調香師のノート RecipeⅢ ルチル
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『賢者の魔法使いとさみしくなくなった人形アビゲイルのお話』
ある世界のある国に、さみしい少女がいました。
少女はシルクの下着、繻子のドレス、レースのリボンこそ与えられるものの、母の手のぬくもりと父の抱擁を知らずに育ちました。
彼女の髪を梳くのは虚ろな目をした
母と父は彼女より、夜ごと綺羅びやかに着飾り踊り耽ることのほうが大事だったのです。
そんな両親がある日気まぐれに彼女に土産を贈りました。
それは精巧なつくりの少女人形。球体の関節を持ち、ほんのすこし冷たさを湛えた硝子の瞳の美しい人形です。
少女と人形は、瞬く間に仲良しになりました。
嵐の音が怖ろしく、両親が恋しくて泣いてしまう夜、人形の冷たい頬が少女の涙に濡れ火照った頬を冷ましました。
人形にとって、それは蜜月の日々でした。
物言わぬ自分を愛し、慈しみ、語りかけてくれる少女との時間は、人形にこころを生みました。
真に愛された人形には、時たまこんなことが起こるのです。
けれど、やがて少女が人形の髪を梳くことや、語りかけることや、抱きしめることがすこしずつすこしずつ、減っていきます。
ついには人形は硝子製の
埃が積もっていき、曇ったような硝子の扉の向こうに見える少女は気付けばもう少女とは呼べないほど背が伸び、髪を結い、コルセットを締め、そして大人のようにかなしげな瞳で忙しなく過ごしているのでした。
ついに、少女は部屋に戻らなくなりました。人形は
人形には知り得なかったことですが、少女は両親の贅沢によって傾いた家計のために、ひと回り以上歳の離れた貴族の元に嫁がされたのでした。
少女の犠牲を払ってもなお、残された負債は多く、両親は屋敷を売りに出しました。
けれどなかなか買い手がつきません。
住む人、整える人の居なくなった屋敷はみるみるうちに廃れていきます。
人形は、灰色の硝子の中から、植物が枯れていくかのように荒れていく部屋を見つめ。
時おりカリカリと硝子の扉をひっかくネズミに怯え。
窓から射す大きな満月に祈りました。
『ひとりはさみしい。誰かわたしと遊んで。ひとりはさみしいの』
何度目かの満月の夜。
いつもよりずっと、近くて大きな満月の光に人形はまた同じ祈りを唱えました。
すると、ふわりとあたたかな風がほつれたカーテンを揺らし。まるでその風に乗ってきたかのように、とんと軽やかな靴音を鳴らしてひとりの青年が人形のいる部屋に降り立ちました。
「こんにちは。あなたが、ここの住人かな?」
月の色をミルクで溶いたような髪はさらと顎のあたりで揺れ、いつか少女が読んでくれた絵本で見た清々しい春の草原のような色の瞳の美しい青年が、人形に話しかけます。
「私の名前はルチル。あなたの名前も知りたいな……ごめんね、ちょっと触らせてね」
青年はやさしく丁寧な手つきで人形の襟元を撫でました。絡まった髪をそっと避け、黄ばんだ襟をめくります。
「私が子どもの時はね、お人形の襟の内側に名前を書いたり刺繍したりしていたのだけど……あ、やっぱり!えっと、ア……アビゲイル、あなたの名前はアビゲイル?」
青年の声が、人形の、いえ、アビゲイルの名前を呼びました。久しぶりに、呼ばれた自分の名前。かつて少女がつけてくれた名前。すると不思議なことが起こりました。
アビゲイルのほのかに淡い赤色の唇から、小さな小さな声が出たのです。
『あの子が帰ってこなくてさみしいの。ううん、きっとあの子はもうわたしをいらないのでしょう。それは分かっているの。さよならさえ言ってもらえなかった。さみしいの。だってわたしはお人形。だれかに遊んでもらうために生まれたのだもの』
アビゲイルは、これまでひとりで思っていた想いを、生まれたての声に乗せて喋ります。
青年は驚きに目を見開いたものの、すぐにうんうんと頷きながら小さな声に耳を傾け、アビゲイルの言葉が途切れると、どんなひとでも安心してしまうような柔らかくやさしい笑顔を浮かべました。
「それなら、私と遊ぼう!絵本を読もうか、絵を描こうか、それとも歌って踊ろうか?あなたの髪も梳いてあげる。ああ、ドレスがずいぶんほつれてしまってるね。とっても裁縫が上手な友達がいるのだけれど、きっと彼は来られないから……少し不格好な縫い目でも、許してくれる?」
きらきらと輝く春の緑の瞳に覗き込まれて、アビゲイルは嬉しさに胸が弾むようでした。
陶器の身体の奥に、生命を刻むものはないのに。
胸の奥から、とくとくとあたたかななにかが身体中に流れ込むような気がします。それは、生命は持たずともこころを持つアビゲイルの身体に、再び喜びの火が灯されたからでした。
その夜の、幸福なことと言ったら。
青年は独特の
大きな手のひらで乱れたアビゲイルの髪をそっと梳き、ほんのすこし歪な縫い目が茶目っ気を添えたドレスを整えると、アビゲイルを抱いてくるくると回ります。
青年の胸に抱かれて、箒に乗って夜空も飛びました。大きな大きな満月の光のしたで、青年が口ずさむワルツと共に、二人は夜空の高いところで歌い、笑います。青年に抱かれていれば、アビゲイルはちっとも怖くないのでした。
やがて東の空の彼方から白いヴェールが近づいてきます。夜明けの合図。
青年は、アビゲイルを抱くと、そっと
そして不思議な呪文を唱えます。ほんの一瞬、真白の光が灯って、そして消えると、光があったあたり、青年の手のひらの上にテディベアが座っています。
月の色をミルクで溶いたようなふわふわの毛並み。春の日の緑の色をしたつぶらな瞳。そのテディベアは青年にそっくりでした。
「できることならずっと、アビゲイルと遊んでいたいけれど。私はいかなきゃいけない。ごめんなさい、アビゲイルに生まれた意味があるように、私にも、やらなきゃいけないことがあるから……。でもまた必ず遊びくるよ、友だちも連れて!それまで、この子を置いていくね。アビゲイルが一人でさみしい時、少しでもそれがやわらぐように」
『わたしに?』
「そう、アビゲイルのために。祝福の魔法をかけるね。
オルトニク・セトマオージェ」
青年が再び呪文を唱えると、テディベアはやわらかな光に包まれます。
「よし、成功!アビゲイルはもう一人ぼっちじゃない。この子もいるし、私もまた遊びに来るよ。だから……もう、泣かないで」
『わたしは泣いていたの?』
「そうだね。アビゲイルが泣くと、このお屋敷も泣いていたみたい。お屋敷がすすり泣きをするみたいに、夜の度にゆらゆらと揺れているという話を聞いて、私はここに来たんだ」
『知らなかった。泣いていたことも気付かなかったわ』
「月が、あんなに近いから。不思議なことが起きたのかもしれないね。アビゲイルは何も悪くない」
『……ありがとう。もう大丈夫。わたしはきっと、あの子が何も言わずに行ってしまったから、さみしかったのかもしれない。あなたは、ちゃんと、さよならをくれた。それにお友だちもね。だからもう、泣かないよ』
「それでも、泣きたくなるときがあったら……泣いていいから。この子の胸で、泣いていいから」
『なんだかあなたが泣きそうな顔をしてるよ。不思議なひと』
「こころがあると、楽しくなったり、嬉しくなったり、寂しくなったり、泣きたくなったりしてしまうからね。心に嘘をつかないでいいんだよ、アビゲイルも」
青年はもう一度アビゲイルを抱きしめて、あとすこしで泣いてしまいそうな笑顔でさよならを言って、窓から去っていきました。
箒に乗って、夜の名残の彗星のような速さで小さくなっていく青年の姿を、アビゲイルはテディベアと一緒にいつまでも見つめていました。
その後、不可思議な現象がぴたりとおさまった屋敷は修繕が進み、買い手がつくと共にアビゲイルとテディベアは魔法使いの街の
やがて訪れた魔法使いの少女がアビゲイルとテディベアを引き取り、そしてその少女の子供が、またその子供が。何年も何年も、魔法使いの時の流れの中で気が遠くなるほどの年月のあいだ、少女から少女へと可愛がられたアビゲイルとテディベアはもうずっと、さみしくなることはなかったのです。
***
「探しましたよ。まったくあなたは……目を離すとすぐいなくなる。死にたいんですか?」
「死んでしまうような危ないことはしてませんよ。さっき見つけた綺麗な花を写生しに行ってたんです。ミスラさん、私になにか?」
「ああ、忘れてました。はい、これ。あなたが欲しがると思ったので」
燃えるような赤髪を邪魔そうに掻きあげながら、気怠げな様子の男はぽん、と突然小さななにかを放り投げます。
青年は慌てて手を伸ばし、ひんやりとしたそれを手のひらで受け取りました。
「もう!ミスラさん、急に投げないでください!落とさなくて良かっ……これ、マナ石……ですか?」
「ええ、魔力は砂粒レベルのマナ石ですけど」
「どうして私に、」
「あの屋敷にいたやつのです。あなたが行った、豊かの街の屋敷。子供だまし程度ですが、魔力があったみたいですね。最後の持ち主が石になったときに一緒に石になったらしいですよ」
「そう、ですか……最後の持ち主さんは、」
「寿命だそうです。すくなくとも俺は殺してません」
「そんなこと、分かってますよ。……ありがとうミスラさん。ずっとあのあとも、あの子のこと気にかけてくださってたんですよね」
「はあ、能天気だな。たまたま通りがかっただけです」
「ミスラさんは優しいな。あれ、どうしてマナ石、二つなんでしょう……」
「話聞いてます?……知りませんけどそれ、一つからあなたの魔力の匂いがします。あなた、俺の知らないところで誰か殺したんですか?」
「もう!そんなことしません!それにしてもどうして私の魔力が……もしかして……アビゲイルにあげたテディベア?で、でも祝福の魔法をかけただけです。石になるのは生命あるものだけ、ですよね?」
「はあ、……まあ、あの頃は月が近かったので」
「月が近かった……確かにアビゲイルも、そのせいでこころが生まれたお人形でした」
「おかしなことばかり起きてましたから、そういうこともあるんじゃないですか?じゃ、用は済んだので俺は帰りますよ」
なにもない空間に向かってふわりと手を挙げた赤髪の男は、しかし再び青年に向かって長い脚を向けた。
「あなた」
「?なんですか?」
「それ、食べないんですか?」
「……そうですね、食べません」
「……まあ、その程度の魔力のマナ石を食べたところで魔力に変化はないでしょうけど」
赤髪の男は今度こそ気怠げに呪文を唱え、何もなかった空間に扉が現れます。男は瞬く間にその扉の向こうに消えていきました。
残された青年は、手のひらの中で寄り添う二つのちいさな石を見つめます。
石はひんやりと冷たくて。けれども、手のひらに吸いつくようにすべらかで。それはとても、美しくて。
青年はこころだったそれを、いつまでもいつまでも抱きしめるように、握っていたのでした。