3月/ミオソティスの誘い
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Flower Dictionary
忘れな草/forget me not
ムラサキ科
花言葉…私を忘れないで、真実の愛
ある若い騎士が、恋人のためにドナウ川の岸辺に咲く花を取りにいき、川に流されてしまう。最後の力を振り絞って摘みとった美しい花を岸に投げ、恋人に「私を忘れないで」という言葉を残して亡くなったという中世ドイツの伝説から花名がつけられている。
《ミオソティスの誘 い》
「なんだかすこしだけ怖いですね」
恋人がアズールの耳元に口を寄せてささやいた。
春用の薄手のセーターの丸い襟首から出た首の皮膚が冷たい。展示物保護のためか、館内は寒さに強いアズールでも少し肌寒く感じるほど強い空調によって冷やされている。
今日は久しぶりに恋人との逢瀬の日だった。
ここのところ仕事が忙しく、やっと取れた休日を電話口で伝えると、恋人は『行きたいところがあるんです』と言った。それはどこかと尋ねるアズールに彼女はくすくすと楽しげに笑い、結局当日まで目的地は秘密にされたままだった。
駅で落ち合い、バスを2つ乗り継いで辿り着いたのは、灰色のコンクリートでつくられた近代的な外観の、大きな博物館だった。
建物は4階建てで、ワンフロア毎にテーマに沿った品が展示されている。
哺乳類と鳥類の剥製、古めかしい機械式計算機や
天球儀。ひと目では全体像を把握できないほど巨大な恐竜の骨模型、様々な生物の標本にホルマリン漬け。博物館の暗さはどことなく故郷の深海に似ている気がした。
平日の日中の館内は人もまばらで、ひんやりした空気の中を恋人が白いワンピースの裾を翻しながら、ゆったりと歩いている。
潮水に濡れていた貝も、艷やかな毛並みを持つ獣も、花粉と粘液を滴らせる植物も。全てひそやかに乾いていた。ホルマリンの瓶の中ですら、湿度を感じない静けさがある。
哀しみも嘆きも怒りも喜びもない、物体としての死。
博物館の中は、その乾いた、無色の死の気配が常に漂っていた。
その中で恋人の白いワンピースだけが生き生きと、やわらかくアズールの視界の中で揺れる。
「あまり一人で先に行かないで。迷子になりますよ」
「大丈夫ですよ。それに、迷子になっても先輩は見つけてくれるでしょう?」
「そういう問題ではないでしょう」
「ふふ、あ!蝶の標本ですって」
「ほら、言ってるそばから。走らない!」
恋人は手元のパンフレットに書かれた地図を見て、小走りに駆け出し角を曲がった。薄闇の先で、ワンピースの裾が白くはためき、幻のように消える。
アズールは呆れたため息をつきながらも、彼女のはしゃいだ姿に口角が緩んだ。
「まったく。まるで子供じゃないですか」
彼女が消えた角を曲がる。コツ、という靴音の残響がいつまでも残っている気がした。
「ユウさん?」
薄暗く細い通路の両側の壁に、色鮮やかな蝶たちがピンでおされた標本がずらりと並んでいる。
けれどもそこに、恋人の姿はなかった。
その通路は一本道で陰になるような場所はない。この一瞬で通り抜けるには、全速力で走らなければならない程度には長い道だ。
アズールの肌がぞくりと粟立つ。寒さによるものではなく、なにか不可思議な予感によって本能が感じた畏れだった。
小さく彼女の名を呼びながら、細長く暗い通路を進む。
アズールの声も靴音も、確かに響いているはずなのに、計り知れない深い穴に吸い込まれていくようにつめたい静寂が空間を満たしていた。
一歩ずつ足を踏み出すアズールを、乾いた標本たちだけがじっと見下ろしている。
やがて、その通路の終わりが見えた。そこは、行き止まりの壁にぽっかりと穴が空いているかのように、ひそやかで控えめな展示室の入口になっていた。
博物館の最果ての一角。そこだけ忘れられたように、静まり返った薄暗い展示室だった。
メインフロアとは違い、床には何年にも渡って踏み固められたであろう濃紺の絨毯が敷かれていた。そこに小さなガラスケースがほんの僅かな隙間をあけて並んでいる。
あまりにも静かすぎて、靴の下の絨毯から立ち上がる埃が宙を舞う音が聞こえてきそうだった。
この広い博物館の中で、虐げられているかのように小さなスペースなのに、そこは人の手によってしっかりと管理されている痕跡があった。
ガラスは指紋一つなく綺麗に磨かれていたし、ほどよく乾燥した空気は展示物をやわらかく包んでいるようだった。
ふと、背後から恋人の気配がした。
振り返って見たものの、そこにはしん、と深淵のような静寂だけが佇んでいた。
恋人を探さなければと踏み出した足は、けれどもガラスケースへと向かっていく。
─ちょうど指で握る部分に小さな傷がいくつも残っている万年筆。象牙色をした三日月のようなかたちの爪のひと欠片。裏面にアズールの知らない言語で走り書きがしてあるレシート。
赤ん坊が吐き出したミルクの染みのついた小さなスタイ、編みかけのセーターにしっとりと絡みつくように刺さった編み棒、瑪瑙のさざれ石。
展示物に統一性はなく、なぜこんなものがここにと思うようなささいな品物ばかりだった。
メインの展示フロアのように、品物ごとに細かな字で綴られた説明のプレートもない。万年筆やさざれ石の横に、光沢のない羊皮紙がそっと置かれ、そこに人の名前が記されているだけだった。
「一年振りですね」
突然、声をかけられてアズールは顔を上げた。
ほの暗い展示室の片隅に置かれた簡易椅子に、女性が座っていた。そんな場所が、あっただろうか。この人はいつからここにいたのだろうか。なぜ自分はそれに気づかなかったのか。
この展示室に入った数分前のことを思い出そうとしても、記憶はまるで靄のようにアズールの手のひらからすり抜けていく。
「あなたは、」
「私はこの展示室の管理人です」
女性とアズールとの距離はそう離れていないはずなのに、女性の声はどこか遠くの方から聞こえてくるような響きを持っていた。
行儀よく足を揃えて簡易椅子に腰掛けている女性をアズールの瞳は捉えているのに、その印象をきちんとつかむことが難しかった。
顎のあたりで切り揃えられた髪も、黒いワンピースの袖口を飾るレースも、そこから覗いた手首も、瞳に映したからそばから輪郭がぼやけ、たぐり寄せようとしても、音を立てずに空気の中に蒸発していくようだった。
どことなく、恋人に似ていると、思った。
けれども、例えば母に似ていると言われれば似ている気もするし、取引先の受付嬢に似ていると言われれば似ているかもしれない。
そんなふうに、曖昧な既視感と、控えめなのに無視できない存在感がその女性にはあった。
「B-301の陳列ケース。ええ、もちろんそこから動かしておりません。そこが貴方様からお預かりした記憶の品の終の棲家ですから」
「僕が?」
「はい。昨年と、一昨年と、一昨々年と…貴方様が初めてここを訪れたときから変わらずに。細心の注意を払って大切に管理させていただいております。ここは、大切な記憶の展示室ですから。さあ、どうぞ。ごゆっくりご覧になってください」
女性が語りかける言葉の意味をアズールは殆ど理解できなかった。自分はここに来たのは今日が初めてで、もちろん何かの品を預けた覚えもない。
けれども、身体はまるで何年も続けた習慣をなぞるかのように自然に、アズールの意識とは裏腹に確信を持った足取りで一つのガラスケースへと向かっていた。
B-301の陳列ケースも、他のケースと同様に埃や手垢ひとつもなく磨かれたガラスに覆われていた。
その中に、一株の花がそっと横たわっていた。
土にまみれた根は白く澄みとおり、瑞々しい茎と葉の先に、小さな星のような空色の花をつけた植物。
まるでたったいま、土から掘り出してきたかのように褪せることも朽ちることもなく、透明のケースの中で花は眠っている。
アズールは、そっとガラスケースに指を伸ばす。
─花の横に添えられた羊皮紙には《Yu》と書かれていた。
アズールは空色の花を見つめているうちに、乾いた静かなあきらめが、胸にひたひたと滲むのを感じた。海辺でつま先を濡らす海水のようにゆっくりと、染み込んでいくそれは。そう。何度も繰り返してきたものだった。
毎年毎年ここを訪れるたびに。そしてこの花を見るまで身体の奥深くで眠っている記憶を思い出すのも、毎年同じだった。どうして今の今まで忘れていたのだろう、と戸惑うことも。
勿忘草。
彼女が消えたあと、彼女の庭に咲いていた、たった一株の花。
彼女は、この世界に現れたときと同じようにある日突然姿を消した。
さよならも言わずに、忽然と、まるで最初から彼女なんて存在してなかったとでも言うように。
なつかしい学び舎で、恋人としてささやかで穏やかな日々を重ねていた。
彼女の寮を訪ね、宿題を見てやり、紅茶を飲んで共に眠る。寝相の悪い魔獣に蹴飛ばされるのも、いつもと変わらなかった。
けれど目覚めたら、彼女だけが消えていた。
彼女が寝ていたシーツは、まだほのかにあたたかく、鼻を寄せれば彼女の匂いがした。
しばらく学園内は騒然としていた。存在自体がイレギュラーな人物だったとはいえ、生徒一人が行方不明になったのだ。教師陣も慌てふためき、魔法の痕跡や時空の歪みがないか調査がなされた。
けれどもなにも、分からなかった。
彼女は消えた。ただその事実だけが、確実なものとして残されただけ。
アズール自身も、自分の持ちうるすべての知識、人脈をつかって彼女の行方を探したけれど、手がかりらしきものはなにも掴めなかった。
彼女が元の世界へ帰ったのか、それともここに現れたときと同じように、また別の世界へ飛ばされたのか、何もわからない。
人々は彼女の存在を過去形で語り、やがて口にもしなくなる。
人ならざるものがふっと息を吐き、彼女だけを消してしまったかのように。彼女が存在しない世界は、彼女の不在を受け入れて廻りだす。
アズールだけが、その不在の穴を見つめ続けて動けずにいた。
主をなくしたオンボロ寮は、少しずつ色と温度を失っていくようだった。
はじめのうちは、風にそよぐカーテンや、クッションの小さなシワや、窓辺に置かれた硝子瓶に彼女の面影が宿されていた。
けれど時間の経過と共に、彼女の気配は薄れていく。つめたいシーツは、いつからか埃とカビの匂いしかしなくなった。
そんなときに、庭に咲いているこの花を見つけた。
彼女が種を撒いたのだろうか。オンボロ寮の庭の痩せた土壌に、そのたった一株だけが咲いていた。
積み重なった疲労と虚脱感で霞む視界には、その花の色は痛いほど鮮やかだった。
小さな星型の花が寄り添って、まだ冬の名残りを含むつめたい風に揺れている。
すみとおった空のようなそれが、自身の瞳の色と同じだと気付いたとき、アズールはほとんど無意識にスコップを握りその花を根から掘り起こした。
彼女はいつも、アズールの目の色が好きだと、そう言っていた。
手のひらの中で、土はかすかにあたたかく、花株はひんやりとつめたい。鼻を寄せれば、彼女の匂いがした。
「貴方様が最初にこの花をお持ちくださったとき、早急な処理が必要だと判断しました。もう少し遅ければ乾燥が進み、花の変色が始まってしまうところでした」
「どんな魔法が使われているのですか」
「記憶それぞれに適した保存方法があります。どれ一つとして同じものはありません。非常に複雑で繊細な工程をいくつも重ねているので、一口で説明するのは難しいです。人によっては、それを魔法、と呼ぶのかもしれません。けれど私共は魔法と認識しておりません。持ち込まれた大切な記憶たちの住まいを整えているだけです。いつまでも心地良く、眠れるように。」
「ここに品物を預けると、その品物にまつわる記憶がここに来るまで失われるのも魔法ではない、と?」
「記憶の品との距離は持ち主によって様々です。預けたきりもう二度とここを訪れることのない方、毎日通われる方。そして預けることでより記憶が鮮やかに色濃く蘇る方、ええ、貴方様のようにここに来るまでその記憶だけが綺麗に切り抜かれ、頭の中の寝台で眠りに就く…ということも珍しいことではありません。ただ、私共がなにか細工をしているわけではないのです。全て記憶の意志によるもの。記憶自身が、自身と持ち主が望む、一番適正な方法と距離感を取るのです」
「僕の世界では、それを呪いと呼びます」
アズールの言葉に、女性は微笑んだだけだった。
いや正確に微笑んだのを見たわけではない。微かな空気の揺れを通して微笑みの気配を感じた気がした。
再びB-301のケースに向き直る。ガラスケースの中で空色の花はどこまでもみずみずしく、鼻を寄せれば彼女の匂いがしそうだった。
「あなたは……ここにいたんですね。これまでも、これからも。そしていつも今日、あなたが消えてしまったこの日に僕をここまで導く」
教師の授業で、学友たちとの雑談で、はたまた企業の重役たちが集まるパーティでか。誰にどこで聞いたのか覚えていない。
ただ、記憶を保管し展示する博物館がある、という噂を耳にしたとき、アズールは考えるよりも前に動き出していた。
自室で魔法をかけて延命させていた勿忘草を、根についた土ひとつまみも落とさないようにして、この博物館を訪れた。
そして何年も、最終学年に上がって研修にでた年も、彼女と過ごした学び舎を卒業して実業家としての日々を踏み出した年も、新たに展開した事業が軌道に乗った年も。
何年も何年も、眠りに就いた記憶に導かれて、こうしてこの瞬間まで忘れていた彼女に、逢いに来ている。
アズールを取り巻く環境が変わっても、ヒトとは違う速度で、けれども確実に年齢を重ねても、唯一変わらない喪失との再会を繰り返していることを、今年もアズールはこの瞬間に思い出した。
「なんてしたたかで残酷なやさしさでしょう」
彼女の記憶を常に持ち続けていたら、きっとアズールはすべての時間を彼女の捜索に費やしていただろう。
けれど彼女はそれを望まなかった。そして、完全なる忘却も、やはり彼女は望まなかった。
記憶が望むかたちで、持ち主との距離を決めるというのなら、きっとそういうことなのだろう。
だからこうして、然るべきときにだけ、彼女はアズールを呼び戻し、自分との思い出に誘 う。
幻影のような白いワンピースを着た彼女が見せるひとときが、いつから始まっているのか明確には分からない。あの電話でのやり取りのときには既に、この夢を見始めていたということなのだろうか。
「もし僕が、この品を返してほしいと言ったらどうなるのでしょうか?」
「それは、出来かねます。一度手放した記憶は私達の手によって管理はされていますが、貴方様にも私共にも手出しの出来ない領域に存在しているのです」
「そうですか」
ガラスケースの中の勿忘草の空色の花びらに、細くしなやかな茎に、やわらかな産毛がうっすらと生えた葉に、白く透き通った根に、彼女の面影があった。彼女の匂いだけでなく、彼女の声も聞こえてきそうだった。
穏やかで慈しみに満ちたほほえみと、ほんのすこしの憂いが滲む瞳と、すべらかな白い肌が、そこにあった。アズールが忘れている間も、変わらずにずっと、彼女はここにいたのだ。
「……では、また。来年の今日に」
「いつでも、お待ちしております」
アズールはもう一度だけ、ガラスケースに触れて、もと来た道を引き返した。
ほの暗い蝶の標本の通路に差し掛かり振り返ると、先ほどまでいた展示室は消え、入り口があった筈のところには行き止まりの壁がどっしりと構えている。けれど不思議には思わなかった。
人の手によって管理されていながら、なにものにも冒されない展示物の、なにも映さない瞳に見つめられながら出口へと向かう。
この扉を開ければ、蝶の標本の通路のことも、不思議な管理人のことも、そして、勿忘草に宿った彼女の記憶も、自分はまた全てを忘れてしまうのだろう。
それでも構わない。また、この日、ここを訪れるまで。
「それではユウさん、また来年まで……僕を忘れないで」
アズールの体重を感知した自動扉が音もなく開く。
外は、春の始まりのまばゆい陽射しに溢れていた。
End.
忘れな草/forget me not
ムラサキ科
花言葉…私を忘れないで、真実の愛
ある若い騎士が、恋人のためにドナウ川の岸辺に咲く花を取りにいき、川に流されてしまう。最後の力を振り絞って摘みとった美しい花を岸に投げ、恋人に「私を忘れないで」という言葉を残して亡くなったという中世ドイツの伝説から花名がつけられている。
《ミオソティスの
「なんだかすこしだけ怖いですね」
恋人がアズールの耳元に口を寄せてささやいた。
春用の薄手のセーターの丸い襟首から出た首の皮膚が冷たい。展示物保護のためか、館内は寒さに強いアズールでも少し肌寒く感じるほど強い空調によって冷やされている。
今日は久しぶりに恋人との逢瀬の日だった。
ここのところ仕事が忙しく、やっと取れた休日を電話口で伝えると、恋人は『行きたいところがあるんです』と言った。それはどこかと尋ねるアズールに彼女はくすくすと楽しげに笑い、結局当日まで目的地は秘密にされたままだった。
駅で落ち合い、バスを2つ乗り継いで辿り着いたのは、灰色のコンクリートでつくられた近代的な外観の、大きな博物館だった。
建物は4階建てで、ワンフロア毎にテーマに沿った品が展示されている。
哺乳類と鳥類の剥製、古めかしい機械式計算機や
天球儀。ひと目では全体像を把握できないほど巨大な恐竜の骨模型、様々な生物の標本にホルマリン漬け。博物館の暗さはどことなく故郷の深海に似ている気がした。
平日の日中の館内は人もまばらで、ひんやりした空気の中を恋人が白いワンピースの裾を翻しながら、ゆったりと歩いている。
潮水に濡れていた貝も、艷やかな毛並みを持つ獣も、花粉と粘液を滴らせる植物も。全てひそやかに乾いていた。ホルマリンの瓶の中ですら、湿度を感じない静けさがある。
哀しみも嘆きも怒りも喜びもない、物体としての死。
博物館の中は、その乾いた、無色の死の気配が常に漂っていた。
その中で恋人の白いワンピースだけが生き生きと、やわらかくアズールの視界の中で揺れる。
「あまり一人で先に行かないで。迷子になりますよ」
「大丈夫ですよ。それに、迷子になっても先輩は見つけてくれるでしょう?」
「そういう問題ではないでしょう」
「ふふ、あ!蝶の標本ですって」
「ほら、言ってるそばから。走らない!」
恋人は手元のパンフレットに書かれた地図を見て、小走りに駆け出し角を曲がった。薄闇の先で、ワンピースの裾が白くはためき、幻のように消える。
アズールは呆れたため息をつきながらも、彼女のはしゃいだ姿に口角が緩んだ。
「まったく。まるで子供じゃないですか」
彼女が消えた角を曲がる。コツ、という靴音の残響がいつまでも残っている気がした。
「ユウさん?」
薄暗く細い通路の両側の壁に、色鮮やかな蝶たちがピンでおされた標本がずらりと並んでいる。
けれどもそこに、恋人の姿はなかった。
その通路は一本道で陰になるような場所はない。この一瞬で通り抜けるには、全速力で走らなければならない程度には長い道だ。
アズールの肌がぞくりと粟立つ。寒さによるものではなく、なにか不可思議な予感によって本能が感じた畏れだった。
小さく彼女の名を呼びながら、細長く暗い通路を進む。
アズールの声も靴音も、確かに響いているはずなのに、計り知れない深い穴に吸い込まれていくようにつめたい静寂が空間を満たしていた。
一歩ずつ足を踏み出すアズールを、乾いた標本たちだけがじっと見下ろしている。
やがて、その通路の終わりが見えた。そこは、行き止まりの壁にぽっかりと穴が空いているかのように、ひそやかで控えめな展示室の入口になっていた。
博物館の最果ての一角。そこだけ忘れられたように、静まり返った薄暗い展示室だった。
メインフロアとは違い、床には何年にも渡って踏み固められたであろう濃紺の絨毯が敷かれていた。そこに小さなガラスケースがほんの僅かな隙間をあけて並んでいる。
あまりにも静かすぎて、靴の下の絨毯から立ち上がる埃が宙を舞う音が聞こえてきそうだった。
この広い博物館の中で、虐げられているかのように小さなスペースなのに、そこは人の手によってしっかりと管理されている痕跡があった。
ガラスは指紋一つなく綺麗に磨かれていたし、ほどよく乾燥した空気は展示物をやわらかく包んでいるようだった。
ふと、背後から恋人の気配がした。
振り返って見たものの、そこにはしん、と深淵のような静寂だけが佇んでいた。
恋人を探さなければと踏み出した足は、けれどもガラスケースへと向かっていく。
─ちょうど指で握る部分に小さな傷がいくつも残っている万年筆。象牙色をした三日月のようなかたちの爪のひと欠片。裏面にアズールの知らない言語で走り書きがしてあるレシート。
赤ん坊が吐き出したミルクの染みのついた小さなスタイ、編みかけのセーターにしっとりと絡みつくように刺さった編み棒、瑪瑙のさざれ石。
展示物に統一性はなく、なぜこんなものがここにと思うようなささいな品物ばかりだった。
メインの展示フロアのように、品物ごとに細かな字で綴られた説明のプレートもない。万年筆やさざれ石の横に、光沢のない羊皮紙がそっと置かれ、そこに人の名前が記されているだけだった。
「一年振りですね」
突然、声をかけられてアズールは顔を上げた。
ほの暗い展示室の片隅に置かれた簡易椅子に、女性が座っていた。そんな場所が、あっただろうか。この人はいつからここにいたのだろうか。なぜ自分はそれに気づかなかったのか。
この展示室に入った数分前のことを思い出そうとしても、記憶はまるで靄のようにアズールの手のひらからすり抜けていく。
「あなたは、」
「私はこの展示室の管理人です」
女性とアズールとの距離はそう離れていないはずなのに、女性の声はどこか遠くの方から聞こえてくるような響きを持っていた。
行儀よく足を揃えて簡易椅子に腰掛けている女性をアズールの瞳は捉えているのに、その印象をきちんとつかむことが難しかった。
顎のあたりで切り揃えられた髪も、黒いワンピースの袖口を飾るレースも、そこから覗いた手首も、瞳に映したからそばから輪郭がぼやけ、たぐり寄せようとしても、音を立てずに空気の中に蒸発していくようだった。
どことなく、恋人に似ていると、思った。
けれども、例えば母に似ていると言われれば似ている気もするし、取引先の受付嬢に似ていると言われれば似ているかもしれない。
そんなふうに、曖昧な既視感と、控えめなのに無視できない存在感がその女性にはあった。
「B-301の陳列ケース。ええ、もちろんそこから動かしておりません。そこが貴方様からお預かりした記憶の品の終の棲家ですから」
「僕が?」
「はい。昨年と、一昨年と、一昨々年と…貴方様が初めてここを訪れたときから変わらずに。細心の注意を払って大切に管理させていただいております。ここは、大切な記憶の展示室ですから。さあ、どうぞ。ごゆっくりご覧になってください」
女性が語りかける言葉の意味をアズールは殆ど理解できなかった。自分はここに来たのは今日が初めてで、もちろん何かの品を預けた覚えもない。
けれども、身体はまるで何年も続けた習慣をなぞるかのように自然に、アズールの意識とは裏腹に確信を持った足取りで一つのガラスケースへと向かっていた。
B-301の陳列ケースも、他のケースと同様に埃や手垢ひとつもなく磨かれたガラスに覆われていた。
その中に、一株の花がそっと横たわっていた。
土にまみれた根は白く澄みとおり、瑞々しい茎と葉の先に、小さな星のような空色の花をつけた植物。
まるでたったいま、土から掘り出してきたかのように褪せることも朽ちることもなく、透明のケースの中で花は眠っている。
アズールは、そっとガラスケースに指を伸ばす。
─花の横に添えられた羊皮紙には《Yu》と書かれていた。
アズールは空色の花を見つめているうちに、乾いた静かなあきらめが、胸にひたひたと滲むのを感じた。海辺でつま先を濡らす海水のようにゆっくりと、染み込んでいくそれは。そう。何度も繰り返してきたものだった。
毎年毎年ここを訪れるたびに。そしてこの花を見るまで身体の奥深くで眠っている記憶を思い出すのも、毎年同じだった。どうして今の今まで忘れていたのだろう、と戸惑うことも。
勿忘草。
彼女が消えたあと、彼女の庭に咲いていた、たった一株の花。
彼女は、この世界に現れたときと同じようにある日突然姿を消した。
さよならも言わずに、忽然と、まるで最初から彼女なんて存在してなかったとでも言うように。
なつかしい学び舎で、恋人としてささやかで穏やかな日々を重ねていた。
彼女の寮を訪ね、宿題を見てやり、紅茶を飲んで共に眠る。寝相の悪い魔獣に蹴飛ばされるのも、いつもと変わらなかった。
けれど目覚めたら、彼女だけが消えていた。
彼女が寝ていたシーツは、まだほのかにあたたかく、鼻を寄せれば彼女の匂いがした。
しばらく学園内は騒然としていた。存在自体がイレギュラーな人物だったとはいえ、生徒一人が行方不明になったのだ。教師陣も慌てふためき、魔法の痕跡や時空の歪みがないか調査がなされた。
けれどもなにも、分からなかった。
彼女は消えた。ただその事実だけが、確実なものとして残されただけ。
アズール自身も、自分の持ちうるすべての知識、人脈をつかって彼女の行方を探したけれど、手がかりらしきものはなにも掴めなかった。
彼女が元の世界へ帰ったのか、それともここに現れたときと同じように、また別の世界へ飛ばされたのか、何もわからない。
人々は彼女の存在を過去形で語り、やがて口にもしなくなる。
人ならざるものがふっと息を吐き、彼女だけを消してしまったかのように。彼女が存在しない世界は、彼女の不在を受け入れて廻りだす。
アズールだけが、その不在の穴を見つめ続けて動けずにいた。
主をなくしたオンボロ寮は、少しずつ色と温度を失っていくようだった。
はじめのうちは、風にそよぐカーテンや、クッションの小さなシワや、窓辺に置かれた硝子瓶に彼女の面影が宿されていた。
けれど時間の経過と共に、彼女の気配は薄れていく。つめたいシーツは、いつからか埃とカビの匂いしかしなくなった。
そんなときに、庭に咲いているこの花を見つけた。
彼女が種を撒いたのだろうか。オンボロ寮の庭の痩せた土壌に、そのたった一株だけが咲いていた。
積み重なった疲労と虚脱感で霞む視界には、その花の色は痛いほど鮮やかだった。
小さな星型の花が寄り添って、まだ冬の名残りを含むつめたい風に揺れている。
すみとおった空のようなそれが、自身の瞳の色と同じだと気付いたとき、アズールはほとんど無意識にスコップを握りその花を根から掘り起こした。
彼女はいつも、アズールの目の色が好きだと、そう言っていた。
手のひらの中で、土はかすかにあたたかく、花株はひんやりとつめたい。鼻を寄せれば、彼女の匂いがした。
「貴方様が最初にこの花をお持ちくださったとき、早急な処理が必要だと判断しました。もう少し遅ければ乾燥が進み、花の変色が始まってしまうところでした」
「どんな魔法が使われているのですか」
「記憶それぞれに適した保存方法があります。どれ一つとして同じものはありません。非常に複雑で繊細な工程をいくつも重ねているので、一口で説明するのは難しいです。人によっては、それを魔法、と呼ぶのかもしれません。けれど私共は魔法と認識しておりません。持ち込まれた大切な記憶たちの住まいを整えているだけです。いつまでも心地良く、眠れるように。」
「ここに品物を預けると、その品物にまつわる記憶がここに来るまで失われるのも魔法ではない、と?」
「記憶の品との距離は持ち主によって様々です。預けたきりもう二度とここを訪れることのない方、毎日通われる方。そして預けることでより記憶が鮮やかに色濃く蘇る方、ええ、貴方様のようにここに来るまでその記憶だけが綺麗に切り抜かれ、頭の中の寝台で眠りに就く…ということも珍しいことではありません。ただ、私共がなにか細工をしているわけではないのです。全て記憶の意志によるもの。記憶自身が、自身と持ち主が望む、一番適正な方法と距離感を取るのです」
「僕の世界では、それを呪いと呼びます」
アズールの言葉に、女性は微笑んだだけだった。
いや正確に微笑んだのを見たわけではない。微かな空気の揺れを通して微笑みの気配を感じた気がした。
再びB-301のケースに向き直る。ガラスケースの中で空色の花はどこまでもみずみずしく、鼻を寄せれば彼女の匂いがしそうだった。
「あなたは……ここにいたんですね。これまでも、これからも。そしていつも今日、あなたが消えてしまったこの日に僕をここまで導く」
教師の授業で、学友たちとの雑談で、はたまた企業の重役たちが集まるパーティでか。誰にどこで聞いたのか覚えていない。
ただ、記憶を保管し展示する博物館がある、という噂を耳にしたとき、アズールは考えるよりも前に動き出していた。
自室で魔法をかけて延命させていた勿忘草を、根についた土ひとつまみも落とさないようにして、この博物館を訪れた。
そして何年も、最終学年に上がって研修にでた年も、彼女と過ごした学び舎を卒業して実業家としての日々を踏み出した年も、新たに展開した事業が軌道に乗った年も。
何年も何年も、眠りに就いた記憶に導かれて、こうしてこの瞬間まで忘れていた彼女に、逢いに来ている。
アズールを取り巻く環境が変わっても、ヒトとは違う速度で、けれども確実に年齢を重ねても、唯一変わらない喪失との再会を繰り返していることを、今年もアズールはこの瞬間に思い出した。
「なんてしたたかで残酷なやさしさでしょう」
彼女の記憶を常に持ち続けていたら、きっとアズールはすべての時間を彼女の捜索に費やしていただろう。
けれど彼女はそれを望まなかった。そして、完全なる忘却も、やはり彼女は望まなかった。
記憶が望むかたちで、持ち主との距離を決めるというのなら、きっとそういうことなのだろう。
だからこうして、然るべきときにだけ、彼女はアズールを呼び戻し、自分との思い出に
幻影のような白いワンピースを着た彼女が見せるひとときが、いつから始まっているのか明確には分からない。あの電話でのやり取りのときには既に、この夢を見始めていたということなのだろうか。
「もし僕が、この品を返してほしいと言ったらどうなるのでしょうか?」
「それは、出来かねます。一度手放した記憶は私達の手によって管理はされていますが、貴方様にも私共にも手出しの出来ない領域に存在しているのです」
「そうですか」
ガラスケースの中の勿忘草の空色の花びらに、細くしなやかな茎に、やわらかな産毛がうっすらと生えた葉に、白く透き通った根に、彼女の面影があった。彼女の匂いだけでなく、彼女の声も聞こえてきそうだった。
穏やかで慈しみに満ちたほほえみと、ほんのすこしの憂いが滲む瞳と、すべらかな白い肌が、そこにあった。アズールが忘れている間も、変わらずにずっと、彼女はここにいたのだ。
「……では、また。来年の今日に」
「いつでも、お待ちしております」
アズールはもう一度だけ、ガラスケースに触れて、もと来た道を引き返した。
ほの暗い蝶の標本の通路に差し掛かり振り返ると、先ほどまでいた展示室は消え、入り口があった筈のところには行き止まりの壁がどっしりと構えている。けれど不思議には思わなかった。
人の手によって管理されていながら、なにものにも冒されない展示物の、なにも映さない瞳に見つめられながら出口へと向かう。
この扉を開ければ、蝶の標本の通路のことも、不思議な管理人のことも、そして、勿忘草に宿った彼女の記憶も、自分はまた全てを忘れてしまうのだろう。
それでも構わない。また、この日、ここを訪れるまで。
「それではユウさん、また来年まで……僕を忘れないで」
アズールの体重を感知した自動扉が音もなく開く。
外は、春の始まりのまばゆい陽射しに溢れていた。
End.