調香師のノート RecipeⅡ ファウスト
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東の国の魔法使いたちの軌跡を辿って東の国を訪れたものの、私は辟易していた。この国独自の法典は事細かで、旅人には肩身が狭い。
ひとや書物を頼りに彼らの逸話を集めている身としては、書き物をする時間が細かく定められている図書館や、話すことや本を読むことが出来る場合・時間が限られているこの国での調査は非常にやりにくいものだった。
人口の多い都心部で情報を集めるつもりでいたが、この法典順守の意識は郊外のほうが比較的緩いと耳に挟んだので私は早々に雨の街を離れ、郊外の小さな街へやってきた。
幸運にも、嵐の谷の麓にある街だった。賢者の魔法使いのひとりが暮らしていた場所だ。この街は谷の麓に相応しく自然豊かで、ひとびとも都市部に比べると社交的だった。
私は、旅人向けの宿屋に腰を落ち着け、宿屋の主人が案内してくれた宿屋内のカフェへ向かった。
カフェと言っても飲み物はセルフサービスで、紅茶や珈琲、ハーブティーの類がずらりと並んでいる。このカフェ内は会話も、読書も、書き物も禁じられていない。運が良ければ、吟遊詩人がやってきてこの国の古い物語を歌い語りするのを聞けるらしい。東の国の中で一番社交的な場所なのではないだろうか。
カフェ内はそれなりに混雑していた。一人読書をするひと。なにやら分厚い書物を広げて、かじりつくようにノートに文字を書きつけているひと。会話をしているグループも何組かあったが、ひそやかな談笑といった趣きでそこが東の国らしい。
私はローズマリーと紅茶の茶葉をブレンドし、湯を注いだ。カフェの中からは、宿屋のフロントが見える。何気なくフロントに目を遣った私は、宿主の足首に擦り寄る猫の姿をみとめた。
美しい、猫だった。白にミルクを一滴混ぜたような、真珠色の毛並み。宿屋の主人が首の根元を撫でると心地よさそうに細められる瞳は、深いすみれ色。
私は、猫が好きだ。仕事柄様々な香料、様々な植物が部屋中に並んでいるため飼うことはできないが、こうして時たま見かけるとついつい後を追ってしまうくらいにはこの生き物を愛している。
ふと、すみれ色の瞳がこちらを向いた。目があった瞬間、気まぐれな彼ららしく、軽やかな身のこなしで開け放たれた玄関口から出ていってしまった。私も撫でさせてもらえないだろうかなんて考えていたので少し残念に思いつつ、テラス席へ向かう。
季節は春。
テラスから見える景色の向こう側に嵐の谷の鬱蒼とした、けれどみずみずしい緑の木々が広がっている。
宿屋の敷地なのか、それとも国のものなのか、適度に整えられた谷の麓の景観は田舎町と聞いて想像するとおりの穏やかで素朴な美しさだった。
緩やかな小川が流れ、草地の至る所に春の花が揺れている。クロッカスの宝玉のような輝かしい黄色、ムスカリの目が覚めるように冴え冴えとした青紫、プリムローズの平和な淡紅。それらの花々の間に、すみれが群生している。先ほど見かけた美しい猫の瞳と同じ色の花は、あたたかな春の日差しにこたえるように小さな花びらを空に向けてひらいていた。
旅の疲れが、ゆっくりと癒やされていくのを感じる。目を閉じ、すきっとしたローズマリーが香る茶を口に含んだときだった。
「こんにちは、失礼してもよろしいかしら」
可憐でありながら、どこか悪戯っぽい響きを含んだ声をかけられて私は目を開けた。
そこには美しい女がいた。春の光のしたでは殆ど白に見えるプラチナブロンドの髪、すみれ色の瞳は凛とした佇まい。驚く私に微笑みながら、淡い色の唇に持っていたカップを運んだ。カップが離れると、その唇に白い薄膜が張る。ざらりとした舌がそれを舐め取る仕草はどことなくコケティシュだった。
「ここの主人に聞いたの。あなた、賢者の魔法使いの逸話を集める旅をしているのですって?」
「ええ、その通りです。私は調香師をしています。賢者の魔法使いたちの逸話に基づいて、彼らの香水を調香するために」
「まあ、素敵。そしてあなたは幸運よ。なぜって私、賢者の魔法使いの一人の逸話を知っているのだもの」
「それは…。是非、お聞かせ願えますか?」
「ええ、もちろん」
そう言って女は、空いた椅子に腰を落とした。
緩やかにしなをつくる腰の曲線。けれど媚びるような艶かしさはない。どちらかというと幼げな印象のほうが強いのが不思議だった。けれど、すみれ色の瞳は鋭いほど凛として、こんな瞳だったら深い闇夜でも見通せるのではないかと思った。
「あの、嵐の谷に住んでいた魔法使いファウストと、一時期彼の家に身を寄せていた一匹の猫の話です」
「猫?」
「ええ、彼女から直接聞いた話だから確かなものよ」
「直接…猫から、ということはあなたも魔法使いですか?」
「そのようなものね」
彼女は悪戯っぽく笑うと、もう一口カップの中身を飲み下す。なるほど、成人はしているけれどまだ年若い女に見えるが魔法使いと聞いて彼女の不思議な雰囲気に納得した。魔法使いはそういうひとが多い。
「彼、ファウストが賢者の魔法使いを引退したあとの話よ。長かった厄災との戦いがやっと終わって、たくさんの血と犠牲ののちに、この世界に平穏が訪れたときのはなし。彼は、引退したあとはやはりこの嵐の谷に戻ってきたの」
ざぁ、とひときわ大きな春風が吹いて、背の高い木に咲いた桃色の花の花びらが宙に舞い上がる。花吹雪。これから始まる物語を聞きに、春の精霊も集まってきたのだろうか。
私はローズマリーの茶を横にずらし、旅の共である手帖ノートをひらいて彼女の言葉に耳を傾けた。
ひとや書物を頼りに彼らの逸話を集めている身としては、書き物をする時間が細かく定められている図書館や、話すことや本を読むことが出来る場合・時間が限られているこの国での調査は非常にやりにくいものだった。
人口の多い都心部で情報を集めるつもりでいたが、この法典順守の意識は郊外のほうが比較的緩いと耳に挟んだので私は早々に雨の街を離れ、郊外の小さな街へやってきた。
幸運にも、嵐の谷の麓にある街だった。賢者の魔法使いのひとりが暮らしていた場所だ。この街は谷の麓に相応しく自然豊かで、ひとびとも都市部に比べると社交的だった。
私は、旅人向けの宿屋に腰を落ち着け、宿屋の主人が案内してくれた宿屋内のカフェへ向かった。
カフェと言っても飲み物はセルフサービスで、紅茶や珈琲、ハーブティーの類がずらりと並んでいる。このカフェ内は会話も、読書も、書き物も禁じられていない。運が良ければ、吟遊詩人がやってきてこの国の古い物語を歌い語りするのを聞けるらしい。東の国の中で一番社交的な場所なのではないだろうか。
カフェ内はそれなりに混雑していた。一人読書をするひと。なにやら分厚い書物を広げて、かじりつくようにノートに文字を書きつけているひと。会話をしているグループも何組かあったが、ひそやかな談笑といった趣きでそこが東の国らしい。
私はローズマリーと紅茶の茶葉をブレンドし、湯を注いだ。カフェの中からは、宿屋のフロントが見える。何気なくフロントに目を遣った私は、宿主の足首に擦り寄る猫の姿をみとめた。
美しい、猫だった。白にミルクを一滴混ぜたような、真珠色の毛並み。宿屋の主人が首の根元を撫でると心地よさそうに細められる瞳は、深いすみれ色。
私は、猫が好きだ。仕事柄様々な香料、様々な植物が部屋中に並んでいるため飼うことはできないが、こうして時たま見かけるとついつい後を追ってしまうくらいにはこの生き物を愛している。
ふと、すみれ色の瞳がこちらを向いた。目があった瞬間、気まぐれな彼ららしく、軽やかな身のこなしで開け放たれた玄関口から出ていってしまった。私も撫でさせてもらえないだろうかなんて考えていたので少し残念に思いつつ、テラス席へ向かう。
季節は春。
テラスから見える景色の向こう側に嵐の谷の鬱蒼とした、けれどみずみずしい緑の木々が広がっている。
宿屋の敷地なのか、それとも国のものなのか、適度に整えられた谷の麓の景観は田舎町と聞いて想像するとおりの穏やかで素朴な美しさだった。
緩やかな小川が流れ、草地の至る所に春の花が揺れている。クロッカスの宝玉のような輝かしい黄色、ムスカリの目が覚めるように冴え冴えとした青紫、プリムローズの平和な淡紅。それらの花々の間に、すみれが群生している。先ほど見かけた美しい猫の瞳と同じ色の花は、あたたかな春の日差しにこたえるように小さな花びらを空に向けてひらいていた。
旅の疲れが、ゆっくりと癒やされていくのを感じる。目を閉じ、すきっとしたローズマリーが香る茶を口に含んだときだった。
「こんにちは、失礼してもよろしいかしら」
可憐でありながら、どこか悪戯っぽい響きを含んだ声をかけられて私は目を開けた。
そこには美しい女がいた。春の光のしたでは殆ど白に見えるプラチナブロンドの髪、すみれ色の瞳は凛とした佇まい。驚く私に微笑みながら、淡い色の唇に持っていたカップを運んだ。カップが離れると、その唇に白い薄膜が張る。ざらりとした舌がそれを舐め取る仕草はどことなくコケティシュだった。
「ここの主人に聞いたの。あなた、賢者の魔法使いの逸話を集める旅をしているのですって?」
「ええ、その通りです。私は調香師をしています。賢者の魔法使いたちの逸話に基づいて、彼らの香水を調香するために」
「まあ、素敵。そしてあなたは幸運よ。なぜって私、賢者の魔法使いの一人の逸話を知っているのだもの」
「それは…。是非、お聞かせ願えますか?」
「ええ、もちろん」
そう言って女は、空いた椅子に腰を落とした。
緩やかにしなをつくる腰の曲線。けれど媚びるような艶かしさはない。どちらかというと幼げな印象のほうが強いのが不思議だった。けれど、すみれ色の瞳は鋭いほど凛として、こんな瞳だったら深い闇夜でも見通せるのではないかと思った。
「あの、嵐の谷に住んでいた魔法使いファウストと、一時期彼の家に身を寄せていた一匹の猫の話です」
「猫?」
「ええ、彼女から直接聞いた話だから確かなものよ」
「直接…猫から、ということはあなたも魔法使いですか?」
「そのようなものね」
彼女は悪戯っぽく笑うと、もう一口カップの中身を飲み下す。なるほど、成人はしているけれどまだ年若い女に見えるが魔法使いと聞いて彼女の不思議な雰囲気に納得した。魔法使いはそういうひとが多い。
「彼、ファウストが賢者の魔法使いを引退したあとの話よ。長かった厄災との戦いがやっと終わって、たくさんの血と犠牲ののちに、この世界に平穏が訪れたときのはなし。彼は、引退したあとはやはりこの嵐の谷に戻ってきたの」
ざぁ、とひときわ大きな春風が吹いて、背の高い木に咲いた桃色の花の花びらが宙に舞い上がる。花吹雪。これから始まる物語を聞きに、春の精霊も集まってきたのだろうか。
私はローズマリーの茶を横にずらし、旅の共である手帖ノートをひらいて彼女の言葉に耳を傾けた。