アトランティカより愛をこめて
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わたしには、お気に入りの場所がある。
わたしが住んでいる街は海の側にあって、いつどこにいてもさざ波の音がかすかに聞こえて、ほんの少しだけ生き物のにおいが混ざった潮風が吹く。自転車は錆びやすいし、湿気のある風がせっかく決めた前髪を崩していくのはいやだけど、わたしはなんだかんだ、この街がすき。
街の人たちはどことなくのんびりしていて、不自然な無関心さも過剰な干渉もない。ほどよい距離感をみんなが保っているような感じ。
それはきっと海の魔法だと思う。だって腹が立ったり、落ち込んだりしても、ささやくような波の音とか、足首をくすぐる水の冷たさとか、さらさらと滑っていく白い砂を感じたら、心の中の色々なことが綺麗に濾過されていくような気がするもの。
わたしがこの街をすきな理由はもう一つあって。海の側のちょっと高台になったところにあるカフェ・アトランティカ。そこがわたしのお気に入りの場所。それからそのマスターであるユウさん。
わたしはこのカフェ、ううん。正直に認めよう。ユウさんが大好き。今まで出逢った人の中で、一番憧れの人。
でも最初は、ユウさんのこと大嫌いだった。というか、会う前から憎んでた。
それは今思えばもう笑い話なのだけど、当時付き合っていた彼に振られて、その理由が他に好きな人ができたから。そしてその相手がカフェ・アトランティカのマスターだって言うんだもの。
わたしは慰めてくれる友達相手に、行ったことも会ったこともないカフェのマスターでちょっと大人の女性であるユウさんのことをそりゃあもう、散々悪口言ってたわけ。
ユウさんは多分20代前半くらいで、他の大人からしたらきっとまだまだ若いお嬢さんだったけど、16歳のわたしには、たった一人でカフェを切り盛りする自立した女性で。しかも、控えめなのになんとなく目を惹いてしまう不思議な魅力の持ち主っていう噂は彼に振られる前から聞いていたから、そんなのもう、太刀打ちできないし、悔しいやら悲しいやらでお菓子をやけ食いしては翌日口元に出来たニキビを睨みつける日々をしばらく過ごしてた。
彼は、わたしには向けたことのない切なそうな顔で「一目惚れなんだ。ごめん」なんて言って。
わたしと別れた後はクラスメイトが心配するくらい思い詰めた様子でカフェに通っていたらしい。
けど、そんな彼はユウさんにきっぱりと振られた。
曰く、「心に決めた人がいるから」。
その後の彼は見ていて情けなるくらい憔悴しきっていて、わたしはなんだかアホらしくなった。
自立した女性が16歳の男の子なんて相手にするわけないのに、こんな風に恋に盲目になるなんて。
バスケット部の部長で、みんなのリーダー的な存在だった彼を大人っぽい子だ、と思っていたわたしはまだまだ見る目がなかったみたい。
あんなに悲しかった気持ちがみるみる冷めていくのと同時に、ユウさんを見てみたくなった。
一人の幼い少年をこんなに夢中にさせる女性ってどんな人なんだろうって。
散々悪口を言っていた引け目もあって、友達を誘うことはせずにわたし一人でアトランティカの扉を押したのは数ヶ月前。
しゃらしゃらと透明な音を鳴らすシェルモビールを揺らして、少し緊張しながら入っていったわたしに、ユウさんはやわらかな笑顔でいらっしゃいと言った。
カフェ・アトランティカはこじんまりとしたお店で、カウンターの奥には紅茶の缶や瓶が並んで、海のほうに向かってひらかれた出窓から潮風がふわりと私の頬を撫でていった。
小さく流れるピアノ曲のBGMも、一番大きな窓にはめ込まれたステンドグラス風の色硝子で店内がほの青く光ったり、うす紫の影が差すところも、伝票の重石が小さな巻き貝やシーガラスのところも。一歩足を踏み入れた途端、悔しいけどたちまち好きになった。
お気に入りの本を持ってゆっくりとした時間を過ごしたくなるような、お茶の香りを楽しみながらいつまでも窓の外の海を眺めていたくなるような、そんなカフェ。
ユウさんは制服姿の私ににっこり微笑んで、「懐かしいな、学生時代を思い出しちゃう。良かったら、いま試作してるドリンクの味見をしてくれないかしら?」と言った。
仕草には大人の女性の落ち着きがあるのに、その声は人懐っこい色をしていて、わたしはなんだか拍子抜けしてこくこくと頷いていたっけ。
ユウさんが運んできたドリンクは透き通った紫色と水色のグラデーションになっていて、口に含むと弾ける炭酸とハーブの風味が清々しくてとっても美味しいドリンクだった。
「美味しい……」
「ほんと?ミントの味もするかしら?」
「はい、かすかに香ります。強すぎないし、とっても美味しい、です……」
「良かったー!!このミントの後味がなかなか再現できなくてね、ずっと試行錯誤していたのよ!」
「オリジナルのレシピじゃないんですか?」
「ふふ、これはね、私の恋人が初めて私のために作ってくれたドリンクなの。レシピは彼の頭の中。私にはその時の味や香りの記憶しかないから、なかなか正解に辿り着かなくて」
「恋人に、聞いたら良いじゃないですか」
「そうね、いつか逢えたら、教えてもらおうかな」
「いつか?」
「私たち、もう何年も逢えてないの」
「え、」
その時カウンターの奥から、薬鑵が吹き上がる甲高い音を鳴らして。この話はここでおしまいになった。
彼が、いや、彼だった人がユウさんに振られた理由は確か「心に決めた人がいるから」。
でも何年も逢えてないってどういうことなんだろう。
遠距離恋愛?それとももっと複雑な訳あり?テレビドラマで見る大人たちはわざわざ危険を犯すような恋をすることもあるから、そういう関係?でもカウンターの中で小さく鼻歌をうたいながら洗い物をするユウさんには、そういう生々しいことが似合わない気がする。
結局その日はその話の続きをしなかったけれど。
ユウさんの恋人との秘密も気になるし、なによりわたしはすっかりこのカフェが気に入ってしまって。その日以来、折を見てはアトランティカを訪れるようになった。
ユウさんは、わたしになかなか飲食代を払わせようとしなかった。頻繁に訪れているから申し訳ないと食い下がっても、「学生の金銭事情は痛いほど分かるから」と言って次に出す新作のドリンクやブレンドティーの味見をさせてくれる。
「お小遣いはもらってますし、大丈夫ですよ」
「そのお小遣いでなにか素敵なものを買えばいいじゃない。良いの良いの、私もね学生時代は極貧で、恋人が運営するラウンジの試作の味見と称してご馳走してもらってたのよ」
「ユウさんの恋人、学生で飲食店経営してたんですか?何者……」
「ふふ、学生時代からやり手の実業家だったのよ。私はそこでアルバイトさせてもらったりもしたの。海の底みたいに、青と紫の薄明かりの照明でね、落ち着いたピアノ曲がかかっていて、窓からは魚たちが泳いだり、珊瑚が揺らめいてるのが見えるの」
「水槽のあるお店ってこと?」
「うーん、正確にはそうじゃないんだけど。でもイメージとしてはそんな感じかしら」
「だからこのお店もピアノ曲が流れてて、ステンドグラスも青と紫なんですね」
「そうなの!彼のお店はもっと大人っぽくて、シックな雰囲気なんだけど。私のセンスではその雰囲気は難しくて。こんな風に素朴なお店になっちゃったの」
「わたしは好きだな、このお店。ユウさんのお店って感じがする」
「優しいのね。ありがと。私もね、このお店大好き。彼との思い出をひとつひとつ取り出していける場所なの。例えばこれ」
そう言ってユウさんは、カウンターに無造作に飾られた小さなシーグラスのひとつをつまみ上げた。
窓からの陽射しに、綺麗なスカイブルーがやわらかく光る。
「彼と、彼の幼馴染で同級生の双子と、4人で海に行ったことがあったの。その海がある街に、気になるリストランテがあるから視察に行きますよって言われて。リーズナブルで美味しいって噂のランチを堪能したあとに、私がお願いして海まで足を伸ばしたの。
その学校に行くまで住んでいた街は、海のない場所だったから、色んな海を見てみたかったのよ。
彼も双子も、海に親しい国の出身でね、彼のルーツに触れたいって思ったのね。いじらしいでしょ、学生時代の私。
沈みかけた日が淡いピンク色に浜辺を染めていて、ほんのすこし冷たい潮風がとっても心地よかったのを覚えてる。
双子の奔放な方の先輩が服のまま海に飛び込んで私たちに盛大に海水を飛ばしてきて、彼は濡れた眼鏡を拭きながら怒っていたっけ。
私?私はね、シーグラスを探すのに夢中だったの。
当時も海の近くのお土産物屋さんに行けばシーグラスが売っていたけれど、それじゃあ味気ないでしょう?
自分の足で触って、探して、集めたかった。
今日の思い出になるような素敵なシーグラスをね。
彼と双子たちは、そんな珍しくもない、価値もないガラクタみたいなものを必死に探すなんてと呆れて見てたんだけど」
◆◆◆
『小エビちゃ〜ん、みてみてぇ、オレすごいの見つけちゃったかもぉ』
『わあ、フロイド先輩!すごい!色も形もとっても綺麗……!』
『でしょ〜?もっと褒めてよ小エビちゃん』
『フロイド先輩すごいです!さすがです!宝物です!』
『だって。アズール〜?』
フロイド先輩が私の手のひらにぽとんと落としたシーグラスは、珍しいことに綺麗な六角形になっていて、あわい碧色がぬけるように透き通っていた。興奮してすごいすごいと飛び跳ねる私の頭越し、フロイド先輩はにやにやしながらアズール先輩に声をかけた。
振り返ると、アズール先輩が唇をきゅっと結んで腕まくりをしている。
綺麗なスカイブルーの瞳が、イデア先輩とボードゲームをしている時と同じ濃さでぎらぎらと燃えていた。ああ、これは。先輩の負けず嫌いに火がついた合図。こうなったら彼が納得するまで、終わらない。
『アズール先輩?もう暗くなってきましたし、シーグラスは充分拾ったから……』
『いえ、僕が今日の一番の思い出になるようなものを見つけ出しますよ』
『でも……』
『いいからあなたは黙っていてください』
ぴしゃり。と言い放って、長い脚を折り曲げて砂浜に目を凝らす恋人。
焚き付けた張本人であるフロイド先輩はもう飽きて、いまは双子の片割れの巨大な体躯を砂に埋めることに熱中している。
もう、みんな揃って小学生じゃないんだから。
私は諦めて、砂浜に腰をおろした。指先で白い砂をさらさらといじりながら恋人に目を向ける。
銀色の髪が、潮風に吹かれて頬に落ちるのも気にせず、熱心に砂浜を練り歩くアズール先輩。
薄ぼんやりと光るシーグラスを拾っては「ちがう、これじゃない」なんてぶつぶつ独り言を言って。ああ、砂に足を取られてよろけてる。見ないふりをしてあげよう。
アズール先輩は時たまこうやってものすごく子供っぽくなる。呆れてしまうくらいに。
でも、それは大抵私に関するときだというのも分かっているから、呆れながらも心の中にふくふくとあたたかい気持ちが生まれてしまう。
『よし!完璧だ!!』
30分ほど浜辺を練り歩いて、アズール先輩は声を上げた。どうだ、という顔を隠しもせずに、細くて骨っぽい指をひらくと、手のひらには小さなシーグラスが4つ。
『おやおや。これは、』
『へぇ、アズールやるじゃん〜』
『ふふ、尊敬していいんですよ』
半透明のスカイブルー、淡いゴールドとオリーブグリーン、そして真珠のような乳白色。
すべすべとした4つの石は、それぞれの色を誇るようにアズール先輩の手のひらの中で陽の光に揺れていた。
『これって……』
『僕の瞳の色、こいつらの瞳の色、そしてあなたは真珠色。人魚の涙、僕の心臓』
『アズール先輩……』
『ウゲ……アズールさぁ、よくそんな恥ずかしいこと言えんね』
『大変です、なんだか肌が鮫のようになってしまいました。病気でしょうか?』
『うるさい、黙れ』
そっと渡されたシーグラスは、ほんのすこしあたたかくて。
いつもはあんなに冷静で理知的な彼が、こうやって私のことで必死になることがくすぐったい。
からかう双子に足蹴りをする先輩の腕をくいっと引っ張って、振り向いた唇に一瞬、触れるだけのキスをした。
驚いて固まってる先輩を追い越して、双子の腕を取る。恥ずかしいから、振り向かないけれど。
私のために懸命なあなたがとってもかわいくて、きっといま後ろで真っ赤になってるであろうあなたが愛おしくて、今この瞬間がたまらなく幸福で。
私は手のひらの中の小さな石たちをもう一度、ぎゅっと握った。
◆◆◆
「これは、その時彼が見つけてくれたシーグラス。こっちに帰ってくる時に、殆どの荷物は持ってこれなかったのだけど。これだけは、なんとか一緒に連れてくることが出来たの。私の宝物」
「どうして、ユウさんは恋人を置いてここに来たんですか?」
「とっても複雑な事情があってね。私や彼にも、どうすることも出来なかった。所詮子供だもの。どんなに優秀でも、どうにもならないことがあるのが人生でしょ」
「でもロミオとジュリエットじゃあるまいし……そんなに大事に思い合っていたのに離れ離れにならなきゃいけない事情なんて……」
「そうね……」
その時のユウさんの顔がとっても寂しそうで、わたしはなんだか傷つけてしまった気がしてひどく慌てた。
「ごめんなさい!色んな事情がありますよね。ねぇ、良かったらもっと聞きたいです。ユウさんと、恋人さんのお話」
「ええ、改めてそう言われると恥ずかしいな」
「だって、当時のユウさんって今のわたしと同じくらいの年齢でしょ?その時にそんなに素敵な、物語みたいな恋をしたなんて憧れます。その恋人さんだって、映画とか小説に出てくるみたい。かっこよくてやり手で、でもかわいらしくて……そんな男子、私の周りには一人もいないですよ!みんなもっと自分勝手で子供っぽいだけです」
「あらあら」
わたしはそんな自分勝手で子供っぽい男の子の内の一人とお付き合いをして、その彼に振られた理由であるユウさんをそれこそ視察に来たのも忘れて、言葉を重ねた。
ユウさんの語る思い出が聞いていて楽しいのは勿論だけれど、なにより恋人さんのことを語るユウさんがとっても魅力的だった。
静かな瞳を優しく細めて、やわらかな声で思い出をなぞるユウさんは同性の私から見ても綺麗で、こんな人だから、その恋人さんもそれだけ夢中になったんだろうなって納得する。
子供の頃は、おとぎ話や絵本に描かれる「真実の愛」とやらを信じていたけれど。
少しずつ大人になって、大人だと思っていた人たちが思っているより大人じゃなかったり。
綺麗だと思っていた世界が思っていたより輝いていなかったり。
そんなことを経験するうちに、恋や愛だって物語のようにはいかないと知っていったけれど。
ユウさんの話を聞いていると、なんとなく「真実の愛」とか「運命の恋」を信じたくなるような気がした。
その後もわたしは変わらずアトランティカに通って、ユウさんのブレンドしたハーブティや焼き立てのクッキーをかじりながらおしゃべりに花を咲かせた。
あれは、部活帰り、いつもより遅い時間にアトランティカを訪れたときだったっけ。
とても暑い一日で、アトランティカのほの暗い寒色の店内に入ると体感温度が少し下がった気がした。
ユウさんは私にミントたっぷりのノンアルコールモヒートを出したあと、悪戯っぽくウィンクして「今日はもう閉店!」と言った。
そして自分にはきちんとラムを使った本物のモヒートをいれて、貝殻の形の看板を裏返すとわたしの隣に腰掛けた。
その日、話してくれたのは、ユウさんと恋人さんが初めて一緒に泳いだ日の思い出だった。
恋人さんは本来の姿に戻って(どういう意味だろう?ユウさんはすこし酔っていたみたいだし、気になったけど突っ込まないことにした)、ユウさんの手を取って海に潜った日のこと。
これまで海辺で足をつける程度の水遊びしかしたことがなかったユウさんは、おっかなびっくり、渡された呼吸が長く続く薬を飲んで(酸素ボンベのことかしら?)、恋人さんの手を握って海に入ったそう。
水の冷たさに驚いたこと、色とりどりの魚と一緒に水をかく快さに夢中になったこと、海水の中でゆうらりとなびく恋人さんの銀の髪がとってもきれいだったこと。
恋人さんは常にユウさんの手を取って、離れないように流されないように傍にいてくれて。
その安心感と幸福感に溺れそうになったこと。
そんなことを、少し潤んだ瞳といつもより淡く染まった頬で、ユウさんはゆっくりと語ってくれた。
「このまま彼に抱かれながら、人魚姫みたいに海の藻屑になれたら幸せなのに、なんて思ったくらい」
「本当に、その人のことが好きだったんですね」
「ええ。今も変わらずに、心から、愛してるの」
「……離れる時、辛かった…ですよね?」
「そりゃあもう。泣いて泣いて、ただひたすら泣いて。自分の涙が海になって、そこで溺れるんじゃないかってくらい泣いたわ。でも、」
「でも?」
「彼は約束してくれたの。必ず迎えに行きますから。必ずって」
「いつ、とは言わなかった?」
「そうね。でも、彼はやると決めたことは必ずやり遂げる人なの。負けず嫌いだしね」
「でももう、何年も経って……」
「何年かかってでも、あの人は迎えに来てくれるって信じてる。だから私はその日まで、彼と拾った貝殻に似てる貝殻、ラウンジで彼がピアノで弾いてくれた彼の故郷の旋律に似ている曲、彼がいれてくれた飲み物…そんな彼との思い出の欠片を集めたこのお店で彼を待ってるの」
「どうして、そんな風に信じられるんですか?」
わたしの言葉に、遠くを夢見るように見ていたユウさんの瞳が、きらりと不思議な光をおびたように見えた。
「ふふ、ね、内緒よ。彼はね、実は魔法使いなの。だから私たちが想像もできないような奇跡を起こせるし、それにね、人魚でもあるの。人魚ってそれはもう、一途なのよ。だから信じられるの」
「……ユウさん、酔ってますね?」
突然、あんまりにも突飛なことを言い出すものだから、わたしは呆れてユウさんの前から三分の一ほど中身が残ったグラスを遠ざけた。
ユウさんは否定も肯定もせずに、ふあ、と小さな欠伸をして、とろりとした目を擦る。
その日はユウさんの代わりにガスを閉めたり、洗い物を片付けたりして。ふわふわとした足取りのユウさんを最寄り駅まで送ってあげた。
ユウさんがしっかり電車に乗り込んだのを見届けてから、わたしは小さくため息をはいた。
すっかり日が落ちた空の遠くの方に、灰色の薄雲が覆っている。頬を撫でる潮風がいつもより生ぬるくて。嵐がきそうな空だった。
海も心なしか、ざわざわと落ち着きのない波を揺らしている。なんだかぞくりと鳥肌が立って、わたしは腕をさすりながら、足早に家に向かった。
◆◆◆
翌日はやっぱり嵐だった。けれど妙な嵐で、空の高いところは金色に晴れているのに雨が降っている。しっとりとした湿度の潮風が舐めるように吹き付ける。海は一定の高さの波を寄せては引き、遠くのほうでゴロゴロと唸る雷の音が、なにかの始まりを予感させるような。そんな不思議な天気だった。
休日の嵐。いつもなら家でゴロゴロと本を読んだり映画を見て過ごすけれど、わたしはなんだかソワソワと落ち着かない気分で、気付いたら自転車を漕ぎ出していた。油を差してない車輪がキーキーと嫌な音を立てるのにも構わずに、どんどん薄曇りが深まる海の側の道を走って、アトランティカに向かった。
カフェに着く頃にはすっかり辺りは暗くなっていて、生ぬるい雨でわたしの全身はびしょびしょだった。
こんな天気でも、アトランティカの貝殻の看板は「Open」の面がかかっていて、窓から漏れるほのかな青と紫の光が、まるで遭難者が見つけた灯台の灯火のように見えてホッとした。
シェルモビールの清らかな音は、雷にかき消され。扉を押して、びしょ濡れで入ったわたしに、ユウさんは目を丸くしてカウンターから飛び出してきた。
「こんなお天気なのに!風邪引いちゃうわ、待ってねタオルを持ってくるから」
「すみません……」
「いいのよ。身体を拭いたら、あったかいココアでも淹れましょ。クリームたっぷりのね」
いつもと変わらないユウさんを見て、私はやっと朝から身体にまとわりついていた不安感が少しだけ弱まった。
どうしてだか分からないけれど、この不気味な嵐の向こうにユウさんが連れ去られてしまうという根拠のない不安に襲われていたことに、ここにきてやっと気付いた。
「驚いたわ、今日はこんなお天気だからもう閉めようと思っていたら……。大丈夫?寒くない?」
「大丈夫です」
「良かった。今ココアを淹れるから待っていてね」
ユウさんがいつも通り軽やかな仕草で薬鑵をコンロにかけて、「ココアはマグカップにたっぷりと、よね」と言いながら大きなマグの中で茶色い粉を練る。
雷が少し遠くなって、BGMのピアノの旋律が聞こえてきた。
あっという間に甘い香りがして、ふわふわのホイップにピンクの金平糖までのった特製のココアが差し出される。手のひらでマグを包むと、あたたかさが全身に染みていくようだった。
「嵐が怖い?」
「いえ、そんなことはないんですけど……」
「私はね、嵐は好きなの。こうして海の側で暮らしてからね、嵐の日は、海がうんと近くにくるようで。稲妻に照らされた水面に、沈んだはずのアトランティカが見えるかもしれない、なんて考えちゃうわ」
「嵐の海は怖いですよ」
「そうね、でも海に呑まれるのならそれはそれで構わないわ」
「人魚姫みたいに?」
「人魚姫みたいに。……あら!不思議ね、今度は霧が出てきた」
「……え?本当に、妙な天気ですね」
ユウさんの言葉に、出窓の外を見ると、本当に霧が出ていた。しかもとても濃い霧が。それこそ、この霧の中にアトランティカがどっぷりと沈んでしまったかのような。深い深い霧があたり一面を覆って、気付けば雨の音も雷の音も、海のさざめきすら聞こえない。真っ白な沈黙の中にわたしたちはいた。
─そのひとが、いつ、店の中に入ってきたのか分からなかった。
この静けさと霧が、シェルモビールの音も吸い込んでしまったのかも知れない。
ふと、濃い海の香りがして振り向くと、その人はカフェの扉を背にして立っていた。
かしゃん、とマグカップが割れた音が遠くから聞こえる。
ユウさんは、大きな瞳からみるみる透明な滴が溢れ出して、それに気づいていないように、真っ直ぐに、そのひとを見ていた。
唇がかすかに動いたけれど、声にならないようで、そんなユウさんに向かって、そのひとはコツコツと一歩ずつ長い脚を進めて近付いていく。
わたしは息をするのも忘れたみたいに、ただ二人を見つめていた。
そのひとがわたしのすぐ横を通った瞬間、ふわりと冷たい感触の風が吹いて。不思議なことに、その人の向こうに。海が、見えた。青々とした大海原。陽の光を反射して、穏やかな水面は潮風に揺れる。
その凪の下に、煌めくような水中都市を隠した海が。
ほんの一瞬のことで、はっとしたときにはもうその海は消えていた。わたしの視界の端に、その人の銀の髪の毛先が揺れて。
ああ、この人、人魚だ。とわたしは思った。
二本の脚で地を踏んで、鱗も鰭もないけれど、確かに人魚だと。そして人魚は魔法を使って、ついにユウさんを迎えに来た。
「ユウさん、随分遅くなってしまってすみません。でも、約束通り、あなたを迎えに来ましたよ」
「アズール……先輩、」
「まったく、もう先輩ではありません。アズールと、そう呼んでください」
「アズール……さん」
「はい、ユウさん」
アズールと呼ばれたその人は、綺麗な空色の瞳を嬉しそうに細めて、あどけなさを感じさせるほど満面の微笑みを浮かべた。
「絶対、迎えに来てくれるって信じてたけど……でも、……やっぱり夢見てるみたい……本物?」
「ええ、正真正銘のアズール・アーシェングロットです。一世一代の恋をして、その恋人を見送らなければならなくなった憐れな人魚そのひとですよ」
「……アズールさん……」
ユウさんは涙をこぼし続けながら、そのひとの胸に身体を預けた。そのひとも長い腕でユウさんを受け止めながら、ユウさんに見えない位置でそっと空色の瞳から流れた滴を拭ったのを、わたしは見ないふりをしてあげることにした。
「それにしても、アトランティカなんて名前をつけて……あなたのそういう無神経さというか、強かさというか……変わりませんね」
「えっ、無神経ですか?だってアズールさんがこの世界に来た時に分かりやすい名前をと思って……」
「他にもあるでしょう。わざわざあの愚行の記憶を呼び起こすような名前をつけなくても」
「ええ!でもあの出来事でアズールさんとの接点が増えたわけですし……」
「はあ……分かりました。この件は、また後ほど」
そのひとはユウさんから一度身体を離すと、長い脚の一本を床について、ひざまずいた。
「ユウさん、僕は迎えに来ました。あなたは、これから先の人生を僕と一緒に、生きてくれますか?」
「アズールさん……」
差し出されて手のひらには、涙の粒のようにとろりとした真珠のついた指輪。
わたしってばとんでもないものを見ている。だって人魚が魔法を使って恋人のもとにやってきて、今、プロポーズをしているのだ。わたしこそ、夢を見ている気分になってきた。
ユウさんは驚いて息を呑んで、でも差し出された手が震えているのに気付いた瞬間、ふわりとやわらかな、それはそれは愛おしいものを見るような優しい微笑みを浮かべて、その手を握った。
「アズールさん、震えてる」
「そっ…そりゃあそうでしょう!この長い年月の間で心変わりしていたら?もしかしたらあなたを見つけたとしてもあなたは既に誰かのものになっているかもしれない。そんな不安に押しつぶされそうになりながら、今日まで……必死に……っ……くそっ、」
「泣かないで、いとしい人。私は誰のものにもならない。だってあなたの心臓だもの、そうでしょう?」
「っ……そのとおりです……僕の心臓、僕の最愛のひと」
「これからの人生、あなたと共に歩かせてください」
「後悔、しませんか?」
「もちろん。この日をずっと、待っていたの。あなたとの思い出を集めたこの店でね」
ユウさんの言葉にお店を見回したそのひとは、はたとわたしで視線を止めた。まるでたった今気付いたみたいに。そのひとが入ってきた瞬間からわたしはここにいたのに失礼なひとだな、と思いつつも、何年も離れ離れになっていた恋人との再会のときだから許してあげようと、小さく会釈をしてみた。
「アズールさん、この子はね、私のお友達。いつもアズールさんとの思い出話を聞いてくれていたの。優しくて、賢くて、とっても素敵な女の子なのよ」
「それは、ユウさんがお世話になりました」
「いえ、お世話になったのはわたしのほうです」
「でも嬉しいな。アズールさんとついに逢えたこの瞬間に、あなたもいてくれて」
「びっくりしちゃった。本当に、人魚で魔法使いなんですね」
「あら、鱗でもついていた?」
「ユウさん……僕がそんな中途半端な変身薬を作るとでも?」
「海が、」
「え?」
「アズールさんの向こうに、海が見えたんです。一瞬だけ」
わたしが言うと、ユウさんもアズールさんも一瞬目を丸くして。そしてその後、微笑んだ。
「アトランティカって名前をつけてたから、海も引き寄せたのかもね」
「あなたまた、その話をするんですか……」
「ふふ、怒らないで、かわいいひと」
「まったく……」
「あら、霧が」
いつの間にか、霧が晴れて。嵐が去っていた。
窓からは金色の雨上がりの陽射しが降り注いで、店内に飾られた貝殻やシーグラスがちらちらと雲母のように光を放つ。
わたしは、ユウさんに抱きついてさよならを言った。ユウさんからも、かすかに濃い海の匂いがして。ああ、もうこの人に逢うことはないんだなと思うと、ちょっとさみしくなる。
でもアズールさんと見つめ合うユウさんが、本当に幸せそうで、とってもとっても綺麗で、わたしは胸がいっぱいになりながら、アトランティカの扉を開けた。
外は眩いくらい晴れ渡って、海はどこまでも続いている。きらきらと光る水面のずっと奥底に、アトランティカを隠して。
潮風を思い切り吸い込んで。わたしは自転車を走らせた。
やっぱりこの街がすき。海の音も風の匂いもぜんぶ。
カフェ・アトランティカが魔法のように消えて、街の人達がカフェのこともユウさんのことも、綺麗さっぱりそこだけ抜け落ちたように忘れていても、わたしは驚かなかった。
恋人だった彼も、あんなに思い詰めていたくせにユウさんのユの字も覚えていない。わたしたちの関係は終わったままだったけれど、それはそれでほっとした。
だってわたしは、まだ彼の幼さをかわいいとは思えないから。
ユウさんみたいに、何年も離れ離れになっていてやっとの思いで迎えに来て泣いてしまう恋人に「かわいいひと」なんて言えちゃう女性になれたら。
わたしも「真実の愛」や「運命の恋」ができるのかもしれない。
ユウさんは今のわたしの年齢でその恋を見つけたけど。焦らなくていい。
わたしはわたしのアトランティカを夢見て。
いつか出来た素敵な恋人に、わたしが見た素敵な恋の話をしてあげようと思う。
─海は今日も秘密を隠して。
穏やかに、沈黙している。
End.
わたしが住んでいる街は海の側にあって、いつどこにいてもさざ波の音がかすかに聞こえて、ほんの少しだけ生き物のにおいが混ざった潮風が吹く。自転車は錆びやすいし、湿気のある風がせっかく決めた前髪を崩していくのはいやだけど、わたしはなんだかんだ、この街がすき。
街の人たちはどことなくのんびりしていて、不自然な無関心さも過剰な干渉もない。ほどよい距離感をみんなが保っているような感じ。
それはきっと海の魔法だと思う。だって腹が立ったり、落ち込んだりしても、ささやくような波の音とか、足首をくすぐる水の冷たさとか、さらさらと滑っていく白い砂を感じたら、心の中の色々なことが綺麗に濾過されていくような気がするもの。
わたしがこの街をすきな理由はもう一つあって。海の側のちょっと高台になったところにあるカフェ・アトランティカ。そこがわたしのお気に入りの場所。それからそのマスターであるユウさん。
わたしはこのカフェ、ううん。正直に認めよう。ユウさんが大好き。今まで出逢った人の中で、一番憧れの人。
でも最初は、ユウさんのこと大嫌いだった。というか、会う前から憎んでた。
それは今思えばもう笑い話なのだけど、当時付き合っていた彼に振られて、その理由が他に好きな人ができたから。そしてその相手がカフェ・アトランティカのマスターだって言うんだもの。
わたしは慰めてくれる友達相手に、行ったことも会ったこともないカフェのマスターでちょっと大人の女性であるユウさんのことをそりゃあもう、散々悪口言ってたわけ。
ユウさんは多分20代前半くらいで、他の大人からしたらきっとまだまだ若いお嬢さんだったけど、16歳のわたしには、たった一人でカフェを切り盛りする自立した女性で。しかも、控えめなのになんとなく目を惹いてしまう不思議な魅力の持ち主っていう噂は彼に振られる前から聞いていたから、そんなのもう、太刀打ちできないし、悔しいやら悲しいやらでお菓子をやけ食いしては翌日口元に出来たニキビを睨みつける日々をしばらく過ごしてた。
彼は、わたしには向けたことのない切なそうな顔で「一目惚れなんだ。ごめん」なんて言って。
わたしと別れた後はクラスメイトが心配するくらい思い詰めた様子でカフェに通っていたらしい。
けど、そんな彼はユウさんにきっぱりと振られた。
曰く、「心に決めた人がいるから」。
その後の彼は見ていて情けなるくらい憔悴しきっていて、わたしはなんだかアホらしくなった。
自立した女性が16歳の男の子なんて相手にするわけないのに、こんな風に恋に盲目になるなんて。
バスケット部の部長で、みんなのリーダー的な存在だった彼を大人っぽい子だ、と思っていたわたしはまだまだ見る目がなかったみたい。
あんなに悲しかった気持ちがみるみる冷めていくのと同時に、ユウさんを見てみたくなった。
一人の幼い少年をこんなに夢中にさせる女性ってどんな人なんだろうって。
散々悪口を言っていた引け目もあって、友達を誘うことはせずにわたし一人でアトランティカの扉を押したのは数ヶ月前。
しゃらしゃらと透明な音を鳴らすシェルモビールを揺らして、少し緊張しながら入っていったわたしに、ユウさんはやわらかな笑顔でいらっしゃいと言った。
カフェ・アトランティカはこじんまりとしたお店で、カウンターの奥には紅茶の缶や瓶が並んで、海のほうに向かってひらかれた出窓から潮風がふわりと私の頬を撫でていった。
小さく流れるピアノ曲のBGMも、一番大きな窓にはめ込まれたステンドグラス風の色硝子で店内がほの青く光ったり、うす紫の影が差すところも、伝票の重石が小さな巻き貝やシーガラスのところも。一歩足を踏み入れた途端、悔しいけどたちまち好きになった。
お気に入りの本を持ってゆっくりとした時間を過ごしたくなるような、お茶の香りを楽しみながらいつまでも窓の外の海を眺めていたくなるような、そんなカフェ。
ユウさんは制服姿の私ににっこり微笑んで、「懐かしいな、学生時代を思い出しちゃう。良かったら、いま試作してるドリンクの味見をしてくれないかしら?」と言った。
仕草には大人の女性の落ち着きがあるのに、その声は人懐っこい色をしていて、わたしはなんだか拍子抜けしてこくこくと頷いていたっけ。
ユウさんが運んできたドリンクは透き通った紫色と水色のグラデーションになっていて、口に含むと弾ける炭酸とハーブの風味が清々しくてとっても美味しいドリンクだった。
「美味しい……」
「ほんと?ミントの味もするかしら?」
「はい、かすかに香ります。強すぎないし、とっても美味しい、です……」
「良かったー!!このミントの後味がなかなか再現できなくてね、ずっと試行錯誤していたのよ!」
「オリジナルのレシピじゃないんですか?」
「ふふ、これはね、私の恋人が初めて私のために作ってくれたドリンクなの。レシピは彼の頭の中。私にはその時の味や香りの記憶しかないから、なかなか正解に辿り着かなくて」
「恋人に、聞いたら良いじゃないですか」
「そうね、いつか逢えたら、教えてもらおうかな」
「いつか?」
「私たち、もう何年も逢えてないの」
「え、」
その時カウンターの奥から、薬鑵が吹き上がる甲高い音を鳴らして。この話はここでおしまいになった。
彼が、いや、彼だった人がユウさんに振られた理由は確か「心に決めた人がいるから」。
でも何年も逢えてないってどういうことなんだろう。
遠距離恋愛?それとももっと複雑な訳あり?テレビドラマで見る大人たちはわざわざ危険を犯すような恋をすることもあるから、そういう関係?でもカウンターの中で小さく鼻歌をうたいながら洗い物をするユウさんには、そういう生々しいことが似合わない気がする。
結局その日はその話の続きをしなかったけれど。
ユウさんの恋人との秘密も気になるし、なによりわたしはすっかりこのカフェが気に入ってしまって。その日以来、折を見てはアトランティカを訪れるようになった。
ユウさんは、わたしになかなか飲食代を払わせようとしなかった。頻繁に訪れているから申し訳ないと食い下がっても、「学生の金銭事情は痛いほど分かるから」と言って次に出す新作のドリンクやブレンドティーの味見をさせてくれる。
「お小遣いはもらってますし、大丈夫ですよ」
「そのお小遣いでなにか素敵なものを買えばいいじゃない。良いの良いの、私もね学生時代は極貧で、恋人が運営するラウンジの試作の味見と称してご馳走してもらってたのよ」
「ユウさんの恋人、学生で飲食店経営してたんですか?何者……」
「ふふ、学生時代からやり手の実業家だったのよ。私はそこでアルバイトさせてもらったりもしたの。海の底みたいに、青と紫の薄明かりの照明でね、落ち着いたピアノ曲がかかっていて、窓からは魚たちが泳いだり、珊瑚が揺らめいてるのが見えるの」
「水槽のあるお店ってこと?」
「うーん、正確にはそうじゃないんだけど。でもイメージとしてはそんな感じかしら」
「だからこのお店もピアノ曲が流れてて、ステンドグラスも青と紫なんですね」
「そうなの!彼のお店はもっと大人っぽくて、シックな雰囲気なんだけど。私のセンスではその雰囲気は難しくて。こんな風に素朴なお店になっちゃったの」
「わたしは好きだな、このお店。ユウさんのお店って感じがする」
「優しいのね。ありがと。私もね、このお店大好き。彼との思い出をひとつひとつ取り出していける場所なの。例えばこれ」
そう言ってユウさんは、カウンターに無造作に飾られた小さなシーグラスのひとつをつまみ上げた。
窓からの陽射しに、綺麗なスカイブルーがやわらかく光る。
「彼と、彼の幼馴染で同級生の双子と、4人で海に行ったことがあったの。その海がある街に、気になるリストランテがあるから視察に行きますよって言われて。リーズナブルで美味しいって噂のランチを堪能したあとに、私がお願いして海まで足を伸ばしたの。
その学校に行くまで住んでいた街は、海のない場所だったから、色んな海を見てみたかったのよ。
彼も双子も、海に親しい国の出身でね、彼のルーツに触れたいって思ったのね。いじらしいでしょ、学生時代の私。
沈みかけた日が淡いピンク色に浜辺を染めていて、ほんのすこし冷たい潮風がとっても心地よかったのを覚えてる。
双子の奔放な方の先輩が服のまま海に飛び込んで私たちに盛大に海水を飛ばしてきて、彼は濡れた眼鏡を拭きながら怒っていたっけ。
私?私はね、シーグラスを探すのに夢中だったの。
当時も海の近くのお土産物屋さんに行けばシーグラスが売っていたけれど、それじゃあ味気ないでしょう?
自分の足で触って、探して、集めたかった。
今日の思い出になるような素敵なシーグラスをね。
彼と双子たちは、そんな珍しくもない、価値もないガラクタみたいなものを必死に探すなんてと呆れて見てたんだけど」
◆◆◆
『小エビちゃ〜ん、みてみてぇ、オレすごいの見つけちゃったかもぉ』
『わあ、フロイド先輩!すごい!色も形もとっても綺麗……!』
『でしょ〜?もっと褒めてよ小エビちゃん』
『フロイド先輩すごいです!さすがです!宝物です!』
『だって。アズール〜?』
フロイド先輩が私の手のひらにぽとんと落としたシーグラスは、珍しいことに綺麗な六角形になっていて、あわい碧色がぬけるように透き通っていた。興奮してすごいすごいと飛び跳ねる私の頭越し、フロイド先輩はにやにやしながらアズール先輩に声をかけた。
振り返ると、アズール先輩が唇をきゅっと結んで腕まくりをしている。
綺麗なスカイブルーの瞳が、イデア先輩とボードゲームをしている時と同じ濃さでぎらぎらと燃えていた。ああ、これは。先輩の負けず嫌いに火がついた合図。こうなったら彼が納得するまで、終わらない。
『アズール先輩?もう暗くなってきましたし、シーグラスは充分拾ったから……』
『いえ、僕が今日の一番の思い出になるようなものを見つけ出しますよ』
『でも……』
『いいからあなたは黙っていてください』
ぴしゃり。と言い放って、長い脚を折り曲げて砂浜に目を凝らす恋人。
焚き付けた張本人であるフロイド先輩はもう飽きて、いまは双子の片割れの巨大な体躯を砂に埋めることに熱中している。
もう、みんな揃って小学生じゃないんだから。
私は諦めて、砂浜に腰をおろした。指先で白い砂をさらさらといじりながら恋人に目を向ける。
銀色の髪が、潮風に吹かれて頬に落ちるのも気にせず、熱心に砂浜を練り歩くアズール先輩。
薄ぼんやりと光るシーグラスを拾っては「ちがう、これじゃない」なんてぶつぶつ独り言を言って。ああ、砂に足を取られてよろけてる。見ないふりをしてあげよう。
アズール先輩は時たまこうやってものすごく子供っぽくなる。呆れてしまうくらいに。
でも、それは大抵私に関するときだというのも分かっているから、呆れながらも心の中にふくふくとあたたかい気持ちが生まれてしまう。
『よし!完璧だ!!』
30分ほど浜辺を練り歩いて、アズール先輩は声を上げた。どうだ、という顔を隠しもせずに、細くて骨っぽい指をひらくと、手のひらには小さなシーグラスが4つ。
『おやおや。これは、』
『へぇ、アズールやるじゃん〜』
『ふふ、尊敬していいんですよ』
半透明のスカイブルー、淡いゴールドとオリーブグリーン、そして真珠のような乳白色。
すべすべとした4つの石は、それぞれの色を誇るようにアズール先輩の手のひらの中で陽の光に揺れていた。
『これって……』
『僕の瞳の色、こいつらの瞳の色、そしてあなたは真珠色。人魚の涙、僕の心臓』
『アズール先輩……』
『ウゲ……アズールさぁ、よくそんな恥ずかしいこと言えんね』
『大変です、なんだか肌が鮫のようになってしまいました。病気でしょうか?』
『うるさい、黙れ』
そっと渡されたシーグラスは、ほんのすこしあたたかくて。
いつもはあんなに冷静で理知的な彼が、こうやって私のことで必死になることがくすぐったい。
からかう双子に足蹴りをする先輩の腕をくいっと引っ張って、振り向いた唇に一瞬、触れるだけのキスをした。
驚いて固まってる先輩を追い越して、双子の腕を取る。恥ずかしいから、振り向かないけれど。
私のために懸命なあなたがとってもかわいくて、きっといま後ろで真っ赤になってるであろうあなたが愛おしくて、今この瞬間がたまらなく幸福で。
私は手のひらの中の小さな石たちをもう一度、ぎゅっと握った。
◆◆◆
「これは、その時彼が見つけてくれたシーグラス。こっちに帰ってくる時に、殆どの荷物は持ってこれなかったのだけど。これだけは、なんとか一緒に連れてくることが出来たの。私の宝物」
「どうして、ユウさんは恋人を置いてここに来たんですか?」
「とっても複雑な事情があってね。私や彼にも、どうすることも出来なかった。所詮子供だもの。どんなに優秀でも、どうにもならないことがあるのが人生でしょ」
「でもロミオとジュリエットじゃあるまいし……そんなに大事に思い合っていたのに離れ離れにならなきゃいけない事情なんて……」
「そうね……」
その時のユウさんの顔がとっても寂しそうで、わたしはなんだか傷つけてしまった気がしてひどく慌てた。
「ごめんなさい!色んな事情がありますよね。ねぇ、良かったらもっと聞きたいです。ユウさんと、恋人さんのお話」
「ええ、改めてそう言われると恥ずかしいな」
「だって、当時のユウさんって今のわたしと同じくらいの年齢でしょ?その時にそんなに素敵な、物語みたいな恋をしたなんて憧れます。その恋人さんだって、映画とか小説に出てくるみたい。かっこよくてやり手で、でもかわいらしくて……そんな男子、私の周りには一人もいないですよ!みんなもっと自分勝手で子供っぽいだけです」
「あらあら」
わたしはそんな自分勝手で子供っぽい男の子の内の一人とお付き合いをして、その彼に振られた理由であるユウさんをそれこそ視察に来たのも忘れて、言葉を重ねた。
ユウさんの語る思い出が聞いていて楽しいのは勿論だけれど、なにより恋人さんのことを語るユウさんがとっても魅力的だった。
静かな瞳を優しく細めて、やわらかな声で思い出をなぞるユウさんは同性の私から見ても綺麗で、こんな人だから、その恋人さんもそれだけ夢中になったんだろうなって納得する。
子供の頃は、おとぎ話や絵本に描かれる「真実の愛」とやらを信じていたけれど。
少しずつ大人になって、大人だと思っていた人たちが思っているより大人じゃなかったり。
綺麗だと思っていた世界が思っていたより輝いていなかったり。
そんなことを経験するうちに、恋や愛だって物語のようにはいかないと知っていったけれど。
ユウさんの話を聞いていると、なんとなく「真実の愛」とか「運命の恋」を信じたくなるような気がした。
その後もわたしは変わらずアトランティカに通って、ユウさんのブレンドしたハーブティや焼き立てのクッキーをかじりながらおしゃべりに花を咲かせた。
あれは、部活帰り、いつもより遅い時間にアトランティカを訪れたときだったっけ。
とても暑い一日で、アトランティカのほの暗い寒色の店内に入ると体感温度が少し下がった気がした。
ユウさんは私にミントたっぷりのノンアルコールモヒートを出したあと、悪戯っぽくウィンクして「今日はもう閉店!」と言った。
そして自分にはきちんとラムを使った本物のモヒートをいれて、貝殻の形の看板を裏返すとわたしの隣に腰掛けた。
その日、話してくれたのは、ユウさんと恋人さんが初めて一緒に泳いだ日の思い出だった。
恋人さんは本来の姿に戻って(どういう意味だろう?ユウさんはすこし酔っていたみたいだし、気になったけど突っ込まないことにした)、ユウさんの手を取って海に潜った日のこと。
これまで海辺で足をつける程度の水遊びしかしたことがなかったユウさんは、おっかなびっくり、渡された呼吸が長く続く薬を飲んで(酸素ボンベのことかしら?)、恋人さんの手を握って海に入ったそう。
水の冷たさに驚いたこと、色とりどりの魚と一緒に水をかく快さに夢中になったこと、海水の中でゆうらりとなびく恋人さんの銀の髪がとってもきれいだったこと。
恋人さんは常にユウさんの手を取って、離れないように流されないように傍にいてくれて。
その安心感と幸福感に溺れそうになったこと。
そんなことを、少し潤んだ瞳といつもより淡く染まった頬で、ユウさんはゆっくりと語ってくれた。
「このまま彼に抱かれながら、人魚姫みたいに海の藻屑になれたら幸せなのに、なんて思ったくらい」
「本当に、その人のことが好きだったんですね」
「ええ。今も変わらずに、心から、愛してるの」
「……離れる時、辛かった…ですよね?」
「そりゃあもう。泣いて泣いて、ただひたすら泣いて。自分の涙が海になって、そこで溺れるんじゃないかってくらい泣いたわ。でも、」
「でも?」
「彼は約束してくれたの。必ず迎えに行きますから。必ずって」
「いつ、とは言わなかった?」
「そうね。でも、彼はやると決めたことは必ずやり遂げる人なの。負けず嫌いだしね」
「でももう、何年も経って……」
「何年かかってでも、あの人は迎えに来てくれるって信じてる。だから私はその日まで、彼と拾った貝殻に似てる貝殻、ラウンジで彼がピアノで弾いてくれた彼の故郷の旋律に似ている曲、彼がいれてくれた飲み物…そんな彼との思い出の欠片を集めたこのお店で彼を待ってるの」
「どうして、そんな風に信じられるんですか?」
わたしの言葉に、遠くを夢見るように見ていたユウさんの瞳が、きらりと不思議な光をおびたように見えた。
「ふふ、ね、内緒よ。彼はね、実は魔法使いなの。だから私たちが想像もできないような奇跡を起こせるし、それにね、人魚でもあるの。人魚ってそれはもう、一途なのよ。だから信じられるの」
「……ユウさん、酔ってますね?」
突然、あんまりにも突飛なことを言い出すものだから、わたしは呆れてユウさんの前から三分の一ほど中身が残ったグラスを遠ざけた。
ユウさんは否定も肯定もせずに、ふあ、と小さな欠伸をして、とろりとした目を擦る。
その日はユウさんの代わりにガスを閉めたり、洗い物を片付けたりして。ふわふわとした足取りのユウさんを最寄り駅まで送ってあげた。
ユウさんがしっかり電車に乗り込んだのを見届けてから、わたしは小さくため息をはいた。
すっかり日が落ちた空の遠くの方に、灰色の薄雲が覆っている。頬を撫でる潮風がいつもより生ぬるくて。嵐がきそうな空だった。
海も心なしか、ざわざわと落ち着きのない波を揺らしている。なんだかぞくりと鳥肌が立って、わたしは腕をさすりながら、足早に家に向かった。
◆◆◆
翌日はやっぱり嵐だった。けれど妙な嵐で、空の高いところは金色に晴れているのに雨が降っている。しっとりとした湿度の潮風が舐めるように吹き付ける。海は一定の高さの波を寄せては引き、遠くのほうでゴロゴロと唸る雷の音が、なにかの始まりを予感させるような。そんな不思議な天気だった。
休日の嵐。いつもなら家でゴロゴロと本を読んだり映画を見て過ごすけれど、わたしはなんだかソワソワと落ち着かない気分で、気付いたら自転車を漕ぎ出していた。油を差してない車輪がキーキーと嫌な音を立てるのにも構わずに、どんどん薄曇りが深まる海の側の道を走って、アトランティカに向かった。
カフェに着く頃にはすっかり辺りは暗くなっていて、生ぬるい雨でわたしの全身はびしょびしょだった。
こんな天気でも、アトランティカの貝殻の看板は「Open」の面がかかっていて、窓から漏れるほのかな青と紫の光が、まるで遭難者が見つけた灯台の灯火のように見えてホッとした。
シェルモビールの清らかな音は、雷にかき消され。扉を押して、びしょ濡れで入ったわたしに、ユウさんは目を丸くしてカウンターから飛び出してきた。
「こんなお天気なのに!風邪引いちゃうわ、待ってねタオルを持ってくるから」
「すみません……」
「いいのよ。身体を拭いたら、あったかいココアでも淹れましょ。クリームたっぷりのね」
いつもと変わらないユウさんを見て、私はやっと朝から身体にまとわりついていた不安感が少しだけ弱まった。
どうしてだか分からないけれど、この不気味な嵐の向こうにユウさんが連れ去られてしまうという根拠のない不安に襲われていたことに、ここにきてやっと気付いた。
「驚いたわ、今日はこんなお天気だからもう閉めようと思っていたら……。大丈夫?寒くない?」
「大丈夫です」
「良かった。今ココアを淹れるから待っていてね」
ユウさんがいつも通り軽やかな仕草で薬鑵をコンロにかけて、「ココアはマグカップにたっぷりと、よね」と言いながら大きなマグの中で茶色い粉を練る。
雷が少し遠くなって、BGMのピアノの旋律が聞こえてきた。
あっという間に甘い香りがして、ふわふわのホイップにピンクの金平糖までのった特製のココアが差し出される。手のひらでマグを包むと、あたたかさが全身に染みていくようだった。
「嵐が怖い?」
「いえ、そんなことはないんですけど……」
「私はね、嵐は好きなの。こうして海の側で暮らしてからね、嵐の日は、海がうんと近くにくるようで。稲妻に照らされた水面に、沈んだはずのアトランティカが見えるかもしれない、なんて考えちゃうわ」
「嵐の海は怖いですよ」
「そうね、でも海に呑まれるのならそれはそれで構わないわ」
「人魚姫みたいに?」
「人魚姫みたいに。……あら!不思議ね、今度は霧が出てきた」
「……え?本当に、妙な天気ですね」
ユウさんの言葉に、出窓の外を見ると、本当に霧が出ていた。しかもとても濃い霧が。それこそ、この霧の中にアトランティカがどっぷりと沈んでしまったかのような。深い深い霧があたり一面を覆って、気付けば雨の音も雷の音も、海のさざめきすら聞こえない。真っ白な沈黙の中にわたしたちはいた。
─そのひとが、いつ、店の中に入ってきたのか分からなかった。
この静けさと霧が、シェルモビールの音も吸い込んでしまったのかも知れない。
ふと、濃い海の香りがして振り向くと、その人はカフェの扉を背にして立っていた。
かしゃん、とマグカップが割れた音が遠くから聞こえる。
ユウさんは、大きな瞳からみるみる透明な滴が溢れ出して、それに気づいていないように、真っ直ぐに、そのひとを見ていた。
唇がかすかに動いたけれど、声にならないようで、そんなユウさんに向かって、そのひとはコツコツと一歩ずつ長い脚を進めて近付いていく。
わたしは息をするのも忘れたみたいに、ただ二人を見つめていた。
そのひとがわたしのすぐ横を通った瞬間、ふわりと冷たい感触の風が吹いて。不思議なことに、その人の向こうに。海が、見えた。青々とした大海原。陽の光を反射して、穏やかな水面は潮風に揺れる。
その凪の下に、煌めくような水中都市を隠した海が。
ほんの一瞬のことで、はっとしたときにはもうその海は消えていた。わたしの視界の端に、その人の銀の髪の毛先が揺れて。
ああ、この人、人魚だ。とわたしは思った。
二本の脚で地を踏んで、鱗も鰭もないけれど、確かに人魚だと。そして人魚は魔法を使って、ついにユウさんを迎えに来た。
「ユウさん、随分遅くなってしまってすみません。でも、約束通り、あなたを迎えに来ましたよ」
「アズール……先輩、」
「まったく、もう先輩ではありません。アズールと、そう呼んでください」
「アズール……さん」
「はい、ユウさん」
アズールと呼ばれたその人は、綺麗な空色の瞳を嬉しそうに細めて、あどけなさを感じさせるほど満面の微笑みを浮かべた。
「絶対、迎えに来てくれるって信じてたけど……でも、……やっぱり夢見てるみたい……本物?」
「ええ、正真正銘のアズール・アーシェングロットです。一世一代の恋をして、その恋人を見送らなければならなくなった憐れな人魚そのひとですよ」
「……アズールさん……」
ユウさんは涙をこぼし続けながら、そのひとの胸に身体を預けた。そのひとも長い腕でユウさんを受け止めながら、ユウさんに見えない位置でそっと空色の瞳から流れた滴を拭ったのを、わたしは見ないふりをしてあげることにした。
「それにしても、アトランティカなんて名前をつけて……あなたのそういう無神経さというか、強かさというか……変わりませんね」
「えっ、無神経ですか?だってアズールさんがこの世界に来た時に分かりやすい名前をと思って……」
「他にもあるでしょう。わざわざあの愚行の記憶を呼び起こすような名前をつけなくても」
「ええ!でもあの出来事でアズールさんとの接点が増えたわけですし……」
「はあ……分かりました。この件は、また後ほど」
そのひとはユウさんから一度身体を離すと、長い脚の一本を床について、ひざまずいた。
「ユウさん、僕は迎えに来ました。あなたは、これから先の人生を僕と一緒に、生きてくれますか?」
「アズールさん……」
差し出されて手のひらには、涙の粒のようにとろりとした真珠のついた指輪。
わたしってばとんでもないものを見ている。だって人魚が魔法を使って恋人のもとにやってきて、今、プロポーズをしているのだ。わたしこそ、夢を見ている気分になってきた。
ユウさんは驚いて息を呑んで、でも差し出された手が震えているのに気付いた瞬間、ふわりとやわらかな、それはそれは愛おしいものを見るような優しい微笑みを浮かべて、その手を握った。
「アズールさん、震えてる」
「そっ…そりゃあそうでしょう!この長い年月の間で心変わりしていたら?もしかしたらあなたを見つけたとしてもあなたは既に誰かのものになっているかもしれない。そんな不安に押しつぶされそうになりながら、今日まで……必死に……っ……くそっ、」
「泣かないで、いとしい人。私は誰のものにもならない。だってあなたの心臓だもの、そうでしょう?」
「っ……そのとおりです……僕の心臓、僕の最愛のひと」
「これからの人生、あなたと共に歩かせてください」
「後悔、しませんか?」
「もちろん。この日をずっと、待っていたの。あなたとの思い出を集めたこの店でね」
ユウさんの言葉にお店を見回したそのひとは、はたとわたしで視線を止めた。まるでたった今気付いたみたいに。そのひとが入ってきた瞬間からわたしはここにいたのに失礼なひとだな、と思いつつも、何年も離れ離れになっていた恋人との再会のときだから許してあげようと、小さく会釈をしてみた。
「アズールさん、この子はね、私のお友達。いつもアズールさんとの思い出話を聞いてくれていたの。優しくて、賢くて、とっても素敵な女の子なのよ」
「それは、ユウさんがお世話になりました」
「いえ、お世話になったのはわたしのほうです」
「でも嬉しいな。アズールさんとついに逢えたこの瞬間に、あなたもいてくれて」
「びっくりしちゃった。本当に、人魚で魔法使いなんですね」
「あら、鱗でもついていた?」
「ユウさん……僕がそんな中途半端な変身薬を作るとでも?」
「海が、」
「え?」
「アズールさんの向こうに、海が見えたんです。一瞬だけ」
わたしが言うと、ユウさんもアズールさんも一瞬目を丸くして。そしてその後、微笑んだ。
「アトランティカって名前をつけてたから、海も引き寄せたのかもね」
「あなたまた、その話をするんですか……」
「ふふ、怒らないで、かわいいひと」
「まったく……」
「あら、霧が」
いつの間にか、霧が晴れて。嵐が去っていた。
窓からは金色の雨上がりの陽射しが降り注いで、店内に飾られた貝殻やシーグラスがちらちらと雲母のように光を放つ。
わたしは、ユウさんに抱きついてさよならを言った。ユウさんからも、かすかに濃い海の匂いがして。ああ、もうこの人に逢うことはないんだなと思うと、ちょっとさみしくなる。
でもアズールさんと見つめ合うユウさんが、本当に幸せそうで、とってもとっても綺麗で、わたしは胸がいっぱいになりながら、アトランティカの扉を開けた。
外は眩いくらい晴れ渡って、海はどこまでも続いている。きらきらと光る水面のずっと奥底に、アトランティカを隠して。
潮風を思い切り吸い込んで。わたしは自転車を走らせた。
やっぱりこの街がすき。海の音も風の匂いもぜんぶ。
カフェ・アトランティカが魔法のように消えて、街の人達がカフェのこともユウさんのことも、綺麗さっぱりそこだけ抜け落ちたように忘れていても、わたしは驚かなかった。
恋人だった彼も、あんなに思い詰めていたくせにユウさんのユの字も覚えていない。わたしたちの関係は終わったままだったけれど、それはそれでほっとした。
だってわたしは、まだ彼の幼さをかわいいとは思えないから。
ユウさんみたいに、何年も離れ離れになっていてやっとの思いで迎えに来て泣いてしまう恋人に「かわいいひと」なんて言えちゃう女性になれたら。
わたしも「真実の愛」や「運命の恋」ができるのかもしれない。
ユウさんは今のわたしの年齢でその恋を見つけたけど。焦らなくていい。
わたしはわたしのアトランティカを夢見て。
いつか出来た素敵な恋人に、わたしが見た素敵な恋の話をしてあげようと思う。
─海は今日も秘密を隠して。
穏やかに、沈黙している。
End.
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