桜颪
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《Chopin, Frederic:12 études Etude No.12 c-moll Op.25-12 océan》
春の終わりは騒々しい。
生ぬるい湿気を含んだ風がうねるように吹き始め、激しい雨粒が色とりどりの花びらを濡らし、散らし、流し。
微睡みのようなあたたかな空気と水彩画のような色彩が1日で塗り替えられる。
だいたい春の終わりはそうやって訪れる。
あの日もまた、その年の春の最後の日だった。もちろんその時には、気付かなかったけれど。
なにかの終わりの瞬間は、なにかの始まりの瞬間だ。その時に僕たちは、何を失って何を得ているのだろう。
*
僕はどうしてあの日、オンボロ寮を訪れたのか。それは多分ラウンジのシフトについてとか、些細な理由だったのだろう。ではなぜ、ノックをしても応えがない扉を押して、寮の中に入って行ったのだろうか。
突然降り始めて瞬きの間に激しさを増した雨のせい?合鍵を渡されていた気安さから?
いや、そうじゃない。僕は扉の向こうに音を聞いた。それは音楽だった。けれど、あれを音楽と呼んでいいのか、今でも確信が持てない。確かに旋律を奏でているけれど、それはもっと。旋律や音楽というにはあまりにも切実で。そう、まるでこの春の嵐のように狂しく、凛然としたなにかだった。
扉を閉める音は、吹きすさぶ雨風にかき消されて。あの時の僕は、この嵐が過ぎ去った時に僕の世界が一変するなんて思ってもいなかった。
今入ってきた扉から外に出たら、激しい雨が春をすっかり洗い流して、新しい季節がやって来ていたように。
僕の世界もまた、嵐の前と後では色も温度もなにもかもが変わっているなんて。
「監督生さん、入りますよ?」
僕の声は、窓を叩く雨粒の音に沈んでいくようだった。
オンボロ寮は薄暗く、外の湿気がじっとりと染み込んだぬるい温度が僕を迎える。
時折ざあっと勢いを持った雨粒が風と共に窓を揺らして。ノイズみたいな雨音に混ざって、ピアノの音色が寮内に響き渡っている。
殆ど叩くようなタッチのピアノの音が、僕の鼓膜を侵す。雨風に揺れる窓に視線を向けると、春の嵐に散らされた淡紅色の花びらが張り付いては剥がされを繰り返し。その間も鳴り止まないピアノの音は、なんだか嵐の海に似ている気がした。
僕たち人魚が棲まう深海はどんなに風や雨が吹き荒ぼうとも殆ど影響を受けない。けれど昔、好奇心の強い幼馴染みと共に荒れ狂う嵐の日の水面に上がったことがある。
おおきな飛沫をあげて岩礁にぶつかる水。急激に海水の温度がさがったことによって白い飛沫に変化したプランクトンを指差してフロイドがケタケタと笑っていたことを覚えている。
あまりに騒がしいと、鼓膜の奥が麻痺して籠もったような感覚になることをこの日僕は初めて知った。不快感とまではいかない。けれどどことなく、不安定で波の音に酔わされるような感覚。
僕たちの目の前で、風と雨に煽られた海は荒れ狂う。なにかを壊すように、暴くように。或いはなにかを守るように、隠すように。このまま世界を海水で染め上げてしまうのではないかと思うほどの狂おしい音。
そしてふと、一瞬の弛緩が訪れる。ゲネラルパウゼ。
息を呑んだのは僕だったか、双子のどちらかだったか覚えていない。けれどその一瞬の静寂ののちに、天から一筋の光が差して。嵐が去った。
黄金を溶かしたような太陽の光に照らされた水面は、先程までの騒々しさが嘘のように、穏やかに沈黙して、きらきらと光っていたのが印象的だった。
けれど今、僕の鼓膜を揺らしている外の嵐も、波の音のようなピアノの音も、まだ鳴り止みそうにない。
談話室の扉を開くと、彼女がピアノに向かっていた。
以前に比べると大分居心地の整えられた談話室にどこから持ち運ばれたのか、古びたピアノがあるのは知っていた。けれどそのピアノを誰かが奏でるところを見たことはなかった。大抵すり減ったベロアの張られた丸椅子が、談話室に入り浸る誰かの居場所になっているだけで。
その丸椅子に座った彼女は、上半身をかすかに折り曲げて、一心不乱に鍵盤を叩いていた。
低音から高音へ、高音から低音へ、昇降を繰り返す分散和音。息をつく間もないアルペジオ。
ああ、やっぱり。これは嵐の海の音だ。旋律というかたちになった荒れ狂う海。あの日の海のように。世界を海水で呑み込もうとしているような狂おしい音。
彼女の指が跳ねる。飛沫があがる。彼女の黒い髪の一筋が宙を舞って瞳を隠す。岩にぶつかった大波が、高く舞って岩肌を隠す。
ピアノを奏でる彼女のむこうに、海が見える。
指を鳴らして洪水をおこし、自ら創り上げた世界を沈める神のように、彼女の腕は荒波を生み、海面をうねらせ、渦潮をつくる。
息が詰まりそうだった。彼女の奏でる音の振動が、じんじんと細胞に響いてくる。
外の嵐とピアノの音がすべてを掻き消している筈なのに、心臓が全身に血液を送り出すどくんどくんという音が聴こえる。狂おしい音の波。ざわと腕に鳥肌が立つ。不条理で、執拗に、寄せては高く打ち上がる修羅のような荒波。
長い黒髪が幾筋も頬に落ちて、彼女の表情は見えない。憑かれたようにピアノを鳴らす姿は、神々しいほど孤独で、眩しかった。
「……あ、」
僕は思わず、声を漏らしてしまった。
ただ荒れ狂った波の音だった旋律の向こうから、かすかに光が差してくる。天の啓示のような、メジャーへの転調。海の向こうに、黄金色の陽が昇る。最後の和音の余韻が消えたあと、寮に満ちているのは圧倒的な静寂だった。
彼女が面を上げて、漆黒の瞳が僕を捉える。
その頬を、窓から差し込む光が黄金に染めていた。ピアノの音が鳴り止むのと同時に、外の嵐も過ぎ去っていた。鈍色の分厚い雲の隙間から、一筋の光が降りてきていて、ちょうど彼女の頬を照らしている。
「私がいた世界の、作曲家の曲です。彼は、故郷を深く愛していました。その故郷を侵略しようとする国は、ピアニストとして名声を手にしていた彼を欲しがります。けれど彼の故郷を愛する心はそれを許さなかった。彼は、2度と故郷の地を踏むことが出来なくなるかもしれない可能性を分かっていながらも、自ら亡命者となることを選びました。故郷を愛しながら故郷を捨てたと、彼は心に深い陰を落としながら、後世に残る名曲を何曲も創り出した作曲家です」
「……そうですか。まるで海のような曲でした」
「さすがアズール先輩。これはエチュードですけれど《大洋》という副題がついているんですよ」
ほんの少しだけ掠れたような彼女の声は、先程までの気迫が嘘のように、さらりと乾いていて、穏やかなものだった。
突然現れた僕に驚くこともなく、微笑みすら浮かべてそっとピアノの蓋を閉じる彼女の頰をいつまでも光が照らしていて、眩しい。ふと、彼女の肌はこんなにも白くて、彼女の髪はこんなにも柔らかそうで、彼女の瞳はこんなにも印象的な色だっただろうかと、不思議に思う。眩しくて、でも目が逸らせない。ふっくらとした唇は、嵐が散らした花びらと同じ色をしていた。
これまでに何度も、顔を合わせているのに。初めて彼女を見たような気持ちになるのは何故なんだ。まだ、音の荒波の酔いから醒めきっていないのかもしれない。
僕の視線に気付いた彼女が、深い色の瞳でじっと僕を見つめ返す。目が痛むくらい、眩しい。けれど、もう彼女の面に黄金色の光はあたっていなかった。それなのに。
「嵐のあとって、世界が輝いてみえませんか?まだ薄っすらと湿った地に太陽が反射して。最初は、風や雨に煽られた砂や葉や花びらが色んなところに飛び散っているけれど。荒れ狂ったあと、光が差して、あたらしいなにかが生まれている。今日の嵐は、春を送る嵐でしたね」
そう言って彼女が、談話室の窓を開けた。
硝子に張り付いた花びらを細い指先でつまむと、吹き込んだ風が淡紅色の一切れを空に舞い上げる。
彼女が言うように、嵐が去った外の世界では、春が終わっていた。
まだ湿り気を帯びた風の中に、僅かに、けれども確実に、これまでとは違う質感の空気が混ざっている。春送りの嵐は、すべてを呑み込むような雨風の後、新しい季節を連れて来た。
僕はここを訪れた理由も忘れて、彼女と共に長いこと、窓の外の黄金色の太陽と、新しい季節の予感を孕んだ空気を見つめていた。
その日、彼女が学園長から元の世界に帰る方法がなにもないという事実を知らされたことを、僕は随分後に知った。
嵐が春を送り、新たな季節を連れて来た日。彼女が奏でたピアノの嵐の海は、彼女の中の何を送って、彼女の中に何を連れて来たのだろう。
それは僕には分からない。
分かるのは、その日の彼女は僕のこれまでを送り、新しいこれからを連れて来たということだけ。
これは僕が、恋に落ちた日の話だ。
End.
春の終わりは騒々しい。
生ぬるい湿気を含んだ風がうねるように吹き始め、激しい雨粒が色とりどりの花びらを濡らし、散らし、流し。
微睡みのようなあたたかな空気と水彩画のような色彩が1日で塗り替えられる。
だいたい春の終わりはそうやって訪れる。
あの日もまた、その年の春の最後の日だった。もちろんその時には、気付かなかったけれど。
なにかの終わりの瞬間は、なにかの始まりの瞬間だ。その時に僕たちは、何を失って何を得ているのだろう。
*
僕はどうしてあの日、オンボロ寮を訪れたのか。それは多分ラウンジのシフトについてとか、些細な理由だったのだろう。ではなぜ、ノックをしても応えがない扉を押して、寮の中に入って行ったのだろうか。
突然降り始めて瞬きの間に激しさを増した雨のせい?合鍵を渡されていた気安さから?
いや、そうじゃない。僕は扉の向こうに音を聞いた。それは音楽だった。けれど、あれを音楽と呼んでいいのか、今でも確信が持てない。確かに旋律を奏でているけれど、それはもっと。旋律や音楽というにはあまりにも切実で。そう、まるでこの春の嵐のように狂しく、凛然としたなにかだった。
扉を閉める音は、吹きすさぶ雨風にかき消されて。あの時の僕は、この嵐が過ぎ去った時に僕の世界が一変するなんて思ってもいなかった。
今入ってきた扉から外に出たら、激しい雨が春をすっかり洗い流して、新しい季節がやって来ていたように。
僕の世界もまた、嵐の前と後では色も温度もなにもかもが変わっているなんて。
「監督生さん、入りますよ?」
僕の声は、窓を叩く雨粒の音に沈んでいくようだった。
オンボロ寮は薄暗く、外の湿気がじっとりと染み込んだぬるい温度が僕を迎える。
時折ざあっと勢いを持った雨粒が風と共に窓を揺らして。ノイズみたいな雨音に混ざって、ピアノの音色が寮内に響き渡っている。
殆ど叩くようなタッチのピアノの音が、僕の鼓膜を侵す。雨風に揺れる窓に視線を向けると、春の嵐に散らされた淡紅色の花びらが張り付いては剥がされを繰り返し。その間も鳴り止まないピアノの音は、なんだか嵐の海に似ている気がした。
僕たち人魚が棲まう深海はどんなに風や雨が吹き荒ぼうとも殆ど影響を受けない。けれど昔、好奇心の強い幼馴染みと共に荒れ狂う嵐の日の水面に上がったことがある。
おおきな飛沫をあげて岩礁にぶつかる水。急激に海水の温度がさがったことによって白い飛沫に変化したプランクトンを指差してフロイドがケタケタと笑っていたことを覚えている。
あまりに騒がしいと、鼓膜の奥が麻痺して籠もったような感覚になることをこの日僕は初めて知った。不快感とまではいかない。けれどどことなく、不安定で波の音に酔わされるような感覚。
僕たちの目の前で、風と雨に煽られた海は荒れ狂う。なにかを壊すように、暴くように。或いはなにかを守るように、隠すように。このまま世界を海水で染め上げてしまうのではないかと思うほどの狂おしい音。
そしてふと、一瞬の弛緩が訪れる。ゲネラルパウゼ。
息を呑んだのは僕だったか、双子のどちらかだったか覚えていない。けれどその一瞬の静寂ののちに、天から一筋の光が差して。嵐が去った。
黄金を溶かしたような太陽の光に照らされた水面は、先程までの騒々しさが嘘のように、穏やかに沈黙して、きらきらと光っていたのが印象的だった。
けれど今、僕の鼓膜を揺らしている外の嵐も、波の音のようなピアノの音も、まだ鳴り止みそうにない。
談話室の扉を開くと、彼女がピアノに向かっていた。
以前に比べると大分居心地の整えられた談話室にどこから持ち運ばれたのか、古びたピアノがあるのは知っていた。けれどそのピアノを誰かが奏でるところを見たことはなかった。大抵すり減ったベロアの張られた丸椅子が、談話室に入り浸る誰かの居場所になっているだけで。
その丸椅子に座った彼女は、上半身をかすかに折り曲げて、一心不乱に鍵盤を叩いていた。
低音から高音へ、高音から低音へ、昇降を繰り返す分散和音。息をつく間もないアルペジオ。
ああ、やっぱり。これは嵐の海の音だ。旋律というかたちになった荒れ狂う海。あの日の海のように。世界を海水で呑み込もうとしているような狂おしい音。
彼女の指が跳ねる。飛沫があがる。彼女の黒い髪の一筋が宙を舞って瞳を隠す。岩にぶつかった大波が、高く舞って岩肌を隠す。
ピアノを奏でる彼女のむこうに、海が見える。
指を鳴らして洪水をおこし、自ら創り上げた世界を沈める神のように、彼女の腕は荒波を生み、海面をうねらせ、渦潮をつくる。
息が詰まりそうだった。彼女の奏でる音の振動が、じんじんと細胞に響いてくる。
外の嵐とピアノの音がすべてを掻き消している筈なのに、心臓が全身に血液を送り出すどくんどくんという音が聴こえる。狂おしい音の波。ざわと腕に鳥肌が立つ。不条理で、執拗に、寄せては高く打ち上がる修羅のような荒波。
長い黒髪が幾筋も頬に落ちて、彼女の表情は見えない。憑かれたようにピアノを鳴らす姿は、神々しいほど孤独で、眩しかった。
「……あ、」
僕は思わず、声を漏らしてしまった。
ただ荒れ狂った波の音だった旋律の向こうから、かすかに光が差してくる。天の啓示のような、メジャーへの転調。海の向こうに、黄金色の陽が昇る。最後の和音の余韻が消えたあと、寮に満ちているのは圧倒的な静寂だった。
彼女が面を上げて、漆黒の瞳が僕を捉える。
その頬を、窓から差し込む光が黄金に染めていた。ピアノの音が鳴り止むのと同時に、外の嵐も過ぎ去っていた。鈍色の分厚い雲の隙間から、一筋の光が降りてきていて、ちょうど彼女の頬を照らしている。
「私がいた世界の、作曲家の曲です。彼は、故郷を深く愛していました。その故郷を侵略しようとする国は、ピアニストとして名声を手にしていた彼を欲しがります。けれど彼の故郷を愛する心はそれを許さなかった。彼は、2度と故郷の地を踏むことが出来なくなるかもしれない可能性を分かっていながらも、自ら亡命者となることを選びました。故郷を愛しながら故郷を捨てたと、彼は心に深い陰を落としながら、後世に残る名曲を何曲も創り出した作曲家です」
「……そうですか。まるで海のような曲でした」
「さすがアズール先輩。これはエチュードですけれど《大洋》という副題がついているんですよ」
ほんの少しだけ掠れたような彼女の声は、先程までの気迫が嘘のように、さらりと乾いていて、穏やかなものだった。
突然現れた僕に驚くこともなく、微笑みすら浮かべてそっとピアノの蓋を閉じる彼女の頰をいつまでも光が照らしていて、眩しい。ふと、彼女の肌はこんなにも白くて、彼女の髪はこんなにも柔らかそうで、彼女の瞳はこんなにも印象的な色だっただろうかと、不思議に思う。眩しくて、でも目が逸らせない。ふっくらとした唇は、嵐が散らした花びらと同じ色をしていた。
これまでに何度も、顔を合わせているのに。初めて彼女を見たような気持ちになるのは何故なんだ。まだ、音の荒波の酔いから醒めきっていないのかもしれない。
僕の視線に気付いた彼女が、深い色の瞳でじっと僕を見つめ返す。目が痛むくらい、眩しい。けれど、もう彼女の面に黄金色の光はあたっていなかった。それなのに。
「嵐のあとって、世界が輝いてみえませんか?まだ薄っすらと湿った地に太陽が反射して。最初は、風や雨に煽られた砂や葉や花びらが色んなところに飛び散っているけれど。荒れ狂ったあと、光が差して、あたらしいなにかが生まれている。今日の嵐は、春を送る嵐でしたね」
そう言って彼女が、談話室の窓を開けた。
硝子に張り付いた花びらを細い指先でつまむと、吹き込んだ風が淡紅色の一切れを空に舞い上げる。
彼女が言うように、嵐が去った外の世界では、春が終わっていた。
まだ湿り気を帯びた風の中に、僅かに、けれども確実に、これまでとは違う質感の空気が混ざっている。春送りの嵐は、すべてを呑み込むような雨風の後、新しい季節を連れて来た。
僕はここを訪れた理由も忘れて、彼女と共に長いこと、窓の外の黄金色の太陽と、新しい季節の予感を孕んだ空気を見つめていた。
その日、彼女が学園長から元の世界に帰る方法がなにもないという事実を知らされたことを、僕は随分後に知った。
嵐が春を送り、新たな季節を連れて来た日。彼女が奏でたピアノの嵐の海は、彼女の中の何を送って、彼女の中に何を連れて来たのだろう。
それは僕には分からない。
分かるのは、その日の彼女は僕のこれまでを送り、新しいこれからを連れて来たということだけ。
これは僕が、恋に落ちた日の話だ。
End.