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《ものうさと甘さが胸から離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しくも美しい名前をつけるのを、わたしはためらう。
その感情はあまりに完全、あまりにエゴイスティックで、恥じたくなるほどだが、悲しみというのは、わたしには敬うべきものに思われるからだ。
悲しみーそれを、わたしは身にしみて感じたことがなかった。
ものうさ、後悔、ごくたまに良心の呵責。感じていたのはそんなものだけ。
でも今は、なにかが絹のようになめらかに、まとわりつくように、わたしを覆う。そうしてわたしを、人々から引き離す。
フランソワーズ・サガン 悲しみよこんにちは》
ジェイドは夜のモストロラウンジが好きだった。
閉店後、メインフロアの灯りを落としたラウンジ内はとろりとした薄闇と、磨硝子のような厚みをもった青と紫の色彩に包まれる。
開店時の喧騒が消えたひそやかな静寂の中で、時折胎児の心音のような泡音が空気をそっと震わせる。
ガラス窓の外では色鮮やかな珊瑚や深海魚たちが美しい光彩を見せつけながらゆったりと、優美に揺蕩う。
だがこれは、偽物の海の世界。
海を知らぬ人々が夢見る理想の海底。商魂逞しい幼馴染みによって作られたイミテーションの海だ。
本当の深海は文字通り地上の光が届かない深さで、暗く冷たく残酷で、だからこそ美しい。
それでもジェイドは、この書き割りのような海底のラウンジを気に入っていた。
この薄闇の青と紫の中で見る彼女が、とても綺麗だったから。
彼女、オンボロ寮の監督生であるユウは、アズールのオーバーブロット後も頻繁にオクタヴィネル寮に顔を出していた。
週末などは陸の人間の言葉を借りるなら「猫の手でも借りたい」ほど忙しく賑わうモストロラウンジに、彼女は臨時アルバイトとして通っていたのだ。
大概気まぐれな双子の片割れは激務の後の片付けを放棄して消えてしまう。営業時間内だけは文句を言いながらも働いてくれただけ上出来だろう。
良くも悪くもしたたかな同寮のスタッフ達も、人当たりの良いユウに仕事を押し付けてはそそくさと自室に上がっていく。
アズールはVIPルームに籠もって売上の集計に掛かってしまうため、必然的に締め作業はジェイドとユウの二人で行うことが多かった。
最初の頃、ジェイドがユウに対して抱いていたものは単純な好奇心だった。
魔力を持たず異世界からやってきた人間。彼女が何を思い、何を考えて過ごしているのか。
人魚でありながら自らの意思で陸で過ごす自分たちとは違う意味での異端の存在。
魔法の知識は勿論、この世界の常識すら知らない彼女は当初、見ていて不憫なほど動揺、そして混乱していた。
向こう見ずな魔獣に振り回され慌てる姿を何度も見かけた。
人当たりがよく、控え目で、非主体的。
多少の嘲りを含んだ憐れみと共に、ジェイドはユウをそう評価した。
だがアズールのオーバーブロットに対峙した際の大胆不敵な行動や、ラウンジでの働きぶりを見ているうちに、ジェイドが下したユウへの印象は少しずつ変化していった。
確かに控え目だが、実はよく人を観察していて、時折どきりとするほど核心を突く。
けれども、基本的に人が触れてほしくない領域、触れてほしい領域、欲しくない言葉、欲しい言葉を理解し、程よい距離感で誰とでも付き合っているようだった。
魔力がないということと、破天荒な相棒の言動が目立つため落ちこぼれの問題児のような印象を持ってしまいがちだが、彼女は周りが思っているより賢く聡いということをジェイドは知った。
好奇心の形が少しずつ変化する。
ある日、締め作業を終えた後にジェイドはユウを紅茶に誘った。なんとなく、彼女と二人で話してみたいと思ったのだ。
最初こそ「対価は……」と警戒していたユウだったが、ジェイドが紅茶の新しいブレンドの試飲をお願いしたいと告げると徐々に緊張を緩め、柔らかな声で笑いながら他愛もない話をした。
海と陸の暮らしの違いに目を丸め、アズールとフロイドとの幼少期のエピソードに手を叩いて笑う。
ユウと過ごす時間、ジェイドは柔らかな月の光に照らされたような心地がした。
それが不思議で、その心地良さの正体が知りたくて、ジェイドは頻繁にユウをお茶に誘った。
そんな日々を繰り返すうち、ユウの方もすっかりジェイドに慣れたようで授業のノートを持ってきて質問をしたり、お茶請けにと菓子を焼いてくることもあった。
廊下ですれ違えば「ジェイド先輩!」と鈴の鳴るような声で自分の名を呼び手を振る姿に充足感を覚え、級友たちと笑い合っている姿を見ればちくりと胸に刺されたような痛みが走る。
夜のモストロラウンジの薄闇と青と紫の下で笑うユウと向き合っていると、慣れたはずの肺呼吸が上手く出来なくなる瞬間がある。
自分のその感情を、恋だと認めるのに時間はかからなかった。
自分が心から欲するものが出来たとき、きっと船乗りを惑わすセイレーンのように狡猾に、そして確実に忍び寄り、相手が気付いたときにはもう自らの手中に収まっているようなやり方をするのだろうと漠然と思っていた。
だが実際は。
入り江に上がり、手の届かない王子を月明かりに焦がれながら密やかに想い見守る有名な童話の人魚の其れだった。
無理やり自らのものにするのではなく、彼女自身に自分を選んでほしい。
恋を知って、純真な少年のような切望を持て余していることを幼馴染みや双子の片割れが知ったらきっと慄くだろうと想像すると、ジェイドはなんだか可笑しくなって一人でクスクスと笑った。
ひっそりと穏やかに二人で過ごす時間の最中 で、次第にユウにも変化があった。
ジェイドがユウの名前を呼べば、嬉しそうな表情で振り向く。なにかの拍子にジェイドの指が彼女の指と触れれば慌てて手を引き、笑顔を見つめれば頬を赤らめて瞳を逸らす。
彼女もきっと、自分に恋心を抱いているのだろうと言う確信はあった。
だけれど。
このイミテーションの海底で過ごす、彼女との名前のない関係の揺蕩うような時間が心地良くて。もう少しだけ、このままで。
焦らなくともまだ時間はたっぷりある。ジェイドは、ユウとのこの日常がいつまでも続くような気がしていたのだ。
そろそろ寮に戻ろうと立ち上がると同時にラウンジの扉が小さくノックされた。
「ジェイド先輩、いらっしゃいますか?」
「おやおや、ユウさん。どうなさいました?」
「夜分にすみません。今少しだけ、お時間いただいていいですか?」
「ユウさんから訪ねて下さるなんて珍しいですね。光栄ですよ」
ソファに座るように促せば、ジェイドの隣にそっと腰掛けるユウ。
初めの頃は向かい合う形で座っていた。この小さな変化すらジェイドの心を淡く擽る。
「課題で何か分からないことでも?いま、お茶を淹れますね」
「いえ、お構いなく……!」
「僕の時間を差し上げる代わりに、新しい茶葉の試飲をお願いします。対価ですよ」
「…分かりました。ジェイド先輩ってそういうところ、優しいですよね。皆分かっていないけれど」
「おや、なんのことやら」
あなただけにですよと心の中で笑いながら、ジェイドはガラスのポットを温めた。
からからに乾いた花をポットに入れ、お湯を注ぐ。
蒸らされた花びらが、熱湯を透き通った青色に染めていく。月明かりに照らされた入り江のような色。
「綺麗…ハーブティーですか?」
「ええ、マロウブルーというハーブです」
ポットと揃いのガラスのカップに青いお茶を注いでユウに渡す。
「癖がなくて飲みやすいですね。美味しいです。」
「マロウブルーは粘膜を保護する働きもあるので喉が痛むときによく飲まれたそうですよ。少し味気ないので、ラウンジで提供する際には水出しにしてフレッシュジュースで割れば見た目も味も楽しめるかと。さあ、おかわりをどうぞ」
「あ!色が……」
空になったカップに再び注がれたお茶は、入り江の青から淡く澄んだ紫に変化していた。夜明け前、夜と朝の隙間の儚い光に照らされた海の水面 のような色。
「マロウブルーだけでなくハーブ全般は熱湯によって徐々に濃度が変化するんです。色が変わっているように見えますが、単に濃くなっているだけなんですよ。ちなみにここにレモン果汁を垂らせば、青色色素のアントシアニンがアルカリ性から酸性に傾いて、ピンク色に変化します」
「魔法みたい。……それに、さっきの青とこの紫、夜のモストロラウンジの色ですね」
「ええ、その通りです」
ラウンジで提供する、というのはジェイドの嘘だ。
ミステリーショップに並ぶこの茶葉を見たとき、彼女と過ごす夜のモストロラウンジの色彩と空気が脳裏をよぎり、ユウのためだけに購入したものだった。
ほの暗い海底の光にカップをかざして柔らかく微笑みながら淡い紫のお茶を眺めるユウに、ジェイドの口角が自然に上がる。
夜のモストロラウンジで見る彼女はやはり美しかった。
この揺蕩うような時間と、月の光のような笑みは、自分だけのもの。二人だけの、心地良いひととき。
「先輩」
ガラスとガラスが擦れる小さな音を立ててカップをソーサーに戻したユウが、ジェイドの顔を真正面から見つめた。
彼女の睫毛に、薄青の影が差す。こぽり、と窓の外で深海魚が小さく泡を吐き出した。
「ジェイド先輩、私帰ることになりました。元の世界へ」
一瞬。
ジェイドの世界から音が消えた。
ユウの発した声が、耳を通り脳に到達しても、その言葉の意味を理解する前に蒸発してしまったかのように。
「……は?」
「帰る方法が見つかったんです。ジェイド先輩には、特別お世話になったから先にお話しようと思って…。美味しい紅茶ご馳走になったり、課題を見ていただいたり、本当にありがとうございました。ジェイド先輩に沢山助けられました」
「な……帰る……?ユウさんが……?……帰りたい、のですか…?」
思考が追いつかないジェイドに、ユウが言葉を重ねていく。
ジェイドが声帯から絞り出したテノールは、情けないほどに掠れていた。視界の片隅で、深海魚が鮮やかな尾鰭を翻す。まるで放心するジェイドを嘲笑うかのように。心地良いものだった筈の水中音が嫌に耳につく。
「帰りたい、帰りたくないの問題じゃないと思うんです。このティーカップが食器棚にしまわれるみたいに、私も在るべき場所に収まるだけ」
ティーカップを指で弾き、微笑みを浮かべながら淡々と言葉を紡ぐユウに反して、ジェイドの胸の中では苛立ちが渦のようにうねりを上げていた。
「あなたは…僕が……そうですか、今までありがとうございました、お元気でと笑顔で言う男だと思っているんですか…?あなたが居なくなった後、あなたと出会う前の生活に何事もなかったように戻ると?!」
苛立ちに震える掌でユウの肩を掴む。
少しの力を込めれば簡単に折れてバラバラになってしまいそうな華奢な身体。目の前に確かに存在しているその身体が、自分の前から去ろうとしている。
大切に、壊さないように、やがて彼女から身を委ねてくれるようにと願っていた存在が。
その事実を、ジェイドの心は駄々をこねる子供のように拒絶していた。
「僕はそんなことは受け入れられません。ええ、絶対に。どうしてっ……そんなの……どうしてあなたは…笑っているんですか……」
掠れた声が徐々に萎んでいき、自らの苛立ちと動揺を受け止めることも、思うままユウにぶつけることも出来ず頭を垂れたジェイドの頬を、耳から落ちたターコイズと黒曜石色の髪が撫でる。
「ジェイド先輩……」
ユウの指がジェイドのピアスが下がる耳たぶに触れた。
温かく、微かに甘い香りがする。
彼女の香りが感じられるほど近くに寄ったのは、今日が初めてだと気付く。
甘い香りは溶けるようにジェイドの鼻梁を抜けていった。
「私が居なくなった後に感じる喪失感は、ピアスホールみたいなものだと思います。ピアスをしていない穴は、最初はすーすーして心許ないかもしれません。でも次第に気にならなくなって、そこに穴が開いていたことを忘れる頃には綺麗に塞がる穴です」
「…ピアスホール、ですって?」
「はい。…だから、そんな顔しないでください。すぐに…」
「あなたは何も分かってません…!!」
ユウの言葉を遮って、ジェイドは再び肩を掴んだ掌に力を入れた。
彼女の制服に皺が寄り、ジェイドの指先が彼女の柔らかい身体に縋るように食い込んでいく。
「ピアスホールですって?ユウさん、あなたは何も分かっていません…。その穴は放っておいても塞がらない。膿が出て、徐々に腐って広がっていく…僕は……あなたのことがっ……」
「先輩!!」
ユウは切実な悲鳴に近い声をあげてジェイドの言葉を遮るように立ち上がり背を向けた。
明確な拒絶に、ジェイドの心はますます苛立ち、揺れ、そして藻掻いた。動揺と衝撃と焦燥感が入り乱れて身体の奥底から溢れていく。
ジェイドはユウの正面に回ると、彼女の顎を掴み、ヘテロクロミアのうち金色 の虹彩を持つ方に彼女の瞳を無理矢理映そうとした。
彼特有の力で、ユウが隠す本心を引き出そうと。二人で過ごした時間に確信を持って感じた、彼女の自分への想いを暴こうと。
だがユウの顔を見た瞬間、彼女の身体を捉えたジェイドの掌から沈むように力が抜けた。
薄闇の青と紫の色彩の中で、彼女は今にも泣き出しそうな、儚い諦めに染まった顔をしていた。
その姿があまりにも切なくて美しくて。ジェイドは呆けたように彼女の身体を解放した。
「おやすみなさい、ジェイド先輩。……今夜は月が綺麗ですよ」
ユウはきっかけさえあれば泣き顔に変わりそうな微笑みを浮かべながら、静かにそう言って出口へ向かった。
その細い後ろ姿を、ジェイドは呆然と見送ることしかできない。
彼女の姿が視界から消えた後も、イミテーションの海底でじっと立ち尽くすジェイドの左耳のピアスが、薄闇の中で鈍く輝いていた。
「ユウさん、やっぱりあなたは何も分かっていない。深海には………月の光は届かないんです」
マロウブルーはポットの底に沈殿し、透き通る紫だったお茶は濃度を深めて、もはや黒に近い色に変わっている。
それはまるで、地上のどんな光も届かない、深く暗い深海の色だった。
翌朝ジェイドが登校した時には、既にユウは鏡を抜けた後だった。
想いを告げることだけでなく、見送ることすら許されずに永遠に彼女を失ったことを知ったジェイドは、悲しみに暮れる者、笑い合うことで動揺を誤魔化す者、何も告げず去った彼女へ憤る者、学友たちの各々の話に張り付けた笑顔で相槌を打ちながらも、どうやって一日を過ごしたのか曖昧だった。
機械的に授業を受け、モストロラウンジでの仕事をこなし、自室に戻りベッドに横になる。
シーツの中で、考えることを手放して虚 る脳と、醒めきった冷たさが染みるような鼓動を打つ心臓、一つの身体の中で相反する働きをする臓器に向かい合うことに飽きたジェイドは、物音を立てずに寮から抜け出した。
春の夜更けの空気は人の肌のように湿り気を含み、寝静まった学園を満月の光が照らしている。
少し前まで柔らかなヴェールを彷彿させる優しい存在だった蜂蜜色の月明かりは、今のジェイドには眩しすぎるように感じた。
「bonsoir、ムッシュー・計画犯!月の美しい夜だね」
常緑樹の緑が揺れ、月に近い高さの枝葉の間から羽根帽子を乗せた金糸雀色の髪と森の色の瞳を持つ先輩が姿を現した。
神出鬼没のポムフィオーレの副寮長は優美な身のこなしからは想像出来ない強靭な筋肉を駆使して音もなく軽々と地面に着地する。
「こんばんは、ルークさん。奇遇ですね」
「ウィ。あまりにも美しい満月にいても立ってもいられなくてね!ジェイドくんも夜の散歩かい?」
「ええ、そんなところです」
遠くの方で、森に潜む動物の咆哮が聞こえる。その声に驚いた夜行性の鳥たちが翼を広げて飛び立った。木々の葉がざわめいて空気を揺らした後 、再び夜の静寂 と月明かりだけが二人を包み込む。
「トリックスター、行ってしまったね。不思議で魅力的な、月の光のように優しく周囲を照らす子だった!」
ルークの口から出た想い人の名前に、ジェイドの胸が切り裂かれたように冷える。そんな心情を勘の良いルークに悟られないよう、とっておきの張りぼての笑みを浮かべて頷いた。
「そういえば以前、彼女が素敵なことを教えてくれてね。彼女の世界では“I Love You”を“月が綺麗ですね”と詩的に翻訳するそうだ。……美しい子だったね」
強い夜風がごうごうと音を立てて森の木々の枝をしならせ、ぐらりと視界が傾斜した錯覚を覚えたジェイドは無意識に胸を押さえる。
「おっと、少し冷えてきたようだ。冷えは美容の天敵、私はそろそろ失礼するよ。春の気候は変わりやすい!ジェイドくんも夜の散歩はほどほどに。bonne nuit!」
別れの挨拶は殆どジェイドの耳には届いていなかった。
ルークが語った言葉と、彼女が最後に残した言葉が鐘のように頭に響く。
月明かりが目に痛い。湿度をなくした冷たい夜風が、いたずらに翡翠のピアスを揺らした。
ユウの温かく、微かに甘い香りが蘇る。
「……ユウさん、あなたはなんて残酷な人なんでしょう」
ジェイドの呟きは夜の闇に溶けて消えた。
彼女が開けていった、ピアスホールのように小さな穴が疼いて、膿を出す。ぽたり、ぽたりとその膿が滴る音がする。
まるで水面に広がる波紋のように一定のリズムを保って、静かに、緩やかに、狂しく。
「…フフ…はは、…っあははは…!!」
涙を流しながら、叫ぶように笑い声を上げるジェイドを、満月の光だけがいつまでも照らしていた。
ピアスホールを開ける
その感情はあまりに完全、あまりにエゴイスティックで、恥じたくなるほどだが、悲しみというのは、わたしには敬うべきものに思われるからだ。
悲しみーそれを、わたしは身にしみて感じたことがなかった。
ものうさ、後悔、ごくたまに良心の呵責。感じていたのはそんなものだけ。
でも今は、なにかが絹のようになめらかに、まとわりつくように、わたしを覆う。そうしてわたしを、人々から引き離す。
フランソワーズ・サガン 悲しみよこんにちは》
ジェイドは夜のモストロラウンジが好きだった。
閉店後、メインフロアの灯りを落としたラウンジ内はとろりとした薄闇と、磨硝子のような厚みをもった青と紫の色彩に包まれる。
開店時の喧騒が消えたひそやかな静寂の中で、時折胎児の心音のような泡音が空気をそっと震わせる。
ガラス窓の外では色鮮やかな珊瑚や深海魚たちが美しい光彩を見せつけながらゆったりと、優美に揺蕩う。
だがこれは、偽物の海の世界。
海を知らぬ人々が夢見る理想の海底。商魂逞しい幼馴染みによって作られたイミテーションの海だ。
本当の深海は文字通り地上の光が届かない深さで、暗く冷たく残酷で、だからこそ美しい。
それでもジェイドは、この書き割りのような海底のラウンジを気に入っていた。
この薄闇の青と紫の中で見る彼女が、とても綺麗だったから。
彼女、オンボロ寮の監督生であるユウは、アズールのオーバーブロット後も頻繁にオクタヴィネル寮に顔を出していた。
週末などは陸の人間の言葉を借りるなら「猫の手でも借りたい」ほど忙しく賑わうモストロラウンジに、彼女は臨時アルバイトとして通っていたのだ。
大概気まぐれな双子の片割れは激務の後の片付けを放棄して消えてしまう。営業時間内だけは文句を言いながらも働いてくれただけ上出来だろう。
良くも悪くもしたたかな同寮のスタッフ達も、人当たりの良いユウに仕事を押し付けてはそそくさと自室に上がっていく。
アズールはVIPルームに籠もって売上の集計に掛かってしまうため、必然的に締め作業はジェイドとユウの二人で行うことが多かった。
最初の頃、ジェイドがユウに対して抱いていたものは単純な好奇心だった。
魔力を持たず異世界からやってきた人間。彼女が何を思い、何を考えて過ごしているのか。
人魚でありながら自らの意思で陸で過ごす自分たちとは違う意味での異端の存在。
魔法の知識は勿論、この世界の常識すら知らない彼女は当初、見ていて不憫なほど動揺、そして混乱していた。
向こう見ずな魔獣に振り回され慌てる姿を何度も見かけた。
人当たりがよく、控え目で、非主体的。
多少の嘲りを含んだ憐れみと共に、ジェイドはユウをそう評価した。
だがアズールのオーバーブロットに対峙した際の大胆不敵な行動や、ラウンジでの働きぶりを見ているうちに、ジェイドが下したユウへの印象は少しずつ変化していった。
確かに控え目だが、実はよく人を観察していて、時折どきりとするほど核心を突く。
けれども、基本的に人が触れてほしくない領域、触れてほしい領域、欲しくない言葉、欲しい言葉を理解し、程よい距離感で誰とでも付き合っているようだった。
魔力がないということと、破天荒な相棒の言動が目立つため落ちこぼれの問題児のような印象を持ってしまいがちだが、彼女は周りが思っているより賢く聡いということをジェイドは知った。
好奇心の形が少しずつ変化する。
ある日、締め作業を終えた後にジェイドはユウを紅茶に誘った。なんとなく、彼女と二人で話してみたいと思ったのだ。
最初こそ「対価は……」と警戒していたユウだったが、ジェイドが紅茶の新しいブレンドの試飲をお願いしたいと告げると徐々に緊張を緩め、柔らかな声で笑いながら他愛もない話をした。
海と陸の暮らしの違いに目を丸め、アズールとフロイドとの幼少期のエピソードに手を叩いて笑う。
ユウと過ごす時間、ジェイドは柔らかな月の光に照らされたような心地がした。
それが不思議で、その心地良さの正体が知りたくて、ジェイドは頻繁にユウをお茶に誘った。
そんな日々を繰り返すうち、ユウの方もすっかりジェイドに慣れたようで授業のノートを持ってきて質問をしたり、お茶請けにと菓子を焼いてくることもあった。
廊下ですれ違えば「ジェイド先輩!」と鈴の鳴るような声で自分の名を呼び手を振る姿に充足感を覚え、級友たちと笑い合っている姿を見ればちくりと胸に刺されたような痛みが走る。
夜のモストロラウンジの薄闇と青と紫の下で笑うユウと向き合っていると、慣れたはずの肺呼吸が上手く出来なくなる瞬間がある。
自分のその感情を、恋だと認めるのに時間はかからなかった。
自分が心から欲するものが出来たとき、きっと船乗りを惑わすセイレーンのように狡猾に、そして確実に忍び寄り、相手が気付いたときにはもう自らの手中に収まっているようなやり方をするのだろうと漠然と思っていた。
だが実際は。
入り江に上がり、手の届かない王子を月明かりに焦がれながら密やかに想い見守る有名な童話の人魚の其れだった。
無理やり自らのものにするのではなく、彼女自身に自分を選んでほしい。
恋を知って、純真な少年のような切望を持て余していることを幼馴染みや双子の片割れが知ったらきっと慄くだろうと想像すると、ジェイドはなんだか可笑しくなって一人でクスクスと笑った。
ひっそりと穏やかに二人で過ごす時間の
ジェイドがユウの名前を呼べば、嬉しそうな表情で振り向く。なにかの拍子にジェイドの指が彼女の指と触れれば慌てて手を引き、笑顔を見つめれば頬を赤らめて瞳を逸らす。
彼女もきっと、自分に恋心を抱いているのだろうと言う確信はあった。
だけれど。
このイミテーションの海底で過ごす、彼女との名前のない関係の揺蕩うような時間が心地良くて。もう少しだけ、このままで。
焦らなくともまだ時間はたっぷりある。ジェイドは、ユウとのこの日常がいつまでも続くような気がしていたのだ。
そろそろ寮に戻ろうと立ち上がると同時にラウンジの扉が小さくノックされた。
「ジェイド先輩、いらっしゃいますか?」
「おやおや、ユウさん。どうなさいました?」
「夜分にすみません。今少しだけ、お時間いただいていいですか?」
「ユウさんから訪ねて下さるなんて珍しいですね。光栄ですよ」
ソファに座るように促せば、ジェイドの隣にそっと腰掛けるユウ。
初めの頃は向かい合う形で座っていた。この小さな変化すらジェイドの心を淡く擽る。
「課題で何か分からないことでも?いま、お茶を淹れますね」
「いえ、お構いなく……!」
「僕の時間を差し上げる代わりに、新しい茶葉の試飲をお願いします。対価ですよ」
「…分かりました。ジェイド先輩ってそういうところ、優しいですよね。皆分かっていないけれど」
「おや、なんのことやら」
あなただけにですよと心の中で笑いながら、ジェイドはガラスのポットを温めた。
からからに乾いた花をポットに入れ、お湯を注ぐ。
蒸らされた花びらが、熱湯を透き通った青色に染めていく。月明かりに照らされた入り江のような色。
「綺麗…ハーブティーですか?」
「ええ、マロウブルーというハーブです」
ポットと揃いのガラスのカップに青いお茶を注いでユウに渡す。
「癖がなくて飲みやすいですね。美味しいです。」
「マロウブルーは粘膜を保護する働きもあるので喉が痛むときによく飲まれたそうですよ。少し味気ないので、ラウンジで提供する際には水出しにしてフレッシュジュースで割れば見た目も味も楽しめるかと。さあ、おかわりをどうぞ」
「あ!色が……」
空になったカップに再び注がれたお茶は、入り江の青から淡く澄んだ紫に変化していた。夜明け前、夜と朝の隙間の儚い光に照らされた海の
「マロウブルーだけでなくハーブ全般は熱湯によって徐々に濃度が変化するんです。色が変わっているように見えますが、単に濃くなっているだけなんですよ。ちなみにここにレモン果汁を垂らせば、青色色素のアントシアニンがアルカリ性から酸性に傾いて、ピンク色に変化します」
「魔法みたい。……それに、さっきの青とこの紫、夜のモストロラウンジの色ですね」
「ええ、その通りです」
ラウンジで提供する、というのはジェイドの嘘だ。
ミステリーショップに並ぶこの茶葉を見たとき、彼女と過ごす夜のモストロラウンジの色彩と空気が脳裏をよぎり、ユウのためだけに購入したものだった。
ほの暗い海底の光にカップをかざして柔らかく微笑みながら淡い紫のお茶を眺めるユウに、ジェイドの口角が自然に上がる。
夜のモストロラウンジで見る彼女はやはり美しかった。
この揺蕩うような時間と、月の光のような笑みは、自分だけのもの。二人だけの、心地良いひととき。
「先輩」
ガラスとガラスが擦れる小さな音を立ててカップをソーサーに戻したユウが、ジェイドの顔を真正面から見つめた。
彼女の睫毛に、薄青の影が差す。こぽり、と窓の外で深海魚が小さく泡を吐き出した。
「ジェイド先輩、私帰ることになりました。元の世界へ」
一瞬。
ジェイドの世界から音が消えた。
ユウの発した声が、耳を通り脳に到達しても、その言葉の意味を理解する前に蒸発してしまったかのように。
「……は?」
「帰る方法が見つかったんです。ジェイド先輩には、特別お世話になったから先にお話しようと思って…。美味しい紅茶ご馳走になったり、課題を見ていただいたり、本当にありがとうございました。ジェイド先輩に沢山助けられました」
「な……帰る……?ユウさんが……?……帰りたい、のですか…?」
思考が追いつかないジェイドに、ユウが言葉を重ねていく。
ジェイドが声帯から絞り出したテノールは、情けないほどに掠れていた。視界の片隅で、深海魚が鮮やかな尾鰭を翻す。まるで放心するジェイドを嘲笑うかのように。心地良いものだった筈の水中音が嫌に耳につく。
「帰りたい、帰りたくないの問題じゃないと思うんです。このティーカップが食器棚にしまわれるみたいに、私も在るべき場所に収まるだけ」
ティーカップを指で弾き、微笑みを浮かべながら淡々と言葉を紡ぐユウに反して、ジェイドの胸の中では苛立ちが渦のようにうねりを上げていた。
「あなたは…僕が……そうですか、今までありがとうございました、お元気でと笑顔で言う男だと思っているんですか…?あなたが居なくなった後、あなたと出会う前の生活に何事もなかったように戻ると?!」
苛立ちに震える掌でユウの肩を掴む。
少しの力を込めれば簡単に折れてバラバラになってしまいそうな華奢な身体。目の前に確かに存在しているその身体が、自分の前から去ろうとしている。
大切に、壊さないように、やがて彼女から身を委ねてくれるようにと願っていた存在が。
その事実を、ジェイドの心は駄々をこねる子供のように拒絶していた。
「僕はそんなことは受け入れられません。ええ、絶対に。どうしてっ……そんなの……どうしてあなたは…笑っているんですか……」
掠れた声が徐々に萎んでいき、自らの苛立ちと動揺を受け止めることも、思うままユウにぶつけることも出来ず頭を垂れたジェイドの頬を、耳から落ちたターコイズと黒曜石色の髪が撫でる。
「ジェイド先輩……」
ユウの指がジェイドのピアスが下がる耳たぶに触れた。
温かく、微かに甘い香りがする。
彼女の香りが感じられるほど近くに寄ったのは、今日が初めてだと気付く。
甘い香りは溶けるようにジェイドの鼻梁を抜けていった。
「私が居なくなった後に感じる喪失感は、ピアスホールみたいなものだと思います。ピアスをしていない穴は、最初はすーすーして心許ないかもしれません。でも次第に気にならなくなって、そこに穴が開いていたことを忘れる頃には綺麗に塞がる穴です」
「…ピアスホール、ですって?」
「はい。…だから、そんな顔しないでください。すぐに…」
「あなたは何も分かってません…!!」
ユウの言葉を遮って、ジェイドは再び肩を掴んだ掌に力を入れた。
彼女の制服に皺が寄り、ジェイドの指先が彼女の柔らかい身体に縋るように食い込んでいく。
「ピアスホールですって?ユウさん、あなたは何も分かっていません…。その穴は放っておいても塞がらない。膿が出て、徐々に腐って広がっていく…僕は……あなたのことがっ……」
「先輩!!」
ユウは切実な悲鳴に近い声をあげてジェイドの言葉を遮るように立ち上がり背を向けた。
明確な拒絶に、ジェイドの心はますます苛立ち、揺れ、そして藻掻いた。動揺と衝撃と焦燥感が入り乱れて身体の奥底から溢れていく。
ジェイドはユウの正面に回ると、彼女の顎を掴み、ヘテロクロミアのうち
彼特有の力で、ユウが隠す本心を引き出そうと。二人で過ごした時間に確信を持って感じた、彼女の自分への想いを暴こうと。
だがユウの顔を見た瞬間、彼女の身体を捉えたジェイドの掌から沈むように力が抜けた。
薄闇の青と紫の色彩の中で、彼女は今にも泣き出しそうな、儚い諦めに染まった顔をしていた。
その姿があまりにも切なくて美しくて。ジェイドは呆けたように彼女の身体を解放した。
「おやすみなさい、ジェイド先輩。……今夜は月が綺麗ですよ」
ユウはきっかけさえあれば泣き顔に変わりそうな微笑みを浮かべながら、静かにそう言って出口へ向かった。
その細い後ろ姿を、ジェイドは呆然と見送ることしかできない。
彼女の姿が視界から消えた後も、イミテーションの海底でじっと立ち尽くすジェイドの左耳のピアスが、薄闇の中で鈍く輝いていた。
「ユウさん、やっぱりあなたは何も分かっていない。深海には………月の光は届かないんです」
マロウブルーはポットの底に沈殿し、透き通る紫だったお茶は濃度を深めて、もはや黒に近い色に変わっている。
それはまるで、地上のどんな光も届かない、深く暗い深海の色だった。
翌朝ジェイドが登校した時には、既にユウは鏡を抜けた後だった。
想いを告げることだけでなく、見送ることすら許されずに永遠に彼女を失ったことを知ったジェイドは、悲しみに暮れる者、笑い合うことで動揺を誤魔化す者、何も告げず去った彼女へ憤る者、学友たちの各々の話に張り付けた笑顔で相槌を打ちながらも、どうやって一日を過ごしたのか曖昧だった。
機械的に授業を受け、モストロラウンジでの仕事をこなし、自室に戻りベッドに横になる。
シーツの中で、考えることを手放して
春の夜更けの空気は人の肌のように湿り気を含み、寝静まった学園を満月の光が照らしている。
少し前まで柔らかなヴェールを彷彿させる優しい存在だった蜂蜜色の月明かりは、今のジェイドには眩しすぎるように感じた。
「bonsoir、ムッシュー・計画犯!月の美しい夜だね」
常緑樹の緑が揺れ、月に近い高さの枝葉の間から羽根帽子を乗せた金糸雀色の髪と森の色の瞳を持つ先輩が姿を現した。
神出鬼没のポムフィオーレの副寮長は優美な身のこなしからは想像出来ない強靭な筋肉を駆使して音もなく軽々と地面に着地する。
「こんばんは、ルークさん。奇遇ですね」
「ウィ。あまりにも美しい満月にいても立ってもいられなくてね!ジェイドくんも夜の散歩かい?」
「ええ、そんなところです」
遠くの方で、森に潜む動物の咆哮が聞こえる。その声に驚いた夜行性の鳥たちが翼を広げて飛び立った。木々の葉がざわめいて空気を揺らした
「トリックスター、行ってしまったね。不思議で魅力的な、月の光のように優しく周囲を照らす子だった!」
ルークの口から出た想い人の名前に、ジェイドの胸が切り裂かれたように冷える。そんな心情を勘の良いルークに悟られないよう、とっておきの張りぼての笑みを浮かべて頷いた。
「そういえば以前、彼女が素敵なことを教えてくれてね。彼女の世界では“I Love You”を“月が綺麗ですね”と詩的に翻訳するそうだ。……美しい子だったね」
強い夜風がごうごうと音を立てて森の木々の枝をしならせ、ぐらりと視界が傾斜した錯覚を覚えたジェイドは無意識に胸を押さえる。
「おっと、少し冷えてきたようだ。冷えは美容の天敵、私はそろそろ失礼するよ。春の気候は変わりやすい!ジェイドくんも夜の散歩はほどほどに。bonne nuit!」
別れの挨拶は殆どジェイドの耳には届いていなかった。
ルークが語った言葉と、彼女が最後に残した言葉が鐘のように頭に響く。
月明かりが目に痛い。湿度をなくした冷たい夜風が、いたずらに翡翠のピアスを揺らした。
ユウの温かく、微かに甘い香りが蘇る。
「……ユウさん、あなたはなんて残酷な人なんでしょう」
ジェイドの呟きは夜の闇に溶けて消えた。
彼女が開けていった、ピアスホールのように小さな穴が疼いて、膿を出す。ぽたり、ぽたりとその膿が滴る音がする。
まるで水面に広がる波紋のように一定のリズムを保って、静かに、緩やかに、狂しく。
「…フフ…はは、…っあははは…!!」
涙を流しながら、叫ぶように笑い声を上げるジェイドを、満月の光だけがいつまでも照らしていた。
ピアスホールを開ける
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