調香師のノート RecipeⅤ ミスラ
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「旅の御方、本当に行かれるのですか?」
「いつまでも此処で、じっとしている訳にもいきませんから」
「ですが……」
空色の瞳の青年が、不安げな様子で見遣った先は白の世界だった。
窓硝子を鳴らすほど、激しく吹き付ける吹雪。風は、枯れることなく歌い続ける泣き妖怪 だった。嘆き、哀しみ、叫ぶ声のような音。
この酷い吹雪は、私が北の国に入ってからもう一月ほど続いている。
思わぬ長い足止めを食らった私に、宿主である青年は心尽くしのもてなしをしてくれた。
食品貯蔵室 にある、ありとあらゆる食材を用いてつくられた料理たち。鹿肉のソテーは柔らかく、夏に採れたベリー類のジャムをつかったタルトは爽やかな甘酸っぱさで私の舌に溶け、とっておきの秘蔵ワインのコルクまで開けた。
北の国の僻地にある宿屋では、それらの食物は貴重なものの筈だ。はにかみながら、「ほかに客は居ませんし、気にしないでください」と差し出されるもてなしの数々は長い旅の最中で足踏みをする羽目になった私にとっては心温まる気遣いであった。
けれど。まだ先の長い旅のなかでこうも身動きがとれないことへの苛立ちは日に日に増していった。賢者の魔法使いの逸話は、まだ半分も集まっていない。生きるものの時間は有限だ。私は今日、ここに来た目的を強行することを決め、その旨を青年に告げたのだった。
「《死の国》に通じる湖に行くのでしょう。あの付近の村は崩壊して久しいですし、渡し守もいまは居ません。そのせいで、あの湖は死者に飢えてるそうですよ。長くこの地に住んでいるものは近付きません。なにも、こんな日に行かなくても……」
「気遣いをありがとうございます。ですが、旅に危険は付きものですし、まだやらなければならないことが沢山あるのです」
「うちは構わないのですよ。それより、本当にやめておいたほうがいい。せめて吹雪が止むまでは、」
「そう言ってもう一月経ってしまったので……。あと二、三日で止む、というものでもないでしょう」
「それはそうなのですが……くれぐれも、気をつけてください。何かあっても、あの付近にひとは居ません。助けに行くことはできません。そして何が起きるかも、私には分かりません」
「大丈夫、あなたはあたたかいワインを用意していてくれれば。きっと、土産話を聞かせますよ。かつてこの村で死神と呼ばれた渡し守、そののちの北の魔法使いミスラの話をね」
「……どうかご無事で」
青年は最後まで不安そうに戸惑いながらも、私にありったけの防寒着やランタンを持たせてくれた。
背後で宿の扉が閉まった。あたたかな暖炉の炎、琥珀色のランプの灯り、様々な食材の香りの世界からはなれた私を、雪と風と夜の闇がじっと見つめている。
私は覚悟と共に顔を上げ、突風を伴う雪に逆らうように、真銀のなかへ足を踏み入れた。
まさに刺すようなつめたさだった。髪も睫毛も凍り、視界の隅で白の結晶が瞬く。
一歩進むたびに、硝子が身体に突き刺さってくる。荒くなる呼吸。空気を吸い込むだけで喉が詰まり、肺が縮んだ。
闇はどこまでも深く、風が不気味に歌う。ブーツのなかの爪先が痺れだすころ、かすかな水の匂いを私の鼻腔が捉えた。
吹雪に霞む視界のなかで目を凝らす。
白い焔のような風のむこうに、深い青をたたえた湖がしずかに在るのを、私は見た。
「死の湖……」
私のつぶやきは吹雪の歌声に掻き消される。
湖の傍は、さらに空気が研ぎ澄まされ、声さえも瞬く間に凍ってしまうような寒さだった。
一歩、が重い。それでも私は懸命に足を進める。
かつて、賢者の魔法使いの一人だった北のミスラ。
北のミスラの名が、恐怖とともに語られる前、彼はこの湖の孤島で暮らし、渡し守をしていたという逸話は有名な話だった。
人間に恐れられる北の魔法使いが、人間の死者を渡す。
死すれば石となり、その肉体は残らない魔法使いが、死した肉体を渡すということに私は興味を惹かれて、ミスラの香水の調香の際には是非ともこの湖を訪れようと決めて北の国に入ったのだった。
湖のほとりは、荒れ果てていた。
かつて小屋だったと思われるものの残骸はひび割れ、朽ち果て、積雪の下でぐったりと沈黙している。
だが、湖は。
私は肺が痛むのも忘れて、思わず息を呑んだ。
湖は凍ることなく、深い青の水を湛えて、吹雪のなかで凛と存在している。それは、これまで見たどんな湖よりも、うつくしかった。
湖の水はやわらかく、清らかで、水面がときおり滑るような漣をたてる。夢のなかを流れるような、繊細な揺らぎ。
見つめていると、揺らぎのむこうになにかが見えるような、なにかが聞こえるような気がしてくる。
いつの間にか、吹雪が止んでいた。夜の闇がじっと、なにかを待っている。耳の奥が痛むような静寂。
頭のなかの冷静な部分が、警鐘を鳴らしていた。
これは善くないものだ。これは可怪しいことだ。
けれど反対に私の身体はふらふらと湖に吸い寄せられ、そのつめたい水へと手を伸ばす。
先程よりも濃くなったように見える湖面が、私を手招くようにゆうらりと揺れた。
聞こえないはずの声が聞こえる。分からないはずの言葉が聞こえる。霧のなかから、水面のなかから、見えないはずのなにかが、こちらを見ている。
「……!…っ……」
水に私の指先が触れた瞬間。世界が反転した。
静寂を破る、不快な水音。それは私の身体が、湖へ落ちる音だった。
刺すようにつめたい水は粘着性をおび、私の脚を、腕を、絡め取っていく。
藻掻けば藻掻くほど、衣服が水を吸い込み、身体は湖の奥へ、深くへと引きずり込まれる。
“あの湖は死者に飢えてるそうですよ”
薄れゆく意識のなかで、宿屋の青年の言葉を今更のように思い出す。
口から、大きな泡沫がひとつ生まれ。私の身体は力を失くした。
遠くなる水面の向こう側。闇夜の天辺に、先程までは無かった筈の、巨大な満月が見えたような気がした。
「いつまでも此処で、じっとしている訳にもいきませんから」
「ですが……」
空色の瞳の青年が、不安げな様子で見遣った先は白の世界だった。
窓硝子を鳴らすほど、激しく吹き付ける吹雪。風は、枯れることなく歌い続ける
この酷い吹雪は、私が北の国に入ってからもう一月ほど続いている。
思わぬ長い足止めを食らった私に、宿主である青年は心尽くしのもてなしをしてくれた。
北の国の僻地にある宿屋では、それらの食物は貴重なものの筈だ。はにかみながら、「ほかに客は居ませんし、気にしないでください」と差し出されるもてなしの数々は長い旅の最中で足踏みをする羽目になった私にとっては心温まる気遣いであった。
けれど。まだ先の長い旅のなかでこうも身動きがとれないことへの苛立ちは日に日に増していった。賢者の魔法使いの逸話は、まだ半分も集まっていない。生きるものの時間は有限だ。私は今日、ここに来た目的を強行することを決め、その旨を青年に告げたのだった。
「《死の国》に通じる湖に行くのでしょう。あの付近の村は崩壊して久しいですし、渡し守もいまは居ません。そのせいで、あの湖は死者に飢えてるそうですよ。長くこの地に住んでいるものは近付きません。なにも、こんな日に行かなくても……」
「気遣いをありがとうございます。ですが、旅に危険は付きものですし、まだやらなければならないことが沢山あるのです」
「うちは構わないのですよ。それより、本当にやめておいたほうがいい。せめて吹雪が止むまでは、」
「そう言ってもう一月経ってしまったので……。あと二、三日で止む、というものでもないでしょう」
「それはそうなのですが……くれぐれも、気をつけてください。何かあっても、あの付近にひとは居ません。助けに行くことはできません。そして何が起きるかも、私には分かりません」
「大丈夫、あなたはあたたかいワインを用意していてくれれば。きっと、土産話を聞かせますよ。かつてこの村で死神と呼ばれた渡し守、そののちの北の魔法使いミスラの話をね」
「……どうかご無事で」
青年は最後まで不安そうに戸惑いながらも、私にありったけの防寒着やランタンを持たせてくれた。
背後で宿の扉が閉まった。あたたかな暖炉の炎、琥珀色のランプの灯り、様々な食材の香りの世界からはなれた私を、雪と風と夜の闇がじっと見つめている。
私は覚悟と共に顔を上げ、突風を伴う雪に逆らうように、真銀のなかへ足を踏み入れた。
まさに刺すようなつめたさだった。髪も睫毛も凍り、視界の隅で白の結晶が瞬く。
一歩進むたびに、硝子が身体に突き刺さってくる。荒くなる呼吸。空気を吸い込むだけで喉が詰まり、肺が縮んだ。
闇はどこまでも深く、風が不気味に歌う。ブーツのなかの爪先が痺れだすころ、かすかな水の匂いを私の鼻腔が捉えた。
吹雪に霞む視界のなかで目を凝らす。
白い焔のような風のむこうに、深い青をたたえた湖がしずかに在るのを、私は見た。
「死の湖……」
私のつぶやきは吹雪の歌声に掻き消される。
湖の傍は、さらに空気が研ぎ澄まされ、声さえも瞬く間に凍ってしまうような寒さだった。
一歩、が重い。それでも私は懸命に足を進める。
かつて、賢者の魔法使いの一人だった北のミスラ。
北のミスラの名が、恐怖とともに語られる前、彼はこの湖の孤島で暮らし、渡し守をしていたという逸話は有名な話だった。
人間に恐れられる北の魔法使いが、人間の死者を渡す。
死すれば石となり、その肉体は残らない魔法使いが、死した肉体を渡すということに私は興味を惹かれて、ミスラの香水の調香の際には是非ともこの湖を訪れようと決めて北の国に入ったのだった。
湖のほとりは、荒れ果てていた。
かつて小屋だったと思われるものの残骸はひび割れ、朽ち果て、積雪の下でぐったりと沈黙している。
だが、湖は。
私は肺が痛むのも忘れて、思わず息を呑んだ。
湖は凍ることなく、深い青の水を湛えて、吹雪のなかで凛と存在している。それは、これまで見たどんな湖よりも、うつくしかった。
湖の水はやわらかく、清らかで、水面がときおり滑るような漣をたてる。夢のなかを流れるような、繊細な揺らぎ。
見つめていると、揺らぎのむこうになにかが見えるような、なにかが聞こえるような気がしてくる。
いつの間にか、吹雪が止んでいた。夜の闇がじっと、なにかを待っている。耳の奥が痛むような静寂。
頭のなかの冷静な部分が、警鐘を鳴らしていた。
これは善くないものだ。これは可怪しいことだ。
けれど反対に私の身体はふらふらと湖に吸い寄せられ、そのつめたい水へと手を伸ばす。
先程よりも濃くなったように見える湖面が、私を手招くようにゆうらりと揺れた。
聞こえないはずの声が聞こえる。分からないはずの言葉が聞こえる。霧のなかから、水面のなかから、見えないはずのなにかが、こちらを見ている。
「……!…っ……」
水に私の指先が触れた瞬間。世界が反転した。
静寂を破る、不快な水音。それは私の身体が、湖へ落ちる音だった。
刺すようにつめたい水は粘着性をおび、私の脚を、腕を、絡め取っていく。
藻掻けば藻掻くほど、衣服が水を吸い込み、身体は湖の奥へ、深くへと引きずり込まれる。
“あの湖は死者に飢えてるそうですよ”
薄れゆく意識のなかで、宿屋の青年の言葉を今更のように思い出す。
口から、大きな泡沫がひとつ生まれ。私の身体は力を失くした。
遠くなる水面の向こう側。闇夜の天辺に、先程までは無かった筈の、巨大な満月が見えたような気がした。