2月/false modesty
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Flower Dictionary
すみれ/Violet
スミレ科
花言葉‥愛、貞節、謙虚
草地や田畑、堤防、道端などに生える多年草。
古代には下剤等の薬として使われ、近世ではスープ、サラダ、砂糖菓子などの料理にも用いられていた。
花だけでなく葉からも精油が抽出され、どちらも貴重な香料として重宝されている。
《false modesty》
酔いそうになるほど甘く重たい人工香料の香りが、VIPルームのほの青い照明に照らされた空気にみっちりと詰まっているようだった。
吸い込めば気怠くなるほど濃厚なヴァニラと、粉っぽい偽物のすみれの香りは、皮張りのソファに優雅に脚を組んで座ったその人がほんの少し首を傾けたり指先で書類を捲ったりするだけで、むっとむせ返るように匂い立つ。
香りにびっしょりと浸したハンカチを、口に当てられているような密度の香水のにおいに、わたしは思わず眉をしかめてしまった。
そんなわたしにちらりと視線を送ったのはほんの一瞬で、アズール先輩はまたその人に向き合って笑顔を浮かべた。
モストロラウンジのVIPルーム。今日は大きな商談があるそうで、商談相手がこの部屋を貸し切っていた。わたしは運んできた華奢なシャンパングラスをテーブルに置いた。ぱちぱちと弾ける泡が、あおく光る。こんな香りの中で飲んだら、せっかくの上質なシャンパンも人工的なすみれの味に変わってしまいそうだ。
シンプルな黒いスーツに身を包んだその人の、タイトスカートから覗いた足首はつくりものみたいに白かった。
「あら、かわいいお嬢さんね。ありがとう」
歌うような口調でそう言って、ゴールドに染まった爪のついた指をグラスの伸ばす。その人は薄く色づいたシャンパン越しに片眉を上げて、わたしを頭のてっぺんからつま先まで眺めてくすりと小さな笑いを漏らした。
そして細い喉をゆっくりと隆起させてシャンパンを飲みくだすと、向かいに座ったアズール先輩の手に自分の手のひらを重ねた。
「あなたにとっても悪い話じゃないはずよ。お楽しみは好きでしょう?」
「ふふ、どうでしょうか」
アズール先輩は軽く口角を上げて微笑み、ごく自然にその人の手のひらから手袋に包まれた指を抜いた。
どんな商談なのかは分からないけれど、声色がまとう湿り気からこの女性が言外に滲ませたもう一つの取引の内容はなんとなく察することができる。それに、この手のやり取りを耳にするのは今日が初めてではなかった。
まだ年若い学生だから。珍しい人魚だから。美しい見目だから。
それは強みになることもあるけれど、相手によっては途端に侮り、さも甘い餌を与えてやろうとでも言うかのように“大人”の取引を持ちかけるようだった。そんな相手は後々、海の魔女の慈悲を継ぐ彼によって、侮蔑したぶんだけの対価を支払わされるのだけれど。
わたしは一礼して、出口へ向かった。ラウンジの閉店時間が迫っている。
どうやらまだこの商談はまとまらなそうだけれど、ホールの方は会計や後片付けをして閉店作業に入らなければいけない。
ノブに手をかけたとき、アズール先輩に名前を呼ばれた。振り返ったらいつの間にか先輩が席を立って私のすぐ後ろにいて、分厚い書類の束を手渡された。
「すみませんが、これをジェイドに渡しておいてください」
「分かりました。では失礼します」
「ええ、よろしくお願いしますね」
アズール先輩は表向きの笑顔のままそう言って、すぐに踵を返す。
わたしはVIPルームの扉が閉じると同時に大きく息を吸い込んだ。
ひんやりとした、新鮮で透明な空気を思い切り取り込む。鼻梁の奥深くまで、すみれの香水の粒子がこびりついている気がする。どこからともなく忍び込む冬の夜のつめたさを含んだラウンジの廊下の空気を吸って、吐いて、それを何度か繰り返してやっと身体が軽くなった。
ホールに向かって歩き出そうとしたとき。ふと、手元の書類に端正な文字で走り書きがあることに気付いた。インクの色は、艶めかしさを感じるほど鮮やかなすみれ色。
《どうやら少し、長引きそうです。これをジェイドに渡したらもう上がって。先に僕の部屋で休んでいてください。鍵は持っていますね?なるべく早く済ませます》
その字をそっと指先で撫でると、すみれ色がゆらゆらと揺れて、ゆっくりとノーブルなブルーブラックに変化した。
インクの香りがかすかに立ち上って、そして瞬きの間に文字ごと消える。文字があった場所には魔力の残滓が光の粒となってしばらくちらちらときらめいて、やがてそれも消えた。書類は何ごともなかったようにわたしの手の中で大人しくたたまれている。あの商談相手への、心の内の軽蔑を表すような皮肉の効いた魔法にわたしは思わず笑ってしまいながら、閉店間際の賑やかなホールに向かった。
***
閉じた瞼のむこう側で、ささやかな衣擦れの音と空気が動く気配がする。
あたたかなまどろみ。心地よくやわらかい眠りの重みがゆっくりと引いていくのを感じながら、瞼をそっと上げるとスカイブルーの瞳に覗き込まれた。
「起こしてしまいましたね」
「いいえ、起きて待ってるつもりだったのにいつの間にか眠っちゃいました。商談、お疲れ様です。首尾は?」
「上々です。少々手こずりましたけれど、こちらが握っている相手方の裏稼業について突付いてからは面白いくらいスムーズに進みましたよ」
「ふふ、わるい人」
「人聞きの悪い。正攻法です」
わたしの言葉に勝ち気な表情で答えたアズール先輩と見つめ合って、どちらともなくぷっと吹き出す。先輩は首元の釦を外しながら、私の横に倒れ込んだ。彼の体重を受け止めたシーツが乾いた音をあげて、小さな風が起きる。
その風にのって、ベッドサイドから植物性のあわい緑を含んだ甘い香りが立ちのぼった。
アズール先輩の瞳が、硝子コップに挿した小さなすみれの花束をみとめた。
紫色の花びらが艶々と、細いけれどしなやかな緑の茎に支えられて、夜の中でゆれている。
「これは?」
「ここに来る途中サムさんに呼び止められて。売れ残ったからって渡してくれたんです」
「本物のすみれの匂いですね」
「ええ、本物のすみれ」
天然のすみれの香りは、控えめににおう。けれど決して無視することができないような、はっとするほど凛とした輪郭をもった香りで、素朴な甘さと清々しい青さがからみ合いながら、ふうわりと風に舞う花びらのように漂う。
科学香料では決して出せない、繊細な香り。
この香りに包まれて眠ったら、きっと紫に烟る、やわらかな夢が見れるだろうなんて考えていたら、アズール先輩の指がわたしの頬をなぞった。
「不快な思いをさせてしまってすみません」
「え?」
「あの女性、あなたに明らかな悪意を向けていたでしょう」
「ああ……」
眼鏡のレンズがシェードランプのあわい光を拾って反射して、彼の瞳の表情が見えない。けれど、頬を撫でる指先はうっとりするくらいやさしかった。
「わたしが不快だったのは、あの人がアズール先輩を対等な商談相手じゃなくてアズール先輩も商品として見ていたこと。しかも、オプションとして。先輩の力を見くびっていることに腹が経ったんです」
わたしが言うと、先輩は一瞬驚いたように小さく目を見開いて。そして声を上げて笑った。さも愉快そうに。
「あなたって人は。……全く、あなたには敵いませんね」
先輩はわたしを胸に閉じ込めて、わたしの髪に顔をうずめた。
隙間なく密着した身体をとおして、先輩の鼓動や、呼吸や、体温がわたしの中に入ってくる。互いの境界線が分からなくなる。その感覚はいつも心地よかった。頭の上で、小さなため息がひとつ、吐き出される。
「……ところで。まったく妬かなかなったんですか?すこしも?」
「あら、がっかりさせちゃいました?」
「……わるい人だな」
「お互いさま」
「このすみれも、当てつけかと思ったのですが」
「ふふ、違いますよ。ほんとの偶然」
わたしを閉じ込める腕の中で身を捩って見上げれば、アズール先輩は少しだけ頬を染めて、むっつりといじけたみたいな表情で目を逸らした。
それがたまらなく愛おしくて、冴えわたった月明かりのような色をした髪をあやすように撫でてみる。小さな声で「やめてください」なんて言いながらも、先輩は止めなかった。
「ね、先輩。切り花のすみれの香りは、保ってもひと晩なんですって。だから、」
─このにおいが、あなたの身体に染み込むまで。
口には出さなかった言葉を、アズール先輩はきちんと正確に受け止めてくれた。
彼の唇が降ってくる。少しずつ温度が高くなる吐息がぴったりと寄せ合った身体の僅かな隙間を埋めていく。
小さな音をたてて、わたしの肩からガウンが落とされた。外気に晒されて粟立っだ肌を彼の指が、唇が、滑っていく。
すみれの香りは、わたしたちのあたためられた体温と一緒に深くなる。
わたしたちのひと晩は、まだ始まったばかり。
End.
すみれ/Violet
スミレ科
花言葉‥愛、貞節、謙虚
草地や田畑、堤防、道端などに生える多年草。
古代には下剤等の薬として使われ、近世ではスープ、サラダ、砂糖菓子などの料理にも用いられていた。
花だけでなく葉からも精油が抽出され、どちらも貴重な香料として重宝されている。
《false modesty》
酔いそうになるほど甘く重たい人工香料の香りが、VIPルームのほの青い照明に照らされた空気にみっちりと詰まっているようだった。
吸い込めば気怠くなるほど濃厚なヴァニラと、粉っぽい偽物のすみれの香りは、皮張りのソファに優雅に脚を組んで座ったその人がほんの少し首を傾けたり指先で書類を捲ったりするだけで、むっとむせ返るように匂い立つ。
香りにびっしょりと浸したハンカチを、口に当てられているような密度の香水のにおいに、わたしは思わず眉をしかめてしまった。
そんなわたしにちらりと視線を送ったのはほんの一瞬で、アズール先輩はまたその人に向き合って笑顔を浮かべた。
モストロラウンジのVIPルーム。今日は大きな商談があるそうで、商談相手がこの部屋を貸し切っていた。わたしは運んできた華奢なシャンパングラスをテーブルに置いた。ぱちぱちと弾ける泡が、あおく光る。こんな香りの中で飲んだら、せっかくの上質なシャンパンも人工的なすみれの味に変わってしまいそうだ。
シンプルな黒いスーツに身を包んだその人の、タイトスカートから覗いた足首はつくりものみたいに白かった。
「あら、かわいいお嬢さんね。ありがとう」
歌うような口調でそう言って、ゴールドに染まった爪のついた指をグラスの伸ばす。その人は薄く色づいたシャンパン越しに片眉を上げて、わたしを頭のてっぺんからつま先まで眺めてくすりと小さな笑いを漏らした。
そして細い喉をゆっくりと隆起させてシャンパンを飲みくだすと、向かいに座ったアズール先輩の手に自分の手のひらを重ねた。
「あなたにとっても悪い話じゃないはずよ。お楽しみは好きでしょう?」
「ふふ、どうでしょうか」
アズール先輩は軽く口角を上げて微笑み、ごく自然にその人の手のひらから手袋に包まれた指を抜いた。
どんな商談なのかは分からないけれど、声色がまとう湿り気からこの女性が言外に滲ませたもう一つの取引の内容はなんとなく察することができる。それに、この手のやり取りを耳にするのは今日が初めてではなかった。
まだ年若い学生だから。珍しい人魚だから。美しい見目だから。
それは強みになることもあるけれど、相手によっては途端に侮り、さも甘い餌を与えてやろうとでも言うかのように“大人”の取引を持ちかけるようだった。そんな相手は後々、海の魔女の慈悲を継ぐ彼によって、侮蔑したぶんだけの対価を支払わされるのだけれど。
わたしは一礼して、出口へ向かった。ラウンジの閉店時間が迫っている。
どうやらまだこの商談はまとまらなそうだけれど、ホールの方は会計や後片付けをして閉店作業に入らなければいけない。
ノブに手をかけたとき、アズール先輩に名前を呼ばれた。振り返ったらいつの間にか先輩が席を立って私のすぐ後ろにいて、分厚い書類の束を手渡された。
「すみませんが、これをジェイドに渡しておいてください」
「分かりました。では失礼します」
「ええ、よろしくお願いしますね」
アズール先輩は表向きの笑顔のままそう言って、すぐに踵を返す。
わたしはVIPルームの扉が閉じると同時に大きく息を吸い込んだ。
ひんやりとした、新鮮で透明な空気を思い切り取り込む。鼻梁の奥深くまで、すみれの香水の粒子がこびりついている気がする。どこからともなく忍び込む冬の夜のつめたさを含んだラウンジの廊下の空気を吸って、吐いて、それを何度か繰り返してやっと身体が軽くなった。
ホールに向かって歩き出そうとしたとき。ふと、手元の書類に端正な文字で走り書きがあることに気付いた。インクの色は、艶めかしさを感じるほど鮮やかなすみれ色。
《どうやら少し、長引きそうです。これをジェイドに渡したらもう上がって。先に僕の部屋で休んでいてください。鍵は持っていますね?なるべく早く済ませます》
その字をそっと指先で撫でると、すみれ色がゆらゆらと揺れて、ゆっくりとノーブルなブルーブラックに変化した。
インクの香りがかすかに立ち上って、そして瞬きの間に文字ごと消える。文字があった場所には魔力の残滓が光の粒となってしばらくちらちらときらめいて、やがてそれも消えた。書類は何ごともなかったようにわたしの手の中で大人しくたたまれている。あの商談相手への、心の内の軽蔑を表すような皮肉の効いた魔法にわたしは思わず笑ってしまいながら、閉店間際の賑やかなホールに向かった。
***
閉じた瞼のむこう側で、ささやかな衣擦れの音と空気が動く気配がする。
あたたかなまどろみ。心地よくやわらかい眠りの重みがゆっくりと引いていくのを感じながら、瞼をそっと上げるとスカイブルーの瞳に覗き込まれた。
「起こしてしまいましたね」
「いいえ、起きて待ってるつもりだったのにいつの間にか眠っちゃいました。商談、お疲れ様です。首尾は?」
「上々です。少々手こずりましたけれど、こちらが握っている相手方の裏稼業について突付いてからは面白いくらいスムーズに進みましたよ」
「ふふ、わるい人」
「人聞きの悪い。正攻法です」
わたしの言葉に勝ち気な表情で答えたアズール先輩と見つめ合って、どちらともなくぷっと吹き出す。先輩は首元の釦を外しながら、私の横に倒れ込んだ。彼の体重を受け止めたシーツが乾いた音をあげて、小さな風が起きる。
その風にのって、ベッドサイドから植物性のあわい緑を含んだ甘い香りが立ちのぼった。
アズール先輩の瞳が、硝子コップに挿した小さなすみれの花束をみとめた。
紫色の花びらが艶々と、細いけれどしなやかな緑の茎に支えられて、夜の中でゆれている。
「これは?」
「ここに来る途中サムさんに呼び止められて。売れ残ったからって渡してくれたんです」
「本物のすみれの匂いですね」
「ええ、本物のすみれ」
天然のすみれの香りは、控えめににおう。けれど決して無視することができないような、はっとするほど凛とした輪郭をもった香りで、素朴な甘さと清々しい青さがからみ合いながら、ふうわりと風に舞う花びらのように漂う。
科学香料では決して出せない、繊細な香り。
この香りに包まれて眠ったら、きっと紫に烟る、やわらかな夢が見れるだろうなんて考えていたら、アズール先輩の指がわたしの頬をなぞった。
「不快な思いをさせてしまってすみません」
「え?」
「あの女性、あなたに明らかな悪意を向けていたでしょう」
「ああ……」
眼鏡のレンズがシェードランプのあわい光を拾って反射して、彼の瞳の表情が見えない。けれど、頬を撫でる指先はうっとりするくらいやさしかった。
「わたしが不快だったのは、あの人がアズール先輩を対等な商談相手じゃなくてアズール先輩も商品として見ていたこと。しかも、オプションとして。先輩の力を見くびっていることに腹が経ったんです」
わたしが言うと、先輩は一瞬驚いたように小さく目を見開いて。そして声を上げて笑った。さも愉快そうに。
「あなたって人は。……全く、あなたには敵いませんね」
先輩はわたしを胸に閉じ込めて、わたしの髪に顔をうずめた。
隙間なく密着した身体をとおして、先輩の鼓動や、呼吸や、体温がわたしの中に入ってくる。互いの境界線が分からなくなる。その感覚はいつも心地よかった。頭の上で、小さなため息がひとつ、吐き出される。
「……ところで。まったく妬かなかなったんですか?すこしも?」
「あら、がっかりさせちゃいました?」
「……わるい人だな」
「お互いさま」
「このすみれも、当てつけかと思ったのですが」
「ふふ、違いますよ。ほんとの偶然」
わたしを閉じ込める腕の中で身を捩って見上げれば、アズール先輩は少しだけ頬を染めて、むっつりといじけたみたいな表情で目を逸らした。
それがたまらなく愛おしくて、冴えわたった月明かりのような色をした髪をあやすように撫でてみる。小さな声で「やめてください」なんて言いながらも、先輩は止めなかった。
「ね、先輩。切り花のすみれの香りは、保ってもひと晩なんですって。だから、」
─このにおいが、あなたの身体に染み込むまで。
口には出さなかった言葉を、アズール先輩はきちんと正確に受け止めてくれた。
彼の唇が降ってくる。少しずつ温度が高くなる吐息がぴったりと寄せ合った身体の僅かな隙間を埋めていく。
小さな音をたてて、わたしの肩からガウンが落とされた。外気に晒されて粟立っだ肌を彼の指が、唇が、滑っていく。
すみれの香りは、わたしたちのあたためられた体温と一緒に深くなる。
わたしたちのひと晩は、まだ始まったばかり。
End.