春暁
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《春眠暁を覚えず
処処啼鳥を聞く
夜来風雨の声
花落つること知る多少ぞ》─孟浩然
春の明け方ぬくぬくと気持ちよく眠っている
あちこちから鳥のさえずりが聞こえてくる
そういえば夕べは風雨の音がひどかった
もう花は散ってしまっただろうか
彼の身体のゆるやかだけれど確実な変化について、そして彼が決めた“これから”への選択について。
それを聞かされた私は、何も言えなかった。ただ曖昧に笑って頷くことしかできなかった。
私より遥かに長い時を彼とともに過ごした、彼の家族である先輩や同級生が、彼の選択を尊重しようと懸命になっている姿の横で、私が何を言えるだろう。
彼は呵呵と笑って、各々の反応を受け止めていた。
光の下では赤みの増すルビーの瞳の奥で、彼が何を想っているのか私には分からない。
彼はいつも、私には想像もつかないくらい大きな時の流れを見つめている。
その流れの中で、私という存在はどれだけ彼の中に根を張ることができたのだろう。分からない。
茨のように、棘を持つ植物だったらいいと思う。伸ばした枝先で、繰り返し繰り返し棘を刺せば。浅い傷だったとしても、きっとそのかすかな痛みの記憶は刻まれる。彼にささやかな跡を残すことが出来るから。
*
剥き出しの肩にひんやりとした風があたって目が覚めた。
瞼を開けるのはまだ億劫で。胸下まで滑り落ちていたシーツを持ち上げると、生地が触れた首筋にざらりとした痛みがはしった。
指先でなぞる。数時間前にこのベッドの上で彼が私につけた傷痕。小さく鋭い歯型を押すと、指の腹が濡れる。
私は瞼を漸く開いて、指先についた赤い血を眺めた。口に含むと、鉄っぽくて甘い味がする。
「起きたのか、ユウ」
「起きてません、まだ寝ています」
「なんじゃそれは!」
彼の腕の中で指を口に含んだ私を、宝石のような瞳が見下ろす。
笑い声と共に上半身を起こそうとする彼の腕を掴んで、強引にシーツに沈めた。
「ダメ、リリア先輩もまだ寝るんです。起きちゃダメ」
「夜型のわしには嬉しい申し出だが、ユウ、もう昼になってしまうぞ」
「いいんです、休日だもの」
彼の腕をとって背中に回させる。楽しげに目を細めてされるがままになっている彼の胸に顔を埋めて、彼の匂いを吸い込んだ。
冷たい風の吹く、荒涼とした土地に生える乾いた植物のような香り。私は知っている。彼の香りも、華奢に見えて私をまるごと閉じ込めてしまえるくらい厚い胸板も、筋っぽい腕も、骨ばった指も、鋭く白い犬歯は舌で触れるとつやつやとした質感なことも。
それらが私の身体をどんなに優しく暴いていくかも。私の奥深いところまで、彼を感じるその時間がどんなに残酷で愛おしいかを。
「ああ、また跡を付けてしまったな。どうもお主の前では年甲斐もなくはしゃいでしまうようじゃ」
「良いんです。それに先輩、いつもすぐ治しちゃうじゃないですか」
「乙女の身体に傷を残すのは騎士道精神に反するからのう」
彼が私の首筋に指をあてると、じんわりと傷口が熱を持つ。私が指で触れれば、傷は少しの痕跡も残さずに消えていた。
まだこの程度の魔力なら残っているらしい。きっといずれそれも、そう遠くない未来にこの傷のように消えてしまうのだろう。
白い土壌に彼は自分を根付かせない。決して。
どんなに深く歯をたてられ、赤い花が散るほど吸われても、朝になれば嘘のようにすべてをきれいに消し去ってしまう。
それは優しさと気遣いなのかもしれないけれど、とても残酷だと私は思う。
一つくらい、永遠に消えない傷を残してくれたっていいのに。
「おっと……なんじゃー、今朝は随分ご機嫌斜めじゃの?」
なんだか腹が立ってしまって、形の良い鼻にかぷりと噛み付いた私を、彼は楽しげに、そして愛おしげに見つめる。そんな顔するなんて狡い。私を置いて行ってしまうくせに。
でもそれを声に出すことは出来ないから、私の子供っぽいこの悪い口が何かを言ってしまう前に、彼の薄い唇に自分の唇を重ねた。
彼はすぐに応えてくれて、私の唇にやわく歯がたてられる。
足を絡めて、手のひらで彼の頭を抱き込めば熱っぽい溜め息と共に組み敷かれる。
私を見下ろす赤い瞳には今、私だけしか映っていないのに。
「そんな顔を、するな」
「……ごめんなさい」
「いや……謝るのはわしの方か」
「謝らないで」
「ユウ、」
「黙って。続きをして」
「なあユウ、人生には四季がある。わしの人生は今、冬がきたということじゃ」
「何も言わないで」
もう一度彼の唇を強引に塞いで、そのまま硬い鎖骨に噛み付いた。私には彼のような鋭い犬歯がないから傷をつけることは出来ない。けれど痛みの記憶だけは残るようにと、何度も何度も噛み付いた。
そんな私を彼はシーツに優しく沈める。
彼の肩越しに、立て付けの悪い窓が春風にカタカタと揺れた。
昨晩は雨が降っていたけれど、今朝はうららかな小春日和。
窓の外の空にはどこからか飛ばされてきた淡い色の花びらが舞っていて、その合間を鳥たちが歌いながら羽ばたいている。
ほんの少しの冬の残滓をまとった冷たさと、気怠いような湿度がにじむあたたかさが混ざった春風が、水彩画の色彩の景色を撫でるように吹いている。
花と光の世界はどこまでもやわらかくて、喜びに満ちている。生命の目覚めと始まりの季節。
穏やかな陽射しが、シーツの上で重なる私たちを包む。
冬の先にあるのは春のはずなのに。彼は春を待たずに、私の知らない流れに乗ってしまう。
私は驕っていたのかもしれない。いつか置いて行ってしまうのは私で、私が取り残されることはないと。
彼は行ってしまうのだ。私の手が届かないところまで。
それを変える術を私は持っていない。
だから、せめて今だけは。
彼をこの春の微睡みの中に閉じ込める。やわらかく、やさしいだけの春のひとときに。
手首に爛れるような甘い痛みがはしる。
白い歯を唇から覗かせた彼が、ぷつりと湧き出た小さな血のしずくを舐め取って私を軽く睨みつけた。
「誘っておいて心ここにあらずとは。悪い子じゃ」
「ふふ、ごめんなさい。まだ寝ぼけているのかも」
ひときわ強い風が吹いて、花びらが窓の隙間からベッドの足元に飛ばされてきた。
春風に煽られ続けたその花びらはすっかり乾いていて、端の方はもう茶色く変色している。
つま先でそっと死んだ花びらを床に落とす。
再び私の身体に身を沈めた彼の背中に腕を回して、爪を立てた。深く深く、喰い込むくらい。
花が散っていることに、彼が気付かなければいいと祈りながら。
End.
処処啼鳥を聞く
夜来風雨の声
花落つること知る多少ぞ》─孟浩然
春の明け方ぬくぬくと気持ちよく眠っている
あちこちから鳥のさえずりが聞こえてくる
そういえば夕べは風雨の音がひどかった
もう花は散ってしまっただろうか
彼の身体のゆるやかだけれど確実な変化について、そして彼が決めた“これから”への選択について。
それを聞かされた私は、何も言えなかった。ただ曖昧に笑って頷くことしかできなかった。
私より遥かに長い時を彼とともに過ごした、彼の家族である先輩や同級生が、彼の選択を尊重しようと懸命になっている姿の横で、私が何を言えるだろう。
彼は呵呵と笑って、各々の反応を受け止めていた。
光の下では赤みの増すルビーの瞳の奥で、彼が何を想っているのか私には分からない。
彼はいつも、私には想像もつかないくらい大きな時の流れを見つめている。
その流れの中で、私という存在はどれだけ彼の中に根を張ることができたのだろう。分からない。
茨のように、棘を持つ植物だったらいいと思う。伸ばした枝先で、繰り返し繰り返し棘を刺せば。浅い傷だったとしても、きっとそのかすかな痛みの記憶は刻まれる。彼にささやかな跡を残すことが出来るから。
*
剥き出しの肩にひんやりとした風があたって目が覚めた。
瞼を開けるのはまだ億劫で。胸下まで滑り落ちていたシーツを持ち上げると、生地が触れた首筋にざらりとした痛みがはしった。
指先でなぞる。数時間前にこのベッドの上で彼が私につけた傷痕。小さく鋭い歯型を押すと、指の腹が濡れる。
私は瞼を漸く開いて、指先についた赤い血を眺めた。口に含むと、鉄っぽくて甘い味がする。
「起きたのか、ユウ」
「起きてません、まだ寝ています」
「なんじゃそれは!」
彼の腕の中で指を口に含んだ私を、宝石のような瞳が見下ろす。
笑い声と共に上半身を起こそうとする彼の腕を掴んで、強引にシーツに沈めた。
「ダメ、リリア先輩もまだ寝るんです。起きちゃダメ」
「夜型のわしには嬉しい申し出だが、ユウ、もう昼になってしまうぞ」
「いいんです、休日だもの」
彼の腕をとって背中に回させる。楽しげに目を細めてされるがままになっている彼の胸に顔を埋めて、彼の匂いを吸い込んだ。
冷たい風の吹く、荒涼とした土地に生える乾いた植物のような香り。私は知っている。彼の香りも、華奢に見えて私をまるごと閉じ込めてしまえるくらい厚い胸板も、筋っぽい腕も、骨ばった指も、鋭く白い犬歯は舌で触れるとつやつやとした質感なことも。
それらが私の身体をどんなに優しく暴いていくかも。私の奥深いところまで、彼を感じるその時間がどんなに残酷で愛おしいかを。
「ああ、また跡を付けてしまったな。どうもお主の前では年甲斐もなくはしゃいでしまうようじゃ」
「良いんです。それに先輩、いつもすぐ治しちゃうじゃないですか」
「乙女の身体に傷を残すのは騎士道精神に反するからのう」
彼が私の首筋に指をあてると、じんわりと傷口が熱を持つ。私が指で触れれば、傷は少しの痕跡も残さずに消えていた。
まだこの程度の魔力なら残っているらしい。きっといずれそれも、そう遠くない未来にこの傷のように消えてしまうのだろう。
白い土壌に彼は自分を根付かせない。決して。
どんなに深く歯をたてられ、赤い花が散るほど吸われても、朝になれば嘘のようにすべてをきれいに消し去ってしまう。
それは優しさと気遣いなのかもしれないけれど、とても残酷だと私は思う。
一つくらい、永遠に消えない傷を残してくれたっていいのに。
「おっと……なんじゃー、今朝は随分ご機嫌斜めじゃの?」
なんだか腹が立ってしまって、形の良い鼻にかぷりと噛み付いた私を、彼は楽しげに、そして愛おしげに見つめる。そんな顔するなんて狡い。私を置いて行ってしまうくせに。
でもそれを声に出すことは出来ないから、私の子供っぽいこの悪い口が何かを言ってしまう前に、彼の薄い唇に自分の唇を重ねた。
彼はすぐに応えてくれて、私の唇にやわく歯がたてられる。
足を絡めて、手のひらで彼の頭を抱き込めば熱っぽい溜め息と共に組み敷かれる。
私を見下ろす赤い瞳には今、私だけしか映っていないのに。
「そんな顔を、するな」
「……ごめんなさい」
「いや……謝るのはわしの方か」
「謝らないで」
「ユウ、」
「黙って。続きをして」
「なあユウ、人生には四季がある。わしの人生は今、冬がきたということじゃ」
「何も言わないで」
もう一度彼の唇を強引に塞いで、そのまま硬い鎖骨に噛み付いた。私には彼のような鋭い犬歯がないから傷をつけることは出来ない。けれど痛みの記憶だけは残るようにと、何度も何度も噛み付いた。
そんな私を彼はシーツに優しく沈める。
彼の肩越しに、立て付けの悪い窓が春風にカタカタと揺れた。
昨晩は雨が降っていたけれど、今朝はうららかな小春日和。
窓の外の空にはどこからか飛ばされてきた淡い色の花びらが舞っていて、その合間を鳥たちが歌いながら羽ばたいている。
ほんの少しの冬の残滓をまとった冷たさと、気怠いような湿度がにじむあたたかさが混ざった春風が、水彩画の色彩の景色を撫でるように吹いている。
花と光の世界はどこまでもやわらかくて、喜びに満ちている。生命の目覚めと始まりの季節。
穏やかな陽射しが、シーツの上で重なる私たちを包む。
冬の先にあるのは春のはずなのに。彼は春を待たずに、私の知らない流れに乗ってしまう。
私は驕っていたのかもしれない。いつか置いて行ってしまうのは私で、私が取り残されることはないと。
彼は行ってしまうのだ。私の手が届かないところまで。
それを変える術を私は持っていない。
だから、せめて今だけは。
彼をこの春の微睡みの中に閉じ込める。やわらかく、やさしいだけの春のひとときに。
手首に爛れるような甘い痛みがはしる。
白い歯を唇から覗かせた彼が、ぷつりと湧き出た小さな血のしずくを舐め取って私を軽く睨みつけた。
「誘っておいて心ここにあらずとは。悪い子じゃ」
「ふふ、ごめんなさい。まだ寝ぼけているのかも」
ひときわ強い風が吹いて、花びらが窓の隙間からベッドの足元に飛ばされてきた。
春風に煽られ続けたその花びらはすっかり乾いていて、端の方はもう茶色く変色している。
つま先でそっと死んだ花びらを床に落とす。
再び私の身体に身を沈めた彼の背中に腕を回して、爪を立てた。深く深く、喰い込むくらい。
花が散っていることに、彼が気付かなければいいと祈りながら。
End.