調香師のノート RecipeⅠ フィガロ
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「ごめんね」
そう言った先生の顔は慈しみに満ちていた。そう、悲しみではなくて慈しみ。
悲しみ、には湿った質感がある。けれど先生の顔は乾いていた。冷淡な乾きではなくて、もっと優しく穏やかで、さらさらとした質感。
その顔を見て僕は、ああ本当に、兄は逝ってしまうんだと。彼の闘病の傍で過ごした長い日々の中で初めて、心からその事実を認めた。
兄は、僕が物心ついたときから身体が弱かった。不幸なことに、魔力だけは僕なんかよりももっと強くて、結果的にその魔力に蝕まれるように、肉体が衰弱していった。こういうことは、稀にあるらしい。
先生は魔法や薬で兄の痛みや苦しみが少しでも緩和されるようにしてくれていた。それは治療ではなくて、文字通り緩和。つまりいつかはこの日が来るということを僕たち家族は覚悟していた。
骨が浮き出るほど痩せほそって、皮膚の向こうが透けるんじゃないかって思うほど白い顔色で荒い呼吸を繰り返す兄がほんの束の間の眠りに入ったとき、先生は兄の身体がもう保たないだろうということを僕たちに告げた。
母さんのすすり泣き。父さんは黙っていたけれどきつく握りしめた拳が震えていた。
僕は、なんだか現実味がなくて。白いシーツに横たわる薄い身体を見つめながら先生の声を遠く聞いていた。
そんな僕の頬に、ひんやりしたものが触れる。先生の指だった。
僕の顔を覗き込むようにして「ごめんね」と言った先生の顔──慈しみというのは、諦観でできているのだと思った。
どうすることもできない不条理と、それを最後まで見届ける覚悟の孤独。兄の死の間際に、僕は世界でいまこの瞬間も発生し続けている誕生と消滅の摂理の片鱗を、先生の表情に垣間見たのだと思う。
兄は、先生が北の国の夢の森に連れて行くことになった。最期だけは、痛みと苦しみから開放されて幸せな夢を見ながら逝けるように。
夢の森は様々な魔力が入り乱れ強い毒を放出する場所だから、僕たちがついていくことはできない。母さんも父さんも僕も魔法使いではあったけど、魔力は弱い方。そういう生き物は、森にうごめくものたちに取り込まれて、呑まれてしまう。
「俺が責任持って、見送るよ。石は埋葬するんだろう?ちゃんと連れて帰るからね」
先生はいつもの、優しくて頼れるお医者さんの顔で言った。母さんと父さんは項垂れて首を小さく縦に振ってそれを受け入れた。
けれど、僕は。両親の目を盗んで、兄と先生の後を追って森へ向かったんだ。
夜の空を飛ぶ先生たちとは一定の距離を保って慎重に後を付けていた。北の国の気候に備えて、防寒魔法もかけた。けれどあたたかな南で生まれ育った僕には北の吹雪は想像以上に厳しくて、やっと地に降り立つころには全身ががくがくと震えていた。
それでも歯を食いしばって持ってきた気付薬を飲み下し、森の入口に一歩足を踏み入れた瞬間。
先生の笑みを含んだような声色が僕の名前を呼んだ。今にして思えば、最初から気付いていたのだと思う。もしかしたら、北の国に入ったときにはもう僅かに守護魔法をかけてくれていたのかもしれない。僕の魔力と体力で、北の国の空を飛んでいたことすら奇跡に近いことだったから。
「そこで止まって。動いちゃ駄目だよ」
先生の声は穏やかだけど有無を言わせない圧を含んでいて。僕は怯みそうになる自分を奮い立たせるように、思い切り息を吸って叫んだ。
「先生!お願いです、僕も行かせて!…駄目だって言われても、ついていくから、絶対に、帰らないっ!」
先生が僕を魔法で強制的に帰らせるかもしれないと思った僕は必死でお願い…いや、先生を睨みつけて怒鳴ったあれは脅しに近かったかもしれない。もちろん先生にとっては子供で魔力の弱い僕の脅しなんて、取るに足らないものだったろうけど。
先生は、腕の中で苦しげな呼吸を繰り返す兄をやさしく抱え直すと僕の方へ歩いてきて、呆れたような、困ったような、そしてどこか興味深そうな眼差しと共に僕の頭を撫でた。
撫でられたところからじんわりとあたためられて、吹雪で濡れた髪や服が乾かされていく。芯から冷えて感覚をなくしていた指先も、少しずつほぐれていくようだった。
「帰れなんて言わないよ。けど、聞かせて。どうして?言葉を選ばずに言うけれど、自分の兄弟が死んでしまう瞬間を見ることは、君には精神的な負担が大きすぎると先生は思うよ」
「もちろんマナ石になった兄と対面するのだって辛いものだけれど、今際のときに対峙することは比べ物にならない。夢の森は、死にゆくものに美しい夢を見せてくれる。君の兄は苦しまずに、幸せな夢の中で死ねるだろう。けれど俺達にその夢は見れない。ただ大切な人が、死という圧倒的ななにかに連れ去られるのを目の当たりにするだけなんだ。分かるね?」
相変わらず微笑んだまま、諭すように語る先生の瞳は真剣だった。そんなことは分かっているという苛立ちが冷やされるくらい、冷静で、真摯で、厳格な眼差し。問われている、と思った。
覚悟はあるのか。子供じみた強がりや、稚い好奇心や、浅はかな感傷を全て捨てて、死という摂理に相まみえる覚悟が。真実から逃げることも、現実から逸らすこともせず、それを眼差す覚悟はあるのかと。
「……それでも、僕は、兄ちゃんのすべてをこの目で見て、覚えていたい。兄ちゃんが病気と戦っている間のことを傍でずっと見てきたんだ。最期だけ、誰かに託すなんて、僕は嫌だ。ちゃんと、兄ちゃんが“終わる”ところまで、見届けたいんだ、兄ちゃんが生きたすべてを」
「………ポッシデオ」
眩い光に包まれて、僕は絶望した。
─帰される。
せっかくここまで来たのに。兄の最期を見届けることを赦されず、無力な子供として、庇護される。悔しくて歯を食いしばったところで、どうにもならない。悲しかった。兄の苦しみを紛らわす事もできず、最期に寄り添ってやることすらできないことが。
閉じた瞼の向こうで、光が弱くなる。移動魔法をかけられた際に感じる独特の内臓の浮遊感が無い。恐る恐る目を開けると、曖昧な笑みを浮かべた先生が僕を見つめていた。諦めたような、絶望したような、眩しいような。灰がかった榛色の瞳の薄膜の向こう側に揺れる先生の心を読もうと見つめ返す。けれど瞬きひとつのうちに、その揺らぎはす、と消える。いつもの優しい表情で、先生は僕の頭を撫でた。
「守りの魔法をかけたよ。とはいえ夢の森の毒は強力だ。なにかあったとき、俺が逃げろと言ったら逃げる、俺やお兄さんを置いていけと言ったら置いていく。できるね?」
「……はい」
「良い子だ。おいで」
夢の森は、静かだった。僕と先生の足音と、兄が時おり漏らす苦しげな呼吸とうめき声のほかには何も聞こえない。森の至る所で結晶石が七色に光って、群生する花を照らしている。絵本の一ページのような幻想的な風景。けれど本来森という場所で聴こえるはずの生命の息吹きがない。動物や鳥の鳴き声も、木々の葉擦れの音も、なにもかも、森全体が息を潜めて僕たちを見て・・いる。そんな圧迫感がある。夢の森の神木は、死にゆく者が見る夢を養分にして毒を吐く。この静寂が、新たな獲物を待ち、ゆっくりと構えているものの視線のように感じられて僕は身震いした。
景色が美しければ美しいほど、禍々しい。ここは、生と死の狭間の場所だ。
「これが、夢の森の神木だ」
先生が視線で指した先に、巨大な木が在った。太い幹は神木の呼び名に相応しくどっしりとした威圧感を漂わせ、どこまでも広がる枝葉が風もないのに揺れている。僕たちを、誘ういざなように。
美しいのに、膚が粟立つ。本能的な震えが身体を揺らす。
善くないものだ。心臓が鼓動を刻み、熱い血が血管を流れ、肺を膨らませて呼吸する生命あるものにとって捕食者のようなそれが、死にゆくものにとっては甘い抱擁と苦痛からの解放になること。今からそれが兄を解放すると同時に僕から永遠に奪おうとしていくことを、僕の“生”の部分が全力で畏れ、嫌悪していた。
震える指先を強く固く握り締めて、僕は神木を見上げた。逃げない。逸らさない。大好きな兄がどう逝ったかを、彼の命の終幕を、きちんとこの目で見届ける。そのためにここまで来たのだから。
「大丈夫かい?戻ってもいいんだよ」
「っ…戻りません」
「そう、君の頑固さには困ったものだけど。先生はそういうところ、嫌いじゃないよ。…さあ、俺が呪文を唱えたら、彼に今かけている守護と緩和の魔法が解けて神木の毒を吸い込むだろう。意味は、わかるね?」
「はい…」
「それじゃあ、始めるよ。…ポッシデオ」
先生は兄を横抱きにしたまま、神木の根本に膝をおろして呪文を放った。
兄の瞼が一瞬開かれて、びくんと全身が痙攣する。それはすぐに治まって、兄はゆっくりと微笑んだ。もう何年も見ていなかった、穏やかでやさしい陽だまりのような兄の笑顔。兄は先生の腕の中で上体を起こして、遠くを見て微笑んでいる。
病に蝕まれる前の兄は、こんなふうに笑うひとだった。賢くて、強くて、優しくて、その笑顔を向けられた人はたちまち満たされてしまうような微笑みを振り撒くひと。
兄の唇がかすかに動く。声は出なかったけれど、まるで歌うように、唇の端が震えている。今、兄の瞳にはなにが映っているのだろう。
禍々しい毒が見せる幻影であったとしても、どうかやさしく、甘く、あたたかい幸福でありますようにと祈りたくなる。また唇が震えて、今度は声が漏れた。懐かしい、兄の笑い声。兄はあまり大口を開けて笑うようなタイプではなかったけれど、時おりこぼす鈴が転がるような、小さく楽しげな笑い声は、聞いた人はもっと聞きたい、もっと笑って欲しいと願わずにはいられない心地よいものだった。
風もないのに、神木の枝葉が揺れて、僕の目にも見えるほど濃い霧のような毒が吐き出される。先生が鋭い横目で僕を見た。大丈夫、と答える代わりに頷く。さっきよりかすかに息苦しさは感じるけれど、まだ魔法に守られている。まだ、大丈夫。
兄は濃くなった毒の霧に呼応するように、ますます微笑みを深めて。僕と先生には見えない何かを見つめている。彼の、幸せな夢を。
どうか最後まで、夢を見たままで、幸せのなかでいけますように。まだ経験する必要のなかった痛みと苦しみに苛まれた分だけ、優しい夢を見れますように。
僕は無意識に手を組んで、そう祈っていた。誰にかはわからない。僕も僕の家族も特定の信仰を持たないし、魔法使いだから。それでも、祈らずにはいられなかった。兄に、僕に、神木に、僕たちを照らす大きすぎる月に、もしかしたら、神さまに。
「あ、…」
兄の瞼が、スローモーションのようにゆっくりと閉ざされていく。まだ胸はかすかに上下しているけれど、僕は本能的に、その時がきたことを悟った。
その瞬間、不意にどうしようもない勢いと大きさで喪失への恐怖、死というもの存在へのとてつもない恐怖が、僕の全身に襲いかかった。 歯を食いしばろうとして失敗して、口の中に鉄の味が広がる。ガチガチと鳴る奥歯を必死に噛み締める。そうでもしないと、叫び出してしまいそうだった。怖い。畏い。兄を喪うことが。兄を奪われることが。死というものの不条理が。不変が。理が。もう駄目だ。喉を開いて叫けびたい。いっそのこと、僕にも夢を見せて欲しい。いずれ死が僕にもやってくるのだというのなら、今ここで、夢を見ながら逝かせてほしい。怖い。怖い。怖い。
「大丈夫」
真っ暗で恐ろしい闇に、凛と静かな声が響いた。きつく握りしめた僕の手のひらを、冷たくて大きな手のひらが包んだ。冷え切った肌と肌が触れ合って、そこにぬくもりがうまれる。
指先から、腕へ。腕から肩へ。肩から胸へ。胸から心へ。ゆっくりとあたたかさが流れ込んでくる。次第に力が抜けて、震えるほど圧倒的な力で僕を蝕んでいた恐怖心が落ち着いていく。
気づかないうちに目を閉じていたらしい。瞼を開くと、涙が零れ落ちて視界を濡らした。
視線は膝の上に抱いた兄に向けたまま、僕の指と自分の指を絡めるように、先生が手を繋いでいる。
「私がここにいる。そばにいるよ」
落ち着いた、静かな、声。
涙でぼやける視界に映る先生の横顔は、神さまみたいな顔をしていた。神さまなんか、見たことないのに。神さまはきっと、こんな顔をしているのだろうと、その時の僕は思った。
諦めと、虚脱と、慈しみが混ざり合った不思議な漂泊感と、それらすべてを超越し、ただ俯瞰する静けさをたたえた横顔。その横顔を見ているうちに僕の中の恐怖は完全に消えて、僕の心のなかにも先生の横顔と同質の静けさがゆっくりと満ちていくのを感じた。
僕は先生の手を強く握り返して、永遠に旅立とうとする兄をしっかりと見つめた。
兄の体が光りに包まれて、マナ石に変化したとき、ほんの一瞬だけ、先生の横顔が揺れた。先生の心の内の動きの本当のところは僕には分からないけれど、その一瞬の表情は、僕の胸になんともいえない哀憫を生んだ。どうしてなのか、分からないけれど。
「フィガロ先生、」
「なあに?」
「もし、神さまがいるとして…神さまが祈りたいとき、神さまは誰に、祈るんですか?」
「………」
僕の質問に、先生は答えなかった。
兄だったマナ石に月の光が反射して、先生の表情が影になる。
「それは、先生も知りたいなあ」
先生は僕の手のひらをもう一度優しく握り直してそう呟いた。
その声があまりにも小さくて。一人ぼっちみたいで。
どうか、神さまが祈りたいときに、神さまにもこうやって手を握って大丈夫だよと言ってくれる存在がありますようにと、僕は心のなかで祈らずにはいられなかった。
その後、兄の石は両親と先生と共に家の近くに埋葬した。
暫くしてから先生は賢者の魔法使いに選ばれて、ここに帰ってくることは少なくなったけど。
僕はずっと、あの時の先生の横顔を忘れられずにいる。
生と死と、命と、世界そのものを眼差すものの横顔の寂寞を。
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