調香師のノート RecipeⅤ ミスラ
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「──まだ、死んでません」
声が聞こえた。ような気がした。
力を失くした筈の私の腕がなにかに引き上げられる。
その途端、肺が空気を取り戻し。私の口から、とめどなく苦みの混ざった湖水が吐き出される。
生理的な涙で視界は滲んでいた。ぜえぜえと鳴る喉と、ひっくり返る胃を抑えながらあたりを見渡すと、私はふたたび湖のほとりにいた。頭の天辺から爪先まで、つめたい湖水に濡れたままで。
「……はぁっ……一体、なにが……」
吹雪は穏やかな粉雪へと変わっていた。私を誘うように揺らめいていた湖も、凛と沈黙している。
私の荒い呼吸だけが、白の世界の騒音だった。
頭が痛み、身体は小刻み震える。すこし視線を動かしただけで、目眩が襲う。
雪の上に蹲りながら、私はいま“視た”ものを思い返した。
不気味に巨大な満月の夜に現れた少年。無言のエメラルドの瞳と燃える髪。陰をつくる睫毛に、雪と見紛う白い膚。
死の翁と呼ばれる渡し守と、彼の日々。襲撃と喪失、そして出会い。
北のミスラの、長い長い人生のひと欠片の時間のこと。
あれは、薄れゆく意識のなかで見た願望めいた夢なのだろうか。──それとも。
そのとき、湖のほうで粉雪が不可思議な動きを見せた。
結晶がほどけ、みるみるうちに濃く、深い白の霧へと変わる。
その霧の向こうに、浮かぶ舟。血の色の髪とエメラルドの瞳の青年が、オールに気怠げに身体を預けて立っている。
私は慌てて、視界を滲ませる涙を拭うために手のひらで瞼を擦った。
だがその一瞬のうちに、霧も舟も青年も消え去っていた。
粉雪と、しずかでつめたい湖だけが、しんとただそこに在る。
けれども私は確かに聞いたのだ。
気怠げに濡れたような質感の声を。僅かに誇らしげな響きを。それが夜の湖面へとしずかに、落ちていく音なき音を。
「死を抱いた湖になんてさせません。俺はここを、気に入っているので」
end.