The Little White Bird
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
The Little White Bird
「やあ、君。いつもここにいるね」
テノールに紺瑠璃の深みの混ざった声に、僕は顔をあげた。
変声期を迎える前の、然し変容がもうあと数歩のところまで迫った、ほんのひとときに限定された独特の声色。鈴のようでもあり、天鵞絨のようでもある声は、少年と青年のあわい限りの特別な声だ。
ここは僕のお気に入りの場所だった。
寄宿舎 はどこも、少年たちでいっぱいだ。
まるで女の子のような嬌声をあげて輪を作り、ひそひそ話をしたり突然涙ぐんでみせたりする彼ら。
制服を着崩して、わざと荒っぽい振る舞いをすることでかえって稚さが際立っている彼ら。
他人の目を酷く意識しながら、目の前の少年しか見えていないかのように二人だけの世界を演じて陶酔している彼ら。
彼らの白い肌と、骨っぽい手足から漂う甘だるい香りからは、どこにいても逃げられない。
でも、ここだけは別だった。
北棟にある図書館。背の高い書架がまるで目眩ましのように立ち並んだその最奥に隠された出窓は、少年たちの声も視線も匂いも届かない。
何年も掃除されていない窓硝子は、毛羽立った古い刷毛で絵の具を溶いたように、ぼんやりと曇っていて、季節によっては強すぎる陽の光の輪郭を滲ませてくれる。
少年一人の身体がすっぽりと埋まるような幅の桟に、ここのところ急に伸び始めてもて余し気味な足を曲げて座る。
この鳥籠じみた空間の中にありながら、世界のどこからも遠く、世界の誰からも干渉されないようなこの場所は、僕の秘密の場所であった筈なのに。
「君、誰?」
「僕はマシュー」
「そう。なにか用?」
「つれないね」
マシューと名乗った少年は、僕のあからさまに迷惑だという表情と声色も意に介さず、笑っている。
こんな少年、この寄宿舎にいただろうか。
彼のほっそりとした首元に形良く結ばれたリボンの色は僕より二つ上の学年のものだ。
寄宿舎というのは学業だけでなく生活を共にするのでなにかと他学年の少年と関わり合うことが多い。食堂や運動場で。或いは夜間の天体観測の授業や週末に有志の生徒たちによって催される野外映画上映会や演劇会で。
けれど、この少年を見かけたことはないと、僕は断言できる。なぜなら、一度でも見たら忘れられないような美しい少年だったからだ。
少年は、僕の膝を白魚みたいな薄い指でとんと叩いた。
僕が反射的に足を動かして出来た隙間に、すっぽりと身体をいれこむ。
小さな出窓の桟に、僕たちはつま先がかすかに重なる距離で向かい合って座っている。
「どうぞ」
「ありがとう」
僕が嫌味を込めて放った言葉を、マシューは笑顔で受け取る。その笑顔は、水の上に張った薄氷のようだった。とても美しいけれど、薄ら寒くなるような、底知れない冷たさの笑顔。
その冷たさは悪意でも、憎悪でも、執念でもない。もっと研ぎ澄まされて透みとおった冷たさ。
それが何なのか、僕は知っている。諦念だ。
毎朝目覚めて、真鍮の盥で顔を洗って見上げた鏡の中から僕を見つめる僕の瞳に、うっすらと膜のように張られているもの。
僕はいつも諦めている。少年であることに。いつか少年でなくなることに。この鳥籠のような場所にいることに。やがてこの鳥籠を巣立っても、また別の鳥籠に囲われるであろうことに。
彼、マシューの笑顔の薄氷のようなそれは、僕の瞳に張りついたそれと同質のものだった。
「ピーターパン。ジェームズ・M・バリ」
マシューは僕が膝の上に置いていた古びた本に手を伸ばして、表題 を読み上げた。
「僕のじゃない。この出窓にいつも置いてあるんだ、それ」
「ああ、警告だよ」
「警戒?」
「この出窓から、時々生徒がいなくなるんだ。鳥籠から空に焦がれて飛び立ってしまった小鳥みたいに。“気をつけろ。永遠の自由に焦がれすぎると、ピーターパンがやってきて拐われる”という警告さ」
「くだらないな。それに自由に焦がれてる子からしたら、ピーターパンに拐われるのは本望じゃないか。自由な子供のまま生きられる。永遠の国 で」
「本当にそう思うかい?ねえ、ピーターパンは妖精に攫われたんだよ。取り替え子 だ。妖精の気まぐれであちらに連れて行かれて、妖精の気まぐれでまたこちらの世界に戻された。でも一度向こうに行った彼はもう大人になれない。友達はみんな大人になっていた。大好きな母親の腕には違う赤子が抱かれている。彼は一人ぼっちだ。ここの世界では置いていかれて、永遠の国 でだって、彼は異質の存在。生まれた時からそこにいた者ではないから。どちらの世界でも、つまはじき。中途半端な存在。可哀想なピーターパン」
「一人ぼっちが気楽だったかもしれないよ」
「いいや違う。一人では寂しい。子供は寂しがりだからね。だからピーターパンは、時おり自分に似たつまはじきの少年を拐っていくのさ」
「見てきたように言うんだね」
「ここから消えた少年たちは、文字通り消えてしまう。新聞の一面に載る憐れな子供のように、数カ月後に白い骨になって発見されたりはしない。この世界から、彼だけを妖精が指を鳴らして消してしまう」
「………」
「なんてね。見てごらん、君も知ってのとおり、この寄宿舎は湿原に囲まれているだろう?この湿原は底なしだから、不幸な生徒が足を滑らせて落ちてしまい、深い沼底に沈んでしまっている。それがこのお話の真相さ。この壁自体が歪んでしまっているんだろう。何度窓をつけ直しても、土台がこれじゃ少しずつ螺子が緩んでいく。そろそろ、ここは生徒の出入り禁止になるかもね」
「いずれ妖精伽譚 から幽霊譚 になりそうだ。この世に未練がある少年の霊が……ってさ」
「どうかな。みんな、幸せそうに笑っていたよ。最後まで、空を見上げて」
マシューはうっそりと目を閉じて、そう言った。
薄氷のような諦念は消えて、心から穏やかで幸福そうな、満ち足りた慈愛の微笑み。その無垢な微笑みに、僕はぞくりと寒気を覚えた。
「君…」
「ふふ、怖かったかい?」
「……趣味が悪いな」
「怒らないでくれ。悪かったよ」
そう言ってマシューは、僕に本を投げて寄越した。
慌ててキャッチして、綻びかけたページを撫でる。
古い本特有の、微かに甘いような黴の匂い。
表紙に描かれた少年は空を見つめて角笛を吹きながら、妖精たちととても幸せそうに笑っていた。
「でも…永遠に、少年のままでいられるなら沼に沈んだとしても幸せかもしれないな」
「そう?」
「ここにいる奴らはみんな、少なからずそう思ってる。君だってそうだろう。この寄宿舎は、そういう場所だ」
「……」
「表向きは上流階級の子息のためのお上品な寄宿学校。だけど本当は、お上品な家柄が表沙汰にしたくない秘密の掃き溜めだ。愛人の子、跡取り争いで精神を病んだ親に捨てられた子、古い迷信を信じる旧家に生まれた双子の片割れ。秘密の小鳥を閉じ込めておく鳥籠だよ」
「君は?」
「僕の秘密を知りたいなら、君から明かしたらどう?僕は興味ないけどね。話したところでどうなる?なんにも変わらない。僕のこれからも、君のこれからもね。それなのにみんな、互いの秘密を品定めしたがる。この子よりは僕の方がマシだ、或いは、この子より僕は不幸だってさ。くだらないよ」
「全く、君の言うとおりだね」
「僕らは一生鳥籠の中だ。ここを出ても、大人になっても。鳥籠から鳥籠へ、移動していくだけ。だからここで秘密を曝け出して競ったり、舐め合ったりするのなんてなんの意味もない」
「永遠も自由も、鳥籠には用意されていない」
「そうさ。本当に欲しいなら、自分自身であることを手放すしかないってこと。例えば生きることとかね。だから空に焦がれて消えた少年たちは、誤って落ちたんじゃないかもしれないよ。自由な魂で空を飛ぶために、身体を沈ませる必要があったのさ」
「ふふ、賢いね。…それで、君は?」
がたん、という鈍い音と、何かが空気を割いて、遠くなっていく音が聞こえた。
頬を冷たい風が吹き付ける。
散髪が面倒で伸ばしていた前髪が僕の視界を遮って、世界が一瞬金色 に染まった。
その向こうで、マシューがあの薄氷の微笑みで、僕を真っ直ぐに見つめている。
また強い風が吹いて、マシューの瞳を金色が隠した。前髪を払って身を捩ると、桟についていた指先が虚空をすくう。
僕の肩を支えていた出窓が、消えていた。
そうだ、この壁自体が経年劣化で歪んでいて。何度つけ直しても、螺子が緩んでいく。
少しずつ、ゆっくりと、湿気を帯びた風によって錆びた螺子が均衡を失って。やがて吐き出される。
その時、偶然にもその場所にいた少年は、どうなってしまうのだっけ。
「ねえ、ピーター。君はどうしたい?」
「どうして僕の名前を、」
「知っているさ。ここに来る子はみんな同じ名前を持っている。そういう決まりなんだ。僕が決めた決まり。さあピーター、君は?」
「僕は………」
「選ぶのは君だよ」
マシューは、彼が最初に腰掛けた位置に変わらずに座って僕を見ている。
歪んだ壁から吐き出されて沼に沈んだ出窓に驚くこともなく。ただ僕だけを見つめて微笑んでいる。
赦しているような、慈しんでいるような、憐れんでいるような、愛おしむような、薄氷の微笑み。
彼の声が、僕の鼓膜のすぐ近くで聞こえるのが不思議だ。
彼の声を聞いて、彼の微笑みを見ていると、僕の瞳に張りついていた諦念がゆっくりと角膜から滲み出して、肌を、血管を、細胞の隙間をとろりと流れていくような気がする。
それはうっとりとやさしく、微睡みのように穏やかで。それはとても、幸せな心地だった。
「………僕はずっと、空を飛びたかった」
「そうだね。だから僕が来た」
そうだった。僕はずっと飛びたかったんだ。口に出して、その言葉がもたらす幸福感に胸がいっぱいになる。身体まで、軽くなったように感じる。
僕は飛びたかった。自由な子供のままで。僕を閉じ込める鳥籠から、永遠に。そうだ。だから僕は、君をずっと。持っていた。
マシューが身体を起こして、そっと僕を抱いた。
僕より少しだけ広い胸の中はあたたかくて、まるで産着の中みたいだった。あたたかくて、やさしくて、いつまでも変わらない、守られる場所の温度。
「おいで」
マシューのその言葉が鼓膜を震わせたのとほぼ同時に、僕の身体は宙に投げ出された。
凄まじい速度で空気を割いている筈なのに、僕の瞳に映る景色はひどくゆっくりと動いていく。
青い青い空が、どんどん広くなって、まるで僕を抱きしめてくれてるみたいに見える。
マシュー、マシュー、マシュー。
「ぼくのファーストネームはジェームズだよ。あっちではみんな僕をジェームズと呼ぶ。君もそうしてくれ」
不思議だ。声に出していないのに、君にはちゃんと聞こえるんだね。ジェームズか、分かったよ。ねえジェームズ、君は?君は来ないの?
「僕ももちろん行くさ。さあ、空を見て。君のものだ。行こう、僕の大事な迷子 」
蒼穹がひろくたかく、僕を包む。彼の声が近くでして、僕の視界いっぱいに真っ白な羽根が降ってきた。祝福みたいに。
羽根の向こうで、小さな白い鳥の姿になったジェームズが、僕を見つめて微笑んでいた。だから僕も笑った。
空を見つめて、あの本に描かれた少年のように。
End.
「やあ、君。いつもここにいるね」
テノールに紺瑠璃の深みの混ざった声に、僕は顔をあげた。
変声期を迎える前の、然し変容がもうあと数歩のところまで迫った、ほんのひとときに限定された独特の声色。鈴のようでもあり、天鵞絨のようでもある声は、少年と青年のあわい限りの特別な声だ。
ここは僕のお気に入りの場所だった。
寄宿舎 はどこも、少年たちでいっぱいだ。
まるで女の子のような嬌声をあげて輪を作り、ひそひそ話をしたり突然涙ぐんでみせたりする彼ら。
制服を着崩して、わざと荒っぽい振る舞いをすることでかえって稚さが際立っている彼ら。
他人の目を酷く意識しながら、目の前の少年しか見えていないかのように二人だけの世界を演じて陶酔している彼ら。
彼らの白い肌と、骨っぽい手足から漂う甘だるい香りからは、どこにいても逃げられない。
でも、ここだけは別だった。
北棟にある図書館。背の高い書架がまるで目眩ましのように立ち並んだその最奥に隠された出窓は、少年たちの声も視線も匂いも届かない。
何年も掃除されていない窓硝子は、毛羽立った古い刷毛で絵の具を溶いたように、ぼんやりと曇っていて、季節によっては強すぎる陽の光の輪郭を滲ませてくれる。
少年一人の身体がすっぽりと埋まるような幅の桟に、ここのところ急に伸び始めてもて余し気味な足を曲げて座る。
この鳥籠じみた空間の中にありながら、世界のどこからも遠く、世界の誰からも干渉されないようなこの場所は、僕の秘密の場所であった筈なのに。
「君、誰?」
「僕はマシュー」
「そう。なにか用?」
「つれないね」
マシューと名乗った少年は、僕のあからさまに迷惑だという表情と声色も意に介さず、笑っている。
こんな少年、この寄宿舎にいただろうか。
彼のほっそりとした首元に形良く結ばれたリボンの色は僕より二つ上の学年のものだ。
寄宿舎というのは学業だけでなく生活を共にするのでなにかと他学年の少年と関わり合うことが多い。食堂や運動場で。或いは夜間の天体観測の授業や週末に有志の生徒たちによって催される野外映画上映会や演劇会で。
けれど、この少年を見かけたことはないと、僕は断言できる。なぜなら、一度でも見たら忘れられないような美しい少年だったからだ。
少年は、僕の膝を白魚みたいな薄い指でとんと叩いた。
僕が反射的に足を動かして出来た隙間に、すっぽりと身体をいれこむ。
小さな出窓の桟に、僕たちはつま先がかすかに重なる距離で向かい合って座っている。
「どうぞ」
「ありがとう」
僕が嫌味を込めて放った言葉を、マシューは笑顔で受け取る。その笑顔は、水の上に張った薄氷のようだった。とても美しいけれど、薄ら寒くなるような、底知れない冷たさの笑顔。
その冷たさは悪意でも、憎悪でも、執念でもない。もっと研ぎ澄まされて透みとおった冷たさ。
それが何なのか、僕は知っている。諦念だ。
毎朝目覚めて、真鍮の盥で顔を洗って見上げた鏡の中から僕を見つめる僕の瞳に、うっすらと膜のように張られているもの。
僕はいつも諦めている。少年であることに。いつか少年でなくなることに。この鳥籠のような場所にいることに。やがてこの鳥籠を巣立っても、また別の鳥籠に囲われるであろうことに。
彼、マシューの笑顔の薄氷のようなそれは、僕の瞳に張りついたそれと同質のものだった。
「ピーターパン。ジェームズ・M・バリ」
マシューは僕が膝の上に置いていた古びた本に手を伸ばして、
「僕のじゃない。この出窓にいつも置いてあるんだ、それ」
「ああ、警告だよ」
「警戒?」
「この出窓から、時々生徒がいなくなるんだ。鳥籠から空に焦がれて飛び立ってしまった小鳥みたいに。“気をつけろ。永遠の自由に焦がれすぎると、ピーターパンがやってきて拐われる”という警告さ」
「くだらないな。それに自由に焦がれてる子からしたら、ピーターパンに拐われるのは本望じゃないか。自由な子供のまま生きられる。
「本当にそう思うかい?ねえ、ピーターパンは妖精に攫われたんだよ。
「一人ぼっちが気楽だったかもしれないよ」
「いいや違う。一人では寂しい。子供は寂しがりだからね。だからピーターパンは、時おり自分に似たつまはじきの少年を拐っていくのさ」
「見てきたように言うんだね」
「ここから消えた少年たちは、文字通り消えてしまう。新聞の一面に載る憐れな子供のように、数カ月後に白い骨になって発見されたりはしない。この世界から、彼だけを妖精が指を鳴らして消してしまう」
「………」
「なんてね。見てごらん、君も知ってのとおり、この寄宿舎は湿原に囲まれているだろう?この湿原は底なしだから、不幸な生徒が足を滑らせて落ちてしまい、深い沼底に沈んでしまっている。それがこのお話の真相さ。この壁自体が歪んでしまっているんだろう。何度窓をつけ直しても、土台がこれじゃ少しずつ螺子が緩んでいく。そろそろ、ここは生徒の出入り禁止になるかもね」
「いずれ
「どうかな。みんな、幸せそうに笑っていたよ。最後まで、空を見上げて」
マシューはうっそりと目を閉じて、そう言った。
薄氷のような諦念は消えて、心から穏やかで幸福そうな、満ち足りた慈愛の微笑み。その無垢な微笑みに、僕はぞくりと寒気を覚えた。
「君…」
「ふふ、怖かったかい?」
「……趣味が悪いな」
「怒らないでくれ。悪かったよ」
そう言ってマシューは、僕に本を投げて寄越した。
慌ててキャッチして、綻びかけたページを撫でる。
古い本特有の、微かに甘いような黴の匂い。
表紙に描かれた少年は空を見つめて角笛を吹きながら、妖精たちととても幸せそうに笑っていた。
「でも…永遠に、少年のままでいられるなら沼に沈んだとしても幸せかもしれないな」
「そう?」
「ここにいる奴らはみんな、少なからずそう思ってる。君だってそうだろう。この寄宿舎は、そういう場所だ」
「……」
「表向きは上流階級の子息のためのお上品な寄宿学校。だけど本当は、お上品な家柄が表沙汰にしたくない秘密の掃き溜めだ。愛人の子、跡取り争いで精神を病んだ親に捨てられた子、古い迷信を信じる旧家に生まれた双子の片割れ。秘密の小鳥を閉じ込めておく鳥籠だよ」
「君は?」
「僕の秘密を知りたいなら、君から明かしたらどう?僕は興味ないけどね。話したところでどうなる?なんにも変わらない。僕のこれからも、君のこれからもね。それなのにみんな、互いの秘密を品定めしたがる。この子よりは僕の方がマシだ、或いは、この子より僕は不幸だってさ。くだらないよ」
「全く、君の言うとおりだね」
「僕らは一生鳥籠の中だ。ここを出ても、大人になっても。鳥籠から鳥籠へ、移動していくだけ。だからここで秘密を曝け出して競ったり、舐め合ったりするのなんてなんの意味もない」
「永遠も自由も、鳥籠には用意されていない」
「そうさ。本当に欲しいなら、自分自身であることを手放すしかないってこと。例えば生きることとかね。だから空に焦がれて消えた少年たちは、誤って落ちたんじゃないかもしれないよ。自由な魂で空を飛ぶために、身体を沈ませる必要があったのさ」
「ふふ、賢いね。…それで、君は?」
がたん、という鈍い音と、何かが空気を割いて、遠くなっていく音が聞こえた。
頬を冷たい風が吹き付ける。
散髪が面倒で伸ばしていた前髪が僕の視界を遮って、世界が一瞬
その向こうで、マシューがあの薄氷の微笑みで、僕を真っ直ぐに見つめている。
また強い風が吹いて、マシューの瞳を金色が隠した。前髪を払って身を捩ると、桟についていた指先が虚空をすくう。
僕の肩を支えていた出窓が、消えていた。
そうだ、この壁自体が経年劣化で歪んでいて。何度つけ直しても、螺子が緩んでいく。
少しずつ、ゆっくりと、湿気を帯びた風によって錆びた螺子が均衡を失って。やがて吐き出される。
その時、偶然にもその場所にいた少年は、どうなってしまうのだっけ。
「ねえ、ピーター。君はどうしたい?」
「どうして僕の名前を、」
「知っているさ。ここに来る子はみんな同じ名前を持っている。そういう決まりなんだ。僕が決めた決まり。さあピーター、君は?」
「僕は………」
「選ぶのは君だよ」
マシューは、彼が最初に腰掛けた位置に変わらずに座って僕を見ている。
歪んだ壁から吐き出されて沼に沈んだ出窓に驚くこともなく。ただ僕だけを見つめて微笑んでいる。
赦しているような、慈しんでいるような、憐れんでいるような、愛おしむような、薄氷の微笑み。
彼の声が、僕の鼓膜のすぐ近くで聞こえるのが不思議だ。
彼の声を聞いて、彼の微笑みを見ていると、僕の瞳に張りついていた諦念がゆっくりと角膜から滲み出して、肌を、血管を、細胞の隙間をとろりと流れていくような気がする。
それはうっとりとやさしく、微睡みのように穏やかで。それはとても、幸せな心地だった。
「………僕はずっと、空を飛びたかった」
「そうだね。だから僕が来た」
そうだった。僕はずっと飛びたかったんだ。口に出して、その言葉がもたらす幸福感に胸がいっぱいになる。身体まで、軽くなったように感じる。
僕は飛びたかった。自由な子供のままで。僕を閉じ込める鳥籠から、永遠に。そうだ。だから僕は、君をずっと。持っていた。
マシューが身体を起こして、そっと僕を抱いた。
僕より少しだけ広い胸の中はあたたかくて、まるで産着の中みたいだった。あたたかくて、やさしくて、いつまでも変わらない、守られる場所の温度。
「おいで」
マシューのその言葉が鼓膜を震わせたのとほぼ同時に、僕の身体は宙に投げ出された。
凄まじい速度で空気を割いている筈なのに、僕の瞳に映る景色はひどくゆっくりと動いていく。
青い青い空が、どんどん広くなって、まるで僕を抱きしめてくれてるみたいに見える。
マシュー、マシュー、マシュー。
「ぼくのファーストネームはジェームズだよ。あっちではみんな僕をジェームズと呼ぶ。君もそうしてくれ」
不思議だ。声に出していないのに、君にはちゃんと聞こえるんだね。ジェームズか、分かったよ。ねえジェームズ、君は?君は来ないの?
「僕ももちろん行くさ。さあ、空を見て。君のものだ。行こう、僕の大事な
蒼穹がひろくたかく、僕を包む。彼の声が近くでして、僕の視界いっぱいに真っ白な羽根が降ってきた。祝福みたいに。
羽根の向こうで、小さな白い鳥の姿になったジェームズが、僕を見つめて微笑んでいた。だから僕も笑った。
空を見つめて、あの本に描かれた少年のように。
End.
2/2ページ