Egoistic Cadenza
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ささやき声のようなノイズと共に蓄音機から流れる管弦楽。
店の外に燦々と降り注ぐ朗らかな春の陽射しは、ダイヤ形にカットされた色硝子が嵌め込まれた窓を通る際に彩度を落とし。天井からぶら下がるランタンを模した照明の橙色のほの暗い光と混じり合ってゆったりと空気に溶けていく。
君の仕事場と私の仕事場のちょうど真ん中に位置するこのカフェ。ここで君を待つのは、もう何度目だろう。
私は瞼を閉じる。
陽光を琥珀に閉じ込めたような空気にダージリンの芳しい香りが漂う。ここで出される紅茶はどれも美味だ。初めて君をここに連れてきたとき。濃く煮出して蜂蜜を加えたロイヤルミルクティーを口に含んだ君はその味に目を丸くして喜んでいたね。トリックスター、君の笑顔は天鵞絨の夜に輝くどの星々よりも私には眩しい。
カフェの入口にかけられた小さなベルの音が鳴って、頬をかすかな冷たさを纏った風がやわく撫でた。その風は冬の名残りの透明な香りと、芽吹き始めた緑の瑞々しい香りを含んでいる。その風の気配がやはり琥珀に閉じ込められたのち、チューベローズとホワイトミルラの清らかでありながらどこか艶めかしい香りがゆっくりと近付いてくる。
重厚なヴァイオリンの調べとユニゾンを奏でていた細い踵の靴音が、やがてリットし、瞼を閉じたままの私のすぐ傍で止まった。繊細で神秘的な香水の匂いはいよいよ濃く芳しい。私が彼女のために調香した、世界に一つだけの匂い水。
「お待たせしてしまってすみません、ルーク先輩。」
「ノン。謝らないでおくれ。君を待つこの時間が好きで、私はいつもあえて早く来ているのだからね」
「ふふ、相変わらずですね」
君は小さく笑って私の目の前の椅子に座った。すっかり顔馴染みになったウェイトレスにメニューを開くことなくロイヤルミルクティーを注文し、春風に乱れた艷やかな髪を耳にかけた君は、髪と揃いの深い色の瞳を伏せて蓄音機から流れる旋律に耳を傾ける。
今日の君はシンプルな黒のワンピース姿。襟元に繊細に編まれたアンティーク風のレースの小さな襟がついていて、君の慎ましく楚々とした美しさを引き立てていた。
私たちの懐かしい学び舎を卒業した後、小さな美術館の受付で働き始めた君。静寂と様々な色、形が整然と並ぶその場所の空気を乱さないような、控えめな装いが常だ。けれども、綻ぶのを待つ花のような唇だけはさり気なく、けれどもはっと目を惹きつけられるように美しく、丁寧に色が塗られている。
今日の花びらは、瑞々しい果実のようなチェリーレッド。シンプルな装いに馴染むマットな質感のそのルージュも、私が君に贈ったもの。
「仕事は慣れたかい?」
「お陰さまで。元々魔力の有無は問わないという募集条件でしたから難しいことは特になくて。時おりロッカーや図録の販売場所を尋ねられる以外はいつも静かに座っているだけなんです」
「君は働き始めてから、その静寂をヴェールのようにまとっているような気がするよ。美術館の、ほんの少し張り詰めたような、凛とした、何物にも冒せない独特の静けさを」
「それは良いこと?」
「ああ、そんな君はとても美しい。カレッジにいた頃から、君は朗らかで人に囲まれていたけれど、時おりその漆黒の瞳に静寂の膜が張るのを見ると、私はそのひそやかな美に胸を震わせたものだよ、トリックスター」
私の言葉に君は微笑みを浮かべて、運ばれてきたティーカップを細い指で持ち上げた。
小さな爪を彩る淡く薄いコーラルレッド。これも清潔感がある長さ、華美な色でなければネイルが許されると聞いた私が就職のお祝いに君に贈ったポリッシュ。
私は学生時代から、君に夢中だった。
気付けば君の姿を追い、君の笑顔を見せてほしくて贈り物をしたり、賛美の言葉をかけたり、休みのたびに夜の森や劇場や音楽会に誘う私を寮長であり友人であった麗しのヴィルは呆れて叱ったけれど。
君はいつでも少しだけ困ったように眉を下げながら、微笑んで私の誘いを受けていてくれた。
君が私の名前を呼ぶと、狩りの瞬間の熱さにもにた昂りが心臓を揺らし、それを誤魔化すために羽根帽子に手を掛ける癖がついてしまったものさ。
獲物を決めたのなら、慎重に。焦ってはならない。これは狩りの基本であり鉄則だ。カレッジ時代、そして卒業後も、私は大いなる自制心と忍耐を持って、少しずつ君との信頼と友愛を築いてきたと思う。
けれど。前奏曲 は今日で終わりだ。
ねえトリックスター。
これから君に愛を告げたら、君はまた眉を下げて、微笑みと共に頷いてくれるだろうか?
「トリックスター。今日は君に、大事な話があるんだ」
「大事な話…」
「ああ。聞いてくれるかい?」
「もちろんです」
カップをソーサーに戻し、真っ直ぐに私を見つめる君。
漆黒のワンピースに身を包んだ君の背後の壁には、天井まで届くほど巨大な長窓が嵌め込まれている。磨硝子の両脇にはヴェルヴェットのカーテンが金糸のタッセルで留められている。額縁のように垂らされた深紅の布の中心で、君は肖像画のように背筋を伸ばして微笑んだ。
─やはり君は美しい。
「トリックスター。私は、君を愛している。どうか私の恋人になってくれないだろうか?」
私の言葉に、君は小さく息を呑んだようだった。そして真っ直ぐに私を見つめていた黒目がちの瞳が伏せられて、なにかを諦めるかのような、悲しげな、そして慈しむような優しげな膜がうっすらと揺れる。
私は君の感情が読めずに、黙って蓄音機の旋律を聞いた。
この弾き手は、あまり私の好みではない。技巧は申し分ないけれど、どこか陶酔的で聴いている者が音の世界に入り込む余地がない。歌い上げれば上げるほど、弾き手と聞き手の距離が深まっていくような。
「ルーク先輩」
卒業してからも、先輩とつける癖をなかなか直せない君が私の名前を呼ぶ。
ざわりと冷めさせるような音色から意識を離して、私は君と向き合った。
君は微笑んでいた。どこまでも優しく、子供に言い聞かせる母親のようにやわらかく瞳を細めて。
「カレッジに在学中は、結局元の世界に帰る方法が見つかりませんでした。こうして、この世界で就職してからも、学園長に協力してもらってずっと帰る方法を探してはいたのですが…どうにも八方塞がりで。…だから私は、もうこれからずっと、この世界で生きていくことを決めたんです」
君の瞳は凪のような穏やかさを湛えていた。
少しだけ低めの、艶を含んだ滑らかな声が語る言葉は愛の告白に対する答えからは遠いものだったけれど、私は黙って頷きだけで先を促す。
チェリーレッドの花びらは、迷うことも揺らぐこともせずに言葉を紡いだ。
「ルーク先輩には学生時代から本当に良くしていただきました。勉強を教えていただいたり、美しいものを見せに連れ出してくださったり、贈り物もたくさん」
そう言って君は珊瑚の色の爪をそっと撫でた。
橙色の照明の下で、その色は鈍く瞬く。
「先輩が私を美しいと言ってくださること、とても嬉しかったです。贈ってくださるものは自分でも思わず見惚れてしまうくらい私にしっくりと馴染む色ばかりでしたし、先輩が君に見せたかったんだと仰って見せてくれるものを見る度に、私の瞳まで、綺麗で上質な光を纏ったような気分になって」
「先輩の瞳に映る私はどんな姿をしているのだろう?どうして平凡な私をこんなに美しいって言ってくださるのだろう?そんなことをずっと考えていました。物事の本質を見極めるには、まずは観察だって先輩はよく仰っていましたよね。だから私は、先輩の見ている世界を知るために先輩を観察しました」
君はここで言葉を切って、小さく息を吐いた。
体温にあたためられたチューベローズとホワイトミルラの香りが立ち昇る。君の肌に染み込んだ、甘やかな香り。
「そして気付きました。先輩が私に見出していた美。…それは、この世界で生きながらこの世界に馴染めず、異端の異分子として不安と諦観を抱えて曖昧なバランスで生きていた私なんです」
「私はいつも心許なかった。戻るべき港を失った船のように、いつも漠然とした孤独と不安と諦めを抱えて漂うように生きていました。友人たちと笑い合っても、素敵な贈り物に胸をときめかせても。ふとした瞬間にその霧のような孤独と諦観が私の心の色を消してしまうんです。私がふるさとを想い続ける限り。先輩は、そんな私を美しいと言っていた。そして、陰りを抱えた私を彩るのにぴったりの色たちを贈っていたんです」
「トリックスター、私は……」
違う、そうではない。という言葉を口にすることは出来なかった。
学び舎で君を追った日々。思い出す印象的な君の姿は、確かに深い陰りと諦観を纏ったものだったではないだろうか。否定しなければと焦る心とは別の場所で、乾いたような微笑みを浮かべた私自身がそっと囁く気がした。お前は彼女の哀しみに惹かれていたのだよ、と。
哀しみと諦観を内包する汚れなき少女という存在に惹かれ、賛美し、己の思うがままにその哀しみの美を搾取していたのさ。彼女はそれに気付いたとき、どう思っただろう。そして気付いてからも笑顔でそれを享受してくれていた彼女の心はどんなに傷付いただろう。
ねえ、お前はどこまでも愚かな狩人。自分が見たい形でしか、獲物を見ていなかったということさ。
囁きは私の頭の中で共鳴し、広がっていく。
気付けば頭を垂れていた私は君を見上げた。君の瞳には、慈愛に満ちた諦めがしっとりと滲んでいた。利己的な恋に恋して、それを突きつけられて厚顔無恥にも傷付いている狩人へのやさしい憐憫。
─私はやはり、そんな君を美しいと思ってしまう。
「学校を卒業してから、この世界で魔力を持たずに生活している人たちとの関わりが増えました。その人たちとの交流の中で、私は少しずつ決心していたんです。もう元の世界に帰る方法は見つからなそうですし、それなら、この世界で生きていくしかないって。例え今後、仮に帰る方法が見つかったとしても、私は帰りません」
「ねえ、先輩。私は諦めと哀しみを手放したんです。だからもう、あなたが美しいといった私はいない。あなたの見ていた私は消えてしまいました。……だから。先輩の気持ちには応えられません」
「トリックスター……」
「いいえ。もう、私はトリックスターではなくなってしまったんです」
君はもう一度珊瑚の爪に触れて。そして音もなく席を立った。
─あなたの美しいカンバスの中で生きられなくてごめんなさい。
その言葉は琥珀色の空気を揺らして、滲むように消える。
私は、去っていく君の背中を黙って見送るしか出来ない。
真っ直ぐに伸びた背中は、そこから輝かしい翼が生えていてもおかしくないくらい凛としていた。
一度君は立ち止まり、顔を横に向けた。何か言葉を探して、そして思いとどまったかのように、チェリーレッドの唇をコーラルレッドの指先で撫でて再び歩き出す。
君は諦めを手放したと、そう言ったね。
けれどそれは間違いだ。君はこの先もずっと、諦観の人で在り続ける。君のいた世界に、君のいる世界に、世界を諦め、世界に順応する君自身に、そして君を取り巻く人々に。君はこれからも諦め続けながら、その翼を持つ背中を伸ばして生きていくのだろう。
君のそういう、諦観からつくられた強さに、今この瞬間も私の心臓は卑しいほどにぞくぞくと高鳴っている。そんな私の本質にも君は私より早く気付いて、諦めて、微笑んでいた。
思えば、ルージュやポリッシュだけでなく君への贈り物はみんな赤から派生した色のものだった。
香水瓶に結んだヴァーミリオンのリボン。小さなガーネットのネックレス。スカーレットのハンカチ。
赤は、その鮮やかさ輝かしさに負けない強い意志を持った人しか纏えない。赤は毒性の美を持つ色。そう言ったのもヴィルだったか。
私はもしかしたら、君の諦観と孤独の奥底に潜んだ、残酷なまでに気高く凛とした心を本能的に感じ取り、その心に相応しい[[rb:色 > あか]]を手に取っていたのかもしれない。
─けれど。何もかも、もう遅い。
背もたれに背中を預けて、瞼を閉じる。
ヴァイオリンの旋律に耳をすませる。やはり、この弾き手は私の好みではない。曲の終盤。ヴァイオリンはカデンツァをうたっていた。
くどいポルタメントに、見せつけるようなトリル。弾き手が情感を込めれば込めるほど、聞き手は置いてきぼりだ。伴奏を伴わないカデンツァだからこそ余計に、自己陶酔が顕著に表れる。
独りよがりな調べ。まるで、私のようじゃないか。
瞼の裏の闇と、ノイズ混じりの旋律だけだった世界にふと芳しい花の香りがかすかに漂うのを感じた。
私が君に贈った沢山の赤い贈り物。君は笑顔でそれらを受け取って、身に纏っていたけれど。決して私という存在が君の中に爪痕を残すことはなかった。だって私が見ていた君は私が創り出した利己的な偶像。君がやさしさを持って与えてくれていた幻影だったのだから。
君の中に私は残らない。そして私のもとにはチューベローズとホワイトミルラの残り香だけがいつまでも。
そっと瞼を上げる。
飾るべき君を失った、額縁のような深紅のカーテンは、よく見れば埃がつもり、裾はほつれて細かな黴が散っている。
─ああ、それでも。今の私にはこの赤が、痛くて、眩しい。
すっかり冷めてしまったダージリンは苦みと共に喉を滑り落ちる。片面の再生を終えた蓄音機が奏でるのは、ジジジと虫の羽音のような振動音だけ。
深紅のカーテンの輪郭が、滲んで見える。
消えゆく残り香を抱き寄せるように私はまた瞼を閉じて。どこまでもエゴイスティックな熱い滴が、頬を伝うに任せた。
fin.
店の外に燦々と降り注ぐ朗らかな春の陽射しは、ダイヤ形にカットされた色硝子が嵌め込まれた窓を通る際に彩度を落とし。天井からぶら下がるランタンを模した照明の橙色のほの暗い光と混じり合ってゆったりと空気に溶けていく。
君の仕事場と私の仕事場のちょうど真ん中に位置するこのカフェ。ここで君を待つのは、もう何度目だろう。
私は瞼を閉じる。
陽光を琥珀に閉じ込めたような空気にダージリンの芳しい香りが漂う。ここで出される紅茶はどれも美味だ。初めて君をここに連れてきたとき。濃く煮出して蜂蜜を加えたロイヤルミルクティーを口に含んだ君はその味に目を丸くして喜んでいたね。トリックスター、君の笑顔は天鵞絨の夜に輝くどの星々よりも私には眩しい。
カフェの入口にかけられた小さなベルの音が鳴って、頬をかすかな冷たさを纏った風がやわく撫でた。その風は冬の名残りの透明な香りと、芽吹き始めた緑の瑞々しい香りを含んでいる。その風の気配がやはり琥珀に閉じ込められたのち、チューベローズとホワイトミルラの清らかでありながらどこか艶めかしい香りがゆっくりと近付いてくる。
重厚なヴァイオリンの調べとユニゾンを奏でていた細い踵の靴音が、やがてリットし、瞼を閉じたままの私のすぐ傍で止まった。繊細で神秘的な香水の匂いはいよいよ濃く芳しい。私が彼女のために調香した、世界に一つだけの匂い水。
「お待たせしてしまってすみません、ルーク先輩。」
「ノン。謝らないでおくれ。君を待つこの時間が好きで、私はいつもあえて早く来ているのだからね」
「ふふ、相変わらずですね」
君は小さく笑って私の目の前の椅子に座った。すっかり顔馴染みになったウェイトレスにメニューを開くことなくロイヤルミルクティーを注文し、春風に乱れた艷やかな髪を耳にかけた君は、髪と揃いの深い色の瞳を伏せて蓄音機から流れる旋律に耳を傾ける。
今日の君はシンプルな黒のワンピース姿。襟元に繊細に編まれたアンティーク風のレースの小さな襟がついていて、君の慎ましく楚々とした美しさを引き立てていた。
私たちの懐かしい学び舎を卒業した後、小さな美術館の受付で働き始めた君。静寂と様々な色、形が整然と並ぶその場所の空気を乱さないような、控えめな装いが常だ。けれども、綻ぶのを待つ花のような唇だけはさり気なく、けれどもはっと目を惹きつけられるように美しく、丁寧に色が塗られている。
今日の花びらは、瑞々しい果実のようなチェリーレッド。シンプルな装いに馴染むマットな質感のそのルージュも、私が君に贈ったもの。
「仕事は慣れたかい?」
「お陰さまで。元々魔力の有無は問わないという募集条件でしたから難しいことは特になくて。時おりロッカーや図録の販売場所を尋ねられる以外はいつも静かに座っているだけなんです」
「君は働き始めてから、その静寂をヴェールのようにまとっているような気がするよ。美術館の、ほんの少し張り詰めたような、凛とした、何物にも冒せない独特の静けさを」
「それは良いこと?」
「ああ、そんな君はとても美しい。カレッジにいた頃から、君は朗らかで人に囲まれていたけれど、時おりその漆黒の瞳に静寂の膜が張るのを見ると、私はそのひそやかな美に胸を震わせたものだよ、トリックスター」
私の言葉に君は微笑みを浮かべて、運ばれてきたティーカップを細い指で持ち上げた。
小さな爪を彩る淡く薄いコーラルレッド。これも清潔感がある長さ、華美な色でなければネイルが許されると聞いた私が就職のお祝いに君に贈ったポリッシュ。
私は学生時代から、君に夢中だった。
気付けば君の姿を追い、君の笑顔を見せてほしくて贈り物をしたり、賛美の言葉をかけたり、休みのたびに夜の森や劇場や音楽会に誘う私を寮長であり友人であった麗しのヴィルは呆れて叱ったけれど。
君はいつでも少しだけ困ったように眉を下げながら、微笑んで私の誘いを受けていてくれた。
君が私の名前を呼ぶと、狩りの瞬間の熱さにもにた昂りが心臓を揺らし、それを誤魔化すために羽根帽子に手を掛ける癖がついてしまったものさ。
獲物を決めたのなら、慎重に。焦ってはならない。これは狩りの基本であり鉄則だ。カレッジ時代、そして卒業後も、私は大いなる自制心と忍耐を持って、少しずつ君との信頼と友愛を築いてきたと思う。
けれど。
ねえトリックスター。
これから君に愛を告げたら、君はまた眉を下げて、微笑みと共に頷いてくれるだろうか?
「トリックスター。今日は君に、大事な話があるんだ」
「大事な話…」
「ああ。聞いてくれるかい?」
「もちろんです」
カップをソーサーに戻し、真っ直ぐに私を見つめる君。
漆黒のワンピースに身を包んだ君の背後の壁には、天井まで届くほど巨大な長窓が嵌め込まれている。磨硝子の両脇にはヴェルヴェットのカーテンが金糸のタッセルで留められている。額縁のように垂らされた深紅の布の中心で、君は肖像画のように背筋を伸ばして微笑んだ。
─やはり君は美しい。
「トリックスター。私は、君を愛している。どうか私の恋人になってくれないだろうか?」
私の言葉に、君は小さく息を呑んだようだった。そして真っ直ぐに私を見つめていた黒目がちの瞳が伏せられて、なにかを諦めるかのような、悲しげな、そして慈しむような優しげな膜がうっすらと揺れる。
私は君の感情が読めずに、黙って蓄音機の旋律を聞いた。
この弾き手は、あまり私の好みではない。技巧は申し分ないけれど、どこか陶酔的で聴いている者が音の世界に入り込む余地がない。歌い上げれば上げるほど、弾き手と聞き手の距離が深まっていくような。
「ルーク先輩」
卒業してからも、先輩とつける癖をなかなか直せない君が私の名前を呼ぶ。
ざわりと冷めさせるような音色から意識を離して、私は君と向き合った。
君は微笑んでいた。どこまでも優しく、子供に言い聞かせる母親のようにやわらかく瞳を細めて。
「カレッジに在学中は、結局元の世界に帰る方法が見つかりませんでした。こうして、この世界で就職してからも、学園長に協力してもらってずっと帰る方法を探してはいたのですが…どうにも八方塞がりで。…だから私は、もうこれからずっと、この世界で生きていくことを決めたんです」
君の瞳は凪のような穏やかさを湛えていた。
少しだけ低めの、艶を含んだ滑らかな声が語る言葉は愛の告白に対する答えからは遠いものだったけれど、私は黙って頷きだけで先を促す。
チェリーレッドの花びらは、迷うことも揺らぐこともせずに言葉を紡いだ。
「ルーク先輩には学生時代から本当に良くしていただきました。勉強を教えていただいたり、美しいものを見せに連れ出してくださったり、贈り物もたくさん」
そう言って君は珊瑚の色の爪をそっと撫でた。
橙色の照明の下で、その色は鈍く瞬く。
「先輩が私を美しいと言ってくださること、とても嬉しかったです。贈ってくださるものは自分でも思わず見惚れてしまうくらい私にしっくりと馴染む色ばかりでしたし、先輩が君に見せたかったんだと仰って見せてくれるものを見る度に、私の瞳まで、綺麗で上質な光を纏ったような気分になって」
「先輩の瞳に映る私はどんな姿をしているのだろう?どうして平凡な私をこんなに美しいって言ってくださるのだろう?そんなことをずっと考えていました。物事の本質を見極めるには、まずは観察だって先輩はよく仰っていましたよね。だから私は、先輩の見ている世界を知るために先輩を観察しました」
君はここで言葉を切って、小さく息を吐いた。
体温にあたためられたチューベローズとホワイトミルラの香りが立ち昇る。君の肌に染み込んだ、甘やかな香り。
「そして気付きました。先輩が私に見出していた美。…それは、この世界で生きながらこの世界に馴染めず、異端の異分子として不安と諦観を抱えて曖昧なバランスで生きていた私なんです」
「私はいつも心許なかった。戻るべき港を失った船のように、いつも漠然とした孤独と不安と諦めを抱えて漂うように生きていました。友人たちと笑い合っても、素敵な贈り物に胸をときめかせても。ふとした瞬間にその霧のような孤独と諦観が私の心の色を消してしまうんです。私がふるさとを想い続ける限り。先輩は、そんな私を美しいと言っていた。そして、陰りを抱えた私を彩るのにぴったりの色たちを贈っていたんです」
「トリックスター、私は……」
違う、そうではない。という言葉を口にすることは出来なかった。
学び舎で君を追った日々。思い出す印象的な君の姿は、確かに深い陰りと諦観を纏ったものだったではないだろうか。否定しなければと焦る心とは別の場所で、乾いたような微笑みを浮かべた私自身がそっと囁く気がした。お前は彼女の哀しみに惹かれていたのだよ、と。
哀しみと諦観を内包する汚れなき少女という存在に惹かれ、賛美し、己の思うがままにその哀しみの美を搾取していたのさ。彼女はそれに気付いたとき、どう思っただろう。そして気付いてからも笑顔でそれを享受してくれていた彼女の心はどんなに傷付いただろう。
ねえ、お前はどこまでも愚かな狩人。自分が見たい形でしか、獲物を見ていなかったということさ。
囁きは私の頭の中で共鳴し、広がっていく。
気付けば頭を垂れていた私は君を見上げた。君の瞳には、慈愛に満ちた諦めがしっとりと滲んでいた。利己的な恋に恋して、それを突きつけられて厚顔無恥にも傷付いている狩人へのやさしい憐憫。
─私はやはり、そんな君を美しいと思ってしまう。
「学校を卒業してから、この世界で魔力を持たずに生活している人たちとの関わりが増えました。その人たちとの交流の中で、私は少しずつ決心していたんです。もう元の世界に帰る方法は見つからなそうですし、それなら、この世界で生きていくしかないって。例え今後、仮に帰る方法が見つかったとしても、私は帰りません」
「ねえ、先輩。私は諦めと哀しみを手放したんです。だからもう、あなたが美しいといった私はいない。あなたの見ていた私は消えてしまいました。……だから。先輩の気持ちには応えられません」
「トリックスター……」
「いいえ。もう、私はトリックスターではなくなってしまったんです」
君はもう一度珊瑚の爪に触れて。そして音もなく席を立った。
─あなたの美しいカンバスの中で生きられなくてごめんなさい。
その言葉は琥珀色の空気を揺らして、滲むように消える。
私は、去っていく君の背中を黙って見送るしか出来ない。
真っ直ぐに伸びた背中は、そこから輝かしい翼が生えていてもおかしくないくらい凛としていた。
一度君は立ち止まり、顔を横に向けた。何か言葉を探して、そして思いとどまったかのように、チェリーレッドの唇をコーラルレッドの指先で撫でて再び歩き出す。
君は諦めを手放したと、そう言ったね。
けれどそれは間違いだ。君はこの先もずっと、諦観の人で在り続ける。君のいた世界に、君のいる世界に、世界を諦め、世界に順応する君自身に、そして君を取り巻く人々に。君はこれからも諦め続けながら、その翼を持つ背中を伸ばして生きていくのだろう。
君のそういう、諦観からつくられた強さに、今この瞬間も私の心臓は卑しいほどにぞくぞくと高鳴っている。そんな私の本質にも君は私より早く気付いて、諦めて、微笑んでいた。
思えば、ルージュやポリッシュだけでなく君への贈り物はみんな赤から派生した色のものだった。
香水瓶に結んだヴァーミリオンのリボン。小さなガーネットのネックレス。スカーレットのハンカチ。
赤は、その鮮やかさ輝かしさに負けない強い意志を持った人しか纏えない。赤は毒性の美を持つ色。そう言ったのもヴィルだったか。
私はもしかしたら、君の諦観と孤独の奥底に潜んだ、残酷なまでに気高く凛とした心を本能的に感じ取り、その心に相応しい[[rb:色 > あか]]を手に取っていたのかもしれない。
─けれど。何もかも、もう遅い。
背もたれに背中を預けて、瞼を閉じる。
ヴァイオリンの旋律に耳をすませる。やはり、この弾き手は私の好みではない。曲の終盤。ヴァイオリンはカデンツァをうたっていた。
くどいポルタメントに、見せつけるようなトリル。弾き手が情感を込めれば込めるほど、聞き手は置いてきぼりだ。伴奏を伴わないカデンツァだからこそ余計に、自己陶酔が顕著に表れる。
独りよがりな調べ。まるで、私のようじゃないか。
瞼の裏の闇と、ノイズ混じりの旋律だけだった世界にふと芳しい花の香りがかすかに漂うのを感じた。
私が君に贈った沢山の赤い贈り物。君は笑顔でそれらを受け取って、身に纏っていたけれど。決して私という存在が君の中に爪痕を残すことはなかった。だって私が見ていた君は私が創り出した利己的な偶像。君がやさしさを持って与えてくれていた幻影だったのだから。
君の中に私は残らない。そして私のもとにはチューベローズとホワイトミルラの残り香だけがいつまでも。
そっと瞼を上げる。
飾るべき君を失った、額縁のような深紅のカーテンは、よく見れば埃がつもり、裾はほつれて細かな黴が散っている。
─ああ、それでも。今の私にはこの赤が、痛くて、眩しい。
すっかり冷めてしまったダージリンは苦みと共に喉を滑り落ちる。片面の再生を終えた蓄音機が奏でるのは、ジジジと虫の羽音のような振動音だけ。
深紅のカーテンの輪郭が、滲んで見える。
消えゆく残り香を抱き寄せるように私はまた瞼を閉じて。どこまでもエゴイスティックな熱い滴が、頬を伝うに任せた。
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