調香師のノート RecipeⅤ ミスラ
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「少年は、死者の国へ」
嗄れた声に呼応するように、心許ない暖炉の炎がふるりと揺れた。村長のその声を合図に、場の緊張がかすかに緩む。短い集会が終わり、ひとびとは密やかな安堵を滲ませたささやき声を交わし合う。
村民の総意は、集会をせずとも明らかだった。けれどもこの小さな村の連帯を守るため、体裁を保つため。最長老である村長の決定として告げられることで自らの良心を慰めるため、己への言い訳のため。形式的に行われた集会だった。
「明朝、モーティスの元へ。あとは彼がやるべきことを為すじゃろう」
村長はその名を発音する際、半分白く濁った灰色の眼球へ僅かに、そして確かに嫌悪を滲ませた。それは、その名を聞いた村民たちも同じだった。背中に虫が這ったかのような小さな身震いをする者、眼球に浮かんだ不快感を振り落とすように目を逸らす者。思わずこぼれそうになった言葉の代わりに慌てて息を呑む年若の者。
“湖の傍で暮らす
この村の嫌悪と侮蔑の対象であり、畏怖の対象である者。村民たちは一定の距離を保ち、その存在を知らぬような顔をしながら、それでも自分たちの暮らしが脅かされぬために、彼らの誇りが損なわれない程度の報酬を与える、という形をとることで共生しているのだった。
「モーティス爺が断ったらどうするのかしら」
「いや、あのひとだって俺たちからの報酬がなければ暮らせないのだから」
「ねぇ見た?あの真っ赤な髪の色……悪夢で見る炎みたいな」
「一言も口を利かないらしい」
「えらい綺麗な顔をしていたが、なんだか不気味でね」
「満月の夜に見つけるなんて、不吉だよ」
「災いが起きる前兆だったりするんだろうか」
「ただの子供だよ」
「ただの子供だったとしても厄介なことに変わりないさ。どの家も、自分たちの暮らしで精一杯なんだから」
「モーティスもああ見えてかなりの齢だから、跡継ぎが必要だろう」
「満月の夜に現れた不吉な少年と、死の翁か……」
「まだあんな子供なのに、可哀想な気がするわ」
「へえ、じゃああんたが面倒見るかい?」
「いやよ!恐ろしい…だってあの子のあの髪、あの眼、あの表情……子供だってのにまるで何百年も生きているひとみたい」
村民たちはささやき声で言葉を交わしながら身支度を整え、集会場を後にする。
雪の夜だった。吹雪いているのというのに、空の天辺には巨大な満月が煌々と輝き、村民は顔の半分まで襟巻を巻いて、忍び足で家へと帰っていく。月明かりから逃げるように。
集会場に一人残った村長は深いため息を一つ吐き、部屋の最奥に位置する木の扉をひらいた。
狭い物置部屋には小さな窓が一つ。その窓から射し込む鋭い月光。狙いを定める弓矢のように真っすぐに。その光の先に、目が醒めるほど鮮やかな血色の髪をした、顔色の悪い、けれども慄くほどうつくしい少年が一人。表情を持たぬ緑の瞳で、村長を見上げた。
「少年よ、お前はどこから来た。名をなんと言う」
「………」
「言葉を知らぬのか……」
「………」
「……よい。明朝、お前をある場所に届ける。モーティスという男のところじゃ。お前はそこで暮らし、モーティスの仕事を手伝うことになる。分かるか?」
「………」
少年の、一際ゆっくりとした瞬きを返事と受け止め、村長は薄い毛布を置いて扉を閉める。
これ以上、少年と対峙することが恐ろしかった。
無言の瞳。燃える髪。陰をつくる睫毛に、雪と見紛う白い膚。少年の持つそれらひとつひとつが、乾ききった皺だらけの膚を粟立たせる。
少年は、恐ろしいほど、うつくしかった。まるで、冥界からの使いのような──それは原始的な畏れと、本能的な怖れを呼び起こすうつくしさだった。
「忌まわしい ……じゃが、あの穢れた仕事には、あるいは適任なのかもしれん。不吉な夜じゃ。忌まわしいことじゃ……」
呟きは真銀の雪の静寂に溶ける。村長もまた、襟巻きに深く顔を埋めて、家路を急いだ。
物置部屋に一人残された少年は、薄い毛布を摘み上げる。月光が、眩しい。夜が深くなる毎に、その光の勢いは増すようだった。
泣き声のような吹雪の音、忌まわしい月の光、それによって生まれる空間の闇、
土地の精霊が昂り、ざわめき、夜通し狂ったように雪風を踊らせていたことを、月だけが、見ていた。
明朝、再び集会場を訪れた村長によって、少年は湖の麓の古い小屋へと連れて行かれた。
湖は、村の外れに在った。冴え冴えとした水面と、真銀の雪と、その古びた小屋以外になにもない。すべてがつめたい静けさに覆われた場所だった。小屋は木造の二階建てで、屋根の縁から硝子の剣のように鋭い氷柱が垂れ下がっていた。
村長が小屋の扉を叩くと、中から一人の男が出てくる。男は、やはり老いていたが、村長のそれとは様子が違った。
上背があり、真っすぐに伸びた背中にのった顔には幾つもの皺が刻まれているものの、湖面に似た凛としたなにかが、瞳や口元に備わっている。
村長は嗄れた声でささやき、それに応える男の声は深く低い。二、三言葉を交わしたのち、村長は丸まった背中をさらに丸めて足早に立ち去った。
少年に視線を向けることは、ついぞなかった。
残された男と少年。昨晩振り積もった雪が、朝の光をうけてプリズムのように輝いている。
雪の朝特有のつめたく澄んだにおいが少年の鼻奥をつん、と刺激する。長い指で鼻先を擦る。空気と同じくらいひえきった膚。そんな少年を暫く見つめた後、男は扉を押さえて視線だけで中へはいるように促した。
そこは、外からの印象そのままに古ぼけた部屋だった。
暖炉にはおこされたばかりの火が頼りなげにちろちろと揺れ、やはり古ぼけた木のテーブルと古ぼけた肘掛け椅子が二台、古ぼけたラグのうえに置かれている。家具といえるものはそれだけで、暖炉の傍にかけられた長靴からぽたり、ぽたりと落ちてくる水滴の音が、妙に大きく響くようだった。
男は少年を椅子に座らせると火かき棒で暖炉を混ぜ、炎の勢いが増すのを待って漸く少年と向き合った。
少年の表情のないエメラルドと、男の夜の湖面のようなサファイアがぶつかる。男の深く低い声は、老人らしからぬ輪郭を持って言葉を紡いだ。
「さて、私の名はモーティス。お前の名は?」
「……」
「言葉を知らない?それとも、喋れないのか?まぁこの仕事に言葉は必要ないが……せめて名前は知りたいものだ。名前を持たぬものは、あちら側に引きずり込まれやすいからな。私がつけることもできる。だが、名付けというものに紐づく繫がりというのは厄介だ。守護に、枷に、どちらに転ぶか分からない。私はひととも、ひとじゃないものとも、そういう繫がりをあまり結びたくはなくてね」
「……」
「お前も、よく知らない私と意図せぬ形でなにかを繋いでしまうのは嫌じゃないかね。だから名前を教えてくれるといいのだが」
「……ミ、スラ」
少年は、モーティスの語る言葉の意味がよく分からなかった。深い声で語られるそれはどこか抽象的な含みを持っていて、耳から耳へさらさらと通り抜けていく。けれども、そのなかに含まれる拘束の気配を過敏に感じ取った。そしてその拘束を彼も、少年も好まないということを過敏に感じ取った。
声を出したのは、久しぶりな気がする。自らの名前として発した音をいつから名乗っていたのかは覚えていなかったが、それを口にすると自分というものの確かさを感じる程度には、自らの魂に結びついているようだった。そう、だから、この見知らぬ男からの名はいらないという意思表示として、音を返した。
「それでよい。ミスラ、か。……因果な名前だな」
「……」
「ではミスラ。今日からお前はここで私と暮らしを共にする。私は食事と寝床を与え、お前は私の仕事を手伝う、いいな」
「……仕事、」
「村長から聞いているか?」
「……」
黙って首を横に振るミスラに、モーティスは暫くじっとその湖面の瞳を向け、やがて立ち上がる。
「湖に浮かぶ島に死者を運び、魂を渡す。これが私の、そしてお前の仕事だ」
満月の夜に北の国の小さな村を囲む森にたった一人、怯えることも泣くことも助けを求めることもなく膝を抱えていたところを見つけられた少年。怪しまれ、疎ましがられ、恐れられた少年。
この朝こそが、その不吉なうつくしい少年がやがて村民たちから“死神”とささやかれるようになるまでの長い時間の始まりだった。
渡し守の仕事はこの村で死んだ者の亡骸をこの岸辺から湖の孤島にある埋葬地へ運ぶこと。
孤島は村民に《死者の国》と呼ばれ、渡しの仕事と共に卑しまれていること。
そのためこの小屋付近には村の人々は有事のとき以外は近づかないこと。
モーティスは始めに、それらを語って聞かせた。
卑しまれ、蔑まれたとしても、この仕事を誰かがせねばならないこと。それを引き受ける代わりに、暮らしが保証されるということ。そんな村と自分たちの関係性を円滑に保つために、丁寧な言葉を使うようにと、言葉遣いの矯正もさせられた。
「なぜ、言葉遣いが重要なんです?」
「多くのひとは、外殻の心象を信じるからね」
「……」
「ひとの世は言葉に溢れている。祝福のような言葉、呪いのような言葉。剣になる言葉、枷になる言葉。薬になる言葉、毒になる言葉。だが言葉が内包する本質にまで、耳を澄ませるものは少ない。人というのは素直で単純なんだ。愚か、とも言えるがね」
「へえ……分からないな」
「余計な摩擦を避けるため、ということだけ分かっておけば良い。私たちにとって重要なのは生者との時間ではなく、死者との時間だ。幸い、死者との間に言葉は必要ないからね」
そんなふうにして始まったはぐれもの二人の暮らしは静かなものだった。
渡しの仕事はそう頻繁に発生しない。けれどモーティスは毎日ミスラを湖に浮かぶ孤島へ連れて行った。
舟の操り方を教え、日の高い間は島で過ごす。
島は裸木に囲まれ、その木々も、埋葬場も一面真銀の雪に覆われている。亡骸の名前の刻まれた木札がなければ、そこに死者が眠っていることに気づくものはいないだろう。装飾らしいものといえば、木の枝から下がり、ときおりプリズムをはなつ氷柱だけが唯一のそれだった。
そんな一面の白の世界に、ときおり異質の白が混ざることがある。それは、この島に流れ着いた動物の亡骸だった。
ミスラはそれを拾い集めてかつての姿をパズルのように再現させる。生きていた頃は多くの生き物を殺めたであろう鋭い歯や鉤爪も、しずかで、からからに乾いて軽く、つめたく滑らかだ。肉体も魂も綺麗に削げ落ちたそれらは、言葉も、意味も必要とせずただそこに在るだけ。
そのつめたい純度をミスラは好ましく思った。
骨遊びに飽きると、あとはただ湖を眺めて過ごした。
モーティスのほうも、わざわざ骨を軋ませて舟を漕いで来ているのにもかかわらず、仕事らしいことといえば倒れた札を直す程度でやはりただ湖を眺めて過ごす。
ミスラはモーティスとのこの日課の意味は分からなかったし、例え意味があったとしても興味がなかったが、湖を眺めている時間は嫌いではない─どちらかといえば好ましい時間であると思っていた。
孤島と湖は、雪の沈黙のなかで不変のように見える。だがそこで長い時間を過ごすうち、ミスラは湖の呼吸のようなものを感じるようになった。
渡し守の目で、渡し守の膚で感じる感覚。
普段の湖は、寡黙だった。吹きすさぶ風にも、降り積もる雪にも、滴る雨にも揺さぶられることなく、ただじっとそこに在る。
島も湖も、村の人々が云うような怖ろしいものではない。ただ、死という真実に怯まないだけなのだ。──渡し守もまた。
そんな湖がときおり、風もないのに水面を揺らすことがある。ごく僅かに。ささやくように。普通のひとならば、瞬きの間に見逃すであろう小さな隙間のような揺らぎ。それに呼応するように、ミスラの膚はそっと粟立つ。鼓膜が、鼻腔が、眼球が、すべての感覚が、つめたい緊張感を伴いながら研ぎ澄まされていく。モーティスの身体にも同じことが起きているのだろう。その揺らぎをみとめると彼は無言のまま腰を上げ、舟に乗り込み、二人で小屋へと戻った。
そして戻った小屋の前には、赤い目をした、或いは打ちひしがれた、或いは覚悟を決めた様子の村民が布に包まれたものを抱いて立っている。
村でだれかが死んだのだ。
その肉体から魂が離れることの予兆のように、それを歓待するように、湖の水面は揺らぐようだった。
そのことをミスラが問うと、「だから私たちは毎日島に行くんだ。それに気付いたということは、もうお前は立派な渡し守だ」とモーティスは答えた。
その深く低い声は、僅かに嬉しそうな響きを伴ってミスラの耳に届く。そしてそれは、無感情なミスラの心に、なんとなく好ましい感覚としてしずかに落ちていった。
ある雪の朝、久方ぶりに村民が小屋を訪れた。
とめどなく涙を零す男が抱えたそれは、両の腕のうちに収まる大きさで、やわらかな布越しからでもまだ幼い子供の亡骸であることが分かる。
モーティスは泣いている男の嗚咽が収まるのを待って、その小さな身体を引き受けた。
小屋を訪れるひとびとは多くを語らない。思い出や悔恨や哀しみの言葉は村のうちでのみ交わし合い、この男のように涙を見せることはあっても、決してその涙に連なる想いについてを渡し守に語ることはなかった。
普段蔑みとともに居ないものとして暮らし、目を逸らしている相手に、大切な存在の最期を託すこと。それへの葛藤を滲ませた無言とともにひとはみなこの小屋を訪れる。
「ミスラ…!」
小さな身体を受け取ったモーティスに呼ばれたミスラが、鷹揚に階段を降りてくる。気怠げな手足、濡れたようなエメラルドの瞳が、無遠慮に布にくるまれた亡骸をみとめ、そして涙を流す男へと視線を移す。
そのほんの一瞬のとき。瞬きひとつ分の時間に、男の顔に浮かんだ感情をミスラは無関心に受け止めていた。
その男の顔は、“どうしてうちの子だったんだ”と言っている。
モーティスが抱いたそれと同じような質量の亡骸を連れてきたものは、みな同じ顔をするのだった。
自らが抱いてきたものと同じくらいの齢に見えるミスラの、血の通う膚や、脈打つ胸や、動く手足を見て、その一瞬ミスラの生を怨み、我が子の死を嘆く。
だがミスラにとっては、そうやって向けられる激情は理解しがたいものだった。死とは誰にでも訪れる。生まれたなら死ぬのが理。それをどうして、こんなふうに嘆くのだろう。どうして、その訪れの早い遅いが、そんなに重要なのだろう。
無感情に見つめ返せば、相手は我に返ったように目を逸らし、逃げるように帰っていく。
この男もやはりすぐにミスラから顔を背け、最後にもう一度モーティスの腕の中の亡骸へ視線をおとすと足早に雪の世界へと消えていった。
「雪がこれ以上ひどくなる前に渡したほうが良さそうだ。ミスラ、舵を頼めるかい?」
「はぁ、いいですよ。暇でしたから」
「冬が深まれば、忙しくなるだろう。この国の寒さに対してわれわれは非力すぎるからね」
「退屈しないのはいいですね」
「不謹慎なやつだ。さあ、かかろう」
モーティスが布に包まれた亡骸を舟に寝かせる。ひどく軽いのだろう。古びた舟の底はミスラやモーティスが乗り込むと抗議のように軋む音をたてるが、亡骸はしずかに受け入れた。
ひどくなるかと思われた雪は、いつの間にか粉雪に変わっていた。雪片は湖の水面に舞い降りては溶けていく。
その上を、舟は滑るように進んでいく。いつも通りの、静かな舟出。
だが孤島の岸が見えてきたころ、ミスラはオールが重く抵抗することに気付いた。
いつもの心地良い抵抗感ではなく、粘着質ななにかがこびり着いてくるような、不快な重さ。
さらに、粉雪だったものが滲むように霧へと変わり、それがみるみるうちに濃くなってミスラのエメラルドの視界を暈けさせる。
「鬱陶しいな。霧なんて、さっきまでなかったのに」
「ミスラ、湖の様子がおかしい。一度止めなさい」
「必要ありませんよ、島はもうすぐそこです。止まっている間に霧が濃くなる方が困るでしょう」
ミスラはそう言って、抵抗するオールを強引に押し込むように水を掻いた。
「いけない!」
モーティスの低い叫び声が、霧のなかで不気味にこだまする。
ミスラの首の後ろがちりと逆立つ。しずかだったはずの湖に、不気味なざわめきが満ちていた。
水の色が濃く、手招くようにゆうらりと揺れる。
聞こえないはずの声が聞こえる。分からないはずの言葉が聞こえる。霧のなかから、水面のなかから、見えないはずのなにかが、こちらを見ている。
「なんなんですか、一体……」
「おかしい。こちらとあちらの縫い目のバランスが崩れている。もしかして……」
モーティスははっとしたように目を見開くと、横たえた布を勢いよく捲った。
少女の亡骸が、霧のなかであばかれる。蜂蜜色の髪はまだ艶めいて頬にかかり、閉じられた瞼をおなじ色の睫毛が縁取っている。
小さな身体は雪のように一定の曇りもない白い単衣をまとい、胸のうえで手のひらが百合の蕾のように重ねられていた。
北の国での、伝統的な死装束。
生に発たれた身体には穢れなき白だけを纏わせる。髪飾り、指輪、靴といった装身具や、煙草や編み針や日記のような愛用品などを渡し守の舟に持ち込むことは禁忌だった。
死者の記憶や思いが染み込んだそれらが渡しの際に傍にあると、魂が正しく往き着けない。
迷子のように、あちらとこちらの縫い目を彷徨い、どちらの世界にも属することができないまま永遠に漂ってしまう。
そしてそれらが彷徨った場所では、草木は枯れ、穀物は萎びて、魚や動物は死んでいく。
「まさか」
「ああ、そのまさかかも知れない」
モーティスは白百合の蕾のような手のひらの隙間に自らの指をはさみ、それをこじ開けようとしていた。
既に硬直が始まっているのだろう。深い皺の刻まれた指が震えるほど力を込めてやっと、白い花びらが僅かにひらいた。
その隙間から丸く平らななにかが落ちて、床板を転がる。霧のなかで反射するそれは、ミスラのつま先にぶつかって回転をとめた。
「……はあ、なるほど」
「鏡、か……。きっとこの娘の宝物だったのだろう。一人では可哀想だからと、こっそりこういうものを忍ばせてしまう家族は少なくはない」
「亡者になって彷徨うことになるって知らないんですか」
「知っていても、だよ」
「ふーん、ずいぶん恨まれて死んだ子どもなんですね」
「そうではない」
「はあ?じゃあなんでわざと亡者になるようなことをするんです」
「そんな姿でも、会いたいと思ってしまう者もいる。残されたもの、になることを受け入れられず、それが死者にとって苦しみ以外の何物でもないことを分かっていながらも、こちら側にいてほしいと願ってしまうことも、あるのだろう」
「わからないな」
「深い哀しみの前では、だれしも愚かになってしまうものだ。そのうちお前にも分かるだろう」
「べつに知りたいとも思わないですけど」
ミスラの言葉にモーティスは何も言わなかった。
しずかに立ち上がり、履き古したブーツに包まれたつま先を軽く上げる。
ぱりん、と鋭い亀裂音と共に、小さな手鏡がモーティスの足の下で粉々に割れた。
その瞬間、舟を覆っていた霧がほどける。
白い靄がすこしずつ水分を含み、結晶し、ふたたび粉雪がしずかに降り始めた。空気は硝子のように澄み渡り、水の色はいつもの親しんだ深い青を取り戻す。
ざわめきは遠く、凛とした静寂が湖全体に満ちていた。
ミスラの知っている、湖だった。
オールを掴むと、あの不快で粘着質な抵抗もない。
「もう、大丈夫だ。先を急ごう」
「まったく、迷惑なひとたちだな」
「残されたものの、哀しみゆえの過ちをあちら側に渡さないのも私たちの役割なんだよ」
「面倒だって、思わないんですか、あなたは」
「そうだな……ミスラ、お前もこの湖が好きだろう?」
「あなた、話聞いてます?」
「私はこの湖が好きなんだ。沈黙のなかで、生と死の境界として在るこの湖をうつくしいと思っているよ」
「はあ」
ミスラの困惑と苛立ちの滲む相槌を気にするでもなく、モーティスは少女の手のひらを重ね、乱れてしまった単衣をやさしくなおした。
小さな身体にそっと布をかぶせると、穏やかになった湖面とおなじ色の瞳で水面を見つめる。
「ミスラ。村の者たちはこの湖を死を抱いた湖なんて呼ぶがね、死を抱いた湖なんてないんだよ。私がぜんぶ、運んでいるからね」
その深く低い声は、僅かに誇らしげな響きを伴ってミスラの耳に届く。
そしてそれは、水面の変化について問うたときと同じように、無感情なミスラの心に、なんとなく好ましい感覚としてしずかに落ちていった。
そんなふうにして、渡し守二人は日々を過ごし、出会いの朝から幾年かの月日が流れた。
ミスラは植物のようにみるみると成長し、長い手足はますます気怠げに伸び、血の色の髪はより鮮やかに、エメラルドの瞳に濡れたような質感を持つ青年となっていた。
それに反して、モーティスにはますます老いの陰が迫り、真っすぐに伸びていた背中は曲線を描き、身体中の皺は深くなり、深く低い声には痰が絡む。
軋むベッドのうえで過ごす時間が多くなり、この頃には、渡しの仕事はミスラが一人で
ある冬の日の夜だった。空にはミスラが村民に見つけられたあの夜のように、不吉なほど巨大な満月が昇り、迫るように村を見下ろしている。
この日はずっと、湖や木々、風が煩かった。いつもの揺らぎよりも落ち着きがない耳障りなもので、ミスラは村で一気に五人くらい死んだのではないだろうかと考えていた。だが結局、夜になっても亡骸を抱えた村民の訪問はなかった。
こんなに煩いというのに、モーティスは肘掛け椅子のうえで静かな寝息をたてて眠っている。老いても、渡し守としての感覚が鈍くなっているような素振りはなかった筈だった。けれど今夜は、闇が深まるにつれて騒々しさが増す世界に、ミスラはたった一人で対峙しているような気分になる。
「ただの老人になんてならないでくださいよ、つまらない」
ミスラの独り言は、突如吹き付けた風の音に掻き消された。
凄まじい突風。まるでだれかが、風の塊を小屋に向かって投げつけたかのような勢いだった。
ぴし、と嫌な音をたてて、小屋の窓硝子に亀裂が奔る。建付けの悪い古びた小屋は風に煽られてぐらぐらと不快に揺れた。
「なにが、起きている」
「……分かりません」
さすがのモーティスもこの騒ぎに目覚め、痰の絡まる低い声で問うた。
がたがたと揺れる家具。叫び声のような風の唸り。月明かりのなかでいつの間にか降り始めた雪が吹雪いて、割れた窓の向こうで狂ったように踊っている。
そのとき、再び吹き付けた凄まじい突風と共に、小屋の扉が弾け飛んだ。
途端に流れ込む風と雪。白い突風の向こう側に、なにかが──だれかが立っている。
「……誰だ」
凛としたモーティスの声に相手は応えない。
周囲のざわめきは最高潮に達していた。風も湖も雪も、不気味な歌声をあげ、ミスラの全身の膚がぴりぴりと粟立つ。
不快で、不遜で、コントロールの効かない高揚。真白の風の中で、五感が研ぎ澄まされていく。
はじめての感覚だった。肉体は熱を帯び、それに反して魂はつめたく研がれていく。血管に電流を流されているような、自分の心臓の音が耳元で鳴っているような。
つめたく、あついなにかが、ミスラの奥深くから満ちて溢れていく。
「久しぶりに帰ってきたら、イヤな匂いが鼻についてね。隠そうったってムダだ。そもそも、それだけの匂いを振りまいて、隠しきれると思っているのか?愚かな奴め」
尊大な響きの声色。
白い吹雪の向こうから現れたのは、斬りつけるような鋭さと傲慢さを全身に纏った大男だった。
「あなたが、なぜここに……ここは不浄の地。あなたに献上できるものはありません。村の者が…」
「黙れ。ここはオレの縄張りだ」
男の声が刃のようにモーティスの言葉を遮る。ぎらぎらと昏い焔のような瞳が、真っすぐにミスラを捉えた。
「お前、他の魔法使いの縄張りに入り込むとは……それなりの覚悟を持ってのことだろうな?オレの不在の隙に上がり込んでぷんぷん匂いをさせるなんて、随分舐められたものだ」
「……何を言ってるのか全く分かりませんけど。モーティス、なんなんですかこのひと」
「……ミスラ、言葉を控えろ。この村をおさめる、北の魔法使いだ」
「だから、魔法使いが俺に何の用なんです」
「ミスラ、まさかお前は……」
「黙れ」
男の不遜な一声に応えるように、窓の外の吹雪の勢いが増した。まるで地震のように、床が、壁が、ぐらぐらと揺れる。
男が腰に指した槍のようなものを抜くと、その刃の先端に吹雪が集まっていく。蒼く燃える焔に変わった吹雪の塊が、ミスラめがけて放たれた。
「ミスラ……っ!」
どん、と深く低い衝撃音と、ぐ、とくぐもった音がひとつずつ、ミスラの耳へ届く。
眼前に迫った吹雪の焔とミスラの間に立ちふさがった塊を窓から射し込む月の明かりが照らした。赤黒い液体が瞬く間にひろがる塊。ぬらぬらと月の光を反射しながら、それはミスラの足元にどさりと落ちた。
「愚かな。人間風情が北の魔法使いの魔法に何ができるという。見ろ、奴らは死んでも石にはならない。腐食し、いやな匂いを放ち、やがて腐食動物に蝕まれるだけの憐れで弱い生き物だ」
「……モーティス、」
足元に落ちた塊は、モーティスだった。
皺だらけの指の何本かが不自然な方向に折れている。いたるところから鈍色の血を流し、僅かにひらいた瞼の奥の湖にサファイアの輝きはなく、硝子玉のように乾いている。
そこ在るのは、いまこの瞬間、生に発たれたモーティスの抜け殻だった。
「此岸と彼岸の縫い目を滑るものの憐れな末路だな。これまで何人もの死者を渡したとて、この男を渡すものはいない」
「……あなた知らないんですか、俺も渡し守ですよ」
「馬鹿め。お前は今からオレに殺され、食われるのだ」
「はぁ……人の肉って美味しくないって聞きますけど」
「……おふざけは此処までだ。お前も北の者なら最後にその矜持を見せてみろ」
「話が通じないひとですね」
「いい加減にしろ!戦え!オレはお前が必死に抵抗し、やがて魔力が尽きて、絶望のなか石になっていく様を見たい」
「はあ?本当に何を言ってるんで…っ」
ミスラの言葉を最後まで聞かず、魔法使いは再び槍を振り上げた。氷の焔がミスラの腹部に激突し、その衝撃で壁に打ち付けられる。
「は……くっ……な……痛い、んですけど……」
「次で最後だ。攻撃しろ、魔法を使え、そして命を乞え!!」
「………っ」
目眩と激痛のなかで、ミスラの全身が総毛立っていた。
不快で、不遜で、コントロールの効かない高揚が再びふつふつと滾りだす。口から血の塊を吐き出すと、血管に血が流れる音、心臓が拍を刻む音が耳に大きく響いてくる。
世界のざわめきが遠くなり、つめたく研ぎ澄まされた、そしてあつく煮え滾ったものが全身を巡っていく。
その勢いはもはやミスラの意識や理性の領域を越え、ミスラの肉体という枷をうちから破ろうとしているかのように加速していた。
きぃんと頭が割れるように痛む。本能的な衝動。ミスラの意識の外で、ミスラの身体が意志を持つ。
ミスラの血まみれの片腕が、宙に浮いたときだった。
「──スキンティッラ」
歌うような、笑うような、女の声。春の日のようなまばゆい光がうまれ、あたり一面を覆っていく。
その圧倒的な光のなかで、雪も、風も、湖も、先ほどまでのざわめきが嘘のようにおだやかに、凪いでいった。
背筋を凍らせていた空気の強張りがほどけていく。しん、と澄みとおっていく。
やがて世界のすべてが沈黙しているかのような静寂が訪れたのち、ぱりんと硝子が割れるような音がひとすじ響いた。
なにかが粉々に割れて、光のなかで反射しながら、ばらばらに散る。
「ひとがせっかく静かな夜の旅を楽しもうとしてるのに、煩いったら。こいつ、いっつも逃げ足ばっかり速くて。やーっと、静かになったわね」
ぼろぼろになった小屋に、場違いなほど軽やかで能天気な声が響いた。
ひだまりのような色の長い髪、漆黒のドレス。鋭いヒールの踵をちいさく鳴らした女が華奢な手首のうえに乗った髑髏を宙に掲げると、あたりを照らしていた光がその髑髏の口へ吸い込まれていった。
「ねぇ、なんであんた魔法使わなかったの?あんなぱんっぱんに魔力膨らませてたのに」
「は……」
「あ!もしかして私、横取りしちゃった?!ごめーん、ほら、ひとつあげるから許して!ひとつじゃ足りないって言うならそうね、三つまでは許してあげる。どう?」
頭痛と目眩、そして自らの流血で濁るミスラの眼前に、女は床から拾い上げたなにかの欠片をぐい、と差し出す。
七色に輝く、鉱石のような欠片。ほらほら、と鉄の味が滲みる唇に押しつけられる。その向こうで女は、相変わらず軽やかに笑っていた。
「なんなんです、か……あなたは」
「私は北の魔女チレッタ。大魔女、とか呼ぶひともいるけどなんかあんまり可愛くないから好きじゃないのよね」
「また、魔法使いか……」
「あんたの名前は?ていうかなによそのまた、とか!あんただって魔法使いのくせに」
「……俺は渡し守のミスラです。魔法使いじゃありません。……ていうか、もう少し静かに喋れませんか、あなたの声、頭に響くんですよ……」
「失礼ねー!!命助けてもらってなあに、その態度!でもあんた、ミスラ…だったわね。よく見たら綺麗な顔だから特別に許してあげる」
「……だから、煩いんですってば……魔法使いって話が通じないひとばかりだな」
ミスラにとってこの夜は、意味が分からないことばかり起きる夜だった。湖がざわめき、吹雪の中で満月が昇り、魔法使いの襲撃に遭い、モーティスが死んで、自分も殺されかけた。そして今目の前では、能天気で煩い女が魔女だと名乗り、硬い石の塊を押し付けてくる。
頭も膚も骨も内臓も、全身が痛む。目眩がする。騒々しすぎる夜。
「退いてください、なんですかこの石は」
「さっきあんたを殺そうとした男よ」
「は…?」
「いい?私たち魔法使いは死んだら石になる。そして私たち魔法使いはその石を食べる。そうやって自分のなかに死んだものの魔力を取り込む。それが魔法使い。そして、ミスラ。あんたもその魔法使いだって言ってるの」
「俺が、なんですって?」
「だーかーらー!ミスラは自覚してないみたいだけど、あんたも魔法使いなの。ていうかそれだけの魔力を持っててよく今まで気付かなかったわね。精霊と共鳴したのが最近なのかしら?そこにあの男が帰ってきたんだとしたら、んーまぁ、そうね、色んなタイミングが、悪かった」
「………」
「あの男、北の国のいろんな場所で結構無茶苦茶なことやってたから目障りだったんだけど、いっつもすんでのところで逃げられちゃって。いるのよね、逃げ足と勘だけで良い奴。で、好き勝手暴れて自分がぶいぶい言わせてた縄張りに戻ったら、あんたみたいな魔力の匂いをさせた奴がいたから荒れちゃったのかな。そしてそこに私がたまたま通りがかったというわけ」
女はそこまで一気に喋ると、大口をあけて石の欠片をひとつ頬張る。瞼を閉じ、咀嚼も嚥下もするでもなく、じっと動かない。ミスラはどうしてだか、あたたかな空気のようなものがその女の内側で流れてやがて消えていく様が、感覚として視えた気がした。
「
「……」
「強い魔法使いなら、石の含む魔力も強い。奪ったり、奪われたりして、或いは与えたり、与えられたりして私たち魔法使いは生きて、そしてこうやって死んでいくの。……でも、人間は違うのね」
女の視線は、床で沈黙するモーティスの亡骸に注がれていた。
唇から、首筋から、指先から、流れ出た血液は既に凝固し始めている。圧倒的な力の前に、呆気なく散った生命。長いようで短い時間を過ごしたひとの身体は、もう言葉も、意味も、持たない。
ミスラは長い脚を折ってモーティスの身体を抱き上げる。その背丈からは意外なほど軽かった。生が、魂が抜け落ちた抜け殻の軽さ。
「人間なのに北の魔法使いの攻撃をもろに受けるなんて……大切な人だったの?」
「……分かりません。でも、俺がするべき俺の仕事は分かります」
巨大な満月の光をうけて、舞い降りる粉雪がときおりちらちらと瞬く。
サファイアの湖面はその粉雪をうけながら沈黙している。風もなく、今日一日のあのざわめきが嘘のように、凛と存在する湖。
しずかなそれは睡っているようで、目醒めている。肉体から発った魂を、魂に発たれた肉体を、そこに在る死そのものを、怯むことなく受け入れる。
ミスラがオールを深く沈めると、舟は真っ直ぐに水面を進み出した。
あちら側とこちら側の縫い目を進む舟。世界と世界の境目を、肉体と魂の境目を、死というただひとつの真実をランタンとして滑りゆくものたち。
ミスラはモーティスの亡骸に布をかけなかった。
なんとなく、モーティスはそれを嫌がるだろうと思ってのことだ。彼は、この湖をうつくしいと言っていたから。
膚にこびりついていた赤黒い血液は、チレッタが呪文を唱えて綺麗に拭った。この国の慣習に倣って白い単衣だけを纏ったモーティスは、ミスラのすぐ傍で眠るように横たわっている。
オールを沈めた湖面に、ミスラの血の色の髪とエメラルドの瞳が滲んで映る。
モーティスの目の色は、そういえばこの湖面の色だったとミスラはぼんやりと思った。
「それで、何しに来てるんですか、あなたは」
「んー、付き添い?参列?……おっと、」
頭上から降ってきた七色に輝く石のひとつを無造作に片手で受け止めて、ミスラは気怠げなため息をひとつ吐いた。
チレッタは、渡しの舟の頭上一メートル付近で箒に乗り、片手で魔法使いだったものの石を転がしながら、呑気な鼻歌と共にミスラに着いてきていた。
本来、渡しの際に渡し守以外がこの湖に近づけば、場が乱れるもの。だが湖はチレッタの存在をしずかに、在るべきものの一人であるかのように受け入れていた。
土地の精霊はその土地の魔法使いを愛し、精霊に愛された魔法使いはその精霊を使役して魔法を使うと、聞いたことがある。
つまり、この呑気で騒がしい魔女は、どうやら北の国の精霊のお気に入りということなのだろう。
ミスラは手のひらで受けた石と、横たわるモーティスを交互に見遣った。残された抜け殻に、なにか違いはあるのだろうか。あったとして、それになにか意味はあるのだろうか。
死という唯一の真実以外に、なにか。
「その石、あげるって言ったけどやっぱりやめるわ」
「そうですか」
「北の魔法使いなら、自分で仕留めた獲物を最初に呑むべきだから。決めたわ、私がミスラに魔法を教えてあげる」
「いえ、必要ありません」
「可愛くない子ねー!いい?どんなに魔力が強くてもそれをコントロールして使いこなせなきゃ意味がないの。また大切な人が自分を守ろうとして死んでいくのをただ見てるだけになるわよ」
「俺は、大切な人なんていませんよ」
「あーそう、あーそう。でもね、多分この人にとって、ミスラは大切な人だったんでしょう」
「……はぁ、そうですか……よく、分かりません」
「とにかく、大魔女チレッタのこの私が決めたんだから、ミスラは従うこと。私があんたを世界最強の魔法使いにしてあげる!」
「興味ないです……ていうかあなた、さっき大魔女って言われるは好きじゃないって言ってませんでした?」
「うるさい、細かい!いい?ミスラが従うまで毎日毎日頭の上で花火を上げてやるから」
「……しつこいひとだな。わかりました、好きにすればいいでしょう!だからチレッタ、すこし静かにしててください」
「やったー!ミスラ、師匠と弟子として仲良くしようね。私はやさしくて強ーい魔女だから安心してね」
「……」
ミスラはチレッタを無視することに決め、舵に専念した。
満月の蜂蜜色の光が濃く深くなるころ、粉雪のむこうに孤島の岸が見えてくる。
渡しの際に降る雪を、渡し守は使者と呼ぶ。冥界からの使者とされる白い蝶に、その姿を喩えたのだろう。
満月のしたで見るそれは、確かに蝶の羽根のかたちをしていると、ミスラはみとめた。
空気は硝子のように澄みとおり、しずけさとつめたさが湖面から立ち昇る。白い羽根の使者たちは、静寂と共に孤島へ誘う。
すべてがひそやかで、うつくしい光景だった。
モーティスと過ごした長いようで短い時間で知った景色。いつの間にかミスラにとって、この景色が心安らぐものになっていた。
「死を抱いた湖、なんて言われてるからおどろおどろしいものを期待してたけど。拍子抜けするくらい綺麗なところね。しずかで、つめたくて」
頭上でチレッタが、独り言のようにこぼした言葉。
それをうけて、ミスラは薄い唇をかすかに引き上げる。
「死を抱いた湖なんてありませんよ。どんな死も、俺がぜんぶ、運んでいるので」
その気怠げに濡れたような質感の声は、僅かに誇らしげな響きを伴って夜の湖面へとしずかに、落ちていくのだった。