THE CHORD OF PALE WHITE
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賢者の島の冬は長い。
空には常に鈍色の雲がかかって。その隙間からときに淡く、ときに重く、絶え間なく降り注ぐ雪があたり一面を白く染めていく。
今夜のナイトレイブンカレッジも、雪の白いヴェールに包まれている。妖精の吐息のように微かな、音のない音の気配をまとった学び舎。
ウィンターホリデーを迎えたカレッジ内は日頃の喧騒が嘘みたいに、ひっそりと沈黙している。
いつもは道行く生徒たちに声をかける肖像画たちも、白く閉ざされた静寂の中でうつらうつらと船を漕いでいた。
長い長い、冬の始まりの夜。
けれど、カレッジ内の海底奥深くに位置するオクタヴィネル寮までは、外の世界の白い静寂は届かない。
寮内のモストロラウンジには、食器が触れ合う音や居残り組の生徒たちの話し声がさざめいている。
いつもよりほんの少しボリュームの小さな音たちだけれど、全てを白く覆う雪の静けさに沈んだ外の空気の冷たさを忘れさせるのには充分で。私はなんとなく安心する。
硝子窓の外で揺蕩うように、尾ひれを翻す色鮮やかな深海魚たち。彼らが泳ぐ海の中にも、白い粉雪が舞っている。深海のウィンターワンダーランド。
魔法の世界では海にも雪が舞うのかと驚いた私に、呆れたような、でも心なしか愉快そうな声色で「これは窓硝子にちょっとした魔法をかけて、海の中に雪が降っているように見せているだけですよ。人魚にとって雪は珍しいので、喜ばれるんです。眼鏡は曇るし、睫毛は凍るし、一体何がそんなに嬉しいのか僕には理解しかねますが」と教えてくれたこのラウンジの責任者は、今はホール全体を見渡せるカウンター付近で書類をめくっていた。
モストロラウンジの支配人、オクタヴィネル寮の寮長。いつも一分の隙もなく完璧な佇まいで微笑みを浮かべる一学年上の先輩、アズール・アーシェングロット。人魚で在りながら陸で暮らし、学生でありながら事業者である彼の眼鏡のテンプルが店内で瞬く光を拾って反射する。
各テーブルに飾られた小さな白い珊瑚。その表面にも魔法の雪が積もっていて、ちらちらと白いオーロラ色に瞬く。それは元の世界でこの時期によく見ていた、クリスマスの飾りにどことなく似ている。雪に見立てたオーロラホワイトのラメパウダーはツリーの葉やクリスマスカード、サンタクロースの形のキャンドル、様々なものに振りかけられて、聖なる季節にはしゃぐ街を彩っていく。懐かしい、記憶。
改めて、アズール先輩がホリデーシーズンの臨時バイトに声を掛けてくれて良かったと思う。
いつもうるさいぐらい賑やかな友人たちはみんなそれぞれの家庭に帰って、グリムと二人きりでオンボロ寮の窓から白く染まる庭を眺めていたら。きっと、普段は心の引き出しに閉まってある孤独が溢れ出てしまっただろうと思うから。
なんて考えていると、アズール先輩のスカイブルーの瞳と目が合った。彼が軽く顎で指した方を見れば、空の食器が積まれたテーブルに気付く。
慌ててバッシングに向かい、もう一度視線だけで振り返ったときには、もうそこにアズール先輩はいなかった。
「監督生さん、受け取りますよ。代わりにこのドルチェを3番テーブルへお願いします。珈琲のお代わりを聞いてくださいね」
「ジェイド先輩、ありがとうございます。お代わりですね、分かりました」
厨房の手前で、長身から伸ばされた腕が軽々と食器を取り上げて、代わりにあたたかな湯気が立ち昇る焼き立てのアップルパイが乗ったケーキ皿を渡された。パイの上で、雪にミルクを混ぜたような色のアイスクリームがとろけ始めている。
運んだ先で飲み物のお代わりを勧めれば、即座に追加オーダーが入った。
通常時に比べたら閑散としている店内だけれど、皆食事が済んだあともスイーツやあたたかな飲み物のお代わりをして、ゆったりと沈み込む上質なソファから立ち上がろうとする人はいない。
きっと、がらんとした寮より、誰かの気配やおしゃべりの音がするこの空間にできるだけ長く居たいのだろう。私も彼らも、少しだけ寂しい。その寂しさの上を、ラウンジのほの青い光がそっと照らしている。
アズール先輩は「こんな時こそ稼ぎ時です」なんて言っていたけれど。そんな寮生の気持ちを汲んだ上で営業しているのだろうということはこの場にいる者みんなが分かっている。きっと私に声を掛けてくれたのも、同じ理由。
私は先輩の、そういうところに惹かれているし、珊瑚の海がこの時期凍ってしまうことが少しだけ嬉しい、なんて言ったら。彼はどんな顔をするのだろう。
「皆さん、ご注目ください」
ぱんぱん!と乾いた音を立てて、ジェイド先輩がホールの中心で両手を叩いた。
ひそやかなざわめきが一瞬静まり、寛いでいた生徒たちの視線が一斉にターコイズブルーの長身に集まる。
ジェイド先輩はにっこりと慇懃に微笑んで深いお辞儀をした。
「今宵もモストロラウンジをご利用いただきまして有難うございます。ウィンターホリデーの始まりの日、こうしてここにお集まり下さった皆様へ、支配人からの贈り物です。どうぞ、お楽しみ下さい。フロイド!」
双子の片割れの名前を呼んで指をぱちんと鳴らすとと同時に店内の照明が落とされた。そして店内の中央に置かれたグランドピアノに、スポットが当てられる。ホールにいる全員がそのピアノに注目する中、こつこつと品のいい靴音で床を鳴らして、アズール先輩が暗闇の中から現れた。ピアノの椅子に片手を置くと、眩いスポットライトに目をしかめることもなく、その場にいる全員が見惚れてしまうほど優雅に、お辞儀をした。
寮服のトレンチコートと帽子は身につけていない。はっとするほど高い腰の位置や、陸での仮の姿とは思えないしなやかに伸びた足のラインがいつもより鮮明に見えて、とくとくと心臓が高鳴るのを感じた。これから始まることへの予感に高揚した肌がぞくりと粟立つ。
呆けたように見つめる人、好奇心に身を乗り出す人、催しを理解して居丈高な微笑みを浮かべて座り直す人。それぞれの視線を一斉に受けた先輩はポケットから取り出した皺一つないハンカチで鍵盤を一撫ですると、短く深い呼吸をしてスポットライトに輝く鍵盤に指を落とした。
短調の和音。軽やかな三拍子。退廃的で哀愁を帯びたメロディを軽快なワルツのテンポがうねる音の波となってラウンジの空気を震わせる。
アズール先輩の白くて長い指が、鍵盤の上でステップを踏んでいる。ジャズのように軽快で民族音楽のように寂しげな旋律のバランスが小粋なワルツ。
素人の私でも、技巧的な楽曲だということが分かる。加速するワルツに縺れることもなく、大きな手のひらはどこまでも軽やかに鍵盤を叩く。
息を呑む間もなく、華々しく上げられた手首とじんじんと骨に響くような和音の残響に、一曲目が終わったことに気付いた。
沸き立つ観客の拍手と口笛、足で床を踏み鳴らす音が収まるのを待って、アズール先輩はまた鍵盤を鳴らす。
今度は、荘厳な響きの音が三つ。ずっしりと胸に落ちてくる。そしてささやくようなピアニシモのモティーフ。その動きを目で追うのが難しいくらいの速さで鍵盤を滑る指が、幻想的な旋律をうたう。時おり、奏でる音の響きを確かめるかのようにアズール先輩は瞼を閉じた。薄い色の睫毛が、スポットライトに光る。微かに寄った眉間の皺が、音楽の中の官能を味わっているように見えて、私は思わず手のひらを握り締めた。じっとりと汗をかいた手のひら。
鍵盤から手を放した先輩が天を仰ぐ。その緊迫した空気は客席の熱狂を征して、今度は拍手を待たずにすぐに曲が始まった。
うって変わって、明るく煌めく音の粒。透明な水が流れるような高音のアルペジオとトレモロ。
泉のように湧き出る清らかな旋律が、火照ったラウンジの空気を心地よく冷やしていく。
アズール先輩の少し長めの前髪から覗く唇の端がゆるやかな孤を描いている。それはいつもの、エースたちが言うところの胡散臭い、腹の底が見えない笑い方ではなくて。音と、それを奏でること。そしてその旋律に身を委ねることを楽しんでいる、純度の高い微笑みに見えた。その唇が薄く開いて、音の粒の間から漏れる熱っぽい吐息まで聞こえる気がした。
目が離せない。一瞬も見逃したくない。先輩の綺麗な指から生まれる旋律も。音楽の魔力が見せた、先輩の剥き出しの表情も。先輩はこんな顔もするのかと思うと、痛いくらいに鼓動が高鳴る。
清廉な音の水が、やがて静かに、染みるように消えて。ラウンジの床が割れてしまうのではないかと思うくらいの歓声と拍手、高らかな口笛が静寂を破った。居丈高な態度を取っていた生徒ですら、興奮に頬を染めて一心不乱に手を鳴らしている。オクタヴィネルの制服を着たテーブルからは「寮長!寮長!!」と誇らしげな掛け声が挙がった。
アズール先輩は椅子から立ち上がるとにっこりと笑ってその歓声を受けながらお辞儀をする。スマートに、優雅に、「感心しました?」という台詞が聞こえてきそうなくらい得意気に。
鳴り止まない拍手とアンコールの掛け声の中で、再び鍵盤が叩かれる。
重厚な和音で構成されたワルツ。
仮面をつけて酔い踊るような狂乱を彷彿させる主題が、華やかに始まった。アンコールらしく、派手な打鍵の度に軽く宙を舞う手首の白さと浮き出た筋。大仰なリットののち、少し緩まったテンポで始まる優美で装飾的な中間部。旋律を味わうように傾けられた首筋が、挑発的なほど艶かしく見える。
再びワルツの主題に戻って、目眩くような音の波が私の全身を撫でていく。じんじんと、耳の中で三拍子が響き続ける。
先輩の指が軽やかに鍵盤を滑る。あの指に撫でられる白鍵と黒鍵はどんな心地なのだろう。ウェーブがかったシルバーの毛束の先で、また微笑みの気配がする。このままだと酔ってしまう。音に、空間に。飲み込まれてしまう。彼に。
それでも、この魔性のような美しい旋律を奏でる人魚から、私は目を逸らせない。
彼がこのまま、音の波の中に私を閉じ込めてくれたら。もう私は孤独を感じなくなるかもしれない。
身体が痺れるような熱狂の和音の響きがやがて薄れていく中で、私はそんなことを考えながら、アズール先輩の横顔を見つめ続けた。
***
薄青の照明の光と影のあわいで、小さな埃の粒子がふわふわと舞う。
少しずつ、温度がさがっていくように静けさの密度が増した閉店後のラウンジで、私は出来る限り時間をかけてテーブルを拭く。食べこぼしも、水滴もとっくに綺麗に拭き上げられていて、テーブルの上も床の上も、消すべき汚れはなにもない。それでも私はだらだらと腕を動かして布巾を滑らせる。
他の従業員は随分前に皆寮に帰って行った。共に臨時バイトとして雇われたグリムも、賄いで膨れたお腹を抱えて、ぐずぐずとホールで作業をする私に眠そうな声で「オレ様は先に帰るんだゾ」と言って帰ってしまった。
こうしてここに一人でいると、外の世界の雪に沈んだ静けさがゆっくりと海の底にまで入り込んでくるような。心の中にしまい込んだ孤独がじわじわと染み広がっていくような気がする。
さっきまでこのラウンジを震わせていた音の波と熱の残滓が消えてしまうのが名残惜しくて、私はそっとピアノに近付いた。開けっ放しの蓋。白と黒の鍵盤を海色の照明がほのかに染めている。
指を一本、白い方に乗せて下ろす。C。始まりの音。明るい響きが海底の静寂を優しく震わせる。鍵盤はかすかにあたたかかいのは、きっと気のせい。でもその温度を引き寄せたくてもう一度指を降ろす。音が鳴る。窓の外で鮮やかな色の小魚がくるりと一回転して、滑らかに遠退いて行った。
「まだ残ってらしたんですか?」
テノールの声がして振り返ると、アズール先輩が少し眉を上げた表情でホールに入ってくるところだった。
「すみません、すぐ終わらせますね」
「構いませんよ。僕もピアノを拭きに来たので」
「驚きました、ピアノ。先輩、あといくつ特技を隠しているんですか?」
「おや、手札の数はそう簡単に明かしませんよ」
「ふふ、そうでしょうね」
二人の間に沈黙が落ちる。先輩は丹念に磨かれた靴の踵を鳴らしてピアノに近付くと、ハンカチとは違う柔らかな素材の布で鍵盤を拭き始めた。
白鍵も黒鍵も、全てのキーをひとつひとつ丁寧に
そっと撫でる。関節ごとに並んだ指の骨が軽い孤を描いて、硝子細工を磨くかのような繊細な動きで鍵盤を滑っていく。
先輩に撫でられたあとの鍵は、ほの青い照明の下で恥じらうように淡く揺らめく。
ひとつ、またひとつ。磨かれた鍵が増えていく。この儀式のような静かな作業が済んでしまえば、本当におしまい。先輩が奏でた音も、それによって沸き立った熱狂もぜんぶ、雪に覆われて。きっと私はまた少し寂しくなって、少し泣きたくなるんだろう。海底の魔法が消えてしまう。
「せっかくのホリデーなのに、手伝っていただいて助かりました。縮小営業とはいえ、僕らだけではやはり少し余裕がなくなってしまうので」
「いえ、私こそ助かりました」
「なぜ?またグリムさんの食費が嵩んでいるんですか?」
「あ、そういうわけではなくて……」
アズール先輩は手を止めて、私に顔を合わせた。スカイブルーの瞳が続きを待っている。窓の向こうに佇む書き割りのような海の青とピアノの黒に挟まれたアズール先輩はとっても綺麗だった。陽の光の下で見るより、深海の色に近いこのラウンジで見るほうが、なんとなく妖艶で目を逸らせないような心地になるのはやっぱり彼が本来なら深い水底で過ごすのが常の人魚だからだろうか。
「……少し、寂しくなるんです。みんなは家に帰っていって。笑ってるみんなを見送って一人で寮に戻ったら、なんだか自分だけ居場所がないように感じてしまって。……世界で独りぼっちになった気分になるんです。だから、こうしてここでにぎやかに過ごせて良かった。アズール先輩のピアノも聞けましたし」
「ユウさん」
「先輩のピアノ、とっても素敵でした。本当に」
先輩は何も答えない。黙ってピアノの椅子に座ると、眼鏡を軽く押し上げてから今磨いたばかりの鍵盤を鳴らした。
形容するのが難しい、不思議な旋律と響き。これまで聞いたどんな種類の音楽にも当てはまらないそれは、ゆったりとしたテンポで、聞いていると安心するような、あたたかな音の毛布に包まれているような感覚になる曲だった。
「この曲は、人魚の子守唄です。僕の両親はいつもリストランテの営業で忙しく、夜は一人で過ごすことに慣れていましたが……。たまに哀しい夢を見て目覚めると、なぜか店にいるはずの母親が座っていてこの曲を眠りにつくまで歌ってくれたんです」
不可思議な旋律を奏でながら、アズール先輩は一瞬遠くを見遣った。そして、ピアノの音にのせるように自然に、歌い始めた。
ヒトである私にはその言語の形を正確に掴むことが出来ない。確かに言葉であるのに、耳から流れ込むそれの輪郭は曖昧で泡沫のように空気に浮かんでは消えていく。
先輩のテノールの声は伸びやかに響く。知らないはずなのに、なぜか懐かしく感じる旋律。これはきっと、何年も何年も親から子へ、子からまたその子へと愛情を持って大切に継がれてきた音楽だけが持つ甘やかな記憶の温度。寂しさや哀しさを消し去ることはないけれど、それごと包み込むような優しい旋律を、先輩がうたう。あたたかな思い出の共有に、私は本当に泣きたくなってしまった。望郷の涙ではなくて、先輩の優しさが嬉しくて。たまらなく好きで。このまま、先輩がセイレーンのように私の手を引っ張って本物の海底まで連れて行ってくれたらいいのに。
貝の中で響くような不思議な残響を残して、歌声は最後のメロディをなぞり終える。
「……アズール先輩は優しいですね」
「誤解していますよ。人魚はね、歌でヒトを引きずり込む生物です。僕も貴方の寂しさにつけ込んで、貴方を海に沈めようとしているとしたら?」
「アズール先輩が一緒にいて下さるなら、それもいいかもしれません」
泣きそうなのが分からないように、わざと軽い口調で、笑って言ってみる。
先輩はそんな私に、片眉を上げて、ふっと小さな息を漏らした。
「これはこれは。今、言質を取りましたよ」
「え?」
「僕は冗談が通じないんです」
鍵盤から離れた指が、クリスタルの輝くペンをタクトのように振る。
すると一瞬空気があたたかくなって、私と先輩の丁度真上に、私たち二人を見下ろすように瑞々しい緑の葉と透き通るような乳白色の実をつけた植物が現れた。ヤドリギ。この植物にまつわる有名なジンクスは、私も知っている。
戸惑いながら先輩を見れば、薄い唇に、あの微笑みが浮かんでいた。今この瞬間の喜びを心から楽しんでいるような、純度の高い微笑み。
「僕は本気ですよ。……貴方は?」
さあ、どうします?と取り引きを持ち掛けるような気軽な口調で言う先輩を見つめ返す。
そのスカイブルーの先には、寂しさや哀しさをそれごと包む海が見える気がする。
一歩。足を踏み出す。
先輩の腕が私の手のひらを掴んで引き寄せる。バランスを崩した私の自由な方の手の指が、鍵盤で和音を鳴らしたのと、唇に甘やかなぬくもりを感じたのは同時だった。
偶然が生み出したその和音は、高らかに明るい響きで空気を揺らして消える。
ヤドリギの香りが僅かに鼻をくすぐる。窓硝子越しの海にはまだ魔法の雪が舞う。先輩の鼓動と私の鼓動が、同じテンポで聞こえる。
私を孤独にさせる、外の世界の白い沈黙は海底までは届かない。
End.
空には常に鈍色の雲がかかって。その隙間からときに淡く、ときに重く、絶え間なく降り注ぐ雪があたり一面を白く染めていく。
今夜のナイトレイブンカレッジも、雪の白いヴェールに包まれている。妖精の吐息のように微かな、音のない音の気配をまとった学び舎。
ウィンターホリデーを迎えたカレッジ内は日頃の喧騒が嘘みたいに、ひっそりと沈黙している。
いつもは道行く生徒たちに声をかける肖像画たちも、白く閉ざされた静寂の中でうつらうつらと船を漕いでいた。
長い長い、冬の始まりの夜。
けれど、カレッジ内の海底奥深くに位置するオクタヴィネル寮までは、外の世界の白い静寂は届かない。
寮内のモストロラウンジには、食器が触れ合う音や居残り組の生徒たちの話し声がさざめいている。
いつもよりほんの少しボリュームの小さな音たちだけれど、全てを白く覆う雪の静けさに沈んだ外の空気の冷たさを忘れさせるのには充分で。私はなんとなく安心する。
硝子窓の外で揺蕩うように、尾ひれを翻す色鮮やかな深海魚たち。彼らが泳ぐ海の中にも、白い粉雪が舞っている。深海のウィンターワンダーランド。
魔法の世界では海にも雪が舞うのかと驚いた私に、呆れたような、でも心なしか愉快そうな声色で「これは窓硝子にちょっとした魔法をかけて、海の中に雪が降っているように見せているだけですよ。人魚にとって雪は珍しいので、喜ばれるんです。眼鏡は曇るし、睫毛は凍るし、一体何がそんなに嬉しいのか僕には理解しかねますが」と教えてくれたこのラウンジの責任者は、今はホール全体を見渡せるカウンター付近で書類をめくっていた。
モストロラウンジの支配人、オクタヴィネル寮の寮長。いつも一分の隙もなく完璧な佇まいで微笑みを浮かべる一学年上の先輩、アズール・アーシェングロット。人魚で在りながら陸で暮らし、学生でありながら事業者である彼の眼鏡のテンプルが店内で瞬く光を拾って反射する。
各テーブルに飾られた小さな白い珊瑚。その表面にも魔法の雪が積もっていて、ちらちらと白いオーロラ色に瞬く。それは元の世界でこの時期によく見ていた、クリスマスの飾りにどことなく似ている。雪に見立てたオーロラホワイトのラメパウダーはツリーの葉やクリスマスカード、サンタクロースの形のキャンドル、様々なものに振りかけられて、聖なる季節にはしゃぐ街を彩っていく。懐かしい、記憶。
改めて、アズール先輩がホリデーシーズンの臨時バイトに声を掛けてくれて良かったと思う。
いつもうるさいぐらい賑やかな友人たちはみんなそれぞれの家庭に帰って、グリムと二人きりでオンボロ寮の窓から白く染まる庭を眺めていたら。きっと、普段は心の引き出しに閉まってある孤独が溢れ出てしまっただろうと思うから。
なんて考えていると、アズール先輩のスカイブルーの瞳と目が合った。彼が軽く顎で指した方を見れば、空の食器が積まれたテーブルに気付く。
慌ててバッシングに向かい、もう一度視線だけで振り返ったときには、もうそこにアズール先輩はいなかった。
「監督生さん、受け取りますよ。代わりにこのドルチェを3番テーブルへお願いします。珈琲のお代わりを聞いてくださいね」
「ジェイド先輩、ありがとうございます。お代わりですね、分かりました」
厨房の手前で、長身から伸ばされた腕が軽々と食器を取り上げて、代わりにあたたかな湯気が立ち昇る焼き立てのアップルパイが乗ったケーキ皿を渡された。パイの上で、雪にミルクを混ぜたような色のアイスクリームがとろけ始めている。
運んだ先で飲み物のお代わりを勧めれば、即座に追加オーダーが入った。
通常時に比べたら閑散としている店内だけれど、皆食事が済んだあともスイーツやあたたかな飲み物のお代わりをして、ゆったりと沈み込む上質なソファから立ち上がろうとする人はいない。
きっと、がらんとした寮より、誰かの気配やおしゃべりの音がするこの空間にできるだけ長く居たいのだろう。私も彼らも、少しだけ寂しい。その寂しさの上を、ラウンジのほの青い光がそっと照らしている。
アズール先輩は「こんな時こそ稼ぎ時です」なんて言っていたけれど。そんな寮生の気持ちを汲んだ上で営業しているのだろうということはこの場にいる者みんなが分かっている。きっと私に声を掛けてくれたのも、同じ理由。
私は先輩の、そういうところに惹かれているし、珊瑚の海がこの時期凍ってしまうことが少しだけ嬉しい、なんて言ったら。彼はどんな顔をするのだろう。
「皆さん、ご注目ください」
ぱんぱん!と乾いた音を立てて、ジェイド先輩がホールの中心で両手を叩いた。
ひそやかなざわめきが一瞬静まり、寛いでいた生徒たちの視線が一斉にターコイズブルーの長身に集まる。
ジェイド先輩はにっこりと慇懃に微笑んで深いお辞儀をした。
「今宵もモストロラウンジをご利用いただきまして有難うございます。ウィンターホリデーの始まりの日、こうしてここにお集まり下さった皆様へ、支配人からの贈り物です。どうぞ、お楽しみ下さい。フロイド!」
双子の片割れの名前を呼んで指をぱちんと鳴らすとと同時に店内の照明が落とされた。そして店内の中央に置かれたグランドピアノに、スポットが当てられる。ホールにいる全員がそのピアノに注目する中、こつこつと品のいい靴音で床を鳴らして、アズール先輩が暗闇の中から現れた。ピアノの椅子に片手を置くと、眩いスポットライトに目をしかめることもなく、その場にいる全員が見惚れてしまうほど優雅に、お辞儀をした。
寮服のトレンチコートと帽子は身につけていない。はっとするほど高い腰の位置や、陸での仮の姿とは思えないしなやかに伸びた足のラインがいつもより鮮明に見えて、とくとくと心臓が高鳴るのを感じた。これから始まることへの予感に高揚した肌がぞくりと粟立つ。
呆けたように見つめる人、好奇心に身を乗り出す人、催しを理解して居丈高な微笑みを浮かべて座り直す人。それぞれの視線を一斉に受けた先輩はポケットから取り出した皺一つないハンカチで鍵盤を一撫ですると、短く深い呼吸をしてスポットライトに輝く鍵盤に指を落とした。
短調の和音。軽やかな三拍子。退廃的で哀愁を帯びたメロディを軽快なワルツのテンポがうねる音の波となってラウンジの空気を震わせる。
アズール先輩の白くて長い指が、鍵盤の上でステップを踏んでいる。ジャズのように軽快で民族音楽のように寂しげな旋律のバランスが小粋なワルツ。
素人の私でも、技巧的な楽曲だということが分かる。加速するワルツに縺れることもなく、大きな手のひらはどこまでも軽やかに鍵盤を叩く。
息を呑む間もなく、華々しく上げられた手首とじんじんと骨に響くような和音の残響に、一曲目が終わったことに気付いた。
沸き立つ観客の拍手と口笛、足で床を踏み鳴らす音が収まるのを待って、アズール先輩はまた鍵盤を鳴らす。
今度は、荘厳な響きの音が三つ。ずっしりと胸に落ちてくる。そしてささやくようなピアニシモのモティーフ。その動きを目で追うのが難しいくらいの速さで鍵盤を滑る指が、幻想的な旋律をうたう。時おり、奏でる音の響きを確かめるかのようにアズール先輩は瞼を閉じた。薄い色の睫毛が、スポットライトに光る。微かに寄った眉間の皺が、音楽の中の官能を味わっているように見えて、私は思わず手のひらを握り締めた。じっとりと汗をかいた手のひら。
鍵盤から手を放した先輩が天を仰ぐ。その緊迫した空気は客席の熱狂を征して、今度は拍手を待たずにすぐに曲が始まった。
うって変わって、明るく煌めく音の粒。透明な水が流れるような高音のアルペジオとトレモロ。
泉のように湧き出る清らかな旋律が、火照ったラウンジの空気を心地よく冷やしていく。
アズール先輩の少し長めの前髪から覗く唇の端がゆるやかな孤を描いている。それはいつもの、エースたちが言うところの胡散臭い、腹の底が見えない笑い方ではなくて。音と、それを奏でること。そしてその旋律に身を委ねることを楽しんでいる、純度の高い微笑みに見えた。その唇が薄く開いて、音の粒の間から漏れる熱っぽい吐息まで聞こえる気がした。
目が離せない。一瞬も見逃したくない。先輩の綺麗な指から生まれる旋律も。音楽の魔力が見せた、先輩の剥き出しの表情も。先輩はこんな顔もするのかと思うと、痛いくらいに鼓動が高鳴る。
清廉な音の水が、やがて静かに、染みるように消えて。ラウンジの床が割れてしまうのではないかと思うくらいの歓声と拍手、高らかな口笛が静寂を破った。居丈高な態度を取っていた生徒ですら、興奮に頬を染めて一心不乱に手を鳴らしている。オクタヴィネルの制服を着たテーブルからは「寮長!寮長!!」と誇らしげな掛け声が挙がった。
アズール先輩は椅子から立ち上がるとにっこりと笑ってその歓声を受けながらお辞儀をする。スマートに、優雅に、「感心しました?」という台詞が聞こえてきそうなくらい得意気に。
鳴り止まない拍手とアンコールの掛け声の中で、再び鍵盤が叩かれる。
重厚な和音で構成されたワルツ。
仮面をつけて酔い踊るような狂乱を彷彿させる主題が、華やかに始まった。アンコールらしく、派手な打鍵の度に軽く宙を舞う手首の白さと浮き出た筋。大仰なリットののち、少し緩まったテンポで始まる優美で装飾的な中間部。旋律を味わうように傾けられた首筋が、挑発的なほど艶かしく見える。
再びワルツの主題に戻って、目眩くような音の波が私の全身を撫でていく。じんじんと、耳の中で三拍子が響き続ける。
先輩の指が軽やかに鍵盤を滑る。あの指に撫でられる白鍵と黒鍵はどんな心地なのだろう。ウェーブがかったシルバーの毛束の先で、また微笑みの気配がする。このままだと酔ってしまう。音に、空間に。飲み込まれてしまう。彼に。
それでも、この魔性のような美しい旋律を奏でる人魚から、私は目を逸らせない。
彼がこのまま、音の波の中に私を閉じ込めてくれたら。もう私は孤独を感じなくなるかもしれない。
身体が痺れるような熱狂の和音の響きがやがて薄れていく中で、私はそんなことを考えながら、アズール先輩の横顔を見つめ続けた。
***
薄青の照明の光と影のあわいで、小さな埃の粒子がふわふわと舞う。
少しずつ、温度がさがっていくように静けさの密度が増した閉店後のラウンジで、私は出来る限り時間をかけてテーブルを拭く。食べこぼしも、水滴もとっくに綺麗に拭き上げられていて、テーブルの上も床の上も、消すべき汚れはなにもない。それでも私はだらだらと腕を動かして布巾を滑らせる。
他の従業員は随分前に皆寮に帰って行った。共に臨時バイトとして雇われたグリムも、賄いで膨れたお腹を抱えて、ぐずぐずとホールで作業をする私に眠そうな声で「オレ様は先に帰るんだゾ」と言って帰ってしまった。
こうしてここに一人でいると、外の世界の雪に沈んだ静けさがゆっくりと海の底にまで入り込んでくるような。心の中にしまい込んだ孤独がじわじわと染み広がっていくような気がする。
さっきまでこのラウンジを震わせていた音の波と熱の残滓が消えてしまうのが名残惜しくて、私はそっとピアノに近付いた。開けっ放しの蓋。白と黒の鍵盤を海色の照明がほのかに染めている。
指を一本、白い方に乗せて下ろす。C。始まりの音。明るい響きが海底の静寂を優しく震わせる。鍵盤はかすかにあたたかかいのは、きっと気のせい。でもその温度を引き寄せたくてもう一度指を降ろす。音が鳴る。窓の外で鮮やかな色の小魚がくるりと一回転して、滑らかに遠退いて行った。
「まだ残ってらしたんですか?」
テノールの声がして振り返ると、アズール先輩が少し眉を上げた表情でホールに入ってくるところだった。
「すみません、すぐ終わらせますね」
「構いませんよ。僕もピアノを拭きに来たので」
「驚きました、ピアノ。先輩、あといくつ特技を隠しているんですか?」
「おや、手札の数はそう簡単に明かしませんよ」
「ふふ、そうでしょうね」
二人の間に沈黙が落ちる。先輩は丹念に磨かれた靴の踵を鳴らしてピアノに近付くと、ハンカチとは違う柔らかな素材の布で鍵盤を拭き始めた。
白鍵も黒鍵も、全てのキーをひとつひとつ丁寧に
そっと撫でる。関節ごとに並んだ指の骨が軽い孤を描いて、硝子細工を磨くかのような繊細な動きで鍵盤を滑っていく。
先輩に撫でられたあとの鍵は、ほの青い照明の下で恥じらうように淡く揺らめく。
ひとつ、またひとつ。磨かれた鍵が増えていく。この儀式のような静かな作業が済んでしまえば、本当におしまい。先輩が奏でた音も、それによって沸き立った熱狂もぜんぶ、雪に覆われて。きっと私はまた少し寂しくなって、少し泣きたくなるんだろう。海底の魔法が消えてしまう。
「せっかくのホリデーなのに、手伝っていただいて助かりました。縮小営業とはいえ、僕らだけではやはり少し余裕がなくなってしまうので」
「いえ、私こそ助かりました」
「なぜ?またグリムさんの食費が嵩んでいるんですか?」
「あ、そういうわけではなくて……」
アズール先輩は手を止めて、私に顔を合わせた。スカイブルーの瞳が続きを待っている。窓の向こうに佇む書き割りのような海の青とピアノの黒に挟まれたアズール先輩はとっても綺麗だった。陽の光の下で見るより、深海の色に近いこのラウンジで見るほうが、なんとなく妖艶で目を逸らせないような心地になるのはやっぱり彼が本来なら深い水底で過ごすのが常の人魚だからだろうか。
「……少し、寂しくなるんです。みんなは家に帰っていって。笑ってるみんなを見送って一人で寮に戻ったら、なんだか自分だけ居場所がないように感じてしまって。……世界で独りぼっちになった気分になるんです。だから、こうしてここでにぎやかに過ごせて良かった。アズール先輩のピアノも聞けましたし」
「ユウさん」
「先輩のピアノ、とっても素敵でした。本当に」
先輩は何も答えない。黙ってピアノの椅子に座ると、眼鏡を軽く押し上げてから今磨いたばかりの鍵盤を鳴らした。
形容するのが難しい、不思議な旋律と響き。これまで聞いたどんな種類の音楽にも当てはまらないそれは、ゆったりとしたテンポで、聞いていると安心するような、あたたかな音の毛布に包まれているような感覚になる曲だった。
「この曲は、人魚の子守唄です。僕の両親はいつもリストランテの営業で忙しく、夜は一人で過ごすことに慣れていましたが……。たまに哀しい夢を見て目覚めると、なぜか店にいるはずの母親が座っていてこの曲を眠りにつくまで歌ってくれたんです」
不可思議な旋律を奏でながら、アズール先輩は一瞬遠くを見遣った。そして、ピアノの音にのせるように自然に、歌い始めた。
ヒトである私にはその言語の形を正確に掴むことが出来ない。確かに言葉であるのに、耳から流れ込むそれの輪郭は曖昧で泡沫のように空気に浮かんでは消えていく。
先輩のテノールの声は伸びやかに響く。知らないはずなのに、なぜか懐かしく感じる旋律。これはきっと、何年も何年も親から子へ、子からまたその子へと愛情を持って大切に継がれてきた音楽だけが持つ甘やかな記憶の温度。寂しさや哀しさを消し去ることはないけれど、それごと包み込むような優しい旋律を、先輩がうたう。あたたかな思い出の共有に、私は本当に泣きたくなってしまった。望郷の涙ではなくて、先輩の優しさが嬉しくて。たまらなく好きで。このまま、先輩がセイレーンのように私の手を引っ張って本物の海底まで連れて行ってくれたらいいのに。
貝の中で響くような不思議な残響を残して、歌声は最後のメロディをなぞり終える。
「……アズール先輩は優しいですね」
「誤解していますよ。人魚はね、歌でヒトを引きずり込む生物です。僕も貴方の寂しさにつけ込んで、貴方を海に沈めようとしているとしたら?」
「アズール先輩が一緒にいて下さるなら、それもいいかもしれません」
泣きそうなのが分からないように、わざと軽い口調で、笑って言ってみる。
先輩はそんな私に、片眉を上げて、ふっと小さな息を漏らした。
「これはこれは。今、言質を取りましたよ」
「え?」
「僕は冗談が通じないんです」
鍵盤から離れた指が、クリスタルの輝くペンをタクトのように振る。
すると一瞬空気があたたかくなって、私と先輩の丁度真上に、私たち二人を見下ろすように瑞々しい緑の葉と透き通るような乳白色の実をつけた植物が現れた。ヤドリギ。この植物にまつわる有名なジンクスは、私も知っている。
戸惑いながら先輩を見れば、薄い唇に、あの微笑みが浮かんでいた。今この瞬間の喜びを心から楽しんでいるような、純度の高い微笑み。
「僕は本気ですよ。……貴方は?」
さあ、どうします?と取り引きを持ち掛けるような気軽な口調で言う先輩を見つめ返す。
そのスカイブルーの先には、寂しさや哀しさをそれごと包む海が見える気がする。
一歩。足を踏み出す。
先輩の腕が私の手のひらを掴んで引き寄せる。バランスを崩した私の自由な方の手の指が、鍵盤で和音を鳴らしたのと、唇に甘やかなぬくもりを感じたのは同時だった。
偶然が生み出したその和音は、高らかに明るい響きで空気を揺らして消える。
ヤドリギの香りが僅かに鼻をくすぐる。窓硝子越しの海にはまだ魔法の雪が舞う。先輩の鼓動と私の鼓動が、同じテンポで聞こえる。
私を孤独にさせる、外の世界の白い沈黙は海底までは届かない。
End.
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