Ⅰ 魚たちのビオトープ/或いはCaF2 mohs4
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魚たちのビオトープ/或いはCaF2 mohs4
ぼくの涙はモース硬度4の小さな結晶になった。
あまりに長い期間溜め込んだから、透明だった涙はぼくのかなしみを吸い込んで菫色に変わっている。
ぼくは結晶を、硝子の試験管に入れた。ちり、と硝子を結晶がひっかく冷たい音がする。試験管を底から覗くと、硝子の摩擦に負けた結晶の欠けた石粉が菫色の雪みたいにうっすらと積もっている。
こんなにも長いこと身体の中できつく抱きしめていた涙から出来たというのに、モース硬度4というのは、石の中では柔らかい数字らしい。
試験管越しに、ガスバーナーのあおい炎をあてた。モース硬度4の涙は、ぱちぱちと音をたてて弾ける。そして、青紫色の光を放った。その眩さに、ぼくの背中をじっと見つめていた満月が雲の隙間に逃げていく。ぼくの涙が弾けて燃える。冷たい色の光を放って。
バーナーを消しても光りつづけるそれを手のひらに乗せた。熱していたのに、冬の水みたいにつめたいそれはぼくの手の中でやがてゆっくりと沈黙する。
銀縁眼鏡に三白眼の科学教師が言っていたことは本当だったみたいだ。
『満月の夜に涙の結晶を熱すると、冷たい砂糖菓子に変化する。とても美しい菓子だけれど、油断してはいけない。それを食べると私たちは鱗を失ってしまうのです』
ぼくたちの好奇心を試すみたいに、眼鏡の奥の細目をさらに細めて語る声は退屈で微睡みかけたぼくの頭に不思議な呪文のように響いた。
ぼくたちの鱗は純潔のしるし。純潔のままこのビオトープの中で、祈り、学び、紡ぎ、やがて海の奥底に住まう聖なるものへの贄となる。
それは至高の喜びと教えられてきて、誰もが羨望するものと教えられてきて、疑うことはなかったけれど。
あたためたミルクを2つのマグに注いでから、理科室で失敬してきた鉄槌で砂糖菓子に変わった結晶を砕く。モース硬度4は、簡単に割れる。ぼくはそれを均等にわけて、ミルクの中に流し込む。さらさらと、星屑みたいに細かくきらめきながらぼくの涙だったもの、ぼくの結晶だったもの、ぼくの砂糖菓子だったものが白い海に溶けていく。
眠れない君のための、ミルクだ。ベッドで不機嫌そうにあおじろい腕を額に乗せて待っている君へ。
いつの間にか、雲の間から顔を出した満月が、さっきよりも近い距離で、君が待つ寝室へ向かうぼくの背中をじっと覗き込んでいる。
君の不機嫌の奥の、怖れとかなしみと諦めに気づいてしまったから。鱗を失うのは忌むべき穢れ。
ぼくたちはこのビオトープを追放されるだろう。それでも、涙が結晶に、結晶が砂糖菓子に変わる奇跡が起きたのだから。行き着く先はエデンかもしれない。
夜の底。海の底。僕たちの鱗は菫色。モース硬度4は、海で泳ぐにはやわらかすぎる。
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