7月/少女残像
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
Flower Dictionary
芍薬/Peony
ボタン科
花言葉…はじらい、慎ましさ
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」の言葉のようにすらりとした茎に美しい花を咲かせる。根は、古くから鎮痛剤などに用いられてきた生薬である。
《少女残像》
美しさの定義とはなんだろう。
人の手には到底及ばない、宇宙の神秘や壮大な自然の畏れを伴う美。
或いは、一分の隙もなく徹底的に計算し尽くされ、緻密に構成された完全の美。
しかし、不完全にもまた美は宿る。
曖昧で、危うく、熱っぽい興奮と乾いた空虚を漣のように行き来しながら奇跡的なバランスを保った、期限付きの美。
今、ルークの視線の先でポーズを取る少女の美を分類するならば、きっとこれだろう。
「辛くなったらすぐに言うんだよ、トリックスター」
「ありがとうございます。でもこのポーズなら大丈夫です」
ルークが声を掛けた少女は、装飾のないシンプルな白いワンピース姿で椅子に腰掛けている。
裾から伸びた華奢な素足に初夏の淡い陽射しが揺れる。
行儀良く閉じられた膝の上には、一輪の花が置かれ。その瑞々しい緑の茎の上にそっと手のひらを重ねて、すこし掠れたような細い声で答えながら微笑む少女。
オンボロ寮の監督生。彼女をルークはトリックスターと呼ぶ。
突如としてこの世界に現れた、常識破りの異世界人。彼女はいつも人に囲まれ、行く先々でトラブルに巻き込まれて、気付けばなにかしらの事件の渦中にいる人物。けれども当の本人の性格は至って控えめでどちらかというと内気の部類に入るようだった。
ルークは、彼女が現れたときから物珍しさと好奇心を擽られ観察していた。
VDCでの騒動のあとは、すれ違えば雑談をしたり時に昼食を共に取ることもあった。
彼女は来るものを拒まない。質問すれば答え、冗談を言えば笑い、ルークが機嫌良く歌い出せば一瞬戸惑ったように目を丸くする。至って平凡な、十代の少女。
だがルークは、自分でも理由が分からないまま彼女という存在に惹かれていた。
彼女のこの世界での立ち位置は、まさに秩序と常識の外側にあった。けれど本人はその対外的な特性とは裏腹に、大人しく目立つことを嫌う内向的な性質だ。
─トリックスター。
それなのにルークは、彼女にこの呼び名をつけ、我ながらぴったりの呼び名だと思っていた。
その理由がもう少しで分かりそうで分からなくて。そのジレンマさえも愉快で。
機会さえあれば積極的に彼女と交流を持とうとしていた。
その彼女はいま、ルークの目の前で静かに座っている。
膝に置かれた花の花びらを指先でそっと撫でながら。ルークの視線に晒されながら。
窓から初夏の清らかな風が吹き込んで、甘い香りがルークの鼻梁を擽るように通り抜けた。
すらりと細い茎でどうして支えることができるのかと不思議に思うほど大輪の花びらを開かせた淡桃色の芍薬が、彼女の指先に答えるように瑞々しい香り立ちのぼらせている。
ルークは腕を捲り、ナイフで削った鉛筆を手に取った。イーゼルを少し傾け、脚の高い丸椅子に座る。
「始めようか」
「はい」
少しだけ背筋を伸ばした彼女の輪郭が、陽の光に滲んでいる。あの瞬間と同じだった。
ルークと彼女が、この部屋でこうして向かい合うきっかけとなった、ほんの数分前のあの一瞬。
カンバス越しに彼女を見つめて、ルークは確信した。あの時に感じた己の感情は、畏怖と憧憬、そして焦燥であったと。
それら全てを鉛筆の芯の先に込めるように、ルークはカンバスへ尖った矢のようなそれを滑らせた。
***
『トリックスター!』
授業を終え、生徒たちの開放感で賑わう放課後。
中庭を歩くルークの瞳は、渡り廊下から庭を見下ろす彼女の姿を捉えた。
彼女は珍しく一人だった。
ルークはいつものように羽根帽子をあげて、声をかける。
ルークに顔を向けた彼女の輪郭が、背後の高い空から差す陽光にきらきらと輝いていたのを覚えている。
『ルーク先輩』
『良い1日だったかな?なにか、面白いことはあったかい?』
いつもと変わらない、他愛もない質問。
それに彼女は頷いて、かすかに歯を見せて微笑んだ。
『ええ、ルーク先輩。明日、帰ることになりました。元の世界へ』
その時の彼女の微笑みは、ルークに向けられたものではなかった。ルークの存在を通り越して、どこか遠いところへ向けられた微笑み。
安堵と絶望と諦念。
それらがヴェールのようにきらめいて、微笑む彼女が神々しいほど美しく見えた。
ルークは息を呑んで彼女の元へと走り、帰るまでに君の絵を描かせてほしいと、ほとんど無意識に口にしていた。
***
絵を描くとき。その対象物の本質を見極め、それを写し取り、閉じ込めていく。
カンバス越しに自らがトリックスターと呼ぶ彼女を見つめた瞬間、ルークはなぜ自分が彼女に執着めいた好奇心と探究心を持ったのか、そしてなぜ彼女を描きたいと思ったのか、天啓を受けたように理解した。
自分は彼女の中に、少女性という不安定な美を見出していたのだと。
少女、という存在は哀しい。少女は自らが少女であることを自覚すればもはやその聖性が失われ、自覚を持たぬうちは少女の聖性を崇めるものに知らぬ間に搾取される。
一瞬のひとときの、やがては失われることが決まっている美。
少女という生き物は、変わりゆく自らや無責任な他者の視線から急き立てられるように内側を熟してゆき、少女の薄衣を脱ぎ捨てていく。
いや、少女だけでなくルーク含め少年も同様だ。
何かを諦め、なにかを凝らせ、大人という生き物に変わっていく。
むせ返る自意識と他意識の中で、いみじくも美しい筈の時間を走り抜けていく彼らを見るたびに、ルークは残念に思った。
けれども時たま、本物の少女が存在する。
正しく、奇跡的なバランスをたもったまま。その曖昧で不安定な自然の美の妙に、ルークは嘆息を洩らす。
トリックスターと呼ぶ彼女は、その、正しい本物の少女だった。
彼女はこの世界に存在していることにいつも傷ついていた。
不可抗力でわけも分からず世界を移動したこと、そして魔力がないことで蔑まれること、自らの居場所についていつも問い、その答えのないことに。
傷ついた彼女は美しい。
清らかな水面のような心に影がさして、漣のように揺らぐさまは脆く儚げで、人の心に巣食う加虐心を煽りいつまでも眺めていたくなる。
だが彼女は傷付きながらもひどく醒めていた。
自分の身に起きること、自分を取り囲む環境、巻き込まれる事件、それら全てをぞっとするような冷たい諦観と共に眺めている。
その相反する二面性が、絶妙な均衡で存在している奇跡の少女。
カンバス越しに彼女を見遣る。
肩にかかる柔らかな髪の一房。白い手足。華奢な肩。そして、遠くを見つめる深淵の瞳。
それらの輪郭を描き写しながら、ルークは肌が粟立っていることに気付いた。
彼女は美しくて、恐ろしかった。
天使や神獣といった類の存在を目にした者はこんな気持だったのではないかと考える。
あまりに美しいものは神々しく邪悪なのだと、鉛筆を滑らせながら、額に滴る冷たい汗を感じた。
いつか必ず、少女は死ぬ。
元の世界へ戻ったとき、彼女はなにかを諦め、なにかを封印するだろう。彼女の少女は、そこで死ぬ。
ルークは自らがトリックスターと呼んだその瞬間から無意識に見出していた彼女の少女性の美を、美の探求者、そして守護者として懸命にカンバスに焼き付けようとしている。
彼女を緑の瞳で見つめ、彼女が奥底にしまった彼女そのものを。
ほんのひとときにだけ存在する、儚の美を。
目の前で静かに動かない彼女に、ルークは自分自身の青春時代をも託して封じ込めようとしているのかもしれない。
二度と戻らない、今この一瞬を。
描く者と描かれる者、二人きりの世界で。目の前にいる少女の核を刻みつけようと。狂ったような焦燥と共にひたすら手を動かし続けた。
「先輩、すみません。そろそろ……」
戸惑ったような声に、ルークははっと顔を上げた。軽い目眩を覚える。一心不乱に筆を進めて、気付かぬうちに呼吸が浅くなっていたようだった。無意識に噛み締め続けていた奥歯を緩めると、首の筋肉が鈍く痛む。
壁に掛けられた時計は、もう夜の始まりの時間を指していた。
「すまない!すっかり熱中してしまったようだ…疲れただろう?」
「いえ、大丈夫です。でももう寮に戻らないと。グリムが待っていますし、明日のために荷物を整理しなきゃいけないので……。描き終わりましたか?」
彼女は椅子から立ち上がって伸びをし、軽く首を傾けてルークに尋ねる。
ルークは握ったままだった鉛筆を机に置いて、カンバスを見つめた。
そこには、少女が在った。けれどもその少女に、魂は宿っていない。流れる髪の筋、滑らかな身体の線、今にも香ってきそうな芍薬の花を持つ少女。その少女の瞳の中だけが、ぽっかりと空いた穴のように、真っ白いカンバスの色を覗かせていた。
「見ても?」
「……ああ、構わないよ」
素足のまま彼女がルークに近づき、すぐ隣でカンバスを覗き込んだ。
彼女が手に持った芍薬の花は、先程より濃く芳しく匂っている。あまりにも甘く馥郁としたその香りは、いっそ爛れるような、盛りの終焉を彷彿とさせるどこか腐敗めいた濃度でルークの身体にまとわりついた。
「残りは瞳だけですね。あと少しでしたら、お付き合いします。仕上げてしまいましょう?」
「良いのかい?」
「ええ。せっかくここまで描いて下さったのだから」
そう言って彼女は、深淵のような瞳でルークを見つめた。
鉛筆を再び握り、より近くで彼女を捉える。
けれども、カンバスに芯の先を充てがった指先は、強ばったまま動かない。捉えている彼女の瞳を、カンバスに焼きつけることができない。
ルークの指先は壊れた時計の針のように、カンバスの上で沈黙していた。
「……先輩?」
「すまない。どうやら、私の力量不足のようだ。トリックスター、君のその魅力的な輝きの瞳を描くには私の技術が追いついていないらしい。長い時間付き合わせてしまったのに、本当にすまなかったね」
「……そうですか。とっても素敵に描いて下さっているから力量不足なんてことはないと思いますけど……。でも」
ふと、彼女が手を伸ばして。ルークの頬に冷たい
指先が触れた。
深淵の瞳に、自らの憔悴した緑の双眸が映っているのを、ルークは酔いそうになるような芍薬の香りの中で見つめた。
「先輩は私を忘れないでしょう?描き切れなかった私を、先輩の瞳が捉えていた私を、もう忘れることはできないでしょう?」
「トリックスター……」
「私はずっと、ここにいるようで居ない。そんな心地でこの世界にいました。そうするように意識していたのかもしれない。だって、ここに来たときと同じようにいつ、この世界から消えてしまうか分からないから。どんなに誰かと仲良くなっても、消えてしまったら、二度と戻らなかったら、やがて忘れられちゃう。そんなの哀しいじゃないですか」
「……そうだね」
「でも先輩が、先輩の瞳に私を焼き付けてくれた。カンバスには写せなかったけど、でもだからこそ、ずっと先輩が見つめた私の姿、残像みたいに残り続ける。人って手に入らなかったものに執着する生き物だから。
これで、心置きなく帰れます。…ご…めんなさい、私の弔いに巻き込む形になっちゃいました。でも、許してくれますよね?」
彼女はかすかに首を傾げ、眉毛を下げて困ったような微笑みを浮かべながらそう言った。彼女がよく見せる表情だった。けれど、それはどこかこれまでの彼女とは違っていた。なにかが変わっていた。
ルークがカンバスに焼き付けようとしていた不安やうつろいはもう存在していなかった。
これまでとは質の異なる清々しいような潔さと、凪のような諦観が彼女の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。
彼女は仕上げにかかったのだ。彼女の少女時代の最終楽章を。彼女の中の奇跡の少女は、もう終盤に差し掛かろうとしている。
それでも、彼女は美しかった。
少女と女が、濁ることなくひとつになっている。
誰にも影響されず、孤高のように美しく、彼女は自らを弔った。
「ごめんなさい。……ありがとう。そして、さようならルーク先輩」
何も言わず、呆けたように見つめるルークにそう言って、彼女は素足のまま去っていた。
カタン、と鉛筆を机に放り投げる。彼女が残した芍薬の花を手にとって鼻を埋めると、終わりの香りがより深まっていた。
ルークは椅子に座り込んで、手のひらの中に額を沈めた。金糸の髪が乱れるのも構わずに、乱暴に掻き毟る。その僅かな空気の乱れにも、芍薬の花の香が立ち昇る。
彼女は、ルークがカンバスに自らの少女を封じ込めようとしたことに気付いたのだろう。
そして彼女が完璧な少女であるがゆえに、自らの力だけでは剥がせなかったものを、ルークの美への執着を利用して、ルークが封じようとした薄衣を脱いでいったのだ。
彼女はルークが気づく前に気付いていたのだ。
ルークの心の奥深くで少女の終わりを惜しみ、それを引き留めようとしていることを。それ故ルークがこの絵を完成させることが出来ないことを。
そして、この絵が未完に終わることによって、皮肉にも彼女自身にとっての少女時代に終止符を打つことになるということを。
「フ、フフ……ハハハ…!実にmarvelousだ!!」
ルークはひとしきり笑い、身体を震わせたのち、頭を上げた。視線の先には、瞳のない少女。
指先で自らが描いた少女をなぞり、再び鉛筆を握った。
「トリックスター。君は………やはりトリックスターという名に相応しい少女だよ」
ルークが見出し、そしてカンバスに写し取ろうとした少女は消えてしまった。けれども、終わりの時に新たななにかが生まれた。それは少女でもなく、大人でもない。美しくしたたかで、気高く孤高の存在。
そしてそれは、ルークがその存在に気付くときには既にルークの手元から飛び去っていった。
愉快だった。けれど悔しくもあった。
ゲームを仕掛けられたような心地に似ている気がした。
ならばなんとしても書き上げなければ。
それが彼女のいじらしいしたたかさへの相応しい応酬だと、ルークは思った。
芍薬を左手に持ち、じっと視線で捉える。
カンバスに佇む少女の姿と、芍薬の香りから彼女の気配を浮かび上がらせる。掴みかけた彼女の核。垣間見た彼女の本質をもう一度、蘇らせる。
狩りの最中のように、昂った鼓動と冷えた神経で研ぎ澄ました集中がルークの全身を駆け巡っていく。
芍薬の先に、かつての少女の姿が見える。
短く息を吸って、カンバスに鉛筆を走らせた。
その瞬間。
──ぱん!
大きな破裂音が、部屋に響き渡り、ルークの集中を醒めさせた。
研ぎ澄まされた神経が遅れて緩み、せわしなく切り替わった緩急に抗議するかのようにじんじんと頭が痛んだ。
ゆるりと首を動かしたルークの視線の先。左手に持った芍薬の花が、弾け散っていた。
先程の音は、盛りを越えた花の最後の断末魔。
最初の破裂で花の半分が散り、床の上に白く沈んでいる。
爛れるほど甘く濃い、終焉の匂いがむせ返える中、残りの花びらも一枚、また一枚と散っていく。
さらり。はらり。さらり。
ささやくような、終わりの音。
瞳のない少女がカンバスからルークを見つめ、ルークは散りゆく花の最期を見つめる。
死にゆくその時でさえ、馥郁と香る花がたてるため息のような音を聞きながら。
消えてしまった二人の少女のような花びらのその終わりを、ルークはただ見守った。
それはまるで、弔いのようだと思いながら。
弔われているのは少女なのか、それとも自分の心なのかと思いながら。
─やがて全ての花が散ったとき。
そこにはもう少女の気配も、花の香りも消えてしまって。
残っているのは、初恋に気付く前に初恋を失った一人の少年だけだった。
End.
芍薬/Peony
ボタン科
花言葉…はじらい、慎ましさ
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」の言葉のようにすらりとした茎に美しい花を咲かせる。根は、古くから鎮痛剤などに用いられてきた生薬である。
《少女残像》
美しさの定義とはなんだろう。
人の手には到底及ばない、宇宙の神秘や壮大な自然の畏れを伴う美。
或いは、一分の隙もなく徹底的に計算し尽くされ、緻密に構成された完全の美。
しかし、不完全にもまた美は宿る。
曖昧で、危うく、熱っぽい興奮と乾いた空虚を漣のように行き来しながら奇跡的なバランスを保った、期限付きの美。
今、ルークの視線の先でポーズを取る少女の美を分類するならば、きっとこれだろう。
「辛くなったらすぐに言うんだよ、トリックスター」
「ありがとうございます。でもこのポーズなら大丈夫です」
ルークが声を掛けた少女は、装飾のないシンプルな白いワンピース姿で椅子に腰掛けている。
裾から伸びた華奢な素足に初夏の淡い陽射しが揺れる。
行儀良く閉じられた膝の上には、一輪の花が置かれ。その瑞々しい緑の茎の上にそっと手のひらを重ねて、すこし掠れたような細い声で答えながら微笑む少女。
オンボロ寮の監督生。彼女をルークはトリックスターと呼ぶ。
突如としてこの世界に現れた、常識破りの異世界人。彼女はいつも人に囲まれ、行く先々でトラブルに巻き込まれて、気付けばなにかしらの事件の渦中にいる人物。けれども当の本人の性格は至って控えめでどちらかというと内気の部類に入るようだった。
ルークは、彼女が現れたときから物珍しさと好奇心を擽られ観察していた。
VDCでの騒動のあとは、すれ違えば雑談をしたり時に昼食を共に取ることもあった。
彼女は来るものを拒まない。質問すれば答え、冗談を言えば笑い、ルークが機嫌良く歌い出せば一瞬戸惑ったように目を丸くする。至って平凡な、十代の少女。
だがルークは、自分でも理由が分からないまま彼女という存在に惹かれていた。
彼女のこの世界での立ち位置は、まさに秩序と常識の外側にあった。けれど本人はその対外的な特性とは裏腹に、大人しく目立つことを嫌う内向的な性質だ。
─トリックスター。
それなのにルークは、彼女にこの呼び名をつけ、我ながらぴったりの呼び名だと思っていた。
その理由がもう少しで分かりそうで分からなくて。そのジレンマさえも愉快で。
機会さえあれば積極的に彼女と交流を持とうとしていた。
その彼女はいま、ルークの目の前で静かに座っている。
膝に置かれた花の花びらを指先でそっと撫でながら。ルークの視線に晒されながら。
窓から初夏の清らかな風が吹き込んで、甘い香りがルークの鼻梁を擽るように通り抜けた。
すらりと細い茎でどうして支えることができるのかと不思議に思うほど大輪の花びらを開かせた淡桃色の芍薬が、彼女の指先に答えるように瑞々しい香り立ちのぼらせている。
ルークは腕を捲り、ナイフで削った鉛筆を手に取った。イーゼルを少し傾け、脚の高い丸椅子に座る。
「始めようか」
「はい」
少しだけ背筋を伸ばした彼女の輪郭が、陽の光に滲んでいる。あの瞬間と同じだった。
ルークと彼女が、この部屋でこうして向かい合うきっかけとなった、ほんの数分前のあの一瞬。
カンバス越しに彼女を見つめて、ルークは確信した。あの時に感じた己の感情は、畏怖と憧憬、そして焦燥であったと。
それら全てを鉛筆の芯の先に込めるように、ルークはカンバスへ尖った矢のようなそれを滑らせた。
***
『トリックスター!』
授業を終え、生徒たちの開放感で賑わう放課後。
中庭を歩くルークの瞳は、渡り廊下から庭を見下ろす彼女の姿を捉えた。
彼女は珍しく一人だった。
ルークはいつものように羽根帽子をあげて、声をかける。
ルークに顔を向けた彼女の輪郭が、背後の高い空から差す陽光にきらきらと輝いていたのを覚えている。
『ルーク先輩』
『良い1日だったかな?なにか、面白いことはあったかい?』
いつもと変わらない、他愛もない質問。
それに彼女は頷いて、かすかに歯を見せて微笑んだ。
『ええ、ルーク先輩。明日、帰ることになりました。元の世界へ』
その時の彼女の微笑みは、ルークに向けられたものではなかった。ルークの存在を通り越して、どこか遠いところへ向けられた微笑み。
安堵と絶望と諦念。
それらがヴェールのようにきらめいて、微笑む彼女が神々しいほど美しく見えた。
ルークは息を呑んで彼女の元へと走り、帰るまでに君の絵を描かせてほしいと、ほとんど無意識に口にしていた。
***
絵を描くとき。その対象物の本質を見極め、それを写し取り、閉じ込めていく。
カンバス越しに自らがトリックスターと呼ぶ彼女を見つめた瞬間、ルークはなぜ自分が彼女に執着めいた好奇心と探究心を持ったのか、そしてなぜ彼女を描きたいと思ったのか、天啓を受けたように理解した。
自分は彼女の中に、少女性という不安定な美を見出していたのだと。
少女、という存在は哀しい。少女は自らが少女であることを自覚すればもはやその聖性が失われ、自覚を持たぬうちは少女の聖性を崇めるものに知らぬ間に搾取される。
一瞬のひとときの、やがては失われることが決まっている美。
少女という生き物は、変わりゆく自らや無責任な他者の視線から急き立てられるように内側を熟してゆき、少女の薄衣を脱ぎ捨てていく。
いや、少女だけでなくルーク含め少年も同様だ。
何かを諦め、なにかを凝らせ、大人という生き物に変わっていく。
むせ返る自意識と他意識の中で、いみじくも美しい筈の時間を走り抜けていく彼らを見るたびに、ルークは残念に思った。
けれども時たま、本物の少女が存在する。
正しく、奇跡的なバランスをたもったまま。その曖昧で不安定な自然の美の妙に、ルークは嘆息を洩らす。
トリックスターと呼ぶ彼女は、その、正しい本物の少女だった。
彼女はこの世界に存在していることにいつも傷ついていた。
不可抗力でわけも分からず世界を移動したこと、そして魔力がないことで蔑まれること、自らの居場所についていつも問い、その答えのないことに。
傷ついた彼女は美しい。
清らかな水面のような心に影がさして、漣のように揺らぐさまは脆く儚げで、人の心に巣食う加虐心を煽りいつまでも眺めていたくなる。
だが彼女は傷付きながらもひどく醒めていた。
自分の身に起きること、自分を取り囲む環境、巻き込まれる事件、それら全てをぞっとするような冷たい諦観と共に眺めている。
その相反する二面性が、絶妙な均衡で存在している奇跡の少女。
カンバス越しに彼女を見遣る。
肩にかかる柔らかな髪の一房。白い手足。華奢な肩。そして、遠くを見つめる深淵の瞳。
それらの輪郭を描き写しながら、ルークは肌が粟立っていることに気付いた。
彼女は美しくて、恐ろしかった。
天使や神獣といった類の存在を目にした者はこんな気持だったのではないかと考える。
あまりに美しいものは神々しく邪悪なのだと、鉛筆を滑らせながら、額に滴る冷たい汗を感じた。
いつか必ず、少女は死ぬ。
元の世界へ戻ったとき、彼女はなにかを諦め、なにかを封印するだろう。彼女の少女は、そこで死ぬ。
ルークは自らがトリックスターと呼んだその瞬間から無意識に見出していた彼女の少女性の美を、美の探求者、そして守護者として懸命にカンバスに焼き付けようとしている。
彼女を緑の瞳で見つめ、彼女が奥底にしまった彼女そのものを。
ほんのひとときにだけ存在する、儚の美を。
目の前で静かに動かない彼女に、ルークは自分自身の青春時代をも託して封じ込めようとしているのかもしれない。
二度と戻らない、今この一瞬を。
描く者と描かれる者、二人きりの世界で。目の前にいる少女の核を刻みつけようと。狂ったような焦燥と共にひたすら手を動かし続けた。
「先輩、すみません。そろそろ……」
戸惑ったような声に、ルークははっと顔を上げた。軽い目眩を覚える。一心不乱に筆を進めて、気付かぬうちに呼吸が浅くなっていたようだった。無意識に噛み締め続けていた奥歯を緩めると、首の筋肉が鈍く痛む。
壁に掛けられた時計は、もう夜の始まりの時間を指していた。
「すまない!すっかり熱中してしまったようだ…疲れただろう?」
「いえ、大丈夫です。でももう寮に戻らないと。グリムが待っていますし、明日のために荷物を整理しなきゃいけないので……。描き終わりましたか?」
彼女は椅子から立ち上がって伸びをし、軽く首を傾けてルークに尋ねる。
ルークは握ったままだった鉛筆を机に置いて、カンバスを見つめた。
そこには、少女が在った。けれどもその少女に、魂は宿っていない。流れる髪の筋、滑らかな身体の線、今にも香ってきそうな芍薬の花を持つ少女。その少女の瞳の中だけが、ぽっかりと空いた穴のように、真っ白いカンバスの色を覗かせていた。
「見ても?」
「……ああ、構わないよ」
素足のまま彼女がルークに近づき、すぐ隣でカンバスを覗き込んだ。
彼女が手に持った芍薬の花は、先程より濃く芳しく匂っている。あまりにも甘く馥郁としたその香りは、いっそ爛れるような、盛りの終焉を彷彿とさせるどこか腐敗めいた濃度でルークの身体にまとわりついた。
「残りは瞳だけですね。あと少しでしたら、お付き合いします。仕上げてしまいましょう?」
「良いのかい?」
「ええ。せっかくここまで描いて下さったのだから」
そう言って彼女は、深淵のような瞳でルークを見つめた。
鉛筆を再び握り、より近くで彼女を捉える。
けれども、カンバスに芯の先を充てがった指先は、強ばったまま動かない。捉えている彼女の瞳を、カンバスに焼きつけることができない。
ルークの指先は壊れた時計の針のように、カンバスの上で沈黙していた。
「……先輩?」
「すまない。どうやら、私の力量不足のようだ。トリックスター、君のその魅力的な輝きの瞳を描くには私の技術が追いついていないらしい。長い時間付き合わせてしまったのに、本当にすまなかったね」
「……そうですか。とっても素敵に描いて下さっているから力量不足なんてことはないと思いますけど……。でも」
ふと、彼女が手を伸ばして。ルークの頬に冷たい
指先が触れた。
深淵の瞳に、自らの憔悴した緑の双眸が映っているのを、ルークは酔いそうになるような芍薬の香りの中で見つめた。
「先輩は私を忘れないでしょう?描き切れなかった私を、先輩の瞳が捉えていた私を、もう忘れることはできないでしょう?」
「トリックスター……」
「私はずっと、ここにいるようで居ない。そんな心地でこの世界にいました。そうするように意識していたのかもしれない。だって、ここに来たときと同じようにいつ、この世界から消えてしまうか分からないから。どんなに誰かと仲良くなっても、消えてしまったら、二度と戻らなかったら、やがて忘れられちゃう。そんなの哀しいじゃないですか」
「……そうだね」
「でも先輩が、先輩の瞳に私を焼き付けてくれた。カンバスには写せなかったけど、でもだからこそ、ずっと先輩が見つめた私の姿、残像みたいに残り続ける。人って手に入らなかったものに執着する生き物だから。
これで、心置きなく帰れます。…ご…めんなさい、私の弔いに巻き込む形になっちゃいました。でも、許してくれますよね?」
彼女はかすかに首を傾げ、眉毛を下げて困ったような微笑みを浮かべながらそう言った。彼女がよく見せる表情だった。けれど、それはどこかこれまでの彼女とは違っていた。なにかが変わっていた。
ルークがカンバスに焼き付けようとしていた不安やうつろいはもう存在していなかった。
これまでとは質の異なる清々しいような潔さと、凪のような諦観が彼女の輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。
彼女は仕上げにかかったのだ。彼女の少女時代の最終楽章を。彼女の中の奇跡の少女は、もう終盤に差し掛かろうとしている。
それでも、彼女は美しかった。
少女と女が、濁ることなくひとつになっている。
誰にも影響されず、孤高のように美しく、彼女は自らを弔った。
「ごめんなさい。……ありがとう。そして、さようならルーク先輩」
何も言わず、呆けたように見つめるルークにそう言って、彼女は素足のまま去っていた。
カタン、と鉛筆を机に放り投げる。彼女が残した芍薬の花を手にとって鼻を埋めると、終わりの香りがより深まっていた。
ルークは椅子に座り込んで、手のひらの中に額を沈めた。金糸の髪が乱れるのも構わずに、乱暴に掻き毟る。その僅かな空気の乱れにも、芍薬の花の香が立ち昇る。
彼女は、ルークがカンバスに自らの少女を封じ込めようとしたことに気付いたのだろう。
そして彼女が完璧な少女であるがゆえに、自らの力だけでは剥がせなかったものを、ルークの美への執着を利用して、ルークが封じようとした薄衣を脱いでいったのだ。
彼女はルークが気づく前に気付いていたのだ。
ルークの心の奥深くで少女の終わりを惜しみ、それを引き留めようとしていることを。それ故ルークがこの絵を完成させることが出来ないことを。
そして、この絵が未完に終わることによって、皮肉にも彼女自身にとっての少女時代に終止符を打つことになるということを。
「フ、フフ……ハハハ…!実にmarvelousだ!!」
ルークはひとしきり笑い、身体を震わせたのち、頭を上げた。視線の先には、瞳のない少女。
指先で自らが描いた少女をなぞり、再び鉛筆を握った。
「トリックスター。君は………やはりトリックスターという名に相応しい少女だよ」
ルークが見出し、そしてカンバスに写し取ろうとした少女は消えてしまった。けれども、終わりの時に新たななにかが生まれた。それは少女でもなく、大人でもない。美しくしたたかで、気高く孤高の存在。
そしてそれは、ルークがその存在に気付くときには既にルークの手元から飛び去っていった。
愉快だった。けれど悔しくもあった。
ゲームを仕掛けられたような心地に似ている気がした。
ならばなんとしても書き上げなければ。
それが彼女のいじらしいしたたかさへの相応しい応酬だと、ルークは思った。
芍薬を左手に持ち、じっと視線で捉える。
カンバスに佇む少女の姿と、芍薬の香りから彼女の気配を浮かび上がらせる。掴みかけた彼女の核。垣間見た彼女の本質をもう一度、蘇らせる。
狩りの最中のように、昂った鼓動と冷えた神経で研ぎ澄ました集中がルークの全身を駆け巡っていく。
芍薬の先に、かつての少女の姿が見える。
短く息を吸って、カンバスに鉛筆を走らせた。
その瞬間。
──ぱん!
大きな破裂音が、部屋に響き渡り、ルークの集中を醒めさせた。
研ぎ澄まされた神経が遅れて緩み、せわしなく切り替わった緩急に抗議するかのようにじんじんと頭が痛んだ。
ゆるりと首を動かしたルークの視線の先。左手に持った芍薬の花が、弾け散っていた。
先程の音は、盛りを越えた花の最後の断末魔。
最初の破裂で花の半分が散り、床の上に白く沈んでいる。
爛れるほど甘く濃い、終焉の匂いがむせ返える中、残りの花びらも一枚、また一枚と散っていく。
さらり。はらり。さらり。
ささやくような、終わりの音。
瞳のない少女がカンバスからルークを見つめ、ルークは散りゆく花の最期を見つめる。
死にゆくその時でさえ、馥郁と香る花がたてるため息のような音を聞きながら。
消えてしまった二人の少女のような花びらのその終わりを、ルークはただ見守った。
それはまるで、弔いのようだと思いながら。
弔われているのは少女なのか、それとも自分の心なのかと思いながら。
─やがて全ての花が散ったとき。
そこにはもう少女の気配も、花の香りも消えてしまって。
残っているのは、初恋に気付く前に初恋を失った一人の少年だけだった。
End.