、沈んでしまう。耐えられなくなって瞼を閉じれば、そこはさらに深く冷たい暗闇だった。
「おやおや……」
脇の下にぬめりを持った硬い皮膚が滑る感触がして、ぐいと引っ張られると同時に静寂を破る水飛沫が上がった。
「…っかはっ…!!うっ…はぁ…!!」
鼻と口に空気が流れ込んで、
ユウは人魚に抱えられ、水面に浮かんでいた。
「僕としたことが、失礼しました。…
申し訳無さそうに眉を下げた人魚の瞳が、ユウの顔を覗き込む。ヘテロクロミアの双眸が細められて、ユウの手のひらの中のピアスを水掻きのついた指がつまみ上げた。器用に、左耳の小さな穴に引っ掛ける。黒曜石色の一房の髪が一瞬風に靡いてまた落ちる。
この人魚は、誰。知らないはずなのに知っている。この瞳も、この声も。夢の記憶の糸端がもう少しで掴めそうなところまで降りてきているのを感じた。手を伸ばせば届くところまで。
「僕を置いて消えてしまって、その上忘れてしまったあなたとおあいこ、ということにしていただけませんか?」
「…な…に……」
「おや、まだ混乱していますね。ではこれでどうでしょう?」
人魚が宝石のついたペンのようなものを一振りした。すると水が嘘のように消えて、ユウは馴染みのあるプールの底で、尾ひれの代わりに2本の足で立つ男の腕に抱かれている。
べっとりとした海水に濡れていた髪もTシャツも、一滴の水滴も残さずにプールの底と同じようにからからに乾いていた。
「あなたは誰……?」
「相変わらず頑なな方ですね。ふふ、ユウさんらしいと言えばそうですが。でも、不思議なマジックの時間は終わりです」
男は長い指でユウの顎を掴むと、丁寧だけれど抵抗する気が削げるには充分な力加減で夜空の方を向かせた。
すっかり夜の帳に覆われた空には、白い三日月が昇っている。まるで夜空にできた切り傷のような。あまりにも薄く、細いその月の光は、プールの底までは届かない。
「さあユウさん、見てください。“今夜は月が綺麗ですよ”」
極小さな囁き声だった。けれど、その言葉は渦のようにユウの脳内で徐々に大きくなり反響していった。
そのテノールの響きを合図に、万華鏡を落として割ったかのような鮮やかな光の残像が脳内で古いフィルムのように再生される。
─覗くと揺らめく鏡、教室に並んだ色とりどりの薬瓶と錫の大釜、宙を舞う本、喋る肖像画にゴースト、太陽が西から昇り、時計は左回りに進む捻くれた世界。
賑やかでトラブルメーカーの友人たち、個性の塊のような教授陣、次々と起こる事件。
そして、磨硝子のようなぼんやりとした青と紫の灯りと水音、美しい鱗を光らせる深海魚、夜明けの海の色のお茶、ターコイズブルーの艷やかな髪に全てを見透かすヘテロクロミアの瞳、穏やかなテノール。その声で名を呼ばれた時の、切ない胸の高鳴り。
──目に痛いくらい大きく明るかった満月の夜。
これまでユウのどこかで眠っていた記憶の逆流に、体が震えるのを感じる。
こちらの世界で体が昏睡している間に見てきたものすべてが今、明確に、自分自身の記憶として一つ一つ、あるべき場所にしまわれていく。
「どうやら、記憶が修復されたようですね。それでは、あなたが最後に僕に残した残酷な小さな穴についても、思い出してくれましたか?」
「…………」
「…泣いているのですか?僕が怖い?」
彼は、薄く微笑んで冷たい指でユウの瞳から零れた涙を拭った。
彼が何者であるか、ユウは思い出した。ユウが最後の日に、彼に残した言葉と、その言葉に隠された残酷な意味を彼が後に知ったのであろうことも。
そして長い眠りから覚めて感じたあの感覚が、“悲しみ”という名を持つ感情だということを。
「ジェイド先輩…っ…」
「…………!」
ユウの中で、なにかかやさしく静かに破けた気がした。懐かしい、大切な人。どうして忘れていたのだろう。
ユウが名前を呼ぶと、彼─ジェイドの鈍い光をまとっていた瞳の奥が微かに揺れた。仄暗い輝きの奥で揺れたそれは、かつて自分に向けられていた優しく切ない瞳の色だった。
「ジェイド先輩…ジェイド先輩!!ジェイドせんぱい…っ…!!」
「ユウさん……」
ユウは、ジェイドの胸に縋りついた。涙が彼の服を濡らしていく。
目覚めてから、耳の奥に残った埃のような曖昧な感覚として残っていたものが記憶として明確な姿を現した。
─あの日、ジェイドが淹れてくれたお茶の海の色、磨硝子のような仄暗い灯りに照らされた夜のラウンジ、先輩が伝えようとしてくれた言葉、それを聞く勇気を持てなかったずるくて弱い自分、そして懐かしいあのオンボロの部屋で一人見上げた最後の満月。
それらの記憶が溢れるような“悲しみ”の感情を伴ってユウの胸を締め付けていく。
「ジェイド先輩…私…っ」
「それ以上、喋らないで」
ジェイドの大きな手のひらがユウの口元を覆った。ユウを見つめる彼の瞳は再び夜空で嗤う月のように鋭く、海水のように冷たく昏い色に凍っている。
「その悪い口で、今度はどんな残酷な言葉を語るつもりでしょうか…。ねえユウさん。どうしてあの日、あの言葉を残していったのですか?あなたが姿を消した後、あの言葉の
ユウに語りかるジェイドの指が唇をなぞり、そのまま首筋まで降りてくる。
まるで蛇が獲物の身体に巻きつくようにゆっくりと、人のものではない冷たい体温がユウの首の皮膚を粟立たせた。
「僕が想いを告げることは許さず、もう二度と手の届かない場所に逃げるあなたは呪いの言葉を残していく…あなたがピアスホールと言った穴は、僕の心を膿で満たして、腐敗がどんどん広がるばかりでしたよ。いえ、決してあなただけを責めているわけではないんです。僕も間違っていたのですから。だからもう泣かないで」
気道に沿って置かれた指の冷たさがより鋭くなっていく気がした。
じっとユウの瞳を覗き込むヘテロクロミアは笑みを浮かべている。でもその笑みや彼の語る言葉が穏やかであればあるほど、背筋が薄ら寒くなる。
この人はもう、ユウが知っているジェイドではない。本能でそう感じた。けれど昏い瞳から目を逸らすことができない。
「本来の僕は、自分が心から欲するものが出来たとき、船乗りを惑わすセイレーンのように狡猾に、そして確実に忍び寄り、相手が気付いたときにはもう自らの手中に収まっているようなやり方をする生き物なんです。でも、あなたにはそれをしなかった。どうしてでしょう?恋、というものが僕を腑抜けにさせてしまっていたのでしょうね。お恥ずかしい限りです」
彼がマジカルペンを握る。そのペン先が、ユウの喉元にコツと当てられた。自分の身体が震えているのが分かる。
「まずは、残酷な言葉を紡ぐその声を奪ってしまいましょう」
大丈夫、痛くないですよと耳元で囁かれたと同時に喉に凍てつくような冷気が走った。
「……っ……!!」
彼の、名前を読んだ筈だった。
けれどもユウの喉を通っていった空気が音になることはなかった。壊れてしまった笛のように、乾いた空気を洩らすだけ。
「そして、僕の傍から離れていこうとするその悪い脚も。いりませんね?」
ジェイドが呟くように不可思議な言葉を唱えると喉に感じたのと同じ、痛いくらいの冷たさがユウの両脚を駆け巡り、視界が傾いだ。倒れそうになったユウをジェイドの腕が抱き止め、そのまま横抱きにかかえる。
ユウの目に映る二本の脚。確かに存在しているのに他人のもののように見える。微かに指を動かそうと試みても、じっと沈黙する。触れても、なにも感じなかった。脚の感覚だけ、ユウの身体から分離されてしまったかのようだった。
「これでもう…あなたが僕の前から消えることはありません。やっと…やっと…捕まえました……」
ジェイドは、笑っていた。冷たく、昏く。その微笑みはやがて震えを交えた声となり、水のないプールに狂気じみた笑い声が響き渡る。
ユウは声にならない声を出そうと声帯を締め付けた。だがどんなに力を込めても、乾いた空気が漏れるだけでジェイドの名前が音になることは無い。
細い銀色の月の光は、プールの底まで届かない。
ヘテロクロミアの瞳が放つ歪んだ光だけが、冷やかに輝いている。
ユウはその瞳を見上げた。
金色と、オリーブ色の双眸に狂気の膜が蠢きながら揺らめいている。
斬りつけるような鋭い視線が、ユウの瞳を捕らえる。かつての彼は決してこんな瞳をユウに向けたことはなかった。
だが自分の弱さのせいで、彼は壊れてしまったのだと、ユウは悟った。
彼の想いを知って元の世界に帰ることは、当時のユウには耐えられなかった。だから彼の告白を聞くことを拒絶した。
けれど、恋心を一人で抱え続けることからも逃げ、自分はジェイドに卑怯なやり方で想いを置いていったのだ。
違う世界、ましてや海の中で生まれ育ったジェイドがあの暗喩を知るわけがないと思っていた。
でもどこかで、もしかしたら後に彼がその隠された意味を知ることがあるかもしれない。それならそれでいいと。
─これは罰だ。
優しさに甘え、逃げ出して、拒絶して、自分だけは重荷を降ろし、彼に呪いの言葉を残した卑怯な自分への罰。
生ぬるい雫がユウの頬を伝う。なんて卑怯なんだろう。本当に泣きたいのは、彼の筈なのに。
声を失ったユウが流す涙を、ジェイドは冷たい瞳で見つめている。
ユウは涙を手の甲で拭い、そっと指先を伸ばした。
「………!」
人の肌とは違う温度の頬を撫で、かつてユウの秘めた気持ちを暴こうと向けられた金色の瞳に、自分を映した。ジェイドの瞳の光が微かな動揺に一瞬その鋭さを欠く。
自分が去ったあと、彼はどんな気持ちで過ごしていたのだろうか。どんな気持ちで境界を越える魔法を探し、どんな気持ちで自分を追ってここまで来たのだろうか。
瞳を見つめていると、金色の昏く冷たい膜の奥深くに隠された彼の“悲しみ”がユウの身体に流れ込んでくるように感じた。目の前が真っ暗になる絶望、身を裂くような痛み、のしかかるような虚しさ、それらが膿のように溢れ、やがて身体全体へ侵食していく。
ユウはジェイドの抱えたものを思うと、胸が締め付けられて潰れそうだった。
あんなに優しかったジェイドを、この凶行に及ばせたのは全て自分のせいなのだ。ならば今、自分できることは。
彼の悲しみも絶望も痛みも虚しさも、そしてその末の狂気もこの胸に抱き締めること。それが償いで、それがあの時耳を閉ざした告白への答えだった。
ジェイドはきっと、ユニーク魔法をかけないだろう。それでも、この心が彼の胸に届くようにと。ユウはジェイドをただ見つめ続けた。
「……っ…」
金色の瞳に映る自分の姿が揺らめき、視界が暗転する。ジェイドの震える腕に、抱き締められていた。彼の心臓の鼓動が、近くで聞こえる。懐かしい香りがする。あの書割のような海底のラウンジで過ごす時間に、ユウの心を落ち着かなくさせたジェイドの香り。
「あなたはやっぱり…残酷な人です。僕を憎んで、絶望してくれたらどんなに救われたかもしれないのに…。あなたのその優しさにどれだけ僕が打ちのめされるか、あなたは分からないでしょうね」
ユウの頭を抱え込んだまま話すジェイドの言葉から、先程までの狂おしい冷たさは消えていた。
かつて磨硝子のような紫と青の光の中で語り合った時の、懐かしい穏やかなテノールがユウの鼓膜に染み込んでいく。
そっと、ジェイドがユウを解放した。
ユウがした動作をなぞるように、ジェイドもユウの頬を優しく撫で、そのまま視線を空へ移し、儚い月の光を探すように見上げる。ジェイドの横顔を見つめるユウは、彼の金色の瞳から、一筋の涙が音もなく流れるのを見た。
その透明な雫はゆっくりとジェイドの頬を伝い、顎を滑る。そしてジェイドの身体を離れる刹那、彼は手のひらでその雫を受け止めた。
雫はジェイドの手のひらで、液体から固体へと変容していた。
ミルクを一滴混ぜたような柔らかな白。艶々とかすかな虹色に輝く、一粒の小さな真珠。人魚の涙。
ジェイドはその真珠を、ユウの手のひらに握らせた。
「さようなら、ユウさん。─あなたと見る月は、とても綺麗でした。……今も」
ユウは音の鳴らない喉で息を呑み、ジェイドの腕を掴もうとした。だがその瞬間、プールの底は再びユウの全身を覆ってしまう海水に満たされる。
海水と涙で滲んでいく視界の中でユウは必死に藻掻いた。ジェイドの腕を離さないように、彼をもう、独りにしないように。
けれども海水は無情にユウの身体を湿らせ、瞼を意識を、重たく沈み込ませる。
薄れゆく視界の中、喉と脚が海水とは違うあたたかな感覚に包まれ、遠くの方で翡翠色のピアスが星のように瞬いたのを見た気がした。
「………!!!!」
カラン!とデッキブラシの柄がプールの底に倒れた鋭い音に、ユウはびくりと身体を震わせた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなる。ほの暗いヴェールのような紫と青の照明、微かな塩素の匂い、床に描かれた貝殻の模様。いつものバイト先。今日は欠員が出て一人で掃除をしていたのだ。いつものようにデッキブラシで汚れを擦り、そして。
──なにか大切な夢を見ていた気がする。忘れてはいけない、大切ななにか…。
だが、懸命に薄れゆく糸端を掴もうとすればするそど、それは、小さな子供が手放してしまった風船の紐のようにふわふわと遠くなっていく。
ユウは小さくため息をついてかがみ込み、床に倒れたデッキブラシを拾おうとした。
「なに………真珠…?」
無意識に強く強く握りしめていた自分の手のひらの中に、小さな白い珠があることにユウは気付いた。
柔らかな乳白色が、先程より高くまで昇った銀の月の微かな光に照らされて優しく輝く。
何故ここにあるのか分からないその美しい真珠を見つめていると、ユウの心に切ないような懐かしいようなあたたかな痛みがじんわりと生まれた。
ふと、デッキブラシの柄にどこからか飛んできた蜻蛉が止まり、また空へと飛び去った。
ユウの頬を撫でる静かな風に、これまでとは違う温度と香りが混ざる。少しだけ冷たくて、乾いたような、新しい季節の匂い。
──夏が終わる。
ユウは秋の訪れを予感させる銀の月に照らされたプールの底で、いつまでも手のひらの涙のような真珠を見つめていた。
End.
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