調香師のノート RecipeⅡ ファウスト
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「…これが、賢者の魔法使いファウストと一匹の魔法の猫ヴィオラの物語よ」
「貴重なお話をありがとうございます。…すっかり引き込まれました。それにしても、まるで見てきたように話すのですね。途中、ヴィオラがあなたの姿で再生されてしまいましたよ」
「あら、嬉しいわ」
私の言葉に、女ははにかむように顔を軽く傾けた。
「それにしても、引退後のファウスト・ラウィーニアはずいぶんと静かで穏やかな暮らしをしていたんですね」
「…彼には色んな逸話があるでしょう?ある時は人間と魔法使いが共存共栄できる世界を求めて革命軍を発足し、建国を目指した聖人ファウスト・ラウィーニア。ある時は鬱蒼とした谷の奥に住み、人を憎み、恐ろしげな呪詛を吐く呪い屋。ある時は賢者と仲間たちと共に巨大な厄災と戦い、世界を救った勇敢な魔法使いファウスト。
どのファウストも、その時その時の彼の軌跡で真実。彼というひとを構築する歴史。
でも彼女、ヴィオラにとってのファウストは、ただ、心やさしい魔法使いファウスト。その一人だけ」
「ええ、きっとそうなのでしょう」
「ふふ、楽しんでいただけたかしら?…ああ、沢山おしゃべりして喉がカラカラだわ」
「失礼、良ければ私がおかわりをお持ちします」
「まあ、親切ね。あたためたミルクをお願い。ローズマリーをひと枝落としてね。
…ねえ、あなた、ファウストの香水ができたら教えてちょうだい。ヴィオラもきっと喜ぶわ」
「しかし、猫にとって香料は殆どが毒ですよ」
「あら、私の話聞いていて?ヴィオラは魔法の猫。香料程度の毒なら、今の彼女にとってはほんの少し刺激的なスパイスみたいなものでしょう」
女のすみれ色の瞳が、春の光の中で秘密めいた輝きをはなった。
私は、無意識に前のめりになりながら彼女に質問した。
「つまり彼女は、今でもこの国に?」
だが女は、私の質問には答えない。
代わりに、きらきらと輝くすみれ色の瞳をゆっくりとまたたいた。
その刹那、ざん!とテーブルを揺らすほどの激しい風が吹付け、桃色の花びらが一斉に舞い上がった。吹き付ける風の勢いと、まるでくるくると旋回する花びらに私は思わず目を閉じる。
ほんの三秒ほどの、激しい花ふぶき。ようやく止んで、再び目を開いた私の前から、女が消えていた。
テーブルには、沢山の花びら。私のカップにも、女が飲んでいたミルクのカップにも、淡い桃色の花びらが何枚も沈んでいる。
そのとき。困惑している私の視線の端をなにか凛とした白いものが横切った。
砂埃でごろつく瞳を擦りながら目を遣ると、白にミルクを一滴落としたような真珠色の猫が、ゆるやかに歩いていく後ろ姿だった。
夢でも見ているような心地のまま見つめる。
ふいに白猫が振り返り、すみれ色の瞳の一つを閉じた。悪戯っぽいウィンク。
やがて彼女は、私の視線の中で、春の日差しに溶けるように姿を消した。
──私は、猫が好きだ。