4月/やさしい鳥籠
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
Flower Dictionary
チューリップ/Tulip
ユリ科
花言葉…思いやり
数えきれないほどの品種が誕生し、世界中で最も親しまれている花。
17世紀初頭にはオランダで球根の価格が異常高騰し、球根を求める人々が狂乱を繰り広げ、国内の経済がパニック状態に陥るチューリップバブルが起こっている。
─花の香りに導かれるように、細い小道を辿っていけばその家はある。
緑の蔦の絡んだ外壁、開け放たれた出窓でレースのカーテンが春風に揺れる。
決して広くない敷地の庭には光がこぼれ、花がこぼれ。
ギンガムのクロスが敷かれた、手製のすこしいびつなテーブルセットに焼き立ての菓子を並べた貴女が、甘い香りに誘われた蜜蜂や、おこぼれに預かろうとする野鳥に微笑みながら、やがて僕を歓迎する─
《やさしい鳥籠》
赤、黄色、ピンクに水色、紫。色とりどりの春の花があたたかな陽光を浴び、そよ風に揺れる姿はまるで絵本の中の光景のよう。僕が歩いている道も、小さく砕いた煉瓦でつくられたかわいらしい小道で、こぼれ種から芽を出したのであろう小さなパンジーが敷き詰められた砂利の間から顔を覗かせている。
小春日和。人魚の僕には暑いくらいで、ハンカチで額に浮かんだ汗を拭いた。
やがて、目的地が見えてくる。
一歩近付くごとに花々の香りはより濃くなり、そこに甘く香ばしい香りが混ざって、情緒を知らない腹の虫がぐうと鳴いた。
水栽培のヒヤシンスやムスカリの咲くガラス瓶が飾られた窓辺から、カンカンカンと薬罐が沸騰する音がして、止まる。やがてその窓から、彼女がひょこりと顔を出した。
僕の姿を認めると、まるで咲きこぼれる花のような満面の笑みを浮かべて、
「いらっしゃい先輩。お庭でお茶にしましょ」
今日もいつもの言葉を口にした。
「相変わらず、素晴らしいお庭ですね」
「ありがとうございます。クルーウェル先生のお手伝いのとき、たまに特別な肥料をいただくんです。そのお陰かもしれませんね。あ、お茶は先輩にお願いしても?」
「勿論です」
互いに学び舎を卒業して長い月日が経ったというのに、彼女は今でも僕を先輩と呼ぶ癖が抜けない。指摘すれば慌てて直し、そしてものの5分もすればまた先輩と呼んで。それが可笑しくて笑うと、むくれたり、落ち込んだり、恥ずかしがったり。ころころと変わる表情は、あの頃と同じ。
どうぞ、と僕の好きな焼き菓子を差し出す手の皮膚が乾いていても、黒曜石のような瞳の端にうっすらと皺が刻まれていても、茶葉の缶のラベルに書かれた文字を読むのに眼鏡をかけるようになっていたとしても。
彼女は“監督生さん”だったころからなにも変わらない。眩しくて、食べてしまいたくなるくらいかわいらしくて、時おりはっとするような聡さを覗かせる、僕の初恋の人。
「先輩は本当に変わりませんね。人魚はヒトとは違う歳の取り方をするって分かっていても会うたびにびっくりしちゃう。いつもきれいで、私が恥ずかしくなっちゃいます」
「おや、ユウさんだって変わらずに可愛らしいままですよ」
「そんなに見ないでください!本当に恥ずかしいんですから。先輩、自分の見目の魅力を充分に分かった上でやっているでしょう?もう、意地悪ですね。私なんかより、ね、自慢のお花をたくさん見てください」
彼女が視線を向けた先を僕も追う。
菜の花、プリムローズ、勿忘草、水仙、すみれ、パンジー、ストック、ルピナス、ジギタリス、ポピー。彼女が育てた花々は世界中の色を集めてきたかのように鮮やかに、小さな庭を彩っている。その花々の合間を蝶や蜜蜂が忙しく行き交い、空の高いところで鳥が鳴く。まるで夢のような、おとぎ話のような光景。彼女がつくった、彼女の箱庭。
学び舎を卒業したのち、彼女は後見人である学園長から古びた家を与えられ、時おり学園の手伝いをすることで生計を立てていた。温室の手入れや、図書室の蔵書の整理などの雑務への対価はささやかなもので、彼女はこの古い家で一人慎ましく暮らしていた。
学生時代、『珍しい茶葉を仕入れたので』『ラウンジの新メニューの相談に乗っていただきたくて』『錬金術で綺麗な鉱石をつくれたので』などと適当な理由を並べて彼女の寮を訪れていた僕は、卒業後アズールの下で働くようになってからも、やはりこの家に、同じようにこじつけの言葉ととっておきの茶葉を持って顔を出している。
いつからか、ささやかな賃金でも買える種や球根で庭仕事に励むことに夢中になった彼女は、学生時代と同じように笑顔で僕を迎え、ときには僕も庭仕事を手伝ったりもした。
どうやら彼女はグリーンフィンガーの持ち主だったようで。閑散としていた庭はみるみるうちに色を持ちはじめて、やがて窮屈なダイニングではなく、花に彩られた庭でお茶会をするようになった。
特に予定を決めず、僕が突然訪れることばかりだったけれど、嫌な顔ひとつせずに歓迎してくれる彼女と、このお茶会を何度開いたのか。途中から数えるのをやめた。
つまりそれは、数えるのが億劫になるほどには、長い年数繰り返しているということ。
彼女が作ったお菓子と、僕が淹れた紅茶。そして咲き乱れる四季折々の花に囲まれた、二人だけの穏やかなひととき。
「今年はね、特にチューリップが綺麗に咲いたんです。ほら、あそこ。全部チューリップですよ」
「あれは……見事ですね。こんなに沢山の色や種類のチューリップを見たのは初めてです」
彼女が指差した先には、原種、一重咲き、八重咲き。絵の具をこぼしたように様々な色や絞りのチューリップが今が盛りと咲き誇る一角があった。
真っ直ぐに伸びた茎と緩やかなカーブを描く葉、子房を包むような花びらのシンプルな姿が、素朴で愛らしい。蝶が絶え間なく花々に身を沈め、蜜蜂も忙しなく蜜を運んでいる。
「チューリップって小さい頃はアパートの小さな花壇とか、幼稚園や小学校の鉢植えに当たり前のように咲いていたから、何の変哲もない、ありきたりの花としてしか見ていなかったんです。嫌いじゃないけれど、特別惹かれるわけでもない、そんな花。でも今は大好きだから不思議ですね。小さな頃の記憶の花として、なんとなく見ているとやさしくてあたたかな気持ちになれるというか……」
「なるほど。チューリップは栽培も簡単ですし、小さな鉢植えやマメな手入れができない場所で育てるには最適だったのでしょうね」
「ええ、きっとそうなんでしょうね。色とりどりだけれど、同じ春の花の桜みたいに目立つわけでも、ヒヤシンスやすみれのように良い香りがあるわけでもない。当たり前の日常の風景のひとつとしてしか捉えていなかった。でも大人になったらその当たり前の幸福の記憶がとっても愛おしいんです。今年はね、わざと色んな色の球根を混ぜて植えて、咲くまでのお楽しみにしてみました」
「それは楽しい試みですね。今年の植え付けはぜひお手伝いさせてほしいです」
「ええ、きっと」
彼女はかすかに目を伏せて応えた。彼女はいつも、明確な約束をしない。眉を下げて渋くなった紅茶を飲み下す彼女に、微笑みを向ける。このやり取りも、このお茶会の恒例のこと。
四季ごとに咲く花が変わる庭で、僕たちは同じ会話を繰り返す。甘やかな倦怠も、春の陽射しはあたたかく照らす。
「ところでユウさん。今日も僕と結婚してくださるおつもりはありませんか?」
「……ごめんなさい。できません」
明日の天気を尋ねるような気軽さで僕はお決まりの台詞を重ねた。返ってきた答えもいつもと同じ。心地よささえ感じる、予定調和の会話。
学生時代から、彼女は僕にとって特別だった。それが好奇心なのか探究心なのか恋心なのか判断するのに少し時間がかかったし、彼女を驚かせたり傷付けたりしてしまったこともあったけれど、やがて自分の気持ちに確信を持ってからは僕なりに真摯に彼女に求愛をしてきたつもりだった。
けれど今に至るまで、彼女が僕の望む答えを返してくれたことは一度もない。
曰く、『私はまたいつ、元の世界に突然戻ってしまうか分りません。私の家族は、きっと私が消えてとても悲しかったと思います。私がここでこうやってお茶を飲んだり笑ったりしている、今この瞬間も私を探して、泣いているかもしれない。だから、私はこの世界で特別な人や家族をつくれないんです。もし、突然ここから消えてしまったら。今度はこの世界の家族を泣かせてしまう。私はもう、私のせいで誰かを悲しませたくない』。
彼女の良く言えば意志の強さ、悪く言えば頑固さは充分承知していたし、そんなところもまた僕が彼女に惹かれることとなった素質のひとつで。
それでも、いつか、もしかしたら、なんて思春期の少年のような幼稚な望みを抱えたまま。気付けば歳を重ねていた。
今の僕はまだ得られぬ応えに光を見出すほど純粋ではない。
けれども今更手放すには握りつづけた時間が長すぎたその望みを、結局、こんなふうに8割の諦念と1割の祈念、そして残り1割は僕らへの憐憫を持って、二人の間に放り投げる。
彼女に受け取られず、僕も投げっぱなしにしたこの言葉は宙から地に落ちて、もしかしたらこの庭の肥料になっているのかもしれない。
「……お茶、淹れなおします?渋くなっちゃいましたね」
「では僕が」
「いえ、先輩は座っていてください。私がお湯を沸かして持ってきますから」
立ち上がりかけた僕を制して、彼女は家の中へ小走りに掛けていった。
僕の答えも彼女の返事も、もう挨拶のようなものなのに、それでも都度律儀に動揺する彼女が愛おしい。なんて伝えたら、悪趣味だと言われてしまうかもしれない。
そんなことを考えながらくすり、と笑いをこぼしたときに、薬罐を抱えた彼女が戻ってきた。
僕は熱いそれを受け取って、丁寧に紅茶を淹れなおす。
「それにしても、ユウさんは本当に園芸の才能がありますね」
「才能なんて。ただ日々大切にお世話をしたら、植物たちは応えてくれる。それだけです」
「この庭の植物たちは幸せ者ですね。それに、昆虫たちも、でしょうか」
ひときわ大きな蜜蜂が、チューリップの花びらの中にその身を潜ませたところだった。
この庭は、植物、昆虫にとっては楽園のようなものだろう。
「チューリップ、いったい何個植えたんですか?」
「覚えていないくらい沢山。仲良くしている園芸店の店長さんが、サービスしてださって。お陰でこんなに綺麗になりました。かわいいお花、大好き。でもね、先輩。知ってますか?チューリップって実は少し切ないお花なんですよ」
「切ない?」
「むかし、ある国に美しい少女がいたそうです。その少女を見染めた3人の騎士が、同時に結婚を申し込んだんです。騎士たちは少女に気に入られようとそれぞれ王冠、剣、黄金を差し出しました。戸惑い、そして自分を巡って競い合い、忌み嫌い合う彼らを嘆いた少女は花の女神に頼んで、自分を花に変えてもらった、それがチューリップなんですって。王冠は花びら、剣は葉、黄金は球根を表しているとか。
……色んな人の想いを抱きしめて、憂いて、それでも夢見るように、彼女は咲いているんですね」
まるで貴女のようですね、という言葉を飲み込んで、代わりに紅茶に口をつけた。
きっと彼女も、僕が例え黄金や剣や王冠を差し出したとしても首を縦には振らないだろう。
その昔、とある国ではチューリップの価格が高騰し一つの球根の対価に5ヘクタールの土地が差し出されたこともあるという。球根のために罪に手を染めたり、一夜にして全財産を失うものもいたとか。
人々の狂乱を余所に、チューリップはそんなときも、夢見るように咲いていたのだろう。……彼女もまた。
低い羽音を鳴らして僕の顔の横を飛んでいた蜜蜂がかちん、と海硝子のピアスにぶつかってテーブルクロスの上に落ちた。
蜜蜂はギンガムの上で逡巡したのち、また羽ばたく。春風に乗ったその姿はすぐに遠くなって視界から消えた。
「檸檬はいかがですか?この茶葉には蜂蜜やミルクより、檸檬が合うのですよ」
「いただきます。やっぱりジェイド先輩の淹れた紅茶は、世界で一番美味しいですね」
「恐縮です」
彼女は、僕の往生際の悪い想いをその身に受けながら、この花咲き乱れる庭で夢を見続ける。
彼女のこの庭は、彼女が彼女のために創り出した美しく甘やかな鳥籠だ。
やがて大いなる力によってこの鳥籠から飛び出す日を夢想しながら、彼女は明日も土をいじり水をやり、花の香りと陽光の下でお茶を飲むのだろう。
事実、彼女が元の世界に帰れる可能性は、何年も前にゼロに近いと通告が出されている。諦めろと、大人たちも友人たちも、彼女を想い、そう言っていた。
それでも、望みを捨てない健気な想いを、僕は愚かだとも思う。
いつかを夢見て、一人花を育てて暮らす彼女のいじらしさは、人によっては哀れな狂気に見えるかもしれない。いや、もしかしたら彼女はすでに、すこしずつゆっくりと壊れていっているのかもしれない。
だけれど彼女が見る夢のヴェールを引き裂いて残酷な現実を突きつけようとも思わない。
彼女に対して望みの少ない願いを持ち続ける僕もまた、花の合間を行き交う昆虫たちのように、この鳥籠の中の時間の甘い蜜を貪っているのだから。
「貴女のお菓子も、とても美味しいですよ」
「ラウンジのバイトで、ジェイド先輩が親切に教えてくださったからですよ」
「懐かしいですね」
「ええ、懐かしい。あの日々も、私にとっては愛おしい幸福の記憶です」
そう言って微笑む彼女は、やはりあの頃と少しも変わらない。眩しくて、食べてしまいたくなるくらいかわいらしくて、時おりはっとするような聡さを覗かせる、僕の初恋の人。
彼女は自らのためにしつらえた鳥籠に入り鍵を締めて、少女のままの瞳で奇跡を願う。
僕は、紅茶に沈んだ檸檬のようすこし苦味のある諦念を、思いやりという偽善的なオブラートで包んで飲み込んで。
いつか、を胸に抱く二人で絵本のようなお茶会をする。
春に、夏に、秋に、冬に。花の色と香りに包まれて。
奇跡が起きない限りのうちは。
End.
チューリップ/Tulip
ユリ科
花言葉…思いやり
数えきれないほどの品種が誕生し、世界中で最も親しまれている花。
17世紀初頭にはオランダで球根の価格が異常高騰し、球根を求める人々が狂乱を繰り広げ、国内の経済がパニック状態に陥るチューリップバブルが起こっている。
─花の香りに導かれるように、細い小道を辿っていけばその家はある。
緑の蔦の絡んだ外壁、開け放たれた出窓でレースのカーテンが春風に揺れる。
決して広くない敷地の庭には光がこぼれ、花がこぼれ。
ギンガムのクロスが敷かれた、手製のすこしいびつなテーブルセットに焼き立ての菓子を並べた貴女が、甘い香りに誘われた蜜蜂や、おこぼれに預かろうとする野鳥に微笑みながら、やがて僕を歓迎する─
《やさしい鳥籠》
赤、黄色、ピンクに水色、紫。色とりどりの春の花があたたかな陽光を浴び、そよ風に揺れる姿はまるで絵本の中の光景のよう。僕が歩いている道も、小さく砕いた煉瓦でつくられたかわいらしい小道で、こぼれ種から芽を出したのであろう小さなパンジーが敷き詰められた砂利の間から顔を覗かせている。
小春日和。人魚の僕には暑いくらいで、ハンカチで額に浮かんだ汗を拭いた。
やがて、目的地が見えてくる。
一歩近付くごとに花々の香りはより濃くなり、そこに甘く香ばしい香りが混ざって、情緒を知らない腹の虫がぐうと鳴いた。
水栽培のヒヤシンスやムスカリの咲くガラス瓶が飾られた窓辺から、カンカンカンと薬罐が沸騰する音がして、止まる。やがてその窓から、彼女がひょこりと顔を出した。
僕の姿を認めると、まるで咲きこぼれる花のような満面の笑みを浮かべて、
「いらっしゃい先輩。お庭でお茶にしましょ」
今日もいつもの言葉を口にした。
「相変わらず、素晴らしいお庭ですね」
「ありがとうございます。クルーウェル先生のお手伝いのとき、たまに特別な肥料をいただくんです。そのお陰かもしれませんね。あ、お茶は先輩にお願いしても?」
「勿論です」
互いに学び舎を卒業して長い月日が経ったというのに、彼女は今でも僕を先輩と呼ぶ癖が抜けない。指摘すれば慌てて直し、そしてものの5分もすればまた先輩と呼んで。それが可笑しくて笑うと、むくれたり、落ち込んだり、恥ずかしがったり。ころころと変わる表情は、あの頃と同じ。
どうぞ、と僕の好きな焼き菓子を差し出す手の皮膚が乾いていても、黒曜石のような瞳の端にうっすらと皺が刻まれていても、茶葉の缶のラベルに書かれた文字を読むのに眼鏡をかけるようになっていたとしても。
彼女は“監督生さん”だったころからなにも変わらない。眩しくて、食べてしまいたくなるくらいかわいらしくて、時おりはっとするような聡さを覗かせる、僕の初恋の人。
「先輩は本当に変わりませんね。人魚はヒトとは違う歳の取り方をするって分かっていても会うたびにびっくりしちゃう。いつもきれいで、私が恥ずかしくなっちゃいます」
「おや、ユウさんだって変わらずに可愛らしいままですよ」
「そんなに見ないでください!本当に恥ずかしいんですから。先輩、自分の見目の魅力を充分に分かった上でやっているでしょう?もう、意地悪ですね。私なんかより、ね、自慢のお花をたくさん見てください」
彼女が視線を向けた先を僕も追う。
菜の花、プリムローズ、勿忘草、水仙、すみれ、パンジー、ストック、ルピナス、ジギタリス、ポピー。彼女が育てた花々は世界中の色を集めてきたかのように鮮やかに、小さな庭を彩っている。その花々の合間を蝶や蜜蜂が忙しく行き交い、空の高いところで鳥が鳴く。まるで夢のような、おとぎ話のような光景。彼女がつくった、彼女の箱庭。
学び舎を卒業したのち、彼女は後見人である学園長から古びた家を与えられ、時おり学園の手伝いをすることで生計を立てていた。温室の手入れや、図書室の蔵書の整理などの雑務への対価はささやかなもので、彼女はこの古い家で一人慎ましく暮らしていた。
学生時代、『珍しい茶葉を仕入れたので』『ラウンジの新メニューの相談に乗っていただきたくて』『錬金術で綺麗な鉱石をつくれたので』などと適当な理由を並べて彼女の寮を訪れていた僕は、卒業後アズールの下で働くようになってからも、やはりこの家に、同じようにこじつけの言葉ととっておきの茶葉を持って顔を出している。
いつからか、ささやかな賃金でも買える種や球根で庭仕事に励むことに夢中になった彼女は、学生時代と同じように笑顔で僕を迎え、ときには僕も庭仕事を手伝ったりもした。
どうやら彼女はグリーンフィンガーの持ち主だったようで。閑散としていた庭はみるみるうちに色を持ちはじめて、やがて窮屈なダイニングではなく、花に彩られた庭でお茶会をするようになった。
特に予定を決めず、僕が突然訪れることばかりだったけれど、嫌な顔ひとつせずに歓迎してくれる彼女と、このお茶会を何度開いたのか。途中から数えるのをやめた。
つまりそれは、数えるのが億劫になるほどには、長い年数繰り返しているということ。
彼女が作ったお菓子と、僕が淹れた紅茶。そして咲き乱れる四季折々の花に囲まれた、二人だけの穏やかなひととき。
「今年はね、特にチューリップが綺麗に咲いたんです。ほら、あそこ。全部チューリップですよ」
「あれは……見事ですね。こんなに沢山の色や種類のチューリップを見たのは初めてです」
彼女が指差した先には、原種、一重咲き、八重咲き。絵の具をこぼしたように様々な色や絞りのチューリップが今が盛りと咲き誇る一角があった。
真っ直ぐに伸びた茎と緩やかなカーブを描く葉、子房を包むような花びらのシンプルな姿が、素朴で愛らしい。蝶が絶え間なく花々に身を沈め、蜜蜂も忙しなく蜜を運んでいる。
「チューリップって小さい頃はアパートの小さな花壇とか、幼稚園や小学校の鉢植えに当たり前のように咲いていたから、何の変哲もない、ありきたりの花としてしか見ていなかったんです。嫌いじゃないけれど、特別惹かれるわけでもない、そんな花。でも今は大好きだから不思議ですね。小さな頃の記憶の花として、なんとなく見ているとやさしくてあたたかな気持ちになれるというか……」
「なるほど。チューリップは栽培も簡単ですし、小さな鉢植えやマメな手入れができない場所で育てるには最適だったのでしょうね」
「ええ、きっとそうなんでしょうね。色とりどりだけれど、同じ春の花の桜みたいに目立つわけでも、ヒヤシンスやすみれのように良い香りがあるわけでもない。当たり前の日常の風景のひとつとしてしか捉えていなかった。でも大人になったらその当たり前の幸福の記憶がとっても愛おしいんです。今年はね、わざと色んな色の球根を混ぜて植えて、咲くまでのお楽しみにしてみました」
「それは楽しい試みですね。今年の植え付けはぜひお手伝いさせてほしいです」
「ええ、きっと」
彼女はかすかに目を伏せて応えた。彼女はいつも、明確な約束をしない。眉を下げて渋くなった紅茶を飲み下す彼女に、微笑みを向ける。このやり取りも、このお茶会の恒例のこと。
四季ごとに咲く花が変わる庭で、僕たちは同じ会話を繰り返す。甘やかな倦怠も、春の陽射しはあたたかく照らす。
「ところでユウさん。今日も僕と結婚してくださるおつもりはありませんか?」
「……ごめんなさい。できません」
明日の天気を尋ねるような気軽さで僕はお決まりの台詞を重ねた。返ってきた答えもいつもと同じ。心地よささえ感じる、予定調和の会話。
学生時代から、彼女は僕にとって特別だった。それが好奇心なのか探究心なのか恋心なのか判断するのに少し時間がかかったし、彼女を驚かせたり傷付けたりしてしまったこともあったけれど、やがて自分の気持ちに確信を持ってからは僕なりに真摯に彼女に求愛をしてきたつもりだった。
けれど今に至るまで、彼女が僕の望む答えを返してくれたことは一度もない。
曰く、『私はまたいつ、元の世界に突然戻ってしまうか分りません。私の家族は、きっと私が消えてとても悲しかったと思います。私がここでこうやってお茶を飲んだり笑ったりしている、今この瞬間も私を探して、泣いているかもしれない。だから、私はこの世界で特別な人や家族をつくれないんです。もし、突然ここから消えてしまったら。今度はこの世界の家族を泣かせてしまう。私はもう、私のせいで誰かを悲しませたくない』。
彼女の良く言えば意志の強さ、悪く言えば頑固さは充分承知していたし、そんなところもまた僕が彼女に惹かれることとなった素質のひとつで。
それでも、いつか、もしかしたら、なんて思春期の少年のような幼稚な望みを抱えたまま。気付けば歳を重ねていた。
今の僕はまだ得られぬ応えに光を見出すほど純粋ではない。
けれども今更手放すには握りつづけた時間が長すぎたその望みを、結局、こんなふうに8割の諦念と1割の祈念、そして残り1割は僕らへの憐憫を持って、二人の間に放り投げる。
彼女に受け取られず、僕も投げっぱなしにしたこの言葉は宙から地に落ちて、もしかしたらこの庭の肥料になっているのかもしれない。
「……お茶、淹れなおします?渋くなっちゃいましたね」
「では僕が」
「いえ、先輩は座っていてください。私がお湯を沸かして持ってきますから」
立ち上がりかけた僕を制して、彼女は家の中へ小走りに掛けていった。
僕の答えも彼女の返事も、もう挨拶のようなものなのに、それでも都度律儀に動揺する彼女が愛おしい。なんて伝えたら、悪趣味だと言われてしまうかもしれない。
そんなことを考えながらくすり、と笑いをこぼしたときに、薬罐を抱えた彼女が戻ってきた。
僕は熱いそれを受け取って、丁寧に紅茶を淹れなおす。
「それにしても、ユウさんは本当に園芸の才能がありますね」
「才能なんて。ただ日々大切にお世話をしたら、植物たちは応えてくれる。それだけです」
「この庭の植物たちは幸せ者ですね。それに、昆虫たちも、でしょうか」
ひときわ大きな蜜蜂が、チューリップの花びらの中にその身を潜ませたところだった。
この庭は、植物、昆虫にとっては楽園のようなものだろう。
「チューリップ、いったい何個植えたんですか?」
「覚えていないくらい沢山。仲良くしている園芸店の店長さんが、サービスしてださって。お陰でこんなに綺麗になりました。かわいいお花、大好き。でもね、先輩。知ってますか?チューリップって実は少し切ないお花なんですよ」
「切ない?」
「むかし、ある国に美しい少女がいたそうです。その少女を見染めた3人の騎士が、同時に結婚を申し込んだんです。騎士たちは少女に気に入られようとそれぞれ王冠、剣、黄金を差し出しました。戸惑い、そして自分を巡って競い合い、忌み嫌い合う彼らを嘆いた少女は花の女神に頼んで、自分を花に変えてもらった、それがチューリップなんですって。王冠は花びら、剣は葉、黄金は球根を表しているとか。
……色んな人の想いを抱きしめて、憂いて、それでも夢見るように、彼女は咲いているんですね」
まるで貴女のようですね、という言葉を飲み込んで、代わりに紅茶に口をつけた。
きっと彼女も、僕が例え黄金や剣や王冠を差し出したとしても首を縦には振らないだろう。
その昔、とある国ではチューリップの価格が高騰し一つの球根の対価に5ヘクタールの土地が差し出されたこともあるという。球根のために罪に手を染めたり、一夜にして全財産を失うものもいたとか。
人々の狂乱を余所に、チューリップはそんなときも、夢見るように咲いていたのだろう。……彼女もまた。
低い羽音を鳴らして僕の顔の横を飛んでいた蜜蜂がかちん、と海硝子のピアスにぶつかってテーブルクロスの上に落ちた。
蜜蜂はギンガムの上で逡巡したのち、また羽ばたく。春風に乗ったその姿はすぐに遠くなって視界から消えた。
「檸檬はいかがですか?この茶葉には蜂蜜やミルクより、檸檬が合うのですよ」
「いただきます。やっぱりジェイド先輩の淹れた紅茶は、世界で一番美味しいですね」
「恐縮です」
彼女は、僕の往生際の悪い想いをその身に受けながら、この花咲き乱れる庭で夢を見続ける。
彼女のこの庭は、彼女が彼女のために創り出した美しく甘やかな鳥籠だ。
やがて大いなる力によってこの鳥籠から飛び出す日を夢想しながら、彼女は明日も土をいじり水をやり、花の香りと陽光の下でお茶を飲むのだろう。
事実、彼女が元の世界に帰れる可能性は、何年も前にゼロに近いと通告が出されている。諦めろと、大人たちも友人たちも、彼女を想い、そう言っていた。
それでも、望みを捨てない健気な想いを、僕は愚かだとも思う。
いつかを夢見て、一人花を育てて暮らす彼女のいじらしさは、人によっては哀れな狂気に見えるかもしれない。いや、もしかしたら彼女はすでに、すこしずつゆっくりと壊れていっているのかもしれない。
だけれど彼女が見る夢のヴェールを引き裂いて残酷な現実を突きつけようとも思わない。
彼女に対して望みの少ない願いを持ち続ける僕もまた、花の合間を行き交う昆虫たちのように、この鳥籠の中の時間の甘い蜜を貪っているのだから。
「貴女のお菓子も、とても美味しいですよ」
「ラウンジのバイトで、ジェイド先輩が親切に教えてくださったからですよ」
「懐かしいですね」
「ええ、懐かしい。あの日々も、私にとっては愛おしい幸福の記憶です」
そう言って微笑む彼女は、やはりあの頃と少しも変わらない。眩しくて、食べてしまいたくなるくらいかわいらしくて、時おりはっとするような聡さを覗かせる、僕の初恋の人。
彼女は自らのためにしつらえた鳥籠に入り鍵を締めて、少女のままの瞳で奇跡を願う。
僕は、紅茶に沈んだ檸檬のようすこし苦味のある諦念を、思いやりという偽善的なオブラートで包んで飲み込んで。
いつか、を胸に抱く二人で絵本のようなお茶会をする。
春に、夏に、秋に、冬に。花の色と香りに包まれて。
奇跡が起きない限りのうちは。
End.