アントスの花を君に
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深淵のように深い谷。侵入を拒むかのように険しい山道。それらに囲まれて密やかに、そして荘厳に存在する茨の谷。
外部の者からは薄暗く荒涼とした場所に見えるらしいこの島は、今は見渡す限り白銀に染められていた。
薄曇りの空から降り注ぐ雪が全て吸い込んでしまった様に静かな谷の麓を、リリアは慣れた足取りで進んだ。
雪除けの魔法をかけている身体が冷えることはない。
「淡雪、花弁雪、風花、不香 の花…お主の国の言葉は美しいのう」
遠い日に教えられた、リリアの知らない世界の雪を表す言葉。
舞い落ちる六花 の向こうに懐かしい声を聞いた気がして、リリアは歩みを止め空を仰いだ。
アントスの花を君に
「寒いと思ったら雪だよ、グリム〜!」
「雪で大騒ぎするなんてお前ってホントに物好きだな〜。オレ様はしっぽが冷えるから雪は好きじゃないんだゾ」
「だって私が住んでた街には殆ど雪が降らなかったんだもの」
オンボロ寮の簡易キッチンの窓辺で、ユウとグリムは庭を白く染めていく雪を眺めていた。
乾き切り、雑草が根を張る荒れ果てた小さな庭を丹念に耕し、サムの店で仕入れたハーブを育てて質素な食生活の足しにしようと始めた所謂家庭菜園だが、日々細やかに世話を焼いてやるとそれに応える様に緑鮮やかに瑞々しい葉や実、花をつける植物たちが愛おしく、魔力を持たない自分でも何かを生み出すことが出来るという事実がユウにとって思いもよらない喜びをもたらしてくれる存在となっていた。
そのささやかな庭も、今は粉雪に包まれしんと息を潜めている。
「いつまでも雪なんて見てないで早く作るんだゾ!オレ様もう腹ペコなんだゾ……」
「ごめん、ごめん!でもリリア先輩に渡す分まで食べちゃだめだからね」
「ツナ缶一つで手を打ってやってもいいんだゾ〜」
「もう、グリムってば……」
薄力粉、バター、卵、砂糖、そして様々な調理器具が並べられたキッチン。
今日は2月14日、バレンタインデーである。賢者の島にはユウの世界のバレンタインの概念や風習は存在していなかったが、恋人であるリリアに手作り菓子を渡そうと計画していた。
リリアとの約束の時間まではまだ余裕がある。古びたオーブンを温め、隙あらばつまみ食いをしようとするグリムを窘めながらユウは材料を攪拌し始めた。
「グリム、お庭からローズマリーをひと枝取って来てくれない?」
「え〜なんでオレ様が…。それにクッキーに草なんか入れてウマいのか?」
「ローズマリーの香りが爽やかで合うのよ。それに…ローズマリークッキーは焼き立てがいっちばん美味しいの。取って来てくれたら、焼き立ての最初の一枚をグリムにあげようと思ってたんだけどな〜?」
「ふなっ!し…仕方ないんだゾ!子分がそこまで言うんならオレ様が取って来てやるんだゾ!」
「ふふ、ありがとグリム。寒いから気をつけてね。綺麗な緑のところを選んでね」
「オレ様に任せろ!」
ローズマリーは乾燥した土を好み、虫もつきにくいハーブだからオンボロ寮の痩せた庭でも、園芸初心者のユウでも育てやすいだろうと教えてくれたのはサムだった。
そしてその言葉通りみるみる枝を広げ、清々しい香りの葉と小さく可憐な青い花が庭を彩るようになった。
オンボロ寮の庭土と相性が良かったらしい。ユウの育てたローズマリーは学園内の薬草園で栽培されているものより風味や香りが良いと風の噂が広まり、ユウとグリムの食卓に並ぶだけでなく、ルークはじめサイエンス部の生徒の実験材料や、ヴィルの化粧水やハンドクリームの材料、お茶会に出すトレイのお菓子の香り付け、モストロラウンジの料理や飲み物の添え物として…気付けば「お裾分け」を求める生徒たちで寒々としたオンボロ寮が賑やかになる日が多くなったことも、ユウにとっては嬉しい収穫だった。
「よし!あとはオーブンで焼けば完成!」
「オレ様、待ちきれないんだぞ〜!」
みじん切りにして生地に混ぜ込んだローズマリーの瑞々しい強い香りが、オーブンの熱で温められたキッチンに広がっていく。
焼き上がったクッキーから順に粗熱を冷まし、袋に詰めて丁寧にリボンで結ぶ。リボンの色はリリアの瞳と同じラズベリーレッド。いつもユウを驚かせては笑う恋人にサプライズで渡したらどんな顔をするだろうと考えるとユウの口角が柔らかく上がった。
「オイ、子分!そんなにのんびりしてて大丈夫なのか?」
「……!大変、もうこんな時間?!」
余裕を持って作業に当たったつもりだったユウだが、思いのほか時間がかかってしまったようで時計を見上げればリリアとの約束の時間を既に数分過ぎていた。
「リリア先輩待たせちゃう!!グリム、行って来るね!後片付けは夜にやろう!」
「……わしを呼んだかの?」
「え……ってきゃあああ!リリア先輩?!」
背後から突然聞こえてきた声にユウが思考する間も無く振り向くと、そこにはこれから会いに行くはずの恋人リリアが逆さ吊りの体勢で宙に浮かんでいた。
「くふふ。お主、何度やっても慣れぬのう。修行が足りんのじゃ」
「と、唐突に背後に宙吊りの人が現れたら誰だって驚きますよ、リリア先輩……。心臓が止まったらどうしてくれるんですか」
「おやまぁ。約束の時間を過ぎているから心配して迎えに来てやったというのにずいぶんじゃのう」
「お待たせしたこととご心配おかけしたことはごめんなさい。でも、いい加減普通にドアから入って来てくださいね!」
「ふふふ、考えておこう。…ところで何をしておったのじゃ?」
「……えっと、内緒です」
ユウがそう言ってみたところで、キッチンに散らばる調理器具を見れば何が行われていたかは一目瞭然である。
リリアは拗ねる様に唇を窄ませて、軋むスツールに腰を下ろした。
「なんじゃ〜、こんな楽しそうなことをしておったのに誘ってくれぬとは…お主もつれないのう」
「誤解ですよ、先輩。ちゃんと理由があるんです。リリア先輩はバレンタインデー、ご存知ですか?」
「バレンタイン…人の子の世界の祝祭だったかの?」
「そうです。ルーツを辿ると宗教や民話などが絡んでくるので省きますけれど…私のいた世界ではバレンタインは恋人や想い人にお菓子をプレゼントして気持ちを伝える愛の日なんですよ」
「なるほど。つまりお主はわしに菓子を作ってくれておったというわけか」
「正解です。本当は、サプライズで渡して驚かせたかったんですけどね。また私が驚かされちゃいました。リリア先輩には敵いませんね」
「いじらしいことを言ってくれるのう」
「オマエら、いつまで喋ってるんだゾ!オレ様は早くクッキーが食いたいんだゾ〜!!!」
「うむ、わしもいただこう」
談話室のソファに移動して、ユウは先程ラッピングしたクッキーをリリアに手渡した。まだほのかに温かいそれを受け取ったリリアは、結ばれたリボンの色に目を細める。
「ユウ」
「……?」
名を呼ばれて顔を上げたユウの頭を手のひらでそっと引き寄せ、白い額に軽く唇を当てる。
恥じらうように視線を外し、頬を染めるユウをリリアはさらに体ごと強く抱き締めた。
「お主は本当に……わしを飽きさせんのう。さて、お主がわしへの愛を込めて作った菓子を堪能させてもらうとするか」
「ふふ、お口に合いますように」
「……!これは、ローズマリーじゃな?ほう、菓子に入れると香りが際立つようじゃ。うむ、気に入った!」
「良かった!!」
ほっと息をついたユウは、悪戯っぽい瞳をリリアに向けた。
「実はこのクッキーには、私の呪いがかかってるんです」
「ほう、人の子のお主が妖精族のわしに呪いとな?どんな呪いをかけたか言うてみろ」
魔力のないユウが呪いをかける術を持たないことはリリアも承知だが、持ち前の好奇心に火がついたようで楽しげにユウに問いかけた。
「ローズマリーが、記憶の花と言われているのはご存知ですか?」
「うむ、古代では記憶力を高めるためにローズマリーの枝を髪に挿す風習があったと聞いておる」
「さすがリリア先輩。そうなんです。それに、香りが強くていつまでも残るから、ローズマリーは《変わらぬ愛》の象徴でもあるんですって。だからね、このクッキーを食べたら、私がこの世界からいなくなってもずっとずっとリリア先輩の記憶から消えないし、リリア先輩はずっとずっと私を愛し続けなければいけない呪いにかかっちゃうんですよ」
「それは、わしにとっては呪いではなく祝福じゃが?お主が望むなら永遠にそなたと番となる契約をしてもいいのじゃぞ?妖精族の契約こそ、人の子にとっては呪いになるようじゃがの。どうじゃ?」
ユウの唇を指でなぞり、鋭い犬歯を覗かせて囁くリリアの瞳が黒く輝く。
見つめ返すユウは困った様に微笑んだ。
「リリア先輩が本気でそうするつもりなら、もうそうしてるでしょう?」
「くふふ、お主はわしのことを良く理解しておるの」
「からかい方が悪趣味ですよ、先輩」
「褒め言葉として受け取っておくぞ」
「もう!あ、私、飲み物いれてきますね。口の中パサパサしちゃいません?」
「うむ、気が利くの」
キッチンへと小走りに向かうユウの背中を見送り、リリアは談話室を改めて見渡した。
傍らでは気の済むまでクッキーを平らげたグリムが無防備に腹部を晒した体勢でいびきをかいて眠っている。
オンボロ寮の呼び名に相応しく至るところが傷み、軋み、劣化している建物であるが、剥げた塗装には柔らかな色のペンキが塗られ、カーテンも埃を吸って重くなった古びたものからユウが端切れを集めて縫い合わせた手製の可愛らしいものにかけ替えられている。
テーブルの上には庭で育てているという花の咲く薬草が瓶に生けられ、グリムが今布団にしているブランケットもどうやらユウが編んだものらしい。
何年、何十年もの汚れを吸って重く暗く澱んでいたオンボロ寮の空気が、ユウの細やかな気働きによって少しずつ呼吸し、住まう者を守るという本来の役割を思い出してきているかの様な変化をリリアは訪れる度に感じていた。
「居心地の良い家じゃ」
「そうだろう〜?あの子が来てからすっかり変わったものだ」
「おや、ゴーストじゃな」
不意に現れたゴーストに驚くことも無く、リリアは視線を宙に移す。
「庭で植物を育てるのも、裁縫も、掃除や修繕も、魔力がないあの子がやると手間も時間もかかる筈なのにいつも楽しそうにやるんだからな〜。家の古さは変わらないが、家が生き返って喜んでいるの、あんたなら分かるだろう〜?」
「ふむ…長く存在するものには生き物でなくとも魂が宿るものじゃからな」
「すっかり明るく居心地が良くなってね〜。最近じゃひっきりなしに学園の生徒たちが訪れるから脅かし甲斐がある。ゴースト冥利につきるってもんだ。あんたとあんたのところのドラゴンのぼっちゃんは一向に驚いてくれないんだけどな〜」
「くふふ、妖精族は心臓に毛が生えておるからな」
彼女が育てるハーブを求めて学友達がオンボロ寮を訪れていることはユウから聞いていた。
だが彼らの目的は薬草だけでなく、この寮に流れるあたたかな空気や彼女の笑顔が作り出す明るい時間の中での交流も含まれるのだろう。
あのマレウスでさえ、時折夜の散歩の途中に訪れていると聞いた時はリリアも少し驚いた。
この世界で魔力を持たぬということは、即ち弱く捕食される側の存在ということ。
サバナクローの寮長の言葉を借りるなら草食動物であるユウは、そんな逆境の中でも朗らかに過ごしている。
唯一元の世界に戻る術であった魔法の鏡が修復不能の割れた状態で見つかり、事実上帰る道が断たれたということを学園長に伝えられた時も、身体を震わせながらも「仕方ないですね。私のために帰る方法を探して下さってありがとうございました」と頭を下げていた。
その晩、静かに涙を流すユウをリリアは赤子をあやすように夜通し抱き締めていたのだが、東の空が白む頃、ユウは真っ直ぐにリリアを見つめ「この世界で、ちゃんと生きていかなきゃですね」と涙で濡れた瞳のまま笑った。
絶望や悲しみも受け止め、乗り越えようとするユウの気骨を目の当たりにして、リリアは新鮮な驚きと敬意、そして胸が詰まるような愛しさを感じた。
力を持たぬ弱き者がその心の内に秘めた芯の強さ。
その彼女の心にこそ、この世界に存在するどんな者よりも強い魔力が備わっているのではないか。だからこそリリアは魔力を持たぬ人の子であるユウが、この世界で存分に彼女の秘めた力を使い生きていく様を傍で見守っていこうと、その夜改めて誓ったのだった。
「お待たせしました〜!オンボロ寮スペシャルココアですよ〜!」
「おお、温まりそうじゃ」
「秘伝のレシピなので美味しいですよ」
湯気を立てるマグカップから濃厚なカカオの香りが漂い鼻をくすぐる。
口に含めばまろやかに広がる甘みと、ジンジャーの快い刺激がリリアの喉を温めていった。
「なるほど、これは美味じゃ」
「良かった。これはね、私の母の秘伝のレシピなんです。お砂糖の代わりにはちみつ、しっかりペースト状になるまで練ること、寒い日には少しのジンジャーと、仕上げに隠し味のお塩をひとつまみ」
リリアの隣に座り、マグカップを両手で包み込んだユウはココアを一口飲むと瞼を閉じた。
「母がね、私が落ち込んだ時とか寂しい時にいれてくれたのがこのココアなんです。……私、だんだん元の世界の記憶が薄れているみたいで。実はもう母の顔も朧げにしか思い出せないんですよ。最初はそれがすごく悲しくて。母も家族も友達も、確かにいた筈なのに自分の中でその存在の実感が薄れていく。そして多分…きっと元いた世界からも私の存在が無くなっていってるんだろうって思ったら、怖くて怖くて…叫び出したくなって…っ…」
「よしよし、…ユウ、来るんじゃ」
震える指が絡まるマグカップにマジカルペンを振って浮かせると、リリアは嗚咽を漏らすユウを包むように抱き込み、手のひらで背中をそっと撫でた。
「お主はちぃと一人で背負い込む癖があるのう。なあ、何故 叫びたくなる時にわしを呼ばんのじゃ?愛らしい見た目とは裏腹になかなか頼れる男であるぞ。しかもお主の恋人ときている。頼るほかなかろう?わしは泣き叫ぶ赤子をあやすのも上手いしの」
「…ふふ、ほんとに。涙止まりました」
向けられたラズベリーレッドの瞳と、頬を伝う涙を掬う指先が優しくて、リリアの胸に頬を寄せてユウは笑った。
「でも、ある時このココアのことを思い出したんです。記憶をなんとか辿って母の味を再現できた時にね、気付いたことがあって。たとえ名前や顔が思い出せなくなっても、このココアを飲むとその時の私の嬉しかった気持ちや安心感、母の優しさに触れた心の思い出は蘇る。私はそういう思い出をこれから大切にしていって、そしてこの世界で出会った人たちに、私自身もそういう思い出を残していこうって」
「お主らしい殊勝な心掛けじゃ。さすが妖精族のハートを射止めただけのことはあるのう」
「ふふ、お褒めに与り光栄です。…あ、雪、少し弱くなりましたね。先輩、少しだけお庭に出ませんか?ココアを持って、私やってみたいことがあるんです」
「おお!なにやらまた突飛な思い付きのようじゃな?人の子の発想はいつも新鮮で面白いからのう」
上着を着込んだユウにリリアが雪除けの魔法をかけ、二人は白く輝く小さな庭に出た。
空気は冷たく澄み、木々は樹氷に覆われている。
鳴るような静けさが膜となってオンボロ寮を包んでいた。
「寒いですよね、ごめんなさい。さっきグリムにも話してたのですけど、私の住んでいた街はめったに雪が降らなくて、雪を見るとどうしても嬉しくなっちゃうんです」
「雪はわしらとも縁が深い。妖精族の中には気に入らぬ相手を氷漬けにしてしまう荒くれ者もおるしのう」
「ジャック・フロストですか?私のいた世界ではお伽話として語られていますよ」
「くふふ、あやつらが触れたところが霜になるというのにな」
「私の国にも雪にまつわる怖い女性の幽霊のお話もありますけれど…。夜寝れなくなるのでやめましょ。そうだ、私の世界には雪を表現する独自の言葉が沢山あるんです」
「ほう?」
「淡雪、積もることなく儚く溶けてしまう雪のこと。花弁雪、花びらのように大片の雪のこと。風花、晴天時に風に舞うように降る雪のこと。不香 の花、匂いのしない花という意味。素敵でしょう?」
「ふむ、詩的な…。この歳にして新たに学ぶことがあるとは…知識は財産じゃ、覚えておこう。して、お主のやりたいこととはなんじゃ?」
「笑わないでくださいね?一度雪を浮かべたココアを飲んでみたかったんです」
そう言ってユウは腕を伸ばし、マグカップを宙に掲げた。
ミルクを溶かした柔らかな茶色のココアに、粉雪がひらひらと羽毛のように落ちていく。
「雪を浮かべるって言っても…すぐに溶けてしまうのですけど。なんだかロマンティックでずっと憧れてたんです、恥ずかしいけれど…」
「くふふ、やはりお主はわしを飽きさせんのう!」
冷気で頬や鼻を赤く染めながら、それを眺めて嬉しそうに口に運ぶユウの笑顔を見て、リリアは飛びつくようにまたユウの身体を抱き締めた。
「?!先輩、ココアが零れちゃいますよ!」
「なあ、ユウ。純粋な魔力とはなんじゃと思う?
」
「純粋な魔力…?」
「ふむ、願掛け、祈り、呪いもその一つじゃが。魔法とはつまり想いや念から産まれたものじゃ。願い、祈り、念じる。それを繰り返すことでやがてその想いに力が宿り現実となっていく。魔力とは元々、そこから派生したものじゃ」
「確かに…悪天候が続くと捧げ物や祈祷を上げたり、無病息災を神様に祈ったりっていう風習は私の世界にもありました。藁で作った人形に呪いたい相手を思いながら釘を打ち込むっていう怖いやつもありますね…」
「つまり、魔力を持たぬ者も強く願い繰り返せば、ともすればその願いを叶えられる可能性は大いにある、と考えられんか?くふふ、わしで試してみるがよい。毎年バレンタインに今日のクッキーとココアを作ってな。お主のさっき語っておった呪いが、本物になるかもしれんぞ」
「…!」
「どうじゃ?」
リリアの瞳が悪戯を仕掛ける時のように輝いた。その口元には柔らかな微笑みを浮かべて。
「来年もその先も、ずっとずっと何年も、毎年作ります!」
「くふふ、結果が楽しみじゃのう」
その日から、バレンタインのローズマリークッキーとココアは二人の毎年の恒例となった。
リリアが、それに続きユウがNRCを卒業した後茨の谷の麓に住まいを移してからも、何年、何十年と繰り返し、雪降るオンボロ寮の庭での思い出話に花を咲かせる。
そして最後のバレンタイン、朝から粉雪が舞っていた。
ローズマリーを刻んだクッキーと秘伝のレシピのココアをリリアのために作り、おしゃべりを楽しんだあと、ユウは眠るように逝った。
リリアに見つめられ、穏やかな微笑みを浮かべながら天に昇ったのだった。
「…!」
ドサリ、と重さに耐えられなくなった木の細枝から積もった雪が落ちた音でリリアは追憶から現実に引き戻った。
小さくため息を吐くと歩くのが億劫になり、黒い翼を広げてそのまま雪の中を進む。
「今年もこの日が来たのう。時の流れというのは正に瞬く間じゃ」
人間どころか動物の足跡ひとつ無く、清らかに白い雪が積もったその場所にひっそりと佇む墓石に向かってリリアは声を掛けた。
「お主のレシピ通りに作っているはずなのじゃが…どうしてもお主の作るやつと同じものが出来なくてのう」
パチンと指を鳴らすと、雪舞う宙にマグカップが2つ現れた。
中には少し焦げた香りとドロリとした小さな塊が浮かぶココアが並々と注がれている。
「マレウスに味見させようとしたら、さっきまでそこに居た筈なのに急に姿が見当たらなくなってのう。全く、あやつは相変わらず気まぐれなやつじゃ」
「そっちはどうじゃ?世界中を見て回ったが、お主が産まれた世界と今いる世界だけはまだ未知の領域じゃからのう」
「なに、わしも何れそっちに行く日が来る。くふふ、その時は案内を頼むぞ」
「おや、あの木の先、蕾が膨らんでおる。…春はもうすぐそこに来ておるようじゃ」
ひとしきり墓石に向かって話し、ココアを飲み干すと指を鳴らしマグカップを消す。
さらにもう一度指を鳴らしたリリアの腕に、瑞々しい緑の葉と小さな青い花をつけたローズマリーの枝の花束が現れる。
雪風にのって、芳しい香りがふわりと漂った。
「……っ」
雪除けの魔法を施しているのにも関わらず、頬に冷たい雫が伝い、それが自分の涙だと気付いたリリアは静かに笑った。
「どうやら、わしはいま“寂しい”ようじゃ。そなたのいれたココアが懐かしいのう」
「お主はよほど強い魔力を持っていたとみえる。お主の呪い、しっかり効いたようじゃぞ」
ローズマリーの花束を墓に供えて、リリアは踵を返す。
雪の中、ローズマリーの緑の葉と可憐な青い小花が輝いてリリアの背中を見送っていた。
雪が映し出す面影はいつも優しく
夢に見る姿は目覚めに胸を苦しめる
その傷みが愛だと知ったとき、世界が透き通った。
想うことがこんなにも哀しいと知っても、それでも記憶を取り出して眺めては、愛しさを募らせる
今夜の夢でも、会えるだろう
だから、また
アントスの花を君に。
End.
外部の者からは薄暗く荒涼とした場所に見えるらしいこの島は、今は見渡す限り白銀に染められていた。
薄曇りの空から降り注ぐ雪が全て吸い込んでしまった様に静かな谷の麓を、リリアは慣れた足取りで進んだ。
雪除けの魔法をかけている身体が冷えることはない。
「淡雪、花弁雪、風花、
遠い日に教えられた、リリアの知らない世界の雪を表す言葉。
舞い落ちる
アントスの花を君に
「寒いと思ったら雪だよ、グリム〜!」
「雪で大騒ぎするなんてお前ってホントに物好きだな〜。オレ様はしっぽが冷えるから雪は好きじゃないんだゾ」
「だって私が住んでた街には殆ど雪が降らなかったんだもの」
オンボロ寮の簡易キッチンの窓辺で、ユウとグリムは庭を白く染めていく雪を眺めていた。
乾き切り、雑草が根を張る荒れ果てた小さな庭を丹念に耕し、サムの店で仕入れたハーブを育てて質素な食生活の足しにしようと始めた所謂家庭菜園だが、日々細やかに世話を焼いてやるとそれに応える様に緑鮮やかに瑞々しい葉や実、花をつける植物たちが愛おしく、魔力を持たない自分でも何かを生み出すことが出来るという事実がユウにとって思いもよらない喜びをもたらしてくれる存在となっていた。
そのささやかな庭も、今は粉雪に包まれしんと息を潜めている。
「いつまでも雪なんて見てないで早く作るんだゾ!オレ様もう腹ペコなんだゾ……」
「ごめん、ごめん!でもリリア先輩に渡す分まで食べちゃだめだからね」
「ツナ缶一つで手を打ってやってもいいんだゾ〜」
「もう、グリムってば……」
薄力粉、バター、卵、砂糖、そして様々な調理器具が並べられたキッチン。
今日は2月14日、バレンタインデーである。賢者の島にはユウの世界のバレンタインの概念や風習は存在していなかったが、恋人であるリリアに手作り菓子を渡そうと計画していた。
リリアとの約束の時間まではまだ余裕がある。古びたオーブンを温め、隙あらばつまみ食いをしようとするグリムを窘めながらユウは材料を攪拌し始めた。
「グリム、お庭からローズマリーをひと枝取って来てくれない?」
「え〜なんでオレ様が…。それにクッキーに草なんか入れてウマいのか?」
「ローズマリーの香りが爽やかで合うのよ。それに…ローズマリークッキーは焼き立てがいっちばん美味しいの。取って来てくれたら、焼き立ての最初の一枚をグリムにあげようと思ってたんだけどな〜?」
「ふなっ!し…仕方ないんだゾ!子分がそこまで言うんならオレ様が取って来てやるんだゾ!」
「ふふ、ありがとグリム。寒いから気をつけてね。綺麗な緑のところを選んでね」
「オレ様に任せろ!」
ローズマリーは乾燥した土を好み、虫もつきにくいハーブだからオンボロ寮の痩せた庭でも、園芸初心者のユウでも育てやすいだろうと教えてくれたのはサムだった。
そしてその言葉通りみるみる枝を広げ、清々しい香りの葉と小さく可憐な青い花が庭を彩るようになった。
オンボロ寮の庭土と相性が良かったらしい。ユウの育てたローズマリーは学園内の薬草園で栽培されているものより風味や香りが良いと風の噂が広まり、ユウとグリムの食卓に並ぶだけでなく、ルークはじめサイエンス部の生徒の実験材料や、ヴィルの化粧水やハンドクリームの材料、お茶会に出すトレイのお菓子の香り付け、モストロラウンジの料理や飲み物の添え物として…気付けば「お裾分け」を求める生徒たちで寒々としたオンボロ寮が賑やかになる日が多くなったことも、ユウにとっては嬉しい収穫だった。
「よし!あとはオーブンで焼けば完成!」
「オレ様、待ちきれないんだぞ〜!」
みじん切りにして生地に混ぜ込んだローズマリーの瑞々しい強い香りが、オーブンの熱で温められたキッチンに広がっていく。
焼き上がったクッキーから順に粗熱を冷まし、袋に詰めて丁寧にリボンで結ぶ。リボンの色はリリアの瞳と同じラズベリーレッド。いつもユウを驚かせては笑う恋人にサプライズで渡したらどんな顔をするだろうと考えるとユウの口角が柔らかく上がった。
「オイ、子分!そんなにのんびりしてて大丈夫なのか?」
「……!大変、もうこんな時間?!」
余裕を持って作業に当たったつもりだったユウだが、思いのほか時間がかかってしまったようで時計を見上げればリリアとの約束の時間を既に数分過ぎていた。
「リリア先輩待たせちゃう!!グリム、行って来るね!後片付けは夜にやろう!」
「……わしを呼んだかの?」
「え……ってきゃあああ!リリア先輩?!」
背後から突然聞こえてきた声にユウが思考する間も無く振り向くと、そこにはこれから会いに行くはずの恋人リリアが逆さ吊りの体勢で宙に浮かんでいた。
「くふふ。お主、何度やっても慣れぬのう。修行が足りんのじゃ」
「と、唐突に背後に宙吊りの人が現れたら誰だって驚きますよ、リリア先輩……。心臓が止まったらどうしてくれるんですか」
「おやまぁ。約束の時間を過ぎているから心配して迎えに来てやったというのにずいぶんじゃのう」
「お待たせしたこととご心配おかけしたことはごめんなさい。でも、いい加減普通にドアから入って来てくださいね!」
「ふふふ、考えておこう。…ところで何をしておったのじゃ?」
「……えっと、内緒です」
ユウがそう言ってみたところで、キッチンに散らばる調理器具を見れば何が行われていたかは一目瞭然である。
リリアは拗ねる様に唇を窄ませて、軋むスツールに腰を下ろした。
「なんじゃ〜、こんな楽しそうなことをしておったのに誘ってくれぬとは…お主もつれないのう」
「誤解ですよ、先輩。ちゃんと理由があるんです。リリア先輩はバレンタインデー、ご存知ですか?」
「バレンタイン…人の子の世界の祝祭だったかの?」
「そうです。ルーツを辿ると宗教や民話などが絡んでくるので省きますけれど…私のいた世界ではバレンタインは恋人や想い人にお菓子をプレゼントして気持ちを伝える愛の日なんですよ」
「なるほど。つまりお主はわしに菓子を作ってくれておったというわけか」
「正解です。本当は、サプライズで渡して驚かせたかったんですけどね。また私が驚かされちゃいました。リリア先輩には敵いませんね」
「いじらしいことを言ってくれるのう」
「オマエら、いつまで喋ってるんだゾ!オレ様は早くクッキーが食いたいんだゾ〜!!!」
「うむ、わしもいただこう」
談話室のソファに移動して、ユウは先程ラッピングしたクッキーをリリアに手渡した。まだほのかに温かいそれを受け取ったリリアは、結ばれたリボンの色に目を細める。
「ユウ」
「……?」
名を呼ばれて顔を上げたユウの頭を手のひらでそっと引き寄せ、白い額に軽く唇を当てる。
恥じらうように視線を外し、頬を染めるユウをリリアはさらに体ごと強く抱き締めた。
「お主は本当に……わしを飽きさせんのう。さて、お主がわしへの愛を込めて作った菓子を堪能させてもらうとするか」
「ふふ、お口に合いますように」
「……!これは、ローズマリーじゃな?ほう、菓子に入れると香りが際立つようじゃ。うむ、気に入った!」
「良かった!!」
ほっと息をついたユウは、悪戯っぽい瞳をリリアに向けた。
「実はこのクッキーには、私の呪いがかかってるんです」
「ほう、人の子のお主が妖精族のわしに呪いとな?どんな呪いをかけたか言うてみろ」
魔力のないユウが呪いをかける術を持たないことはリリアも承知だが、持ち前の好奇心に火がついたようで楽しげにユウに問いかけた。
「ローズマリーが、記憶の花と言われているのはご存知ですか?」
「うむ、古代では記憶力を高めるためにローズマリーの枝を髪に挿す風習があったと聞いておる」
「さすがリリア先輩。そうなんです。それに、香りが強くていつまでも残るから、ローズマリーは《変わらぬ愛》の象徴でもあるんですって。だからね、このクッキーを食べたら、私がこの世界からいなくなってもずっとずっとリリア先輩の記憶から消えないし、リリア先輩はずっとずっと私を愛し続けなければいけない呪いにかかっちゃうんですよ」
「それは、わしにとっては呪いではなく祝福じゃが?お主が望むなら永遠にそなたと番となる契約をしてもいいのじゃぞ?妖精族の契約こそ、人の子にとっては呪いになるようじゃがの。どうじゃ?」
ユウの唇を指でなぞり、鋭い犬歯を覗かせて囁くリリアの瞳が黒く輝く。
見つめ返すユウは困った様に微笑んだ。
「リリア先輩が本気でそうするつもりなら、もうそうしてるでしょう?」
「くふふ、お主はわしのことを良く理解しておるの」
「からかい方が悪趣味ですよ、先輩」
「褒め言葉として受け取っておくぞ」
「もう!あ、私、飲み物いれてきますね。口の中パサパサしちゃいません?」
「うむ、気が利くの」
キッチンへと小走りに向かうユウの背中を見送り、リリアは談話室を改めて見渡した。
傍らでは気の済むまでクッキーを平らげたグリムが無防備に腹部を晒した体勢でいびきをかいて眠っている。
オンボロ寮の呼び名に相応しく至るところが傷み、軋み、劣化している建物であるが、剥げた塗装には柔らかな色のペンキが塗られ、カーテンも埃を吸って重くなった古びたものからユウが端切れを集めて縫い合わせた手製の可愛らしいものにかけ替えられている。
テーブルの上には庭で育てているという花の咲く薬草が瓶に生けられ、グリムが今布団にしているブランケットもどうやらユウが編んだものらしい。
何年、何十年もの汚れを吸って重く暗く澱んでいたオンボロ寮の空気が、ユウの細やかな気働きによって少しずつ呼吸し、住まう者を守るという本来の役割を思い出してきているかの様な変化をリリアは訪れる度に感じていた。
「居心地の良い家じゃ」
「そうだろう〜?あの子が来てからすっかり変わったものだ」
「おや、ゴーストじゃな」
不意に現れたゴーストに驚くことも無く、リリアは視線を宙に移す。
「庭で植物を育てるのも、裁縫も、掃除や修繕も、魔力がないあの子がやると手間も時間もかかる筈なのにいつも楽しそうにやるんだからな〜。家の古さは変わらないが、家が生き返って喜んでいるの、あんたなら分かるだろう〜?」
「ふむ…長く存在するものには生き物でなくとも魂が宿るものじゃからな」
「すっかり明るく居心地が良くなってね〜。最近じゃひっきりなしに学園の生徒たちが訪れるから脅かし甲斐がある。ゴースト冥利につきるってもんだ。あんたとあんたのところのドラゴンのぼっちゃんは一向に驚いてくれないんだけどな〜」
「くふふ、妖精族は心臓に毛が生えておるからな」
彼女が育てるハーブを求めて学友達がオンボロ寮を訪れていることはユウから聞いていた。
だが彼らの目的は薬草だけでなく、この寮に流れるあたたかな空気や彼女の笑顔が作り出す明るい時間の中での交流も含まれるのだろう。
あのマレウスでさえ、時折夜の散歩の途中に訪れていると聞いた時はリリアも少し驚いた。
この世界で魔力を持たぬということは、即ち弱く捕食される側の存在ということ。
サバナクローの寮長の言葉を借りるなら草食動物であるユウは、そんな逆境の中でも朗らかに過ごしている。
唯一元の世界に戻る術であった魔法の鏡が修復不能の割れた状態で見つかり、事実上帰る道が断たれたということを学園長に伝えられた時も、身体を震わせながらも「仕方ないですね。私のために帰る方法を探して下さってありがとうございました」と頭を下げていた。
その晩、静かに涙を流すユウをリリアは赤子をあやすように夜通し抱き締めていたのだが、東の空が白む頃、ユウは真っ直ぐにリリアを見つめ「この世界で、ちゃんと生きていかなきゃですね」と涙で濡れた瞳のまま笑った。
絶望や悲しみも受け止め、乗り越えようとするユウの気骨を目の当たりにして、リリアは新鮮な驚きと敬意、そして胸が詰まるような愛しさを感じた。
力を持たぬ弱き者がその心の内に秘めた芯の強さ。
その彼女の心にこそ、この世界に存在するどんな者よりも強い魔力が備わっているのではないか。だからこそリリアは魔力を持たぬ人の子であるユウが、この世界で存分に彼女の秘めた力を使い生きていく様を傍で見守っていこうと、その夜改めて誓ったのだった。
「お待たせしました〜!オンボロ寮スペシャルココアですよ〜!」
「おお、温まりそうじゃ」
「秘伝のレシピなので美味しいですよ」
湯気を立てるマグカップから濃厚なカカオの香りが漂い鼻をくすぐる。
口に含めばまろやかに広がる甘みと、ジンジャーの快い刺激がリリアの喉を温めていった。
「なるほど、これは美味じゃ」
「良かった。これはね、私の母の秘伝のレシピなんです。お砂糖の代わりにはちみつ、しっかりペースト状になるまで練ること、寒い日には少しのジンジャーと、仕上げに隠し味のお塩をひとつまみ」
リリアの隣に座り、マグカップを両手で包み込んだユウはココアを一口飲むと瞼を閉じた。
「母がね、私が落ち込んだ時とか寂しい時にいれてくれたのがこのココアなんです。……私、だんだん元の世界の記憶が薄れているみたいで。実はもう母の顔も朧げにしか思い出せないんですよ。最初はそれがすごく悲しくて。母も家族も友達も、確かにいた筈なのに自分の中でその存在の実感が薄れていく。そして多分…きっと元いた世界からも私の存在が無くなっていってるんだろうって思ったら、怖くて怖くて…叫び出したくなって…っ…」
「よしよし、…ユウ、来るんじゃ」
震える指が絡まるマグカップにマジカルペンを振って浮かせると、リリアは嗚咽を漏らすユウを包むように抱き込み、手のひらで背中をそっと撫でた。
「お主はちぃと一人で背負い込む癖があるのう。なあ、
「…ふふ、ほんとに。涙止まりました」
向けられたラズベリーレッドの瞳と、頬を伝う涙を掬う指先が優しくて、リリアの胸に頬を寄せてユウは笑った。
「でも、ある時このココアのことを思い出したんです。記憶をなんとか辿って母の味を再現できた時にね、気付いたことがあって。たとえ名前や顔が思い出せなくなっても、このココアを飲むとその時の私の嬉しかった気持ちや安心感、母の優しさに触れた心の思い出は蘇る。私はそういう思い出をこれから大切にしていって、そしてこの世界で出会った人たちに、私自身もそういう思い出を残していこうって」
「お主らしい殊勝な心掛けじゃ。さすが妖精族のハートを射止めただけのことはあるのう」
「ふふ、お褒めに与り光栄です。…あ、雪、少し弱くなりましたね。先輩、少しだけお庭に出ませんか?ココアを持って、私やってみたいことがあるんです」
「おお!なにやらまた突飛な思い付きのようじゃな?人の子の発想はいつも新鮮で面白いからのう」
上着を着込んだユウにリリアが雪除けの魔法をかけ、二人は白く輝く小さな庭に出た。
空気は冷たく澄み、木々は樹氷に覆われている。
鳴るような静けさが膜となってオンボロ寮を包んでいた。
「寒いですよね、ごめんなさい。さっきグリムにも話してたのですけど、私の住んでいた街はめったに雪が降らなくて、雪を見るとどうしても嬉しくなっちゃうんです」
「雪はわしらとも縁が深い。妖精族の中には気に入らぬ相手を氷漬けにしてしまう荒くれ者もおるしのう」
「ジャック・フロストですか?私のいた世界ではお伽話として語られていますよ」
「くふふ、あやつらが触れたところが霜になるというのにな」
「私の国にも雪にまつわる怖い女性の幽霊のお話もありますけれど…。夜寝れなくなるのでやめましょ。そうだ、私の世界には雪を表現する独自の言葉が沢山あるんです」
「ほう?」
「淡雪、積もることなく儚く溶けてしまう雪のこと。花弁雪、花びらのように大片の雪のこと。風花、晴天時に風に舞うように降る雪のこと。
「ふむ、詩的な…。この歳にして新たに学ぶことがあるとは…知識は財産じゃ、覚えておこう。して、お主のやりたいこととはなんじゃ?」
「笑わないでくださいね?一度雪を浮かべたココアを飲んでみたかったんです」
そう言ってユウは腕を伸ばし、マグカップを宙に掲げた。
ミルクを溶かした柔らかな茶色のココアに、粉雪がひらひらと羽毛のように落ちていく。
「雪を浮かべるって言っても…すぐに溶けてしまうのですけど。なんだかロマンティックでずっと憧れてたんです、恥ずかしいけれど…」
「くふふ、やはりお主はわしを飽きさせんのう!」
冷気で頬や鼻を赤く染めながら、それを眺めて嬉しそうに口に運ぶユウの笑顔を見て、リリアは飛びつくようにまたユウの身体を抱き締めた。
「?!先輩、ココアが零れちゃいますよ!」
「なあ、ユウ。純粋な魔力とはなんじゃと思う?
」
「純粋な魔力…?」
「ふむ、願掛け、祈り、呪いもその一つじゃが。魔法とはつまり想いや念から産まれたものじゃ。願い、祈り、念じる。それを繰り返すことでやがてその想いに力が宿り現実となっていく。魔力とは元々、そこから派生したものじゃ」
「確かに…悪天候が続くと捧げ物や祈祷を上げたり、無病息災を神様に祈ったりっていう風習は私の世界にもありました。藁で作った人形に呪いたい相手を思いながら釘を打ち込むっていう怖いやつもありますね…」
「つまり、魔力を持たぬ者も強く願い繰り返せば、ともすればその願いを叶えられる可能性は大いにある、と考えられんか?くふふ、わしで試してみるがよい。毎年バレンタインに今日のクッキーとココアを作ってな。お主のさっき語っておった呪いが、本物になるかもしれんぞ」
「…!」
「どうじゃ?」
リリアの瞳が悪戯を仕掛ける時のように輝いた。その口元には柔らかな微笑みを浮かべて。
「来年もその先も、ずっとずっと何年も、毎年作ります!」
「くふふ、結果が楽しみじゃのう」
その日から、バレンタインのローズマリークッキーとココアは二人の毎年の恒例となった。
リリアが、それに続きユウがNRCを卒業した後茨の谷の麓に住まいを移してからも、何年、何十年と繰り返し、雪降るオンボロ寮の庭での思い出話に花を咲かせる。
そして最後のバレンタイン、朝から粉雪が舞っていた。
ローズマリーを刻んだクッキーと秘伝のレシピのココアをリリアのために作り、おしゃべりを楽しんだあと、ユウは眠るように逝った。
リリアに見つめられ、穏やかな微笑みを浮かべながら天に昇ったのだった。
「…!」
ドサリ、と重さに耐えられなくなった木の細枝から積もった雪が落ちた音でリリアは追憶から現実に引き戻った。
小さくため息を吐くと歩くのが億劫になり、黒い翼を広げてそのまま雪の中を進む。
「今年もこの日が来たのう。時の流れというのは正に瞬く間じゃ」
人間どころか動物の足跡ひとつ無く、清らかに白い雪が積もったその場所にひっそりと佇む墓石に向かってリリアは声を掛けた。
「お主のレシピ通りに作っているはずなのじゃが…どうしてもお主の作るやつと同じものが出来なくてのう」
パチンと指を鳴らすと、雪舞う宙にマグカップが2つ現れた。
中には少し焦げた香りとドロリとした小さな塊が浮かぶココアが並々と注がれている。
「マレウスに味見させようとしたら、さっきまでそこに居た筈なのに急に姿が見当たらなくなってのう。全く、あやつは相変わらず気まぐれなやつじゃ」
「そっちはどうじゃ?世界中を見て回ったが、お主が産まれた世界と今いる世界だけはまだ未知の領域じゃからのう」
「なに、わしも何れそっちに行く日が来る。くふふ、その時は案内を頼むぞ」
「おや、あの木の先、蕾が膨らんでおる。…春はもうすぐそこに来ておるようじゃ」
ひとしきり墓石に向かって話し、ココアを飲み干すと指を鳴らしマグカップを消す。
さらにもう一度指を鳴らしたリリアの腕に、瑞々しい緑の葉と小さな青い花をつけたローズマリーの枝の花束が現れる。
雪風にのって、芳しい香りがふわりと漂った。
「……っ」
雪除けの魔法を施しているのにも関わらず、頬に冷たい雫が伝い、それが自分の涙だと気付いたリリアは静かに笑った。
「どうやら、わしはいま“寂しい”ようじゃ。そなたのいれたココアが懐かしいのう」
「お主はよほど強い魔力を持っていたとみえる。お主の呪い、しっかり効いたようじゃぞ」
ローズマリーの花束を墓に供えて、リリアは踵を返す。
雪の中、ローズマリーの緑の葉と可憐な青い小花が輝いてリリアの背中を見送っていた。
雪が映し出す面影はいつも優しく
夢に見る姿は目覚めに胸を苦しめる
その傷みが愛だと知ったとき、世界が透き通った。
想うことがこんなにも哀しいと知っても、それでも記憶を取り出して眺めては、愛しさを募らせる
今夜の夢でも、会えるだろう
だから、また
アントスの花を君に。
End.
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