春愁
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春は嫌いだ。
生ぬるい風も、淡い陽射しも。全ての輪郭が曖昧で、心許ない。季節と季節の間から零れ落ちてしまったかのように、全てがあやふやな質感の季節。
その曖昧な空気の中を、白に一滴の血液を混ぜたようなあわい色の花びらが風に煽られて狂ったように舞い上がる。
オンボロ寮の裏庭に埋まった巨木は春になるとその色の花びらを芽吹かせる。
大きく広がった太い枝がしなるほど。
その花姿は遠くから見ると幽幻な霞のようで、近くで見ると美しい怪物のようだった。
桜という花の名を僕に教えてくれた貴方は、その花が貴方の故郷ではシンボリックな存在であると、痛そうに、そして諦めたように笑って語った。
桜の花が、突然降り出した冬の残滓をまとった冷たい雨風に流されていく光景は、パステルカラーで彩られた緩やかな死そのもの。
その花びらが、僕と貴方が横たわるベッドにひらひらと降ってくる。開け放たれた窓から、音もなく。
まるで手向け花のように。僕たちは一体何を弔っているのだろうか。
「先輩、私を海の底に攫ってみませんか?」
と貴方は静かにつぶやく。
窓から舞い込む花びらから視線を離さずに、独り言のように。
答えない僕に小さく笑って「意地悪」とつぶやくのが聞こえた。
僕が意地悪なら、貴方は狡い。
貴方が心からそれを望むなら、僕はその願いを叶えるであろうことを分かっているくせに。
「共に海に沈むのではなく、共に陸ここで生きていくのはいかがですか?」
「私のために海を捨てるんですか?」
「まさか。僕は強欲です。海も陸も貴方も全て欲しい。望むものを手に入れるための努力なら惜しまない」
「それは違います。先輩は私のために本物の海を捨てて、世界を捨てて。本物そっくりの海と世界を一から造る。それから私にこれが海ですよ、世界ですよって綺麗な笑顔で嘘をつく人です」
「買い被りすぎですよ」
「曖昧な否定ですね」
「あなたも意地悪な人だ」
こうやって、僕を批判する貴方だって。
僕が心から望めば、貴方の世界を捨てるくせに。
でも僕たちは決して、その望みを本気で口にはしない。
なにかを失うことに臆病になりすぎたと思っていた。でも違った。何かを知ることに怯えているのだ。
そう、例えば。自分の中で大きくなりすぎた互いの存在とか。
その存在を認めてしまうことで、相手になにかを抱えさせてしまうこと、失わせてしまうこと。もしかしたら、自分という存在以外の世界を敵に回してしまうかもしれない、なんて馬鹿げた恐怖とか。
まだ若くて、そして夢を見るには大人になりすぎた自分たちとか。
往生際の悪い僕たちは、投げやりな酩酊と渇いた諦観と共に、手を、唇を、身体を重ねてやり過ごす。
貴方が触れたところに、僕が触れたところに互いの体温がある。その温度を感じるたびに胸に滲みるように広がる痛みが愛だというのなら、世界は全く優しくない。
僕たちは、なまぬるい春の陽射しの下で、まだ起きていない、けれどもいつか起きるかも知れない喪失の痛みに怯え、震え、そして諦めている。
弔っているのは、弔われているのは、僕たちなのかもしれない。
においのない花びらの黙祷の底で、僕たちは一秒ごとに生まれる僕たちの痛みを、愛を弔う。
僕たちの間でいくつの死が生まれようとも、世界は決して僕たちに優しくはならない。
花が散る。春が終わる。ただそれだけのこと。
End.
生ぬるい風も、淡い陽射しも。全ての輪郭が曖昧で、心許ない。季節と季節の間から零れ落ちてしまったかのように、全てがあやふやな質感の季節。
その曖昧な空気の中を、白に一滴の血液を混ぜたようなあわい色の花びらが風に煽られて狂ったように舞い上がる。
オンボロ寮の裏庭に埋まった巨木は春になるとその色の花びらを芽吹かせる。
大きく広がった太い枝がしなるほど。
その花姿は遠くから見ると幽幻な霞のようで、近くで見ると美しい怪物のようだった。
桜という花の名を僕に教えてくれた貴方は、その花が貴方の故郷ではシンボリックな存在であると、痛そうに、そして諦めたように笑って語った。
桜の花が、突然降り出した冬の残滓をまとった冷たい雨風に流されていく光景は、パステルカラーで彩られた緩やかな死そのもの。
その花びらが、僕と貴方が横たわるベッドにひらひらと降ってくる。開け放たれた窓から、音もなく。
まるで手向け花のように。僕たちは一体何を弔っているのだろうか。
「先輩、私を海の底に攫ってみませんか?」
と貴方は静かにつぶやく。
窓から舞い込む花びらから視線を離さずに、独り言のように。
答えない僕に小さく笑って「意地悪」とつぶやくのが聞こえた。
僕が意地悪なら、貴方は狡い。
貴方が心からそれを望むなら、僕はその願いを叶えるであろうことを分かっているくせに。
「共に海に沈むのではなく、共に陸ここで生きていくのはいかがですか?」
「私のために海を捨てるんですか?」
「まさか。僕は強欲です。海も陸も貴方も全て欲しい。望むものを手に入れるための努力なら惜しまない」
「それは違います。先輩は私のために本物の海を捨てて、世界を捨てて。本物そっくりの海と世界を一から造る。それから私にこれが海ですよ、世界ですよって綺麗な笑顔で嘘をつく人です」
「買い被りすぎですよ」
「曖昧な否定ですね」
「あなたも意地悪な人だ」
こうやって、僕を批判する貴方だって。
僕が心から望めば、貴方の世界を捨てるくせに。
でも僕たちは決して、その望みを本気で口にはしない。
なにかを失うことに臆病になりすぎたと思っていた。でも違った。何かを知ることに怯えているのだ。
そう、例えば。自分の中で大きくなりすぎた互いの存在とか。
その存在を認めてしまうことで、相手になにかを抱えさせてしまうこと、失わせてしまうこと。もしかしたら、自分という存在以外の世界を敵に回してしまうかもしれない、なんて馬鹿げた恐怖とか。
まだ若くて、そして夢を見るには大人になりすぎた自分たちとか。
往生際の悪い僕たちは、投げやりな酩酊と渇いた諦観と共に、手を、唇を、身体を重ねてやり過ごす。
貴方が触れたところに、僕が触れたところに互いの体温がある。その温度を感じるたびに胸に滲みるように広がる痛みが愛だというのなら、世界は全く優しくない。
僕たちは、なまぬるい春の陽射しの下で、まだ起きていない、けれどもいつか起きるかも知れない喪失の痛みに怯え、震え、そして諦めている。
弔っているのは、弔われているのは、僕たちなのかもしれない。
においのない花びらの黙祷の底で、僕たちは一秒ごとに生まれる僕たちの痛みを、愛を弔う。
僕たちの間でいくつの死が生まれようとも、世界は決して僕たちに優しくはならない。
花が散る。春が終わる。ただそれだけのこと。
End.
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