1月/白のソリテュード
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Flower Dictionary
エリカErica/別名ヒース
ツツジ科
花言葉:孤独、寂しさ
農耕に向かない痩せた荒地でも咲く、耐寒性のある花。つぼ型や釣鐘型の小さな花が咲く。
ヨーロッパでは白いヒースの花を見つけると、幸せになれるという伝説がある。
《白のソリテュード》
冬の森は静かだ。まるで礼拝を終えた聖堂のようにひっそりと、耳鳴りがするくらいの静寂が森のすべてを呑んでいる。
雪に覆われた地面は足跡一つついていない。すべての生き物が、雪の中で眠りついているような静けさ。まっさらな地面に足を踏み出せば、きゅっと小さな悲鳴のような音が鳴る。
眠れる白い森の侵入者。ブーツの形についた足跡は、なんだかひどく場違いなものに見える。
ユウは自分がつけた足跡をしばらく見つめて、そしてまた歩き出した。
─ざくざく、きゅ、ざくざく。
ユウの足音が、静寂を乱す。粉雪が舞う中、寒気にさらされた耳は痛み、冷たい空気に肺があえぐ。それでもユウは森を歩き続けた。
時おり、自分の心の中にもこの静寂の雪が降ることがある。
いつも突然はじまって、しんしんと心のなかで密度を増していく冷たくて白い静寂をただ成すすべもなく見つめてやり過ごすしかできない。
漠然とした、空しさ。寂しさ。あきらめ。それがふわふわと心の中を舞い、積もり、やがてぎゅっと固まって、身動きが取れなくなってしまう。
今日も、オンボロ寮の窓から白い森を眺めていたらそれが始まった。
まるで窓の外の雪と共鳴したかのように降り始めた心の中の雪片に苛立ちにも似た気持ちが湧き上がって。ユウはコートを羽織って森へ向かったのだった。
ユウのすべてを呑み込むような静寂を、少しでも乱したくて。わざと足音を立てて真白の地面を踏みつける。
森の中心、すこし小高い丘のようになっている場所で、漸くユウは立ち止まった。
踏みつけた雪が透明の水になって、ブーツの中のタイツに包まれたつま先を濡らしている。黒いコートのいたるところにその繊細な模様が見えるほど大きな雪片が舞い降りて、そしてとける。
ユウが立ち止まれば、森は再び息をひそめて。静寂の中で歓迎されざる侵入者をじっと見つめているようだった。
雪はますます勢いを増し、降りしきる。立ち尽くすユウの髪にも、肩にも、ブーツにも、瞬く間に白い膜が積もっていく。
雪に溺れるのは、どんな心地がするのだろう。
この森のように、ただただ白に呑み込まれてしまったら身体を流れる血液すら雪解け水のように透明になるのだろうか。
それはなんだか、自分に相応しいような気がした。
監督生、或いはユウと呼ばれて、応える。授業に出て、時たま巻き込まれるトラブルや押し付けられる雑務をこなす。友人と呼んでくれる人もいる。幸運なことに、恋人と呼び合う相手だっている。
そうやって、この異世界に自分は存在しているけれど。ふと、自分というものがなんなのか、分からなくなる瞬間がある。そういうときに、心の中に雪が降る。
なぜこの世界で目覚めたのか、なぜ帰れないのか。なぜ、どうして、なんのために。
『この者のあるべき場所は、この世界のどこにもない』闇の鏡はそう言った。
確かに存在しているこの世界に、お前のあるべき場所でないと言われてしまったら。自分はもしかしたら元の世界からも見捨てられたのではないか。そしてたどり着いたこの場所からもやがて透明な雪解け水のようにこぼれ落ちて。誰もユウという心許ない存在を思い出さない。
だったらいっそ。このままこの森で、雪に窒息してしまえたら幸せなのに。今ならまだ、偲んでくれる誰かがいるはずだから。
そんなことを考えながらも、ユウは自分が運命の手綱を取ることなくただ成されるままに漂い生き続けるであろうことも分かっていた。
「だれか私を見つけて」
つぶやいた声は、つめたく研ぎ澄まされた静寂に浮かんで消える。雪の真綿が喉にまで積もってしまったかのような、心許ない声だった。
漠然とした孤独の発作はいつものこと。ゆるやかに滲んて面積をひろげていく諦観は、やがて騒がしい日常の中でまた鳴りを潜めるだろう。
雪に埋もれたユウの心を、知る人はいない。
小さくため息をついて、ユウは肩に積もった雪を払った。乾いた音を鳴らして叩けば、白い妖精は色をなくしてコートに吸い込まれていく。
ふと、蜂蜜のような甘さを含む香りがユウの鼻孔を擽った。土も草も雪に埋もれた森に、かすかに漂う植物の香り。ユウはそれがどこから香ってくるのかと当たりを見回して、そして見つけた。
丘を頂きにひときわ太く大きな巨木が立っている。その高い高い枝先に、どうして今の今まで気付かなかったのか不思議なほど、小さな釣鐘型の花房がこぼれんばかりの薄紅色を雪空に浮かべていた。
冷たい風をもろともせず、たわわに咲き誇る花たち。白い幻影のような森の中で、それだけが確かな色を持ち、存在していた。
「ヒース?」
その花は、錬金術の授業で見覚えがあった。
寒さに強く、荒れ果てた地でも咲く強い花であること。このカレッジの敷地内にも存在していること。鞭を打ち鳴らしながら教室を闊歩する教師の声に急き立てられるようにノートに書き写した記憶が蘇る。
ヒースの花は、頑丈な幹に支えられて豊かに花開き、緑がかった甘やかな香りを静寂と白の世界に漂わせていた。降りしきる雪にひるむことなく、冬の眠りに入った森で木肌をくすぐる小動物や鳥がいなくても、見事な花を見上げる人がいなくても。ただそこに存在して、のびやかに蕾をひらいていく。
「あなたは強くて、いいね」
どんな場所にいようとも、こんなふうに確信を持って咲き匂う強さが自分にもあったら。誰かが見つけてくれるかもしれないのに。ユウがいま、この白い世界でヒースを見つけたように。
冷たい空気に混ざるその香りを胸に吸い込むと、
心の中に降りしきる雪がほんの少しだけ弱まった気がした。
****
薬罐で沸かしたお湯を張った盥に、あおじろくこわばった指先を浸す。
冷え切って感覚をなくした肌が徐々に赤みを取り戻し、じんわりとひろがるあたたかな温度を確かめるように、ユウは盥の中で手を握った。
傘もささずに雪の森を歩き回って、身体中が芯から凍えている。寮に戻ると課題をしていた筈のグリムは暖炉の前で眠っていて、パチパチと薪がはぜる音に小さな寝息が重なっていた。
ほぐれた指先で再び薬罐を火にかけて、マグカップにティーバックを投げる。
しゅんしゅんと湯気を上げる薬罐を見つめながら、ほとんど無意識に大きなため息が口から漏れた。
「これ、幸せが逃げるぞ」
「……!!」
耳元で聞こえた声に、ユウは文字通り飛び上がった。振り向けば、愛らしい少女のような大きな瞳を楽しげに細めて小首をかしげる恋人が、両手を腰に当てて立っている。ユウの驚いた顔に満足したようで、薄い唇を豪快に開けて鋭い犬歯を覗かせながら、その人はひとしきり笑い声をあげた。
「リリア先輩、どうして……」
「恋人を訪ねるのに理由が必要か?」
「いえ…でも、突然だと驚きますよ」
「くふふ、わしは人を驚かせるのが趣味のひとつでのう。さて、これもサプラーイズ!じゃ」
リリアが細く骨っぽい指をパチンと鳴らした。
すると白い靄がその指先を覆い、もくもくと立ち昇ってなにかを形作る。
ユウがひとつ瞬きをすると、その靄は消えて変わりに白く香る花の束がリリアの手のひらに握られていた。
「さっきまでコウモリどもと空の散歩をしていてのう。雪の日の散歩は愉快じゃ。雪片の妖精が自分の担当の雪の模様を次々と自慢しに来るので退屈しないしの。っと、話が逸れてしもうた。散歩の途中、ここの裏手の森の上を通ったのじゃ。この森の見事なヒースの木、お主は知っておるか?」
ユウはリリアに握られた白い花を見つめたまま、黙って頷いて応えた。
「その花に誘われるようにわしは下降した。すると、ヒースの巨木の根元にまた別のヒースの若木があることに気付いたんじゃ。よく目を凝らしてみれば、雪に埋もれるようにして花をつけている。珍しい、白いヒースじゃった。
巨木と雪に囲まれてながらも歯を食いしばるように立って、懸命に花を咲かせている姿がなんだかお主を思い出させてのう。少しばかり、持ち帰ってきてしまったというわけじゃ」
ほれ、と目の前に差し出された花は花びらにも細い枝にもまだ白い雪片をうっすらと纏っていた。ユウには見つけられなかった白いヒース。
けれども恋人であるリリアは、雪に埋もれたこの花を見つけ、持ち帰った。
手折ったばかりの花からは瑞々しい甘い香りがこぼれる。ユウが受け取り見つめるうちに薄く積もった雪は、あたたかな室内の空気の中ですこしずつ固体から液体へと変化していく。白い雪がやがて色をなくして、透明な雪解け水がゆっくりと花枝を伝う。視界が滲んで、瞳にまでその雪解けの水が流れ込んできたのかとユウは錯覚した。
だが、そっと眦に当てられたリリアの指によって、自分が涙を流していることに気が付いた。
─ああ、そうだった。この人はいつもこうやって、私を見つけてくれる。
そう思った瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出して止まらなくなった。
雪解けの水のように透明で、恋人の指のようにあたたかな雫が幾筋も頬を伝う。
しゃくり上げて突然泣き出したユウに驚くこともなく、リリアはそっと抱き寄せた。
可憐な見た目とは裏腹に、大きく厚い手のひらがユウの髪を梳くように撫でて、とんとんとやさしく背中を叩かれる。
「なあ、ユウ。どの場所にも、どの世界にも、どんな生き物にも、やがて春はくる。平等にな。だから安心するといい。たとえ雪に埋もれてしまっても、春の陽射しはすべてを溶かし、やわらかく照らす。……孤独さえもじゃ」
ひんやりとした小さな花がユウの涙に濡れた頬を撫でた。
リリアの胸の中で、リリアの鼓動を聞きながらヒースの香りを吸い込む。甘く緑がかった瑞々しい香り。その奥に、かすかにあたたかな春の気配を感じて。
カタカタと薬罐の蓋が揺れて、甲高い音が沸騰を知らせる。リリアが指をもう一度鳴らすと、カチリとコンロの火が消えた。薬罐の口から、湯気が立ち昇っては甘い香りの空気に消える。
「先輩。お花のお礼に、紅茶はいかがですか?」
「うむ!それを期待しておった」
瞳の縁にたまった涙を拭いて、ユウはマグカップをもう一つ出した。
熱いお湯を注いだカップの中でティーバッグが踊り、琥珀色のさざなみが揺れる。
白いヒースを花瓶に移して暖炉の前のテーブルに置くと、芳しい香りがより強く漂った。眠っているグリムの鼻がひくりと動いて、むにゃむにゃと言葉にならない言葉ののちにまた穏やかな寝息が上がる。
ふと、マグカップを運ぼうとしたユウの手を、リリアが握った。
大きな手のひらに触れられて、そこに自分の肌の存在を感じる。確かにいま、自分はここに存在している。
「……私はここにいる」
「そうじゃ。ここに、確かに生きている。わしの傍でな」
心に降る雪は、いつの間にか止んでいた。
雪解けの透明な水に洗われた胸は穏やかな鼓動を刻み。ユウはリリアの手を握り返して、もう一度、雪の中で咲いていた花の香りを深く吸い込んだ。
─かすかに感じたやわらかな春の匂いが、また濃くなった気がした。
End.
エリカErica/別名ヒース
ツツジ科
花言葉:孤独、寂しさ
農耕に向かない痩せた荒地でも咲く、耐寒性のある花。つぼ型や釣鐘型の小さな花が咲く。
ヨーロッパでは白いヒースの花を見つけると、幸せになれるという伝説がある。
《白のソリテュード》
冬の森は静かだ。まるで礼拝を終えた聖堂のようにひっそりと、耳鳴りがするくらいの静寂が森のすべてを呑んでいる。
雪に覆われた地面は足跡一つついていない。すべての生き物が、雪の中で眠りついているような静けさ。まっさらな地面に足を踏み出せば、きゅっと小さな悲鳴のような音が鳴る。
眠れる白い森の侵入者。ブーツの形についた足跡は、なんだかひどく場違いなものに見える。
ユウは自分がつけた足跡をしばらく見つめて、そしてまた歩き出した。
─ざくざく、きゅ、ざくざく。
ユウの足音が、静寂を乱す。粉雪が舞う中、寒気にさらされた耳は痛み、冷たい空気に肺があえぐ。それでもユウは森を歩き続けた。
時おり、自分の心の中にもこの静寂の雪が降ることがある。
いつも突然はじまって、しんしんと心のなかで密度を増していく冷たくて白い静寂をただ成すすべもなく見つめてやり過ごすしかできない。
漠然とした、空しさ。寂しさ。あきらめ。それがふわふわと心の中を舞い、積もり、やがてぎゅっと固まって、身動きが取れなくなってしまう。
今日も、オンボロ寮の窓から白い森を眺めていたらそれが始まった。
まるで窓の外の雪と共鳴したかのように降り始めた心の中の雪片に苛立ちにも似た気持ちが湧き上がって。ユウはコートを羽織って森へ向かったのだった。
ユウのすべてを呑み込むような静寂を、少しでも乱したくて。わざと足音を立てて真白の地面を踏みつける。
森の中心、すこし小高い丘のようになっている場所で、漸くユウは立ち止まった。
踏みつけた雪が透明の水になって、ブーツの中のタイツに包まれたつま先を濡らしている。黒いコートのいたるところにその繊細な模様が見えるほど大きな雪片が舞い降りて、そしてとける。
ユウが立ち止まれば、森は再び息をひそめて。静寂の中で歓迎されざる侵入者をじっと見つめているようだった。
雪はますます勢いを増し、降りしきる。立ち尽くすユウの髪にも、肩にも、ブーツにも、瞬く間に白い膜が積もっていく。
雪に溺れるのは、どんな心地がするのだろう。
この森のように、ただただ白に呑み込まれてしまったら身体を流れる血液すら雪解け水のように透明になるのだろうか。
それはなんだか、自分に相応しいような気がした。
監督生、或いはユウと呼ばれて、応える。授業に出て、時たま巻き込まれるトラブルや押し付けられる雑務をこなす。友人と呼んでくれる人もいる。幸運なことに、恋人と呼び合う相手だっている。
そうやって、この異世界に自分は存在しているけれど。ふと、自分というものがなんなのか、分からなくなる瞬間がある。そういうときに、心の中に雪が降る。
なぜこの世界で目覚めたのか、なぜ帰れないのか。なぜ、どうして、なんのために。
『この者のあるべき場所は、この世界のどこにもない』闇の鏡はそう言った。
確かに存在しているこの世界に、お前のあるべき場所でないと言われてしまったら。自分はもしかしたら元の世界からも見捨てられたのではないか。そしてたどり着いたこの場所からもやがて透明な雪解け水のようにこぼれ落ちて。誰もユウという心許ない存在を思い出さない。
だったらいっそ。このままこの森で、雪に窒息してしまえたら幸せなのに。今ならまだ、偲んでくれる誰かがいるはずだから。
そんなことを考えながらも、ユウは自分が運命の手綱を取ることなくただ成されるままに漂い生き続けるであろうことも分かっていた。
「だれか私を見つけて」
つぶやいた声は、つめたく研ぎ澄まされた静寂に浮かんで消える。雪の真綿が喉にまで積もってしまったかのような、心許ない声だった。
漠然とした孤独の発作はいつものこと。ゆるやかに滲んて面積をひろげていく諦観は、やがて騒がしい日常の中でまた鳴りを潜めるだろう。
雪に埋もれたユウの心を、知る人はいない。
小さくため息をついて、ユウは肩に積もった雪を払った。乾いた音を鳴らして叩けば、白い妖精は色をなくしてコートに吸い込まれていく。
ふと、蜂蜜のような甘さを含む香りがユウの鼻孔を擽った。土も草も雪に埋もれた森に、かすかに漂う植物の香り。ユウはそれがどこから香ってくるのかと当たりを見回して、そして見つけた。
丘を頂きにひときわ太く大きな巨木が立っている。その高い高い枝先に、どうして今の今まで気付かなかったのか不思議なほど、小さな釣鐘型の花房がこぼれんばかりの薄紅色を雪空に浮かべていた。
冷たい風をもろともせず、たわわに咲き誇る花たち。白い幻影のような森の中で、それだけが確かな色を持ち、存在していた。
「ヒース?」
その花は、錬金術の授業で見覚えがあった。
寒さに強く、荒れ果てた地でも咲く強い花であること。このカレッジの敷地内にも存在していること。鞭を打ち鳴らしながら教室を闊歩する教師の声に急き立てられるようにノートに書き写した記憶が蘇る。
ヒースの花は、頑丈な幹に支えられて豊かに花開き、緑がかった甘やかな香りを静寂と白の世界に漂わせていた。降りしきる雪にひるむことなく、冬の眠りに入った森で木肌をくすぐる小動物や鳥がいなくても、見事な花を見上げる人がいなくても。ただそこに存在して、のびやかに蕾をひらいていく。
「あなたは強くて、いいね」
どんな場所にいようとも、こんなふうに確信を持って咲き匂う強さが自分にもあったら。誰かが見つけてくれるかもしれないのに。ユウがいま、この白い世界でヒースを見つけたように。
冷たい空気に混ざるその香りを胸に吸い込むと、
心の中に降りしきる雪がほんの少しだけ弱まった気がした。
****
薬罐で沸かしたお湯を張った盥に、あおじろくこわばった指先を浸す。
冷え切って感覚をなくした肌が徐々に赤みを取り戻し、じんわりとひろがるあたたかな温度を確かめるように、ユウは盥の中で手を握った。
傘もささずに雪の森を歩き回って、身体中が芯から凍えている。寮に戻ると課題をしていた筈のグリムは暖炉の前で眠っていて、パチパチと薪がはぜる音に小さな寝息が重なっていた。
ほぐれた指先で再び薬罐を火にかけて、マグカップにティーバックを投げる。
しゅんしゅんと湯気を上げる薬罐を見つめながら、ほとんど無意識に大きなため息が口から漏れた。
「これ、幸せが逃げるぞ」
「……!!」
耳元で聞こえた声に、ユウは文字通り飛び上がった。振り向けば、愛らしい少女のような大きな瞳を楽しげに細めて小首をかしげる恋人が、両手を腰に当てて立っている。ユウの驚いた顔に満足したようで、薄い唇を豪快に開けて鋭い犬歯を覗かせながら、その人はひとしきり笑い声をあげた。
「リリア先輩、どうして……」
「恋人を訪ねるのに理由が必要か?」
「いえ…でも、突然だと驚きますよ」
「くふふ、わしは人を驚かせるのが趣味のひとつでのう。さて、これもサプラーイズ!じゃ」
リリアが細く骨っぽい指をパチンと鳴らした。
すると白い靄がその指先を覆い、もくもくと立ち昇ってなにかを形作る。
ユウがひとつ瞬きをすると、その靄は消えて変わりに白く香る花の束がリリアの手のひらに握られていた。
「さっきまでコウモリどもと空の散歩をしていてのう。雪の日の散歩は愉快じゃ。雪片の妖精が自分の担当の雪の模様を次々と自慢しに来るので退屈しないしの。っと、話が逸れてしもうた。散歩の途中、ここの裏手の森の上を通ったのじゃ。この森の見事なヒースの木、お主は知っておるか?」
ユウはリリアに握られた白い花を見つめたまま、黙って頷いて応えた。
「その花に誘われるようにわしは下降した。すると、ヒースの巨木の根元にまた別のヒースの若木があることに気付いたんじゃ。よく目を凝らしてみれば、雪に埋もれるようにして花をつけている。珍しい、白いヒースじゃった。
巨木と雪に囲まれてながらも歯を食いしばるように立って、懸命に花を咲かせている姿がなんだかお主を思い出させてのう。少しばかり、持ち帰ってきてしまったというわけじゃ」
ほれ、と目の前に差し出された花は花びらにも細い枝にもまだ白い雪片をうっすらと纏っていた。ユウには見つけられなかった白いヒース。
けれども恋人であるリリアは、雪に埋もれたこの花を見つけ、持ち帰った。
手折ったばかりの花からは瑞々しい甘い香りがこぼれる。ユウが受け取り見つめるうちに薄く積もった雪は、あたたかな室内の空気の中ですこしずつ固体から液体へと変化していく。白い雪がやがて色をなくして、透明な雪解け水がゆっくりと花枝を伝う。視界が滲んで、瞳にまでその雪解けの水が流れ込んできたのかとユウは錯覚した。
だが、そっと眦に当てられたリリアの指によって、自分が涙を流していることに気が付いた。
─ああ、そうだった。この人はいつもこうやって、私を見つけてくれる。
そう思った瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出して止まらなくなった。
雪解けの水のように透明で、恋人の指のようにあたたかな雫が幾筋も頬を伝う。
しゃくり上げて突然泣き出したユウに驚くこともなく、リリアはそっと抱き寄せた。
可憐な見た目とは裏腹に、大きく厚い手のひらがユウの髪を梳くように撫でて、とんとんとやさしく背中を叩かれる。
「なあ、ユウ。どの場所にも、どの世界にも、どんな生き物にも、やがて春はくる。平等にな。だから安心するといい。たとえ雪に埋もれてしまっても、春の陽射しはすべてを溶かし、やわらかく照らす。……孤独さえもじゃ」
ひんやりとした小さな花がユウの涙に濡れた頬を撫でた。
リリアの胸の中で、リリアの鼓動を聞きながらヒースの香りを吸い込む。甘く緑がかった瑞々しい香り。その奥に、かすかにあたたかな春の気配を感じて。
カタカタと薬罐の蓋が揺れて、甲高い音が沸騰を知らせる。リリアが指をもう一度鳴らすと、カチリとコンロの火が消えた。薬罐の口から、湯気が立ち昇っては甘い香りの空気に消える。
「先輩。お花のお礼に、紅茶はいかがですか?」
「うむ!それを期待しておった」
瞳の縁にたまった涙を拭いて、ユウはマグカップをもう一つ出した。
熱いお湯を注いだカップの中でティーバッグが踊り、琥珀色のさざなみが揺れる。
白いヒースを花瓶に移して暖炉の前のテーブルに置くと、芳しい香りがより強く漂った。眠っているグリムの鼻がひくりと動いて、むにゃむにゃと言葉にならない言葉ののちにまた穏やかな寝息が上がる。
ふと、マグカップを運ぼうとしたユウの手を、リリアが握った。
大きな手のひらに触れられて、そこに自分の肌の存在を感じる。確かにいま、自分はここに存在している。
「……私はここにいる」
「そうじゃ。ここに、確かに生きている。わしの傍でな」
心に降る雪は、いつの間にか止んでいた。
雪解けの透明な水に洗われた胸は穏やかな鼓動を刻み。ユウはリリアの手を握り返して、もう一度、雪の中で咲いていた花の香りを深く吸い込んだ。
─かすかに感じたやわらかな春の匂いが、また濃くなった気がした。
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