調香師のノート RecipeⅡ ファウスト
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─彼女は、震えていた。
ここ数日の天候の荒れは野良暮らしの彼女の体力を奪うには十分なものだった。不運とは重なるもので、真夜中、こじらせた風邪で重い手足を引きずりながら雨を凌ぐ場所を探している最中(さなか)にワシミミズクの襲撃にあった。
魔力を持つ魔法生物の猫である彼女は、普段ならば魔力を込めた鋭い爪の一撃で撃退できるものだったが、体力と共に魔力も消耗しており、しつこい嘴をなんとか撒いたところで力尽きてしまう。
ワシミミズクに突かれた傷がひんやりと染みたとき、彼女は自分が川に落ちたことに気付いたが、水から這い上がる体力は残っていなかった。さすような水の冷たさがやがて生あたたかく感じるようになり、抗いがたい眠気が襲う。このまま眠ってしまったら、ここで命尽きてしまうのだろう。起きなければ。
そう思いながらも、とうとう彼女は瞼を閉じ、暗い揺り籠のような川の流れにその身体を委ねた。
パチ!と大きくなにかが爆ぜる音で、彼女は目を冷ました。瞼をあげようとしたが、風邪による目脂のせいでうまくひらかない。手足を動かしてみる。濡れていた筈の身体は乾いていたが、ジェルようなものが彼女の自慢である真珠の毛並みのいたるところにべったりとついていた。
パチパチと、楽しげな瞬きのような音がする。その音で、この部屋のあたたかさと薪の燃える匂いに彼女は気付いた。どこかの室内にいる。瞬時に彼女の身体は警戒に強張った。魔力を持った猫というのは、一部のひとたちの間では高値で取り引きされる。
悪趣味な金持ちの人間や、魔法使いたちの間では魔法の猫の魔力をその美しい瞳に集めて眼球だけを抉り出して客間に飾ったり、美しい毛皮を這いでマットにしたりすることをその財力と魔力の強さの象徴とされているらしい。
そんな浅ましい輩に高値で売りつけるため、夜な夜な魔法猫狩りをする賊もいるという話は、彼女もそれなりに長い人生の中で幾度か聞いていた。
くん、と鼻を動かす。まだ魔力が完全に回復していないようで明確には辿れなかったが、かすかに魔力の気配がする。それから、少し離れた場所でなにか、否、だれかが動く気配。
ここがどこで、動く気配がだれなのかは分からないが、逃げなければと彼女は本能で思った。
目脂でくっついた瞼を強引に開こうとすると、瞳の際の薄膜や、その周りのやわらかな毛が引き攣れる。
「こら、待ちなさい。今拭いてあげるから」
彼女の頭上から降ってきた声は、しっとりと雨に濡れた緑のように慎ましく、夜と朝のあわいのようなひそやかなやさしさを含んだ、落ち着いた音をしていた。
ぎし、と床を鳴らしながら彼女がいる場所に近づいてくる。
「今から君の隣に座る。警戒しないでくれ。別に君を取って食ったりはしないよ」
ふうわりと空気が揺れる。様々な薬草と、それを炙った時に立ち昇る芳醇でありながら乾いたような匂いが彼女の鼻をかすめた。敵意や、邪な気配は感じられなかった。
あたたかなガーゼが、そっと瞼に添えられる。彼女が抵抗しないのをみとめると、声の主はさらにそっと、壊れものを扱うかのような手つきで彼女の首元に手のひらを添えて上を向かせた。ゆるやかに、ガーゼが瞼を行き来する。丁寧に、何度も繰り返される。
すきっとした香りがほのかにかおるガーゼ。やがて動きが止まり、恐る恐る瞼を動かすと、先ほどまでの引き攣りが嘘のように滑らかにひらいた。
「ずいぶん風邪をこじらせていたみたいだな。目脂はまだ出るだろうからあとで薬を飲みなさい。それから、傷だらけだったから軟膏も塗っておいたよ。気持ち悪いだろうが、舐めないように」
彼女は、声の主を見上げた。
鶯茶色の髪はやわらかなカーブを描き、毛先につれその色がほのかに淡くなっている。色付きレンズの眼鏡の向こうに覗くのは、彼女と同じすみれ色の瞳。彼女が返事の代わりに小さく喉を鳴らすと、無愛想に見えた表情がかすかにやわらいだ気がした。
「きみ、魔法の猫だろう。何があったのかは知らないが、君は幸運だ。家の裏の小川の小枝に引っかかっていたんだよ、たまたま気づかなければそのまま石になっていたかもしれないし、賊の輩に回収されていたかもしれない…いや、こんな隠居の魔法使いに見つかったのは不運かもしれないな」
独り言のように付け足された言葉に染み付いたような屈折の響きが彼女の胸にひっかかった。
長く生きてきた魔力のあるものとしての本能で、この男がたくさんの悲しみと苦しみを経験したひとだということがわかる。彼女は、かすかにひりつく喉をひらいて小さく、にゃあと鳴いた。
彼女の足の傍に置かれた大きな手のひらに、そっと顔を擦り付ける。猫は知っているのだ。悲しみや苦しみやさみしさに、自分たちのふわふわの毛並みが薬になるということを。─今はところどころ、べたついた薬品が塗られていたとしても。
「なんだ、きみ、人懐っこいな。そんなふうで、よく外の世界で生きてきたね。簡単に人を信じないほうがいいよ。みんな平気で嘘をついたり裏切ったりするのだから」
「にゃう」
そう言いながらも彼は彼女の首の根元や顎の下をくすぐるようにやさしく撫でた。その手つきは繊細で、慎重で、慈しみに満ちたものだった。言葉でなんと言おうと、猫にとってはその手つきが一番の真実だ。
心やさしいひとは、こうやって猫を撫でる。決して冒さず、礼節を守って、それでいて快く寄り添うよくな手つき。
ぐるぐると喉を鳴らすと、彼はまったく、とため息を吐きながらも、彼女が心地よい場所ばかりをそっと撫でてくれていた。
「身体の傷と風邪、それから魔力が回復するまで僕が面倒を見るよ。ただし、机や棚に飛び乗ったり、庭の草を食べるのは禁止だ。僕はひとりで気ままに生きてる。君も、それさえ守って気ままに過ごすといい」
「にゃあ」
「もう少し眠りなさい。目覚めたらミルクをあげるから」
そう言うと男は彼女に毛触りの良い毛布をかけて立ち上がった。
「僕は、東の魔法使いファウスト。君に名前は…いや、必要ないか。短期間の付き合いだからね」
「にゃ」
「なに、不満なの?生憎僕は動物言語には疎くてね」
「にゃう、にゃ…」
彼、ファウストは彼女の抗議の声に困ったように眉を寄せた。しばらく彼女を見つめ、諦めたようなため息をひとつ。
「ヴィオラ。君が、ここにいる間の名前だよ。…君の瞳の色のことだ」
彼女が満足そうに目を細めると、ファウストは今度こそ背を向けて部屋を出ていった。
パチパチと薪がはぜる音。窓の外の雨はいつの間にか勢いを弱めて、しとしととヴェールのような小雨になっている。やわらかい毛布に顎を乗せると、彼女は安心して微睡みに身を委ねた。
─これが、かつての賢者の魔法使いファウスト・ラウィーニアと、一匹の魔法の猫ヴィオラとの出会いの夜だった。
ファウストの朝は早かった。
霧の立ち込めた谷間を明けの明星が照らす夜明けの始まりに、彼はベッドを降りる。
しばらくすると、谷の麓の街にあるのであろう鶏小屋から雄鶏の声が響く。それを合図に、ファウストに少し遅れて彼女も目を覚ます。
ファウストの後を追ってキッチンへ向うと、既に彼が魔法で暖炉に火をつけていた。薪の燃える匂いと、煤の匂い。彼女がこの家に来て一番最初に感じた匂いもこれだった。
春の始まりの早朝は、名残惜しげな冬が残した冷たい空気の薄膜がある。彼女はファウストの足首に頭を擦り付けた。
「まったく、僕に合わせて起きなくていいと言ってるのに…本来、猫は朝寝坊なものじゃないか」
「みゃう」
「今朝は少し冷えるね。どうせ庭にもついてくるのだろう?サティルクナート・ムルクリード」
ファウストが呪文を唱えると彼女の真珠色の毛並みをあたたかな空気が覆う。魔力が完全に回復しきっていない彼女に寒さは禁物だった。これまでの気ままな暮らしで守護魔法をかけられたことがない彼女にとって、ふわふわと自分について回る他人の魔力の気配は慣れないものだったが「また目脂と鼻水だらけになりたいのか?」と、じとりとした目つきで睨まれてからは大人しく受け入れている。
庭の散策は、ファウストの朝の日課だった。
それは庭というより、林のような場所で、鬱蒼とした大木が家を隠すように生い茂り、下草は生え放題に地面を覆っている。
それでも彼がこの庭を丁寧に面倒見ていることを彼女は知っていた。雑草のように見える草は、よく観察すればそれぞれ葉の色形が異なり、清々しい香りをほのかに放つ香草たちであることが分かるし、その香草たちの間を埋めるように、素朴でいて強い春の花たちが朝露に濡れている。
ファウストの後に続いて庭を歩くと、土の奥から植物たちの鼓動が聴こえてくるようだった。
朝露に濡れた前足をぶる、と払うと、ファウストの足首に水滴が跳ねる。
「おい、ヴィオラ」と言いながらも、彼の顔はやさしい。
一人と一匹は、夜と朝のあわいに佇む庭をゆっくりと歩く。
夜の名残を残す薄灰色の空に伸びた枝先には、銀色にちらちらと輝く蜘蛛の巣が張っている。ちょこまかと動く彼らを、退屈しのぎにぴったりのおもちゃのような生き物としてしか認識していなかった彼女は、ファウストからこの美しいレース編みの作品を彼らがつくっているのだと聞かされたときに驚いた。それ以来、屋根裏で彼らを見かけてもちょっかいを仕掛けることをやめているのだ。彼らの職人のような八本の脚に敬意を払って。
朝露は、このレース編みにも落ちている。
八角形の網の目の狭間で揺れる透明の小さな雫は、ここをベッドにして眠った妖精の忘れ物のように、霧の中できらりとひかっていた。
ファウストは散策しながら食事や魔法薬の調合に必要な香草を摘んでいく。
香草の中には、猫にとって毒になるものも多い。食べたら毒なもの、匂いが毒なもの、精油にしたときに発生する成分が毒なもの…と様々だが、魔力を持った彼女は少しの毒ならば緩和できる。
しかしファウストは、ようやく傷が回復した彼女が初めて庭に出た朝、至極真面目な顔でひとつひとつの香草を指し、まるで授業のように毒のあるもの、その毒が猫にどう作用するか、誤って食べたり吸ってしまったりしたときの対処法等を訥々と語った。
彼女が欠伸をすると、彼得意のじとりとした目つきで睨み、そのあと「僕の庭のせいで、君が苦しむのは見たくない」と彼のほうが毒薬を飲まされたかのように苦しそうな顔で呟くものだから。彼女は仕方ないわね、の意味を込めて彼の足首をやさしく甘噛みしてやった。
すべての説明が終わったのはすっかり太陽が空の頂上に昇るころだったけれど、そのお陰で彼女は有害な植物を上手く避けながらファウストと朝の散歩を共にすることができているので良しとしよう。猫という生物は、こざっぱりと潔く割り切るのが上手な生き物でもあるのだった。
必要分の香草を摘み終わるころ、本格的に朝がくる。薄灰色から薔薇色へ、やがてそれが淡く白く消えていき、澄み渡るような青が広がると、丘の下の街からも目覚めの気配が漂ってくる。
子どもたちの転がるようなはしゃぎ声、鶏や羊、山羊ののどかな鳴き声、ガラガラと坂道を駆ける荷車の規則的な車輪の音。
朝霧が晴れていくにつれ、谷の下の景色がゆっくりと色と形をもっていく。
「騒がしくなったな。以前ここに住んでいたときは、あの街はなくて一人で静かに過ごせたものだったのだけど」
そう言いいつつも、ファウストは穏やかな、そして少しだけ眩しそうな表情で街をしばらく見つめた。
聡い彼女は、ファウストのすみれ色の瞳のその表情で、鬱蒼とした木々越しに生活の気配を感じることを、彼は言葉ほど疎んでいないことに気付いていた。
その証拠に、彼の家には週に一、二度の頻度で街の人々が訪れる。
庭の植物や畑の作物の調子が悪いだとか。夜の間ひとの泣き声のような声を出して子どもたちを怖がらせる悪戯好きの精霊をなんとかしてくれだとか。時には想い人に愛を伝えるにはどうしたらいいかなんていう相談まで。
「まったく、僕は呪い屋だったんだぞ」と言いながらも、彼はその都度適切な答えを差し出した。
植物や作物が喜ぶ肥料を調合し、悪戯好きの精霊を鎮める儀式をし、効果の程は知らないけれど、という言葉を添えて可愛らしい恋まじないの呪具を手渡す。
人付き合いは好きじゃない、が口癖の彼だったが、求められると知識も経験も惜しむことなく差し出す。その結果が芳しく無く、それを逆恨みされることもあるだろうに。魔法使いとは多かれ少なかれそういう経験をしているはずだ。
事実、彼は伸ばされた手になにかを差し出すまでひどく葛藤している素振りを見せる。毎回、必ず。それでも、最終的には彼の出来得るうちの最善の助け船を出すのだ。そういう、繊細で慎重で、やわらかな優しさを持つ魔法使い。それが彼女から見たファウストだった。
彼女だけでなく、街の人々も彼に対して同じ印象を持っているのだろう。
依頼者たちは後日たくさんのお礼を抱えて彼の元を再び訪れる。
「一人と一匹じゃ、とても食べ切れないよ。魔法使いはみな大食漢だとでも思っているのか…ねえヴィオラ」
籠いっぱいの採れたての野菜を眺めてそう言う彼のすみれ色の瞳は、やはり優しい表情をしているのだった。
「ヴィオラ、戻って朝食にしよう。苔が朝露で滑りやすくなってるから気をつけるように」
香草を種類ごとに束ねたファウストが、彼女に声をかける。
朝日とともに、すっかり緑の匂いが濃くなっている。空の高いところで、艷やかな黒色の鳥の群れが旋回し、歌うような鳴き声が谷に響いた。
彼女は苔むした岩から器用に跳び、ファウストの肩に着地した。
「おい、行儀が悪いぞ」
「にゃあ、みゃ、みゃう」
「ふふ、わかったわかった。擽ったいよ。すっかり傷は塞がったみたいだ。風邪も治ったようだし、あとは魔力の回復だけだな」
「にゃ」
「ローズマリーが採れたよ。ミルクに浮かべて香りをつけようか。ローズマリーは抽出油以外は君にも無害だから」
ファウストの長い指が彼女の鼻先をそっと擦る。ほのかに植物の香りがして、彼女は目を細めた。ファウストは家に戻る道すがらも、すみれ色の瞳に澄み切った空やみずみずしい緑の葉や思い思いの色に染まった滑らかな花びらを映した。唇に、僅かな微笑みを湛えながら。
ファウストも彼女も、朝のこの散策の時間を愛していた。
ひそやかなベールめいた霧や、朝露に濡れた植物、さわさわとした木々のささやく音色。
激動の時代を経て、やっと訪れた平和な世界。
けれどその過程で流れた血や失われた命、傷ついた沢山の心と身体の上に、この世界は存在している。
自然の静謐な美しさに満ちた朝の散策は彼にとって祈りであり、弔いであり、告解であるのだろう。後悔、煩い、あるいは感謝や慈しみ。
血なまぐさい歴史や悲痛の涙、守れなかったものへの悔恨、裏切りへの憎しみ。そういった一つ一つの欠片を取りこぼすことなく胸に刻んで、それでも。
彼はこの世界を、愛しているのだ。
いつか彼女が人の言葉を操れるようになった折にそう伝えたら、きっといつものじとりとした目つきで否定するだろうけれど。
「さあ、お食べ」
ことりと、彼女の前に二つの皿が置かれる。
一つはほぐした宇宙鶏のささみに少量のバジルを刻んで混ぜたもの。一つはあたためたエバーミルクにローズマリーの小枝で香り付けしたもの。
ファウストのミルクの温度調整は的確で、彼女は一度も繊細な舌を火傷したことも、ぬるすぎてお腹を壊したこともない。
静かに朝食を済ませると、彼女は朝寝の時間だ。その間にファウストは真面目に掃除や洗濯を済ませ、寝室から離れたポーチで薬草の処理や調合を行う。猫にとって害となる薬草を使う作業を、気ままな彼女が大人しくしている朝寝の時間に済ませるのはきっと彼の優しい心遣いのひとつだろう。
昼食は軽く済ませ、午後は各々自由に過ごす。ファウストは本を読んだり、書き物をしたり、紅茶を飲んだり(時たまこっそりワインをコルクを抜いているのも、彼女は知っている)。依頼人が訪れるのも大抵この時間だった。
夜の帳が下りると、夕食。
ファウストが入浴している浴室の扉の前で、彼女も丁寧に毛づくろいをする。
月が天鵞絨の空から輝くころに、就寝。
メリーゴーランドのように規則正しく繰り返される、穏やかで静かな日々。
稀に、ファウストと彼女は寝る前に夜の庭に出ることもあった。
夜の庭は、夜明けの庭とはまた違った美しさがある。
闇の中では黒色に変わる木々の向こうに、満天の星。夜の間にしか花を咲かせない植物たちはみな、水分をたっぷり含んだような、重たく甘い香りを放つ。どこかでトラツグミが夜を知らせる笛を吹き、艶々とした漆黒の翼を持つコウモリが月明かりの中で影のようなダンスを踊っている。
満月だった。長いこと、この世界で見慣れた近すぎる厄災ではなく。夜空の一番高いところから、冴え冴えとした光を放つ金の満月。
ファウストの瞳に、その姿が映る。夜の中では、彼のすみれ色がより深い色合いになるのを見るのが、彼女は好きだった。彼女の瞳と、殆ど変わらない色だ。
「ヴィオラ、きみにも見える?…美しいな」
「にゃう」
「満月をただ純粋に、美しいと思う日がくるなんてね。今でもたまに、信じられないよ」
「にゃ、にゃあ」
「ああ、きみの瞳は夜の中だとすみれ色が濃くなるね」
ファウストはそう言って彼女の耳の付け根を指先で撫でる。彼女は、彼女が考えていたことと同じことを彼が言ったのが嬉しくて、思う存分喉を鳴らして撫でさせてやった。
大抵はそんなふうに静かな夜を過ごしていたが、時おり真夜中にファウストが魘されることがあった。
薄いカーテン越しの月明かりに照らされた彼の顔は苦しげに歪み、荒い呼吸の合間につらそうなうめき声を洩らす。
彼女はファウストの眠るベッドの横に設えられた、ふわふわの毛布を敷き詰めた籠から飛び起きると、そっとしっぽの先で彼の頬に浮かぶ汗を拭う。
ざらりとした舌で、シーツをきつく握りしめる指先を舐める。それでもまだ悪夢に捕われたままのとき、彼女はファウストの鶯茶色のくせ毛にうまったやわらかな耳たぶをいつもよりほんの少しだけ力を込めて噛むのだった。
そうしてやっと、ファウストの薄い瞼がひらかれる。彼女は彼の首元に額を擦り付け、荒い呼吸を鎮めるように彼の胸を二つの前足で交互に踏んだ。やがて速すぎる鼓動が落ち着くころ、彼の腕が伸びてきて彼女をそっと抱きしめる。
「…ヴィオラ、君はあたたかいな」
ファウストのすみれ色の瞳は、どこか薄膜のようなものが張っていて、完全に覚醒仕切っていないのが分かる。彼女が応えるようにゴロゴロと喉を鳴らすと、ようやく穏やかな寝息が聴こえてきた。
彼女は顎をファウストの胸に乗せて、瞼を閉じる。また、彼が魘されていることにすぐ気付けるように耳だけはぴんと立てたまま。
彼女の真珠色の毛の向こう側で、とくとくとファウストの心臓が命を刻む音がする。
─ファウストだって、あたたかかった。それは体温だけじゃない。悲しみも苦しみも悔しさもすべてを背負い込んで、それでも誰かに手を差し伸べてしまう彼の、傷跡がたくさんある心の優しさが持つ温度なのだ。
そんなふうにして過ごす日々の中で、彼女の魔力は次第に回復していった。
目が覚める度に、真珠の毛先がぴくぴくと落ち着かないような、さわさわと手足が疼くような感覚が大きくなる。身体も心も魔力もすっかり元気を取り戻して、休息していた猫の気質が目覚めたのだろう。
─ここを去る日がきたと。
彼女だけでなくファウストも気付いた。
最後の日も、いつもと同様に夜明けの庭を散策した。
木々の緑はますます濃くなり、庭全体が呼吸するようだった。
彼はいつもと変わらず香草を摘み取り、彼女も彼の足首にじゃれるのに飽きると、苔むした岩から空を飛び回る鳥たちを見上げた。
霧が晴れ、青の面積が広がる。すきっとした香りが彼女もお気に入りのローズマリーは、枝葉をみるみる広げてこんもりとした茂みをつくっている。こんなふうに、世界は生きている。こんなふうに、時間は生きている。
長く長く生きるファウストと彼女もまた、その流れの中でそんなふうに生きていくのだ。やがて命が尽きるときまで。
「ヴィオラ」
「にゃ…」
「困ったな。僕はすっかり、君に心を許してしまったからね」
「みゃうみゃあ」
「でも僕たちは魔法使い。孤独に、一人で、長い時を生きていく定めだ」
「うにゃう」
「行きなさい、ヴィオラ。もし、きみが幸運だったらまた会えるだろう、きっと」
「にゃ、にゃ、にゃう…!」
─ファウスト、あなたに会えた私を幸運と呼ばずしてなんと呼ぶつもり?
あなたは私にたくさんのことを与えてくれた。傷や病を癒やしてくれただけじゃない。そっと、慎重に、丁寧に寄り添う優しさを沢山くれた。
ねえ、私だけじゃなくて、あなたに出会ったすべての人がきっとそう思っているのよ。
すみれ色の瞳の、優しい魔法使いさん。
彼女の言葉が彼に通じたかは分からない。
けれど彼女の鳴き声にじっと耳を傾けたファウストは、彼女の心地よい場所すべてを順番に撫でて、小さな声でささやくように、呪文を唱えた。
「サティルクナート・ムルクリード。今のきみにはもう必要のない守護魔法だろうけれど、まあ…僕からの餞別として受け取ってくれ」
「にゃっ」
彼女はファウストの指先をありったけの愛情を込めて甘噛みした。いつもより、ほんの少しだけ、強く。彼が魔法をかけない限り、この噛み跡は数日は残るだろう。
「ヴィオラ、きみという猫は…」
「にゃう!」
「ああ、さようならヴィオラ。…ありがとう」
彼女は軽やかに走り跳び、嵐の谷を後にした。
ふわふわと真珠色の毛にまとわりつく彼の気配を抱き締めながら。どこまでも、気ままに、走った。
それから何年か、何十年か。─もしかしたら何百年かかもしれない─の後、彼女は猫らしい気まぐれな思いつきで、ファウストを再び訪ねることにした。
魔法の猫は生きた分だけ魔力が増していく。
彼女の魔力は、ファウストに初めて出会ったときと比べると非常に強くなっている。
嵐の谷の、林めいた鬱蒼とした木々の前で、彼女の悪戯心が疼く。
緑の茂みの中で彼女はすみれ色の瞳を閉じ、ぶるりとひとつ大きな身震いをした。
自慢の真珠色の毛並みの代わりに、五つの指がついた前足と後足。否、腕と脚。
ミルクのようなワンピースをまとった胸元にかかる髪の毛は、白に近いプラチナブロンド。完璧な、人間の姿。変化魔法を使いこなせるくらいには、彼女の魔力は増しているのだ。
すみれ色の瞳を悪戯っぽく輝かせて、彼女は懐かしい玄関の扉を叩く。
「誰だ」
相変わらず無愛想な声と共に扉が開かれて、あの頃とちっとも変わらないファウストが一瞬驚愕の表情を浮かべた。
けれど、またたきの間に目尻を下げ、困ったようなため息を吐くと、
「君か。久しぶりだね」と言うのだった。
憎らしくて、いとおしくて、彼女は人間の姿のまま、彼の首筋にやさしく噛みついた。
「おい、こら!」と珍しく慌てる彼が可笑しい。まだ人間の言葉を習得は出来ていないので、微笑に何年も生きてるくせに、うぶなんだから、という心を滲ませると、むっつりと黙りこくってしまうのだからますます可笑しい。
「サティルクナート・ムルクリード」
懐かしい呪文が聞こえたと思うと、彼女の身体が光りに包まれ、あっという間に本来の姿に戻される。
「ふん、次はもっと強度を高めてくるように」
一瞬すぎる出来事に、何が起きたか分からないとすみれ色の瞳をぱちぱちと瞬く彼女の様子に機嫌を直したファウストは、ローズマリー入りのミルクをあたため始める。
久しぶりに、穏やかなお茶会を過ごして、彼女はまた嵐の谷を去ったのだった。
その何年か、何十年か。─もしかしたら何百年かかもしれない─の後、彼女はまた気まぐれにファウストを訪ねた。今度は猫の姿のままで。
だが嵐の谷は、彼の屋敷だけが忽然と消えていた。
林のような鬱蒼とした木々も、苔むした岩も、すきっと伸びた香草たちもあの頃と変わらない。ただ彼の屋敷だけが、存在していない。
以前訪れたときは何年前だっただろうか。もしかしたら、住まいを変えたのかもしれない。
─それとも。
彼女も、もう随分長く生きている。
魔法使い同様、魔法の猫も長寿ゆえ時間の経過感覚が他の生き物より曖昧だ。
「みゃう」
彼女は苔むした岩に跳び乗って、かつて彼と眺めた谷の下の景色を見下ろした。
あの頃と変わらないようでいて、よく観察すれば変化している。麓の街は、明らかに人家が増え、道行く人々の数も多い。
背中に変わらない景色、眼前に変化した景色。
こんなふうに、世界は生きている。こんなふうに、時間は生きている。
長く長く生きるファウストと彼女もまた、その流れの中でそんなふうに生きている。やがて命が尽きるときまで。
ふと、岩に出来た割れの隙間から、季節外れのすみれが咲いていることに彼女は気付いた。
風に飛ばされた種子がここ数日の暖かな気候に狂い咲いたのだろう。
かすかに青の濃いすみれと、紫のすみれ。ファウストとヴィオラの瞳の色。
そのとき、寄り添うように咲いているすみれを見つめる彼女の名前を、懐かしい声が呼んだ気がした。
ぴくぴくと耳を動かして振り向いても、鬱蒼とした緑が揺れるだけ。
彼女は青の濃いほうのすみれの花びらをやさしく爪の先で撫でた。
そしてぴょんと飛び跳ねると、軽やかに走り出し。
午後の日差しの中にそのミルクを落とした真珠色の毛並みを溶かすように、消えていくのだった。