5月/黄金色の午後
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Flower Dictionary
バラ/Rose
バラ科
花言葉…愛
地球上でもっとも美しい花とされ花の女王とも呼ばれている。バラの歴史は古く、原種から日々生まれる園芸品種を含め約2万以上の品種が確認されている。
ギリシャの叙情詩人アナクレオンは紀元前6世記に、「バラなる花は恋の花、バラなる花は愛の花、バラなる花は花の女王」と唄い、ローマ人はバラを天井に吊るした下で交わした会話は秘密として守られると約束した。現代でも「Under the Rose」はすなわち秘密、という意味を持つ。
─キミがいる場所、キミがいる時間、キミがこぼす言葉、キミが向ける笑顔。
木漏れ日のようにやわらかくて、まぶしくて。
微睡みのように心地よい。
そう、これは。
All in the golden afternoon。
《黄金色の午後》
5月の昼下り。
微かに初夏の予感をはらんだ陽射しは暑いくらいで、寮服の下の素肌をじっとりと湿らせる。
その感触にボクの苛立ちはまた一つ大きくなる。
「まったく……どうして皆規則を守ることが出来ないんだ。」
今日は午後の授業は一コマだけで、本来ならこの時間は図書室での予習復習にあてる予定だった。
けれど図書室に向かう途中、慌てふためく寮生に呼び止められた。
曰く、またもハリネズミが脱走したと。
青ざめながら責任を擦り付け合うハリネズミの世話係たちの首をはねて、ボクも校内を探し回ってからもう40分は経っている。
けれど小さな彼らはひどく臆病な生き物で、おそらく脱走したもののどこか人の目につかないような場所に潜んでいるのだろう。
捜索は思った以上に難儀だった。
ああもう。このままだと午後のお茶の時間も遅れてしまう。
ハートの女王の規則を破ることを、ボクはボク自身に許せない。
とにかく、一刻も早く見つけ出さなければ。
ボクは校舎の中庭に向かった。校舎内で小さな動物が隠れそうな場所は限られているし、思い付く場所はくまなく探した。もしかしたら木や緑のあるところに身を潜めているかもしれない。
けれど中庭に出て、ボクはその判断が間違いだったと気付かされる。
今日は教員会議があるため、すべての学年が午後の授業が一コマで終わっていたことを失念していた。
5月の昼下り、一番過ごしやすい時間帯だ。中庭は軽い運動をする者、ベンチで談笑する者、緑の地面に直接腰を下ろして軽食を広げている者。たくさんの生徒たちで溢れていた。こんな場所に、小動物がわざわざ逃げ込むわけがない。
ボクは舌打ちでもしたい気分だった。けれど、そんな行儀の悪い行為を人目につく場所で、寮服を着て行うことは許されない。
代わりに小さくため息をついて、居住まいを正す。念のため、庭を一周して探してみよう。
声をかけてくる同級生や寮生たちに会釈で応えながら、庭を歩く。木々の枝や緑の茂みに目を走らせているものの、この騒がしさだ。ハリネズミがここにいる可能性はゼロに等しいだろう。
歩き回った疲労が人いきれと陽射しによって強くなっていく気がした。一瞬、目の前が暗くなって足が軽く縺れる。立ちくらみだろうか。
木の幹に手をついて、視界の点滅が落ち着くのを待つ。幸い、中庭にいる生徒たちはボクの異変に気付いていない。
少しずつ引いていく目眩。ボクはまた一つ、小さなため息を吐く。そしてふと、甘い香りが鼻を擽っていることに気付いた。
ほんの少しだけ緑がかった、植物性の、ふくよかで芳しい甘い香り。どこから漂ってきているのだろう?
まだかすかに点滅を繰り返す視界でゆっくりと周囲を見渡すと、茂みと茂みの間に小さな小道があることに気付いた。
緑の低木の枝葉に覆われているようなその道は、ボクの身長でも身をかがめなければ通れないような狭く小さなもので、甘い香りはどうやらその奥から、そよ風にのって漂ってきているみたいだった。
「こんな道があったなんて、今まで気付かなかったよ」
思わず独り言を呟いてしまったボクに応えるようなタイミングでふわりとそよ風が舞い、甘い香りが強くなる。
香りに誘われているような気がして、ボクはその小さな道を潜った。
一歩踏み出した途端、中庭の喧騒が嘘のように遠くなる。四方を緑の葉に覆われた小道で鳴るのはさやさやとした葉擦れの音と、ボクと同じように小道の奥を目指す蝶や蜜蜂の低い羽音だけ。
枝葉によって弱くなった陽射しはただあたたかく、そよ風が先程まで不快にベタついていた肌を清々しく冷やしていく。
進めば進むほど、甘い香りはより濃くなっていた。
香りがいよいよむせ返るような強さになったとき、唐突に道が開けた。
「……ここは、」
ボクはまた、独り言をもらしてしまう。
その場所は小道と同じく、まるで人の目から隠すように四方が緑の茂みに覆われている。だけれどその空間は沢山の色と、うっとりするような甘い香りで溢れていた。
見渡す限りの薔薇、薔薇、薔薇。
オールドローズ、イングリッシュローズ、ハイブリッドティーローズ、スプレイローズ、クライミングローズ。その品種は多岐にわたって、絡み合った蔦によって出来た、自然の薔薇のアーチが澄み渡った5月の空で楽しげに揺れている。
「驚いた……なんて見事な庭だろう」
一体誰が、なんのために、この秘密のような庭をつくり管理しているのだろう。
さっきまでの喧騒と日常がひどく遠く感じる。
花の世界に迷い込んでしまったのだろうか。なんて非現実的なことを考える。その考えはどういうわけかほんの少し愉快な心地がして、ボクはボク自身に驚いてしまう。花の香りに酔っているのかもしれない。
色とりどりの薔薇を驚愕と共に見回していると、背後で微かになにかの気配を感じた。
ボクが振り向くと同時に、聞き覚えのある小さな声がボクの名前を呼んだ。
「……先輩、リドル先輩」
「その声は……監督生、キミなのかい?」
「しっ……ごめんなさい。もう少し小さな声で。なるべく音を立てないように、こっちまで来てもらえませんか?」
ひときわ芳しいティーローズの茂みの向こうに、どうやら彼女はいるらしい。
オンボロ寮の監督生。ボクがオーバーブロットをしてしまったあの日から、なにかとハーツラビュルと彼女との交流は絶えない。
ボク自身も彼女をお茶会に招待したり、予習復習に付き合ってあげることもあった。
ひょんなことから彼女が女性であると知ってしまってからは、どうも無用心な彼女が気に掛かってつい目で追っては世話を焼いてしまう。
大人しいけれど、どうやら巻き込まれ体質の彼女はいつもボクの常識からは考えられない行動をすることが多いので、何をしても驚かなくはなっていたけれど。この不思議な場所に彼女がいるなんて。やはり彼女は何から何までボクが信じる規範から逸脱している存在らしい。
「一体どうして、こんなところにいるんだい?」
彼女の言葉に従ってなるべく音を立てないよう茂みを抜け、小さな声で問いかけながら向かうと、薔薇の花に囲まれるように設置されたおもちゃのような木製のベンチに彼女は座っていた。
首だけをこちらに向けた彼女は、「先輩の探しもの、見つけたので」といたずらっぽく微笑んで自らの膝の上を指さした。
彼女の制服のスラックスの上で、ハリネズミがボクに向かって威嚇するかのように針を逆立たせている。なんて無礼な態度なんだろう。こっちはお前を探すために足を棒にしていたっていうのに。トランプ兵だったら即刻首をはねるところだ。
「先輩、怒らないで。この子も動揺してるんです」
「自分から逃げ出しておいて随分なことだね。さあ、こっちに来るんだ。お前のためにハーツラビュル寮生の殆どが午後の予定をめちゃくちゃにされているんだよ。お分かりだね?」
「あっ、先輩、待って……!」
ボクが手を伸ばすと、ハリネズミはより一層針を逆立ててじりじりと監督生の膝の上で後ずさる。随分と良い態度じゃないか。
「確かに脱走したことは悪いことですけれど、こんなに沢山人がいるなんて思ってなかったんでしょう。もう少し落ち着かせてあげたら、きっと素直に戻ってくれますよ」
「監督生、彼を甘やかすのは彼のためにならないよ」
「そうかもしれないですけど、今強引に連れて行ってまた途中で脱走したら二度手間でしょう?だから、もう少しだけ時間をあげてください」
「………」
「それにほら、ちょうど一番気持ちいい時間ですよ。リドル先輩も、ほんのちょっとだけ一緒に5月の午後を楽しみましょう?ねっ?」
「けれど……」
そう言って隣り座るよう促す彼女と、未だ威嚇し続けるハリネズミを交互に見て、ボクはこの午後3度目のため息を吐いた。
彼女の言う通り、この状態のハリネズミを無理矢理連れて帰るのは賢い判断ではない。
諦めて、彼女の隣に腰を下ろす。木製のベンチは見た目より座り心地が良くて、歩き回った足の疲労が思いの外大きかったことに気付いた。
「先輩も、この場所知っていたんですね」
「いや、ボクは今たまたま見つけたんだ。キミは以前からここを知っていたのかい?」
「はい。とはいえ私もたまたま見つけたんですけれど。ここ静かでしょう?それに、誰が管理してるかは分からないけれどとっても綺麗で。……一人になりたいときにたまにこっそり来てるんです」
「そう。ハリネズミとボクが邪魔してしまったね」
「いえ、リドル先輩で良かった。先輩なら良いんです、なんて、私の場所じゃないから変な言い方ですけど。いつか先輩には秘密の場所があるんですよって話そうと思っていたから。寮長っていつも、なにかと忙しくて人に囲まれて大変でしょう?きっと先輩にも、一人になりたい時間があるんじゃないかなって思っていて」
「キミ……」
「ここなら一人になれるし、ほら見てください、バラのアーチ。先輩も知っていますか?バラのアーチの意味」
「ああ、Under the Rose.つまり、秘密だね」
「そう、秘密。ここで過ごした時間はここにいた人と花たちだけの秘密になるから、心置きなく過ごせる。…でも私のお節介かなぁなんて考えて中々言い出せなかったんです。だから、探し回っていた先輩やハーツラビュルのみんなには申し訳ないけれど、私はこの子に感謝しなきゃ。この子を探してなければ、先輩がここに来ることはなかったみたいですし」
「そうだね」
「ときに規律違反のナンセンスは、思いがけない贈り物になるのかもしれませんよ?」
「……それは同意できないよ」
「ふふ、そう言うと思いました」
彼女はころころと鈴を転がすような声で笑って、先程より少し落ち着いたハリネズミの背中をそっと撫でた。
その彼女の膝の横に、図書室の蔵書ラベルが貼られた本が一冊置いてある。
「本を読んでいたのかい?」
「そうなんです。今日はね、ルーク先輩が薦めてくださった詩集を。でも、詩集って読み慣れていないし、このお天気でしょう?眠くなってきたなぁというときにこの子がここに飛び込んできたんです」
「詩集か……。そういえばボクもここのところ詩は読んでいないかもしれないな。見ても?」
「もちろん!」
古びた本のページを捲ると、微かに黴びた匂いが立ち昇る。けれどそれはすぐに、薔薇たちの香りに掻き消されて、黄ばんだページに木漏れ日がレースのような模様をつくった。
「All in the golden afternoon
Full leisurely we glide;
For both our oars, with little skill,
By little arms are plied,
While little hands make vain pretence
Our wanderings to guide 」
ボクはページに印刷された詩の一節を読み上げる。詩の朗読は、エレメンタリースクール時代はお母さまの言いつけで毎日のように行っていた。独特のリズムや言い回しが愉快で、新しい詩を読むのが楽しみだったことをふと思い出す。
ミドルスクールに上がってからは詩の朗読は毎日の課題から外され、必要のないものだからと詩集も処分されてしまってがっかりしたことも。
「先輩、朗読お上手ですね?!すごい、聴き惚れちゃいました」
「そうかい……?ただ読み上げているだけだけれど」
「そんなことないです、リズムとかアクセントとか…ただ文字を目で追ってるだけじゃ味わえないような光景が広がっていくみたいでした!すごいですよ!ね、良ければもっと、朗読してくださいませんか?」
「あ、ああ……構わないよ」
「嬉しい!ありがとうございます」
彼女が目を輝かせて喜ぶ姿がなんだかすごく眩しく感じて、ボクは逃げるように目を逸らして承諾してしまった。
落ち着かない気持ちになりながらページをめくって、次の詩を読み上げる。彼女は目を閉じて、ボクの声に耳を澄ましている。
「In a Wonderland they lie,
Dreaming as the days go by,
Dreaming as the summers die:
Ever drifting down the stream ー
Lingering in the golden gleam ー
Life, what is it but a dream? 」
木々の間から差し込む陽射しはとかした蜂蜜のようにやわらかな黄金色をして、涼やかな風が運ぶ香りはどこまでも、夢見るように甘い。
薔薇たちは、まるでボクの声に聴き入っているかのようにたわわな花房をそよ風に揺らして。
ボクの朗読する詩に、花々の合間を行き交う昆虫たちの低い羽音が通奏低音のように重なっている。穏やかな5月の昼下り。こんなに静かな時間を過ごすのはいつぶりだろう。
気付けばボクは、朗読している詩の世界に熱中してしまった。溢れる言葉と、軽快なリズムで描かれる、豊かな世界。久しぶりの感覚に胸が踊るような高揚を感じた。
ふと、視界の端で彼女がうつらうつらと船を漕ぎ始めていることに気付いた。彼女の膝の上のハリネズミに至っては、小さないびきをかいてすっかり眠りこけている。
「仕方のない子だね。監督生、」
肩を軽く叩いても、彼女は形のいい眉を微かに寄せただけで応えない。
ふう、と呆れたため息をはこうとしたつもりだったけれど、出てきたのは我ながら間の抜けた欠伸で、誰も見ている人がいないのは分かっていたけれど慌てて噛み殺した。
睡眠はしっかり取っている。この陽気のせいかもしれない。ボクは重たくなった瞼を、ほんの一瞬だけ閉じた。つもりだった。
「ん……んん…」
「……?」
耳元で聞こえる唸り声。その声の近さに微睡んでいた脳が瞬時に覚醒した。
片肩に重みを感じて見遣ると、彼女が僕の肩に顔を乗せて眠ったまま魘されている。もう一度軽く彼女の細い肩を揺すってみたけれど、目覚める気配はない。ボクはひとまずポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認する。ものの10分ほど、どうやらボクまで眠っていてしまったらしい。うたた寝をしてしまうなんて、ボクらしくない。
「ん…起きて、ユウ……起きるの…よ……」
彼女の眉の皺が深くなって、小さな声で苦しげな寝言をつぶやいた。夢の中で、自分自身に話しかけているのだろうか。その声色があまりにも焦燥していて、あまりにも不安気で、ボクは考える前に彼女の頭を撫でていた。
艷やかな感触。自分の心臓の音がいやにうるさく感じる。しばらく繰り返すと、彼女の寝息が穏やかになってほっとした。
ほんの少しだけ、さっきより温度の下がったそよ風が吹く。鼻をくすぐる、薔薇の香りとは違う淡い石鹸のような香りが、彼女の髪から漂う香りだと気付いて、また心臓の音がうるさくなった。
無防備に眠る彼女の頬と、穏やかな呼吸を漏らす唇は薔薇の蕾のような色をしている。はだけたシャツの胸元はぬけるように白く眩しくて、慌てて目を逸らした。
そんなボクを笑うかのようにさっきより強いそよ風が吹いて、色とりどりの花びらが空を舞う。
ベンチに座るボクたちに、その花びらがゆっくりと降り注いだ。
手のひらを上に向けると、一枚の花びらがひんやりと落ちてくる。その花びらは、彼女の頬と同じ色だった。
《第228条:水曜日に庭の花を摘んではならない》
ハートの女王の規律を頭の中で反芻する。今日は水曜日だ。けれど、散った花びらを拾うことは、規律違反にはならないだろうか。
規律の抜け道を探すようなことを考えるなんて、本当にボクはどうしてしまったんだろう。
やっぱりこの薔薇の香りに酔っているんだろうか。どことなく爛れた甘さを伴う後ろめたさを感じならが花びらをそっとポケットにしまって、ボクは今度こそ眠る彼女をしっかりと揺すった。
「監督生、監督生!ほら、もう起きる時間だよ」
「……ん、リドル先輩?……やだっ、私眠っちゃってましたか?!ごめんなさい!」
「全く。ボクの肩を枕にするなんて、いい度胸がおありだね?」
「……す、すみません」
「ふふ、あはは!冗談だよ。キミは本当に表情が忙しい子だね」
まるで怒られた小動物のように分かりやすく慌てて落ち込む彼女が可笑しくて、ボクは思わず声を立てて笑ってしまった。
ボクの声でようやく目覚めたらしいハリネズミが、彼女の膝の上で呑気に伸びをしている。
もう一度スマートフォンを覗く。これからハリネズミを彼らのゲージに戻しても、まだ午後のお茶会の時間には間に合いそうだ。寮長であるボクが、遅刻するのは許されない。
「監督生、これから寮で午後のお茶会をするのだけれどキミも来るかい?彼を見つけてくれたお礼をしなければならないからね」
「お礼なんてそんな……たまたまこの子が飛び込んできただけなんです。でも、お言葉に甘えてお邪魔させてもらいます!」
「ではそろそろ戻ろうか。お前は大人しくしているんだよ」
ハリネズミはボクの言葉にまた後ずさり、彼女の腕に隠れるように身を潜めた。本当に憎たらしい。そんなに怯えるくらいなら、逃げ出さなければいいだけなのに。けれど、彼が逃げなければボクはきっとこの場所に来ることも、そして彼女とこの時間を過ごすこともなかっただろうと思い直して、軽く睨むだけで済ませた。
「先輩、良ければまた、ここで一緒に過ごしてくださいませんか?」
「ああ……そうだね。考えておくよ」
「ありがとうございます!あっ、でも、一人になりたいときはそう仰ってくださいね!」
「分かったよ」
ボクが答えると、彼女は笑って手のひらにハリネズミを乗せながら軽い足取りでボクの前を歩いた。
少しずつ薔薇の香りが薄くなって、背中を丸めて低い茂みを潜り抜けるころ、いつもの見慣れた光景と喧騒が現れる。
騒がしい中庭を彼女と連れ立って歩いていると、トレイとケイトがボクたちのいるところまで走ってくるのが見えた。
「リドル、見つけたのか?」
「ああ、監督生が協力してくれてね。全く、世話係は反省したのかい?」
「リドルくんのお仕置きはばっちり効いてるよ☆きっとまだ探し回ってると思うからけーくんがチャットで見つかったって知らせておくね!」
「ありがとう、ケイト。さあ、急いで寮に戻ってお茶会をするよ。監督生も招待したからね。ハーツラビュルとして恥ずかしくないもてなしを頼んだよ」
「オッケー!監督生ちゃん、お茶会来るの久しぶりじゃない?沢山写真撮ろうねー!」
「はい!楽しみです」
ケイトと監督生が話しながら少し前を歩いて、ボクはトレイと並んでその後ろについた。
そっとポケットに手をいれると、指先にほんのすこし冷たくてすべすべとした花びらの感触が伝わる。グレートセブンの銅像に差し掛かったとき、少しだけ緊張して、少しだけ胸が高鳴った気がした。
「なんだ?リドル、なにか楽しいことでもあったのか?」
「どうして?」
「口角が上がってるぞ」
「ふふ、気のせいだよ。いや……ハリネズミを探し回ったせいで小腹が減っていてね。トレイのケーキを食べれるのが嬉しいよ」
「そうか?今日は薔薇のジャムを使ったケーキなんだ。美味いぞ」
「楽しみだね」
もう一度、ポケットに指を入れて、秘密の欠片の存在を確かめる。
触れると胸に広がる甘くて痺れるような鼓動の理由は分からないけれど。
ケイトの楽しげに話す彼女の白い首筋が眩しい。
監督生。ときにボクがボクらしからぬ行動を取ってしまうのを知っているのはキミだけがいいし、
キミが悪夢にうなされていたら、その夢から目覚めさせるのはボクだけがいい。
この感情の名前を、ボクはまだ知らない。
ただ君と過ごした黄金色の午後が、穏やかで心地の良いものだった。─それだけだよ。
End.
※作中の詩はルイス・キャロル「不思議の国のアリス」の序詩、「鏡の国のアリス」の巻末詩からの引用しています。
※タイトルのゴールデンアフタヌーンは、ルイス・キャロルがアリスのモデルとなったアリス・リデルらリデル姉妹と過ごす時間をそう呼んでいたという逸話からつけました。
バラ/Rose
バラ科
花言葉…愛
地球上でもっとも美しい花とされ花の女王とも呼ばれている。バラの歴史は古く、原種から日々生まれる園芸品種を含め約2万以上の品種が確認されている。
ギリシャの叙情詩人アナクレオンは紀元前6世記に、「バラなる花は恋の花、バラなる花は愛の花、バラなる花は花の女王」と唄い、ローマ人はバラを天井に吊るした下で交わした会話は秘密として守られると約束した。現代でも「Under the Rose」はすなわち秘密、という意味を持つ。
─キミがいる場所、キミがいる時間、キミがこぼす言葉、キミが向ける笑顔。
木漏れ日のようにやわらかくて、まぶしくて。
微睡みのように心地よい。
そう、これは。
All in the golden afternoon。
《黄金色の午後》
5月の昼下り。
微かに初夏の予感をはらんだ陽射しは暑いくらいで、寮服の下の素肌をじっとりと湿らせる。
その感触にボクの苛立ちはまた一つ大きくなる。
「まったく……どうして皆規則を守ることが出来ないんだ。」
今日は午後の授業は一コマだけで、本来ならこの時間は図書室での予習復習にあてる予定だった。
けれど図書室に向かう途中、慌てふためく寮生に呼び止められた。
曰く、またもハリネズミが脱走したと。
青ざめながら責任を擦り付け合うハリネズミの世話係たちの首をはねて、ボクも校内を探し回ってからもう40分は経っている。
けれど小さな彼らはひどく臆病な生き物で、おそらく脱走したもののどこか人の目につかないような場所に潜んでいるのだろう。
捜索は思った以上に難儀だった。
ああもう。このままだと午後のお茶の時間も遅れてしまう。
ハートの女王の規則を破ることを、ボクはボク自身に許せない。
とにかく、一刻も早く見つけ出さなければ。
ボクは校舎の中庭に向かった。校舎内で小さな動物が隠れそうな場所は限られているし、思い付く場所はくまなく探した。もしかしたら木や緑のあるところに身を潜めているかもしれない。
けれど中庭に出て、ボクはその判断が間違いだったと気付かされる。
今日は教員会議があるため、すべての学年が午後の授業が一コマで終わっていたことを失念していた。
5月の昼下り、一番過ごしやすい時間帯だ。中庭は軽い運動をする者、ベンチで談笑する者、緑の地面に直接腰を下ろして軽食を広げている者。たくさんの生徒たちで溢れていた。こんな場所に、小動物がわざわざ逃げ込むわけがない。
ボクは舌打ちでもしたい気分だった。けれど、そんな行儀の悪い行為を人目につく場所で、寮服を着て行うことは許されない。
代わりに小さくため息をついて、居住まいを正す。念のため、庭を一周して探してみよう。
声をかけてくる同級生や寮生たちに会釈で応えながら、庭を歩く。木々の枝や緑の茂みに目を走らせているものの、この騒がしさだ。ハリネズミがここにいる可能性はゼロに等しいだろう。
歩き回った疲労が人いきれと陽射しによって強くなっていく気がした。一瞬、目の前が暗くなって足が軽く縺れる。立ちくらみだろうか。
木の幹に手をついて、視界の点滅が落ち着くのを待つ。幸い、中庭にいる生徒たちはボクの異変に気付いていない。
少しずつ引いていく目眩。ボクはまた一つ、小さなため息を吐く。そしてふと、甘い香りが鼻を擽っていることに気付いた。
ほんの少しだけ緑がかった、植物性の、ふくよかで芳しい甘い香り。どこから漂ってきているのだろう?
まだかすかに点滅を繰り返す視界でゆっくりと周囲を見渡すと、茂みと茂みの間に小さな小道があることに気付いた。
緑の低木の枝葉に覆われているようなその道は、ボクの身長でも身をかがめなければ通れないような狭く小さなもので、甘い香りはどうやらその奥から、そよ風にのって漂ってきているみたいだった。
「こんな道があったなんて、今まで気付かなかったよ」
思わず独り言を呟いてしまったボクに応えるようなタイミングでふわりとそよ風が舞い、甘い香りが強くなる。
香りに誘われているような気がして、ボクはその小さな道を潜った。
一歩踏み出した途端、中庭の喧騒が嘘のように遠くなる。四方を緑の葉に覆われた小道で鳴るのはさやさやとした葉擦れの音と、ボクと同じように小道の奥を目指す蝶や蜜蜂の低い羽音だけ。
枝葉によって弱くなった陽射しはただあたたかく、そよ風が先程まで不快にベタついていた肌を清々しく冷やしていく。
進めば進むほど、甘い香りはより濃くなっていた。
香りがいよいよむせ返るような強さになったとき、唐突に道が開けた。
「……ここは、」
ボクはまた、独り言をもらしてしまう。
その場所は小道と同じく、まるで人の目から隠すように四方が緑の茂みに覆われている。だけれどその空間は沢山の色と、うっとりするような甘い香りで溢れていた。
見渡す限りの薔薇、薔薇、薔薇。
オールドローズ、イングリッシュローズ、ハイブリッドティーローズ、スプレイローズ、クライミングローズ。その品種は多岐にわたって、絡み合った蔦によって出来た、自然の薔薇のアーチが澄み渡った5月の空で楽しげに揺れている。
「驚いた……なんて見事な庭だろう」
一体誰が、なんのために、この秘密のような庭をつくり管理しているのだろう。
さっきまでの喧騒と日常がひどく遠く感じる。
花の世界に迷い込んでしまったのだろうか。なんて非現実的なことを考える。その考えはどういうわけかほんの少し愉快な心地がして、ボクはボク自身に驚いてしまう。花の香りに酔っているのかもしれない。
色とりどりの薔薇を驚愕と共に見回していると、背後で微かになにかの気配を感じた。
ボクが振り向くと同時に、聞き覚えのある小さな声がボクの名前を呼んだ。
「……先輩、リドル先輩」
「その声は……監督生、キミなのかい?」
「しっ……ごめんなさい。もう少し小さな声で。なるべく音を立てないように、こっちまで来てもらえませんか?」
ひときわ芳しいティーローズの茂みの向こうに、どうやら彼女はいるらしい。
オンボロ寮の監督生。ボクがオーバーブロットをしてしまったあの日から、なにかとハーツラビュルと彼女との交流は絶えない。
ボク自身も彼女をお茶会に招待したり、予習復習に付き合ってあげることもあった。
ひょんなことから彼女が女性であると知ってしまってからは、どうも無用心な彼女が気に掛かってつい目で追っては世話を焼いてしまう。
大人しいけれど、どうやら巻き込まれ体質の彼女はいつもボクの常識からは考えられない行動をすることが多いので、何をしても驚かなくはなっていたけれど。この不思議な場所に彼女がいるなんて。やはり彼女は何から何までボクが信じる規範から逸脱している存在らしい。
「一体どうして、こんなところにいるんだい?」
彼女の言葉に従ってなるべく音を立てないよう茂みを抜け、小さな声で問いかけながら向かうと、薔薇の花に囲まれるように設置されたおもちゃのような木製のベンチに彼女は座っていた。
首だけをこちらに向けた彼女は、「先輩の探しもの、見つけたので」といたずらっぽく微笑んで自らの膝の上を指さした。
彼女の制服のスラックスの上で、ハリネズミがボクに向かって威嚇するかのように針を逆立たせている。なんて無礼な態度なんだろう。こっちはお前を探すために足を棒にしていたっていうのに。トランプ兵だったら即刻首をはねるところだ。
「先輩、怒らないで。この子も動揺してるんです」
「自分から逃げ出しておいて随分なことだね。さあ、こっちに来るんだ。お前のためにハーツラビュル寮生の殆どが午後の予定をめちゃくちゃにされているんだよ。お分かりだね?」
「あっ、先輩、待って……!」
ボクが手を伸ばすと、ハリネズミはより一層針を逆立ててじりじりと監督生の膝の上で後ずさる。随分と良い態度じゃないか。
「確かに脱走したことは悪いことですけれど、こんなに沢山人がいるなんて思ってなかったんでしょう。もう少し落ち着かせてあげたら、きっと素直に戻ってくれますよ」
「監督生、彼を甘やかすのは彼のためにならないよ」
「そうかもしれないですけど、今強引に連れて行ってまた途中で脱走したら二度手間でしょう?だから、もう少しだけ時間をあげてください」
「………」
「それにほら、ちょうど一番気持ちいい時間ですよ。リドル先輩も、ほんのちょっとだけ一緒に5月の午後を楽しみましょう?ねっ?」
「けれど……」
そう言って隣り座るよう促す彼女と、未だ威嚇し続けるハリネズミを交互に見て、ボクはこの午後3度目のため息を吐いた。
彼女の言う通り、この状態のハリネズミを無理矢理連れて帰るのは賢い判断ではない。
諦めて、彼女の隣に腰を下ろす。木製のベンチは見た目より座り心地が良くて、歩き回った足の疲労が思いの外大きかったことに気付いた。
「先輩も、この場所知っていたんですね」
「いや、ボクは今たまたま見つけたんだ。キミは以前からここを知っていたのかい?」
「はい。とはいえ私もたまたま見つけたんですけれど。ここ静かでしょう?それに、誰が管理してるかは分からないけれどとっても綺麗で。……一人になりたいときにたまにこっそり来てるんです」
「そう。ハリネズミとボクが邪魔してしまったね」
「いえ、リドル先輩で良かった。先輩なら良いんです、なんて、私の場所じゃないから変な言い方ですけど。いつか先輩には秘密の場所があるんですよって話そうと思っていたから。寮長っていつも、なにかと忙しくて人に囲まれて大変でしょう?きっと先輩にも、一人になりたい時間があるんじゃないかなって思っていて」
「キミ……」
「ここなら一人になれるし、ほら見てください、バラのアーチ。先輩も知っていますか?バラのアーチの意味」
「ああ、Under the Rose.つまり、秘密だね」
「そう、秘密。ここで過ごした時間はここにいた人と花たちだけの秘密になるから、心置きなく過ごせる。…でも私のお節介かなぁなんて考えて中々言い出せなかったんです。だから、探し回っていた先輩やハーツラビュルのみんなには申し訳ないけれど、私はこの子に感謝しなきゃ。この子を探してなければ、先輩がここに来ることはなかったみたいですし」
「そうだね」
「ときに規律違反のナンセンスは、思いがけない贈り物になるのかもしれませんよ?」
「……それは同意できないよ」
「ふふ、そう言うと思いました」
彼女はころころと鈴を転がすような声で笑って、先程より少し落ち着いたハリネズミの背中をそっと撫でた。
その彼女の膝の横に、図書室の蔵書ラベルが貼られた本が一冊置いてある。
「本を読んでいたのかい?」
「そうなんです。今日はね、ルーク先輩が薦めてくださった詩集を。でも、詩集って読み慣れていないし、このお天気でしょう?眠くなってきたなぁというときにこの子がここに飛び込んできたんです」
「詩集か……。そういえばボクもここのところ詩は読んでいないかもしれないな。見ても?」
「もちろん!」
古びた本のページを捲ると、微かに黴びた匂いが立ち昇る。けれどそれはすぐに、薔薇たちの香りに掻き消されて、黄ばんだページに木漏れ日がレースのような模様をつくった。
「All in the golden afternoon
Full leisurely we glide;
For both our oars, with little skill,
By little arms are plied,
While little hands make vain pretence
Our wanderings to guide 」
ボクはページに印刷された詩の一節を読み上げる。詩の朗読は、エレメンタリースクール時代はお母さまの言いつけで毎日のように行っていた。独特のリズムや言い回しが愉快で、新しい詩を読むのが楽しみだったことをふと思い出す。
ミドルスクールに上がってからは詩の朗読は毎日の課題から外され、必要のないものだからと詩集も処分されてしまってがっかりしたことも。
「先輩、朗読お上手ですね?!すごい、聴き惚れちゃいました」
「そうかい……?ただ読み上げているだけだけれど」
「そんなことないです、リズムとかアクセントとか…ただ文字を目で追ってるだけじゃ味わえないような光景が広がっていくみたいでした!すごいですよ!ね、良ければもっと、朗読してくださいませんか?」
「あ、ああ……構わないよ」
「嬉しい!ありがとうございます」
彼女が目を輝かせて喜ぶ姿がなんだかすごく眩しく感じて、ボクは逃げるように目を逸らして承諾してしまった。
落ち着かない気持ちになりながらページをめくって、次の詩を読み上げる。彼女は目を閉じて、ボクの声に耳を澄ましている。
「In a Wonderland they lie,
Dreaming as the days go by,
Dreaming as the summers die:
Ever drifting down the stream ー
Lingering in the golden gleam ー
Life, what is it but a dream? 」
木々の間から差し込む陽射しはとかした蜂蜜のようにやわらかな黄金色をして、涼やかな風が運ぶ香りはどこまでも、夢見るように甘い。
薔薇たちは、まるでボクの声に聴き入っているかのようにたわわな花房をそよ風に揺らして。
ボクの朗読する詩に、花々の合間を行き交う昆虫たちの低い羽音が通奏低音のように重なっている。穏やかな5月の昼下り。こんなに静かな時間を過ごすのはいつぶりだろう。
気付けばボクは、朗読している詩の世界に熱中してしまった。溢れる言葉と、軽快なリズムで描かれる、豊かな世界。久しぶりの感覚に胸が踊るような高揚を感じた。
ふと、視界の端で彼女がうつらうつらと船を漕ぎ始めていることに気付いた。彼女の膝の上のハリネズミに至っては、小さないびきをかいてすっかり眠りこけている。
「仕方のない子だね。監督生、」
肩を軽く叩いても、彼女は形のいい眉を微かに寄せただけで応えない。
ふう、と呆れたため息をはこうとしたつもりだったけれど、出てきたのは我ながら間の抜けた欠伸で、誰も見ている人がいないのは分かっていたけれど慌てて噛み殺した。
睡眠はしっかり取っている。この陽気のせいかもしれない。ボクは重たくなった瞼を、ほんの一瞬だけ閉じた。つもりだった。
「ん……んん…」
「……?」
耳元で聞こえる唸り声。その声の近さに微睡んでいた脳が瞬時に覚醒した。
片肩に重みを感じて見遣ると、彼女が僕の肩に顔を乗せて眠ったまま魘されている。もう一度軽く彼女の細い肩を揺すってみたけれど、目覚める気配はない。ボクはひとまずポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認する。ものの10分ほど、どうやらボクまで眠っていてしまったらしい。うたた寝をしてしまうなんて、ボクらしくない。
「ん…起きて、ユウ……起きるの…よ……」
彼女の眉の皺が深くなって、小さな声で苦しげな寝言をつぶやいた。夢の中で、自分自身に話しかけているのだろうか。その声色があまりにも焦燥していて、あまりにも不安気で、ボクは考える前に彼女の頭を撫でていた。
艷やかな感触。自分の心臓の音がいやにうるさく感じる。しばらく繰り返すと、彼女の寝息が穏やかになってほっとした。
ほんの少しだけ、さっきより温度の下がったそよ風が吹く。鼻をくすぐる、薔薇の香りとは違う淡い石鹸のような香りが、彼女の髪から漂う香りだと気付いて、また心臓の音がうるさくなった。
無防備に眠る彼女の頬と、穏やかな呼吸を漏らす唇は薔薇の蕾のような色をしている。はだけたシャツの胸元はぬけるように白く眩しくて、慌てて目を逸らした。
そんなボクを笑うかのようにさっきより強いそよ風が吹いて、色とりどりの花びらが空を舞う。
ベンチに座るボクたちに、その花びらがゆっくりと降り注いだ。
手のひらを上に向けると、一枚の花びらがひんやりと落ちてくる。その花びらは、彼女の頬と同じ色だった。
《第228条:水曜日に庭の花を摘んではならない》
ハートの女王の規律を頭の中で反芻する。今日は水曜日だ。けれど、散った花びらを拾うことは、規律違反にはならないだろうか。
規律の抜け道を探すようなことを考えるなんて、本当にボクはどうしてしまったんだろう。
やっぱりこの薔薇の香りに酔っているんだろうか。どことなく爛れた甘さを伴う後ろめたさを感じならが花びらをそっとポケットにしまって、ボクは今度こそ眠る彼女をしっかりと揺すった。
「監督生、監督生!ほら、もう起きる時間だよ」
「……ん、リドル先輩?……やだっ、私眠っちゃってましたか?!ごめんなさい!」
「全く。ボクの肩を枕にするなんて、いい度胸がおありだね?」
「……す、すみません」
「ふふ、あはは!冗談だよ。キミは本当に表情が忙しい子だね」
まるで怒られた小動物のように分かりやすく慌てて落ち込む彼女が可笑しくて、ボクは思わず声を立てて笑ってしまった。
ボクの声でようやく目覚めたらしいハリネズミが、彼女の膝の上で呑気に伸びをしている。
もう一度スマートフォンを覗く。これからハリネズミを彼らのゲージに戻しても、まだ午後のお茶会の時間には間に合いそうだ。寮長であるボクが、遅刻するのは許されない。
「監督生、これから寮で午後のお茶会をするのだけれどキミも来るかい?彼を見つけてくれたお礼をしなければならないからね」
「お礼なんてそんな……たまたまこの子が飛び込んできただけなんです。でも、お言葉に甘えてお邪魔させてもらいます!」
「ではそろそろ戻ろうか。お前は大人しくしているんだよ」
ハリネズミはボクの言葉にまた後ずさり、彼女の腕に隠れるように身を潜めた。本当に憎たらしい。そんなに怯えるくらいなら、逃げ出さなければいいだけなのに。けれど、彼が逃げなければボクはきっとこの場所に来ることも、そして彼女とこの時間を過ごすこともなかっただろうと思い直して、軽く睨むだけで済ませた。
「先輩、良ければまた、ここで一緒に過ごしてくださいませんか?」
「ああ……そうだね。考えておくよ」
「ありがとうございます!あっ、でも、一人になりたいときはそう仰ってくださいね!」
「分かったよ」
ボクが答えると、彼女は笑って手のひらにハリネズミを乗せながら軽い足取りでボクの前を歩いた。
少しずつ薔薇の香りが薄くなって、背中を丸めて低い茂みを潜り抜けるころ、いつもの見慣れた光景と喧騒が現れる。
騒がしい中庭を彼女と連れ立って歩いていると、トレイとケイトがボクたちのいるところまで走ってくるのが見えた。
「リドル、見つけたのか?」
「ああ、監督生が協力してくれてね。全く、世話係は反省したのかい?」
「リドルくんのお仕置きはばっちり効いてるよ☆きっとまだ探し回ってると思うからけーくんがチャットで見つかったって知らせておくね!」
「ありがとう、ケイト。さあ、急いで寮に戻ってお茶会をするよ。監督生も招待したからね。ハーツラビュルとして恥ずかしくないもてなしを頼んだよ」
「オッケー!監督生ちゃん、お茶会来るの久しぶりじゃない?沢山写真撮ろうねー!」
「はい!楽しみです」
ケイトと監督生が話しながら少し前を歩いて、ボクはトレイと並んでその後ろについた。
そっとポケットに手をいれると、指先にほんのすこし冷たくてすべすべとした花びらの感触が伝わる。グレートセブンの銅像に差し掛かったとき、少しだけ緊張して、少しだけ胸が高鳴った気がした。
「なんだ?リドル、なにか楽しいことでもあったのか?」
「どうして?」
「口角が上がってるぞ」
「ふふ、気のせいだよ。いや……ハリネズミを探し回ったせいで小腹が減っていてね。トレイのケーキを食べれるのが嬉しいよ」
「そうか?今日は薔薇のジャムを使ったケーキなんだ。美味いぞ」
「楽しみだね」
もう一度、ポケットに指を入れて、秘密の欠片の存在を確かめる。
触れると胸に広がる甘くて痺れるような鼓動の理由は分からないけれど。
ケイトの楽しげに話す彼女の白い首筋が眩しい。
監督生。ときにボクがボクらしからぬ行動を取ってしまうのを知っているのはキミだけがいいし、
キミが悪夢にうなされていたら、その夢から目覚めさせるのはボクだけがいい。
この感情の名前を、ボクはまだ知らない。
ただ君と過ごした黄金色の午後が、穏やかで心地の良いものだった。─それだけだよ。
End.
※作中の詩はルイス・キャロル「不思議の国のアリス」の序詩、「鏡の国のアリス」の巻末詩からの引用しています。
※タイトルのゴールデンアフタヌーンは、ルイス・キャロルがアリスのモデルとなったアリス・リデルらリデル姉妹と過ごす時間をそう呼んでいたという逸話からつけました。