6月/幸福について
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Flower Dictionary
ガーデニア/
Cape jasmine
アカネ科
花言葉…とても幸せです、喜びを運ぶ
6月頃に大振りの純白の6弁花を咲かせる。甘く芳醇な強い香りが特徴で、欧米では女性をダンスパーティーに誘う時にガーデニアの花を贈ることがある。
《幸福について》
瞼を持ち上げて、眼鏡のレンズ越しではない視界の中で感じた小さな混乱と違和感。
見慣れない天井、よそよそしい肌触りのシーツ、真新しい建材のかすかな匂い。
またたきを、3回。
視える世界の曖昧さは変わらないけれど、微睡みは引いていく。
数センチ開いた窓からやわらかい感触の風が吹き込んで、レースのカーテンが揺れる。植物性の甘さと湿度を含んだ6月の風。
サイドテーブルに置いた眼鏡に手を伸ばし、ベッドボードに上半身を預けた。
隣で眠っていた筈のひとはいない。凹んだままの枕に触れるとほんのりとあたたかかった。
とおくのほうで、水音がする。
もう一度、今度は床の方まで手を伸ばして、脱ぎ捨てた形のままうずくまっているローブを拾う。
つやつやとした光沢のある生地は濃紺。僕をこの記念すべき朝にたった一人ベッドに取り残して、真新しい家の中のどこかに消えたひとが選んだもの。何度もひそやかな時を過ごした、懐かしいカレッジ内の夜のラウンジの色に似ているからと。
やがてパタパタとフローリングを軽やかに叩くスリッパの音が近付いてきて、僕と同じ生地のまろやかな白色のローブを着た彼女が寝室を覗き込んだ。真珠色のそれは、僕が選んだもの。人魚の宝石色なんて貴女にぴったりだ、という言葉はもちろん恥ずかしすぎて口にはしなかったけれど、多分彼女には伝わってしまっただろう。ユウさんの前では計画が狂う。初めは腹立たしいだけだったそれが、いつの頃から深海の蛸壺のように僕のこころのいちばん繊細なところをやわらかく撫でていくようになった。
落ち着きのない心臓のざわめきや、溶け出した砂糖菓子みたいに生温かくて甘い感情や、理性では逃しきれないぞくぞくとした欲求を胸の中で飼って生きていくことに慣れて。人を恋することはそういうことだということを知って。
そして特別をいくつも積み重ねた日常を重ねてきて、今日この朝を迎えた。
「あ、起きました?」
「ええ、ついさっき。おはようございます」
「おはよう、アズールさん」
僕よりひとあし先にしっかり覚醒したらしい表情が清々しくて、それに気付かないほど深く眠り込んで一人取り残されたことが悔しくて、まるで幼子にするように僕の瞼に唇を落とすひとがいとしくて。
僕は彼女の手首を引いて胸の中に抱き込んだ。くすくすと笑いながらもされるがままの彼女の白い指先は水に濡れている。
「目覚めたら隣に寝ていた妻がいなくなっているなんて。婚前逃亡ならぬ、新婚逃亡かと思いましたよ」
「なあにそれ。私がアズールさんから逃げるわけないでしょう?」
「逃げたって、世界の果てまででも追いかけますよ。昨日誓った通りです、病めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かっても、どこまででも」
「なんだかニュアンスが変わっている気がしますけど、……そうですね、アズールさんがずっと追いかけてくれるなら逃げてみようかな」
「……やめなさい」
「ふふ、冗談。ね、お風呂入りましょう?昨日疲れてあのまま寝ちゃったから」
「ああ、そうですね」
僕の唇のすぐ下にある彼女の首筋から、昨晩のひとときの甘やかなにおいがする。
白くやわらかいそこにもう一度吸い付きたくなる衝動を、音のない溜め息で逃す。ちら、と瞳だけで僕を見上げた彼女はきっと、この一瞬の身体の昂りもお見通しなのだろう。長い睫毛の影が差す頬がすこしだけ色を持つ。困ったような怒ったような、そのどちらか迷っているような表情をして僕の腕の中で身をよじらせた。
「何も言っていませんし、してませんよ」
ぱっと両手を肩の高さに掲げて、瞳を閉じて白々しい台詞を言ってみる。言いながら可笑しくて、唇が孤を描くのがわかった。案の定すぐに彼女がぷっと吹き出してひとしきり笑い、僕の鼻にやさしく唇を落とす。
「私だってまだなにも言ってませんよ。今日1日ベッドにいるのも魅力的なお誘いには違いないですけれど……まずはお風呂。それに私、お腹空いちゃいました」
「いいでしょう」
立ち上がる前にもう一度だけ視線を天井に移した。真っ白なシーリングファン。続いて、まだ二人のかたちがそのまま残っているようなシーツの皺。
起きたときに感じた違和感は微睡みとともに溶けて。
「いい部屋ですね」
既に肌に馴染みはじめた穏やかな空気の感触と予感。我ながら浮かれていると思うけれど、満足の笑みに口の端が上がるのを抑えられなかった。
***
旧友のひとりから贈られた贈り物のひとつのバスボムをお湯に溶かして、昨晩の汗を流す。
しゅわしゅわと音を立てて溶けたバスボムはペールパープルにお湯を染めた。海の中では見たことのなかった雲のような質感の巨大な泡の隙間から覗く彼女の肩に、熱に浮かされたままつけた赤い痣を見つけて、甘い充足感と苦い罪悪感で酔う前にこっそり口の中だけで治癒呪文を呟く。
「昨日は、楽しかった……いいお式でしたね」
「ええ、本当に。久しぶりに顔を見れた人もたくさんいました。」
「ふふ。誓いのキスのときの冷やかしとか、お式のあとのみんなからのサプライズとか、いかにもナイトレイブンカレッジ卒業生って感じで楽しかったなぁ」
「人のおめでたい席で皆さん悪ふざけが過ぎます。酔っ払ったフロイドが招待席にシャンパンシャワーを巻き始めたときと、それを洗い流すためにマレウスさんが大雨を降らしたときは悪夢かと思いましたよ……」
「みーんな、酔っ払ってましたね。でも、嬉しかったな。大好きなみんなにお祝いしてもらって、大好きな人と夫婦になれて、そしてこうやって、二人で朝を迎える日がこれからずっと続くなんて」
ちゃぷ、と音をたてて僕の脚の間におさまっていた彼女が振り返った。
水に濡れて額にかかっていた僕の前髪の一房を撫で上げて、唇で唇に触れる。すこしだけ、石鹸の味がした。
「いつか飽きるかもしれませんよ」
「飽きるくらいアズールさんといられるなんて、私は幸せ者ですね」
「あなたのそういうところ、嫌いじゃないです」
「もっと素直に」
「あなたのそういうところも、好きです。愛してます」
「ふふ、よく出来ました」
黒目がちな瞳の端をやわらかく下げて、満足気に微笑むから。また甘怠い熱が身体を駆け巡る前に、勢いをつけて浴槽から立ち上がる。
「……のぼせそうです」
「アズールさんのそういうところも、かわいくて大好き」
「煩いですよ」
彼女こそ、こういうところがいかにもナイトレイブンカレッジの卒業生らしい。そう言ったら彼女はきょとんとするのだろうか、それとも悪戯っぽく笑うのだろうか。どちらにせよ、愛しいひとであることに変わりはないのだけれど。なんとなく悔しくてわざと乱暴に彼女の髪をタオルで擦ればくすくすと楽しげに、かわいいひと、と笑うのだから本当に敵わない。
「あ、まだ良い香り」
タオルである程度水分を吸い取った髪にペンを向けて簡単な呪文で髪を乾かしてから二人でリビングに向かうと、すっかり夜の残滓の消えた眩しい空間にやわらかな香りが漂っていた。
窓辺に置かれた花瓶に活けたミニブーケ。つやつやとした緑の葉に囲まれた白い花びらが香っている。
僕が昨日左胸に差していたブートニア。式の間中、幸福を凝縮して閉じ込めたようなあまいあまい香りが僕の鼻をくすぐっていた。
「でもやっぱり、プランナーさんが言っていた通りもう茶色くなっちゃってますね。ガーデニアの切り花ってほんとうに寿命が短いんだ……まだこんなにいい香りなのに」
ブートニアの花の種類を決めるとき、プランナーがいくつかの花とそれにまつわる伝承を話してくれた。
ガーデニアは、幸福の象徴。喜びを運ぶ花としてウェディングシーンでも人気で、切り花としての寿命は短くても、香りは幸福の記憶となっていつまでもこころに刻まれるとか。
そんなロマンティックな謳い文句と、ゆめのように甘い香りに惹かれた彼女が、この花に決めた。
彼女が鼻を寄せた花びらは確かに昨日の瑞々しさはなく、ところどころ茶色く変色し始めている。それでも、瞳を閉じてうつむくように香りを吸い込む彼女の姿と甘やかな香りは、昨日の式での純白のドレス姿と冷やかしの声を聞きながら触れた唇のやわらかさと、胸をじんわりとあたためるようないとしさを思い出させて。プランナーの言葉は、あながち上澄みだけの営業トークではなかったようだ。
「結婚式が終わっちゃった、って感じがしてすこしさみしいかも」
「なら、これから買いに行きましょう。ガーデニアの花。この街の散策がてら、どうです?」
「素敵!」
「ついでに外でブランチにしましょう。評判の良いガレットのお店があることはリサーチ済みです」
「わ、キャロットラペに美味しいブレンドコーヒーも?」
「ええ、ええ。それから食後にアイスクリームも許します」
「アズールさんも食べてくれる?」
「もちろんです。ブランチを済ませたら、花屋でガーデニアを買いましょう。いっそのこと、苗を買ってきて庭に植えてもいい」
「アズールさん、浮かれてますね」
「新婚一日目ですから。あなたが花が枯れてさみしくなるなら僕は毎日花を贈りますし、庭に植えるなら最高の庭師を雇います」
「私ってば幸せな花嫁ですね。6月の花嫁は幸せになれるって言うけれど、その通りみたい」
「さあ、支度をしますよ」
彼女の髪を撫でると、ふわりとガーデニアの香りが風に乗って立ち上る。朽ちかけてもなお、甘く豊かな香り。
幸福はきっと、こんな香りなのだろう。
そう、僕は、彼女に花を贈ることができる。前の日の花が枯れてしまっても、また、花を贈ることができる。
外が雨でも、雪でも、暑くても、寒くても。それは僕らの世界を変えるようなことではないし、ただ花を贈る、それだけのことだけれど。
でもきっと、幸せというのはそういうものなのだろうと思う。
どんな一日を過ごすか話して、コーヒーを飲んで、花を買って。ガーデニアの香りのように甘くて、もろくて、あどけない、そんな日々を僕たちはこれから重ねていく。飽きるくらいに。
「アズールさん、チャック上げるの手伝ってください」
「全く、仕方のない人ですね」
小走りで寝室に向かった彼女が、くぐもった声を上げた。クローゼットを覗き込んで、洋服を選んでいるのだろう。
この新居で挙式の後すぐに新生活を始められるようにある程度の家具家電は揃えていたけれど、衣服は数枚を残してすべてまだ段ボールの中だ。今日は荷解きも済ませなければいけない。
けれど。
まずは支度をして出掛けよう。
窓から見上げた空は海みたいな色をしていたから、今日は特別なシューズをおろしてもいいかもしれない。
また浮かれていると彼女に笑われてしまうだろうけれど、かまうものか。
しあわせなのは6月の花嫁だけじゃない。6月の花婿だって、浮かれてしまうほどにしあわせなのだ。
End.
ガーデニア/
Cape jasmine
アカネ科
花言葉…とても幸せです、喜びを運ぶ
6月頃に大振りの純白の6弁花を咲かせる。甘く芳醇な強い香りが特徴で、欧米では女性をダンスパーティーに誘う時にガーデニアの花を贈ることがある。
《幸福について》
瞼を持ち上げて、眼鏡のレンズ越しではない視界の中で感じた小さな混乱と違和感。
見慣れない天井、よそよそしい肌触りのシーツ、真新しい建材のかすかな匂い。
またたきを、3回。
視える世界の曖昧さは変わらないけれど、微睡みは引いていく。
数センチ開いた窓からやわらかい感触の風が吹き込んで、レースのカーテンが揺れる。植物性の甘さと湿度を含んだ6月の風。
サイドテーブルに置いた眼鏡に手を伸ばし、ベッドボードに上半身を預けた。
隣で眠っていた筈のひとはいない。凹んだままの枕に触れるとほんのりとあたたかかった。
とおくのほうで、水音がする。
もう一度、今度は床の方まで手を伸ばして、脱ぎ捨てた形のままうずくまっているローブを拾う。
つやつやとした光沢のある生地は濃紺。僕をこの記念すべき朝にたった一人ベッドに取り残して、真新しい家の中のどこかに消えたひとが選んだもの。何度もひそやかな時を過ごした、懐かしいカレッジ内の夜のラウンジの色に似ているからと。
やがてパタパタとフローリングを軽やかに叩くスリッパの音が近付いてきて、僕と同じ生地のまろやかな白色のローブを着た彼女が寝室を覗き込んだ。真珠色のそれは、僕が選んだもの。人魚の宝石色なんて貴女にぴったりだ、という言葉はもちろん恥ずかしすぎて口にはしなかったけれど、多分彼女には伝わってしまっただろう。ユウさんの前では計画が狂う。初めは腹立たしいだけだったそれが、いつの頃から深海の蛸壺のように僕のこころのいちばん繊細なところをやわらかく撫でていくようになった。
落ち着きのない心臓のざわめきや、溶け出した砂糖菓子みたいに生温かくて甘い感情や、理性では逃しきれないぞくぞくとした欲求を胸の中で飼って生きていくことに慣れて。人を恋することはそういうことだということを知って。
そして特別をいくつも積み重ねた日常を重ねてきて、今日この朝を迎えた。
「あ、起きました?」
「ええ、ついさっき。おはようございます」
「おはよう、アズールさん」
僕よりひとあし先にしっかり覚醒したらしい表情が清々しくて、それに気付かないほど深く眠り込んで一人取り残されたことが悔しくて、まるで幼子にするように僕の瞼に唇を落とすひとがいとしくて。
僕は彼女の手首を引いて胸の中に抱き込んだ。くすくすと笑いながらもされるがままの彼女の白い指先は水に濡れている。
「目覚めたら隣に寝ていた妻がいなくなっているなんて。婚前逃亡ならぬ、新婚逃亡かと思いましたよ」
「なあにそれ。私がアズールさんから逃げるわけないでしょう?」
「逃げたって、世界の果てまででも追いかけますよ。昨日誓った通りです、病めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かっても、どこまででも」
「なんだかニュアンスが変わっている気がしますけど、……そうですね、アズールさんがずっと追いかけてくれるなら逃げてみようかな」
「……やめなさい」
「ふふ、冗談。ね、お風呂入りましょう?昨日疲れてあのまま寝ちゃったから」
「ああ、そうですね」
僕の唇のすぐ下にある彼女の首筋から、昨晩のひとときの甘やかなにおいがする。
白くやわらかいそこにもう一度吸い付きたくなる衝動を、音のない溜め息で逃す。ちら、と瞳だけで僕を見上げた彼女はきっと、この一瞬の身体の昂りもお見通しなのだろう。長い睫毛の影が差す頬がすこしだけ色を持つ。困ったような怒ったような、そのどちらか迷っているような表情をして僕の腕の中で身をよじらせた。
「何も言っていませんし、してませんよ」
ぱっと両手を肩の高さに掲げて、瞳を閉じて白々しい台詞を言ってみる。言いながら可笑しくて、唇が孤を描くのがわかった。案の定すぐに彼女がぷっと吹き出してひとしきり笑い、僕の鼻にやさしく唇を落とす。
「私だってまだなにも言ってませんよ。今日1日ベッドにいるのも魅力的なお誘いには違いないですけれど……まずはお風呂。それに私、お腹空いちゃいました」
「いいでしょう」
立ち上がる前にもう一度だけ視線を天井に移した。真っ白なシーリングファン。続いて、まだ二人のかたちがそのまま残っているようなシーツの皺。
起きたときに感じた違和感は微睡みとともに溶けて。
「いい部屋ですね」
既に肌に馴染みはじめた穏やかな空気の感触と予感。我ながら浮かれていると思うけれど、満足の笑みに口の端が上がるのを抑えられなかった。
***
旧友のひとりから贈られた贈り物のひとつのバスボムをお湯に溶かして、昨晩の汗を流す。
しゅわしゅわと音を立てて溶けたバスボムはペールパープルにお湯を染めた。海の中では見たことのなかった雲のような質感の巨大な泡の隙間から覗く彼女の肩に、熱に浮かされたままつけた赤い痣を見つけて、甘い充足感と苦い罪悪感で酔う前にこっそり口の中だけで治癒呪文を呟く。
「昨日は、楽しかった……いいお式でしたね」
「ええ、本当に。久しぶりに顔を見れた人もたくさんいました。」
「ふふ。誓いのキスのときの冷やかしとか、お式のあとのみんなからのサプライズとか、いかにもナイトレイブンカレッジ卒業生って感じで楽しかったなぁ」
「人のおめでたい席で皆さん悪ふざけが過ぎます。酔っ払ったフロイドが招待席にシャンパンシャワーを巻き始めたときと、それを洗い流すためにマレウスさんが大雨を降らしたときは悪夢かと思いましたよ……」
「みーんな、酔っ払ってましたね。でも、嬉しかったな。大好きなみんなにお祝いしてもらって、大好きな人と夫婦になれて、そしてこうやって、二人で朝を迎える日がこれからずっと続くなんて」
ちゃぷ、と音をたてて僕の脚の間におさまっていた彼女が振り返った。
水に濡れて額にかかっていた僕の前髪の一房を撫で上げて、唇で唇に触れる。すこしだけ、石鹸の味がした。
「いつか飽きるかもしれませんよ」
「飽きるくらいアズールさんといられるなんて、私は幸せ者ですね」
「あなたのそういうところ、嫌いじゃないです」
「もっと素直に」
「あなたのそういうところも、好きです。愛してます」
「ふふ、よく出来ました」
黒目がちな瞳の端をやわらかく下げて、満足気に微笑むから。また甘怠い熱が身体を駆け巡る前に、勢いをつけて浴槽から立ち上がる。
「……のぼせそうです」
「アズールさんのそういうところも、かわいくて大好き」
「煩いですよ」
彼女こそ、こういうところがいかにもナイトレイブンカレッジの卒業生らしい。そう言ったら彼女はきょとんとするのだろうか、それとも悪戯っぽく笑うのだろうか。どちらにせよ、愛しいひとであることに変わりはないのだけれど。なんとなく悔しくてわざと乱暴に彼女の髪をタオルで擦ればくすくすと楽しげに、かわいいひと、と笑うのだから本当に敵わない。
「あ、まだ良い香り」
タオルである程度水分を吸い取った髪にペンを向けて簡単な呪文で髪を乾かしてから二人でリビングに向かうと、すっかり夜の残滓の消えた眩しい空間にやわらかな香りが漂っていた。
窓辺に置かれた花瓶に活けたミニブーケ。つやつやとした緑の葉に囲まれた白い花びらが香っている。
僕が昨日左胸に差していたブートニア。式の間中、幸福を凝縮して閉じ込めたようなあまいあまい香りが僕の鼻をくすぐっていた。
「でもやっぱり、プランナーさんが言っていた通りもう茶色くなっちゃってますね。ガーデニアの切り花ってほんとうに寿命が短いんだ……まだこんなにいい香りなのに」
ブートニアの花の種類を決めるとき、プランナーがいくつかの花とそれにまつわる伝承を話してくれた。
ガーデニアは、幸福の象徴。喜びを運ぶ花としてウェディングシーンでも人気で、切り花としての寿命は短くても、香りは幸福の記憶となっていつまでもこころに刻まれるとか。
そんなロマンティックな謳い文句と、ゆめのように甘い香りに惹かれた彼女が、この花に決めた。
彼女が鼻を寄せた花びらは確かに昨日の瑞々しさはなく、ところどころ茶色く変色し始めている。それでも、瞳を閉じてうつむくように香りを吸い込む彼女の姿と甘やかな香りは、昨日の式での純白のドレス姿と冷やかしの声を聞きながら触れた唇のやわらかさと、胸をじんわりとあたためるようないとしさを思い出させて。プランナーの言葉は、あながち上澄みだけの営業トークではなかったようだ。
「結婚式が終わっちゃった、って感じがしてすこしさみしいかも」
「なら、これから買いに行きましょう。ガーデニアの花。この街の散策がてら、どうです?」
「素敵!」
「ついでに外でブランチにしましょう。評判の良いガレットのお店があることはリサーチ済みです」
「わ、キャロットラペに美味しいブレンドコーヒーも?」
「ええ、ええ。それから食後にアイスクリームも許します」
「アズールさんも食べてくれる?」
「もちろんです。ブランチを済ませたら、花屋でガーデニアを買いましょう。いっそのこと、苗を買ってきて庭に植えてもいい」
「アズールさん、浮かれてますね」
「新婚一日目ですから。あなたが花が枯れてさみしくなるなら僕は毎日花を贈りますし、庭に植えるなら最高の庭師を雇います」
「私ってば幸せな花嫁ですね。6月の花嫁は幸せになれるって言うけれど、その通りみたい」
「さあ、支度をしますよ」
彼女の髪を撫でると、ふわりとガーデニアの香りが風に乗って立ち上る。朽ちかけてもなお、甘く豊かな香り。
幸福はきっと、こんな香りなのだろう。
そう、僕は、彼女に花を贈ることができる。前の日の花が枯れてしまっても、また、花を贈ることができる。
外が雨でも、雪でも、暑くても、寒くても。それは僕らの世界を変えるようなことではないし、ただ花を贈る、それだけのことだけれど。
でもきっと、幸せというのはそういうものなのだろうと思う。
どんな一日を過ごすか話して、コーヒーを飲んで、花を買って。ガーデニアの香りのように甘くて、もろくて、あどけない、そんな日々を僕たちはこれから重ねていく。飽きるくらいに。
「アズールさん、チャック上げるの手伝ってください」
「全く、仕方のない人ですね」
小走りで寝室に向かった彼女が、くぐもった声を上げた。クローゼットを覗き込んで、洋服を選んでいるのだろう。
この新居で挙式の後すぐに新生活を始められるようにある程度の家具家電は揃えていたけれど、衣服は数枚を残してすべてまだ段ボールの中だ。今日は荷解きも済ませなければいけない。
けれど。
まずは支度をして出掛けよう。
窓から見上げた空は海みたいな色をしていたから、今日は特別なシューズをおろしてもいいかもしれない。
また浮かれていると彼女に笑われてしまうだろうけれど、かまうものか。
しあわせなのは6月の花嫁だけじゃない。6月の花婿だって、浮かれてしまうほどにしあわせなのだ。
End.