11月/涙座ステーション
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リンドウ/gentiana scabra
リンドウ科
花言葉…あなたの悲しみに寄り添う。
原産地は世界各地に及び、古くから薬草として利用されている。
光に反応して開花し、曇りの日や夜には花弁を閉じてしまう性質がある。
─ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔が、どおんとあいているのです。その底がどれほど深いか、その奥に何があるか、いくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ眼がしんしんと傷むのでした。宮沢賢治 銀河鉄道の夜より
《涙座ステーション》
少年は、ゆっくりと速度を落とす列車の窓から外を覗いた。
そもそもこの列車に乗り込んだ時から、なにが見えても、なにが聞こえても、なにが起きてももう驚かないと心に決めていた。
真夜中に突然、すべてが嫌になって。ここのところ急激に伸び始めて持て余していたひょろりと長い脚がいらぬ音を立てぬように注意を払いながら、そっと家の屋根に登った。
もっと幼い頃からそこは少年の秘密基地だった。
生きていると、自分の中から生まれた筈なのに自分自身で舵を取るのが難しいものがあるということを、まだ短い人生の中で少年は学んでいた。
感情、というものもその一つで。時おり自らの心という目には見えないけれどたしかに存在している場所から生まれる様々な感情に、自分自身が溺れてしまうような心地になる時があった。
戸惑い、焦り、苛立ち、渦潮に呑まれるような。
そんなときに、少年は屋根に登った。夜の屋根は、天鵞絨のような質感の沈黙が満ちていて。波立つ心を鎮めるのにはうってつけの場所だった。
今日も、父親と些細なことで言い合いになった。口でも力でも敵うことがない相手。その相手から漏れた小さなため息。それに、胸が潰れるような音がした。
自分が彼にとって厄介なものに成り下がってしまった気がした。本当は、困らせたくないのに。本当は、褒めてほしいのに。本当は、抱きしめてほしいのに。それが言えずに、黙りこくった少年に父親は小さく息を漏らしたのだった。
ベッドに入ってからも、胸が痛くて眠れなかった。扉の向こうから、音量を抑えて話し合う両親の声が聞こえる。きっと少年のことを話しているに違いない。大好きな母親。尊敬している父親。その二人の誇りでありたいのに、実際は頭痛の種になっていると思うと居ても立っても居られなくなって、忍び足で屋根に登ったのだ。
いつものように漆黒の空に輝く鉱石のような星の川を眺めていると、それが起きた。
初めは星の瞬きだと思っていた。けれどぴかぴか消えたり灯ったりするぼんやりとしたそれがやがてはっきりとした何かを形作り、漆黒の夜空に三角標が立った。目と口をぽかんと見開いている少年の耳に、ごとごとという音が近づいてきて。
眼の前に、鉄道が現れた。窓から見える車内はやわらかな黄色い電燈が並んでいて、少年を誘うように、ゆっくりと停車した。
夢を見ているんだ。と少年は思った。
屋根に登って夜空を見上げているうちに眠ってしまって、これは僕が見ていると夢なのだと。
それならば、と少年は長い脚を踏み出して列車に飛び乗った。持ち前の好奇心に火がついた。夢ならば、なにが起きても構わない。ほんの少しだけ怯える心にそう言い聞かせて、車内へ歩いていくと、列車はため息のような音を吐いてゆっくりと、走り出した。
銀河を駆ける列車に乗った少年は、紅色の布張りの椅子に腰を降ろして車内を見回した。乗客は、少年一人らしい。
車掌が回ってきたらどうしようか。切符は持っていない。夜空に放り出されてしまうだろうかと最初は不安だったが、車掌が現れる気配は一向になかった。
少年は少し安堵して、がたごとと揺れる椅子に身体を深く沈めた。この列車はどこに向かっているのだろう。終着駅に着くまで、夢から醒めないといい。そんなことを考えていると、窓の外の星空に薄ぼんやりとしたオレンジ色の光が現れたことに気付いた。
窓に手をついて外を覗くと、果てしなく続く銀河だったそこに、丘のような場所が現れていた。暗闇でよく見えないけれど、やわらかな牧草が伸びた丘のてっぺんに、素朴な家が立っていた。煉瓦造りのその小さな家の窓からの灯りが、オレンジ色の光の正体だと気付いたとき、列車がゆるりと減速して、停車した。
その家の灯りが、少年を呼んでいるような気がした。理由や根拠なんて、夢の中では意味を成さないだろうと、少年は心の赴くままに列車から飛び降りた。列車は少年を降ろすと、再びため息を一つ吐いて、夜の帳の中に消えていく。残されたのはオレンジ色の灯りの家と、天幕 のような夜空と、少年だけだった。
素朴な造りの扉に、鍵はかかっていなかった。
そっと押すと、オレンジ色の光があたりを照らすように広がる。大きな洋卓 が狭い部屋の殆どを占め、その向こうの壁にはめ込まれた暖炉の中で薪がぱちぱちと爆ぜ、骸炭 の乾いたような独特の匂いが鼻を擽った。
少年が一歩踏み出したのと、暖炉横の通路から背の高い男が現れたのはほぼ同時だった。
「おやおや。あなたも迷子ですか?」
「……え、いや……」
「ちょうど良かった。お茶の相手が欲しいなと思っていたところです。ご一緒していただけませんか?迷子同士、おしゃべりでもしましょう」
「僕は迷子じゃありません」
自分を見上げてきっぱりと告げる少年に、驚いたように軽く目を見開いたのは一瞬で、男は虹彩異色 の双貌を好奇心に輝かせて慇懃な笑顔を浮かべた。
「迷子ではない、それではあなたはここがどこかご存知ということですか?」
「ここは僕の夢の中だよ」
「それは面白い。けれど、ここはあなたの夢の中ではありませんよ。一体どの時空のどの空間かは分かりかねますが、たしかに存在する世界です」
「僕の夢の中の人物のくせに、随分勝手に喋るんだね。君は誰?」
「これは失礼致しました。ジェイド・リーチと申します。ですが、ここは夢ではありません」
「その自信の根拠は?」
「僕は、空間を越える魔術の最中に、ここに辿り着いてしまったものですから」
「空間を越える…?ここに来るつもりだったの?」
「いえ……」
「ふーん、失敗したんだ。君、そんなに大きな身体だけど魔力はイマイチなんじゃないの?変身薬も使ってるみたいだけど、君、すっごく海の匂いがしてるよ」
「おや。僕が人魚であることを見破るとは。どうやらあなたも同種のようですね。ですが変身薬の匂いはしない。珍しい、人魚と人間の混血 ですか?」
「別に珍しくないだろ」
「場所が変われば、とても珍しい存在ですよ。悪い人に捕まれば研究材料として切り刻まれて、体の部位ひとつひとつをホルマリン漬けにされてしまう世界だってあります」
「ふーん。君もそうしたい?」
「いいえ。僕はこのお茶が冷める前にいただきたい。それだけです」
そう言って男は指先で握ったペンを音もなく振った。すると男の大きな手のひらに乗った銀盆 に洋盃 が一組増える。黙ってそれを見つめる少年の前で、男は大きな体躯には意外なほど繊細な手付きで琥珀色の液体を注いだ。白い湯気から花と果実の香りが立ち昇る。
再び男がペンを振ると、少年の眼の前の椅子がそっと引かれた。
自分の夢の中なのに、どうやらこの謎の男のペースに巻き込まれていることが気に食わない気持ちになりながらも、少年は大人しく椅子に腰掛けてあたたかな紅茶を見つめる。
「冷めてしまいますよ。それとも、猫舌ですか?」
「……」
少年は男の質問には答えず、小さな音で指を鳴らした。
すると琥珀色の紅茶がゆっくりと乳白色に染まっていく。
「おやおや。まだケンブリックティーのお年頃でしたか。気遣い不足で申し訳ありません。蜂蜜をお持ちしましょうか?」
「うるさいな、にやにや笑うのをやめてくれない?蜂蜜はもういれた」
「ケンブリックティーを好むお歳の割には、素晴らしい魔力ですね」
「お父さんが教えてくれてるんだ。……僕だっていつか、蜂蜜もミルクも入ってないちゃんとした紅茶を飲めるようになる」
「蜂蜜やミルクの入った紅茶がちゃんとした紅茶ではない、とは思いませんよ。ですが、確かに茶葉によってはストレートでその葉の香りを楽しむのが一番美味しくいただけるものもあります。とはいえ、稚魚のあなたには香りよりもえぐみのほうがまだ強く感じてしまうかもしれませんね」
「僕は稚魚じゃない!!」
少年のあげた大声に応えるように、暖炉の中で薪がひとつ大きく爆ぜた。
男は、悔しさで頬を染める少年を微笑んだまま見つめている。少年はその顔が嫌だった。少年の稚さを、慈しむような、憐れむような。大人特有の、心の内が読めない表情。その表情は嫌というほど覚えがある。
少年の父親も、紅茶が好きだった。父親の淹れる紅茶は絶品で、気難しい取引相手すら彼の紅茶を一口飲み下せば、その態度を緩ませるという評判を父親の幼なじみであり、父親の勤め先の社長であるひとからも聞いたことがある。
父親は家族にも惜しまずその紅茶をふるった。
けれど少年は、どうしてもストレートの紅茶が苦手だった。眼の前の男が言うように、香りよりもえぐみが舌先に感じられてどうしても美味しく感じられない。
それでも少年は、尊敬する父親の愛する紅茶というものを心から味わえるようになりたくて、無理をして、飲み込む。だが父親にはすべてお見通しで、そんな少年にこの男のような、本心の分からない微笑みを浮かべてぱちんと指を鳴らし、少年のカップの琥珀色を乳白色に変える。
「あなたが、僕のために無理しなくていいんです。お酒を好むひとは、我が子との晩酌を心待ちにするといいますが…僕はあなたといつかストレートの紅茶の美味しさを共に分かち合う日を人生の楽しみにしているんですから。早々に奪わないで。それに僕は、ケンブリックティーも大好きです」
そう言って少年の髪を撫でる父親の手のひらはひどく優しかったけれど、その度に少年は父親をがっかりさせている気分になった。
「僕は稚魚じゃない。ストレートの紅茶だってちゃんと飲めるんだ」
少年は甘くて薄い紅茶をひと息で飲み干すと、ティーポットから新たに紅茶を注いだ。茶葉が蒸された紅茶は、先ほどよりも濃い色をしている。まるで苦薬を飲み込むかのように、少年はごくりと大きな音を立てて、一杯目よりもはるかに濃くえぐみの増した紅茶を飲み下した。
そして男に挑むような目を向ける。
「…フ、フフ……あなたのその向こう見ずな負けず嫌い……僕はとても好きです。懐かしいひとを思い出しますね」
「笑うなって言ってるでしょう!!懐かしいひとって誰のことです?」
「長い話になります」
「良いじゃない。夜は長い。まだ僕は眠っていたい、この夢を見ていたい。聞いてあげます」
「憎たらしい稚魚ですね。でも、そうですね。仰るとおり夜は長い。あなたが誰かも分かりませんが、秋の夜長におしゃべりはぴったりです。ところで、お名前を伺っても?」
「僕の名前は……」
答えようとして、少年ははたと言葉を止めた。不思議なことに、自分の名前が思い出せない。
自分は人魚と人間の混血 で、母親と父親と三人で暮らしていて、紅茶好きの父親は、どんな顔をしていたのだろうか。自分の名前だけでなく、父親や母親の顔も思い出せない。どうしても、靄がかかったように。
「どうしました?」
「僕は……」
その時ふと、窓の外に深い紫の花が星あかりに照らされて咲いているのが、少年の目に入った。
この家の裏庭に面している窓の向こう、庭と線路のへりなった芝草の中に、月長石で刻ざまれたような紫のりんどうの花が咲いていた。
「リンドウ……僕の名前はリンドウ」
「……素敵な名前ですね。おや、この庭にもリンドウが。もうすっかり、秋ですね」
「自己紹介は済んだでしょう。あなたの話を聞かせてよ」
「承知しました。その前にお茶をもう一杯。だいぶ濃くなってしまいましたね。これにはミルクと蜂蜜がぴったりです」
「……嫌味な奴って言われない?」
「よく、言われます」
男は楽しげに笑って二杯目の紅茶にたっぷりのミルクと蜂蜜を注ぐと、すきっと伸びた背筋のまま語り始めた。
「僕は魔法士を育成する学校に通う学生です。そこは闇の鏡に選ばれし者たちが集う学び舎。あなたも魔力があるということは、親族に魔法士がいらっしゃるのでしょうから話を聞いたことがあるのでは?
そこで僕は、恋をしました。相手は魔力を一切持たず、異世界からやってきた少女。驚きました?ええ、僕たちも驚きましたよ。詳しい経緯は誰にもわかりません。とにかく彼女は異世界から僕たちの世界にやってきて、帰る術を探しながらもこの世界で生活して…そして、僕と恋に落ちた」
「元の世界に帰りたいのに、君と恋に落ちたの?それって、」
「愚かですか?そうかも知れません。僕自身も、まさかこんな形の恋をするなんて思ってもみませんでしたから。ヒトと人魚という種族の違いだけでなく、生きる時空まで違う二人の恋。おとぎ話なら悲劇になるでしょうか?それともめでたしめでたし?」
「その結末を知ってるのは君でしょう。いいから続きを聞かせてよ」
「憎たらしい稚魚だって言われませんか?」
「さっき君に言われたのが初めてだよ」
「おやおや、それは失礼を。そう急かさないで。夜はまだ長いのですから。……彼女は、そうですね。とても不思議なひとでした。魔力もこの世界の常識も持たない、海ならばすぐに丸呑みにされてしまうであろう雑魚。けれども、どうしてだか人を惹きつける。人だけでなくトラブルも惹きつけやすい性質のようでしたが、その度に彼女の聡さや、呆れてしまうほど負けず嫌いなところ、向こう見ずだけれど、信じたくなってしまうような芯の強さを目の当たりにして。僕はすっかり彼女に夢中になってしまったんです。そして幸運なことに、彼女もまた、僕の気持ちに応えてくれた。いじらしく、かわいらしい恋の物語です」
「…その惚気、いつまで続くの?」
「あなたが話せと言ったのに…酷いです。シクシク……」
「その泣き真似、騙される人いる?」
「つれない方。安心してください。素敵な恋の物語はここでおしまいです。やがて彼女は、元の世界に帰る術が見つかって、帰ってしまいました」
「帰った……?君を置いて?」
「ええ、仕方ありません。彼女の重荷には、なりたくありませんでしたから」
「でも、だって……君は、帰ってほしくなかったんじゃないの?」
「そうですね……でも彼女の人生です。彼女が帰ると決めたのなら、見送るしかありません。とはいえ、人魚は執念深い生き物。ですからこうして、空間を越える魔術を見つけて彼女を探そうとしたのですが」
「失敗して、僕の夢にきた」
「あなたの夢の中という意見には賛同できかねますが、失敗したという点は認めざるを得ません。希少な材料はすべて揃えて、星の巡りも完璧だったのですが、仕上げの材料である人魚の涙の質が少々…まずかったのかも知れません」
「人魚の涙?」
「ええ、裏市場では高値で取引されるという噂の人魚の涙。恋に落ちた人魚が、恋する人を想って流した涙です」
「それなら、君がぴったりのものを創り出せるじゃない」
「ええ……スパイスを吸い込んで無理やり流した涙だったから、針路が狂ったのかも知れません」
「……馬鹿なの?なんでそんなやり方したんですか。君がその人を想って涙を流せばいい、簡単なことじゃない」
少年が呆れたように言うと、男の虹彩異色 の双貌がほんの少しだけ、乾いたように揺れた。そして、曖昧な微笑みを浮かべて、再び言葉を紡ぐ。
「僕は、彼女が居なくなってから、泣けなくなってしまったんです」
「………そんな、」
「苦心して得た材料と魔力を削った挙げ句、よく分からない場所に飛ばされて途方に暮れていたところこの家を見つけました。ひとまずお茶を淹れて考えようと思っていたら、あなたが現れたというわけです」
「よくそんな状況でお茶を飲もうなんて思いましたね」
「途方に暮れていましたから。一杯のお茶は、頭の整理にぴったりなんですよ。それにしても、あなたの匂いを感じた時は幸運に感謝しましたが……ぬか喜びでしたね。人魚の血が流れてるとはいえ、恋には縁遠い稚魚。人魚の涙は手に入りそうもない。残念です」
「君、友達いないでしょう」
「海育ちですから。やるか、やられるか。海では気を許した次の瞬間、相手の胃袋の中です」
「そんなふうに生きてたのに、好きな人には逃げられちゃったんだ」
「あなた、友達いないでしょう。……さて、これで僕のお話はおしまいです。次はあなたの話を聞かせてください。リンドウさんは、どうやってこの場所に?」
男が首を傾けて少年に尋ねる。海色硝子 のピアスが、しゃらしゃらと流れ星のような音を鳴らした。色の違 う瞳は、好奇心を隠そうともせず真っ直ぐに少年を見つめた。
物腰は丁寧なのに、決して舵を取らせない。男の思う速度で、男の思う方位にしか進ませない。そのやり方は、まさに海の生き物のそれだった。自分の夢の中であるのに、まるで少年が男のテリトリーに迷い込んでしまったかのようで、不服だった。
けれどもあの列車に乗ったのも、この家に入ったのも、すべて少年の意思だ。ここは自分の夢。ならば悪いようにはならない。なったとしても、目が醒めれば全て消えてなくなるのだから。だったらもう少しだけ、この男の舵に身を任せてみようと、少年は背筋を伸ばした。
「言ったでしょう?ここは僕の夢の中だって。夜中に家の屋根に登って、そのまま眠ってしまって…そうしたら夢の中に、夜空を走る鉄道が現れた。それに乗り込んで、この家を見つけて降りた。そうしたら君、ジェイドさんがいた。それだけです」
「おや、やっと名前で呼んでくださいましたね。それにしても夜中に屋根に登るなんて……なぜそんなことを?」
「別に……ただ一人になりたいときにそうしてるんです」
「危ないじゃないですか。夜中にベッドを抜け出すなんて、ご両親が心配しますよ」
「しないよ……僕は頭痛の種なだけ」
「そう言われたのですか?」
「言わない。でも二人とも、きっとそう思ってる。僕はお母さん似なんだ。髪の色も目の色もお母さんと同じ。お母さんは人間で、ジェイドさんの恋人と同じで魔法は使えない。でも、どんなときでもどんな人でも、楽しく優しい気持ちにさせる人。お父さんは人魚で魔法士で、とっても強くて賢い。みんなに頼りにされてる。でも僕は……お母さんみたいに人を楽しませることもできないし、魔力だって人並みだもん。本心では二人共がっかりしてるんだ」
少年は言葉を切って、唇を噛み締めた。語りながら涙が零れ落ちそうだった。けれどこの男の前で泣くのは、少年の小さなプライドが許さなかった。唇を噛み、拳を握りしめて、必死に涙を落とさないように耐えた。
その時男が、席を立ち、お茶のおかわりをと言って通路に消えた。少年はホッとして、ついに零れ落ちた一雫の涙を袖口で拭う。
誰にも言えなかった、心の内をさらけ出して、すっきりしたような、恥ずかしいような、落ち着かない気持ちだった。あの男は、自分の夢の中の人物だから。この気持ちを知られたとしても、目が醒めれば消える相手。だから大丈夫だと言い聞かせて、手のひらで頬を軽く叩く。涙が完全に乾いたところで、男が湯気をあげるポットを手に戻ってきた。
今度はミルクから煮出したのだろうか。ポットから注がれる紅茶は初めから乳白色をしていて、ほのかに甘い香りが漂う。
少年がそれを飲み下すのを見てから、男が口を開いた。
「リンドウさんは、なぜご両親があなたに失望していると思うのですか?」
「……もうすぐ、弟か妹が産まれるんだ」
「それはそれは、おめでとうございます」
「お母さんはそれで疲れやすいし、お父さんも仕事で忙しいのに家のこともやって……大変だから、僕は、手伝わなきゃって思って。……でも、助けようと思ってやったことは全部失敗。うまくいかない。助けるどころか、余計な手間を増やしてしまう。二人の力になりたくて、僕がいて助かるよ、ありがとうって言われたくて……やればやるほど、逆効果」
「いじらしいですね。ですが、余裕がない時に手間が増えるのは確かに厄介です」
「ほらね、そうでしょう。きっと二人もそう思ってる。もし、産まれた弟か妹が僕よりもうんと良い子で、魔力も強くて、賢かったら?お父さんもお母さんも、僕なんてどうでも良くなる。僕なんかより、その子を好きになる。だったらそうなる前に嫌われたほうが苦しくないやって思って、今日お父さんにひどいこと言ったんだ。そうしたら怒らずに、ため息つかれた。……僕に愛想を尽かしたんだ」
「……なんて退屈なお話なんでしょう。驚きました」
男が小さく呟いた言葉に、少年は顔をあげた。
男は、人を苛立たせるような慇懃さを携えた微笑みを浮かべて、肩を震わせていた。金とオリーブの瞳に憐れみ、蔑み、苛立ちを滲ませて鋭く少年を射抜く。少年は一瞬言葉を失い、そして遅れてやってきた怒りに背中がびりびりと燃えるような心地がした。
「ジェイドさんに何が分かるんですか!!」
「分かりますよ。まるで稚魚だ。傷つく前に傷つけてしまえ。なんて、愚かなんでしょう。僕を見て、気づいて、抱きしめてと望みながら、逃げ出して。本当の気持ちを隠しているのはあなたなのに、それに気付かないご両親の心を勝手に決めつけて被害者ぶっている。本当に退屈なお話です。もっと楽しいお話が聞けると思っていたのですが……残念です。ねえ、リンドウさん。あなたは一言でもご両親に言いましたか?寂しいと。言っていないでしょう。どうしてですか?」
「……っ…っうるさい!!ジェイドさんだって、ジェイドさんだって、言ったんですか?!その人に、行かないでって一言でも言ったんですか?!」
「それは……」
「言ってないでしょう!行かないでって言って、拒絶されるのが怖いから!だから、負担になりたくないからなんて耳ざわりの良い言葉で誤魔化して…本当は帰ってほしくなかったくせに!でもその本心を言って、断られたら怖いから、立ち直れないから、傷ついてしまうから、言えなかったんだ!!だから泣けないんですよ!!悲しみに蓋をして見ないふりをして!あなただって稚魚だ!臆病で、ワガママで、どうしようもない稚魚だ!僕と一緒だ!!!!」
少年は立ち上がり、男の傍で怒鳴った。怒鳴りながら、大きな涙を幾粒も流して。とめどなく流れるそれはまるで天の川のように少年の頬を伝い、オレンジ色の灯りにきらきらと輝く。
少年の言葉はやがて嗚咽に変わり、小さな拳で男の胸を幾度も叩きながら、ただひたすら泣きつづける。夜の銀河に、少年の少年らしい無垢な泣き声が、鐘の音のように響き渡っている。
男は少年にされるがまま、乱れた髪が色違いたがいの瞳を隠している。
「言えない……言えるわけない、でしょう……僕にとって、かけがえないたった一人のひと、その人に全てを捨てて僕を選んでほしいなんて、それを伝えて、拒絶されたら、僕はどう生きたらいいのか、分かりません……言えるわけ、ないでしょう……」
男の掠れたような声に、少年はようやく顔をあげた。
見上げた男の顔から、先ほどまでの慇懃な微笑みは消えていて。ひどく疲れ切ったような表情で胸に当てられた少年の拳をそっと握って降ろさせた。
「……でも、諦めきれないから追ってきたんでしょう……」
「ええ、失敗してしまいましたが……。リンドウさんの仰るとおり、愚かで臆病なのは僕も同じですね。僕は彼女の心を永遠に失うのが怖くて、自ら手離した。そして往生際悪く、こうして世界と世界の狭間で迷子になっている。……どうしようもない稚魚です…もう一度会えたら、本心を伝えるのにそれすらももう、許されない……」
「ジェイドさん……」
「どうしてあなたが泣くんですか」
「分かりません…でも、気持ちがわかるから…傷付くのが怖いっていう気持ち……」
「……そうですね、とても、怖いです。知っていますか?この銀河のどこかには、巨大な暗い孔があいているんです。ブラックホールといいます。その底がどれほど深いか、その奥に何があるか、分かりません。眼をこすって覗いても、なにも見えず、ただ眼がしんしんと傷むだけ。それでも見つめていると、やがてそれに呑まれてしまうような予感がするんです。僕は、彼女を失ってしまうと思ったとき、その孔を覗いてる心地でとても怖かった。その孔に落とされる前に、逃げ出した。もしかしたら、その孔を二人で渡る方法があったのかもしれないのに。でもそれを拒絶されるのが怖くて、笑って、送り出したんです。……彼女がそれで、傷付くかもしれないことは見ないふりをして……」
ふと男の声が、かすかに湿り気を帯びる。すると少年の額に、あたたかななにかがぽつりと降ってきた。
「ジェイドさ……」
「え……?」
少年の額にぽつり、ぽつりと降り注ぐあたたかな雫。それは男の金とオリーブの瞳から流れ出していた。男は、虚を突かれたように瞳を瞬かせ、長い指先で頬を伝う雫を掬い、黙したままそれを見つめた。
少年もまた、息を呑んで透明の雫が零れ落ちる様を見ていた。
「ジェイドさん!!涙です!ジェイドさんが泣いているんですよ!!」
「まさか……そんな、」
「ほら、そんなぼうっとしてないで、早く涙壺を出してください!希少な材料なんですから!」
「ええ……、そうでした」
男は少年に急かされるようにしてポケットから珊瑚で作られた小指の先程の小瓶を取り出す。
濡れた睫毛の縁に小瓶をあてがうと、一雫、また一雫と透明の涙が小瓶に落ちていった。小さな小瓶は瞬き三度ほどでいっぱいになり、少年はきゅっと音を立てて蓋を閉める。男はまだ呆けたように栓をされた小瓶をただ見つめていた。
「ジェイドさん、泣けましたね」
「ええ、泣けました」
「これで、会えますね」
「ええ、会えます」
「ふ、ふふ……ふふふ」
「なにが可笑しいんですか……フフ、ああ、僕まで、フフ、フフフ……移ってしまいました…フフ困りましたね…」
男と少年は、壊れたラヂオのようにひたすら笑い、涙を流した。地べたに座り、額を互いに預けて、まるで旧くからの友人同士のように。
ひとしきり泣き笑ったあと、どちらともなく立ち上がり、互いにすきっとした顔で向き合う頃には東の空がほのかに白み、明けの明星が姿を現していた。
「これから、薬の調合をします。でもその前に喉が乾いたので紅茶を淹れようと思うのですが。リンドウさんもお付き合いいただけますか?」
「いいですよ」
「では、お湯を沸かしてきますね」
「あ、ジェイドさん。ミルクも蜂蜜もなしで」
「おや、そんな背伸びをしなくても」
「背伸びじゃありません。ストレートを飲みたい気分なんです」
「承知いたしました。美味しく淹れさせていただきます」
やがて男が運んできた紅茶は、花と果実の香りの湯気をあげていて、その香りは少年の泣き腫らし、笑い疲れた身体に心地よく滲みていくようだった。
「いただきます」
「熱いのでお気をつけて」
「……」
「いかがですか?」
「……おいしい」
少年が、目を見開いてそう言うと、男は満足げに微笑んだ。その微笑みは、なんの含みもないもので。少年はなぜか懐かしい親しみのような感覚を感じた。その理由を探ろうとしても、靄がかかったように、遠のいていく。
「光栄です」
「ありがとう、ジェイドさん」
「こちらこそ、リンドウさん」
その時、遠くの方から汽笛の音が響いた。車輪が線路を滑る地響きのような振動が、二人のいる家をかすかに震わせる。
「あれに乗らなきゃ」
「帰るんですね」
「起きないと、お父さんとお母さんが心配するから」
「そうでした。ここはあなたの夢の中、でしたね」
「そうだよ。僕は家に帰る。夢から目覚めないと。ジェイドさん、君はちゃんと、今度は間違えないで。その人のところに行くんだよ」
「ええ、次は迷子にはならなそうです」
「それじゃあね。その人に弱虫ジェイドさんをよろしくって伝えて」
「まったく憎たらしいな稚魚ですね」
「迷子になって大泣きした大きな人魚に言われても痛くも痒くもないよ」
「目覚める前に、ホルマリン漬けになってみますか?」
「遠慮しとく」
大きなため息のような音がして、窓の外に鉄道の巨大な身体がゆっくりと停車する。
少年は、男に手を差し出した。男は、慇懃な仕草でその手を握り、大人にするように丁寧にお辞儀をした。
家の外に出ると、夜の天幕 は白いレエスのような明けの空にその場所を明け渡し始めていて、目覚めの色の中で、りんどうの紫が夜空の余韻のようにふうわりと風に揺れていた。
一度だけ振り返って男に会釈をして、少年は列車に乗り込む。
「あ……」
少年を呑み込んだ列車がゆったりと加速を始めたその瞬間に、少年は全てを思い出した。
自分の本当の名を。母親と父親の顔を。名前を。そして、出会った男ジェイドが誰であるかも。
「……………!」
テノールの声が、汽笛の向こうに響く。
思い出したのは、男もまた同じだった。テノールの声は、少年の名を呼んでいた。本当の名を。
既に丘の家は遠く、ジェイドの姿も指先ほどの大きさになっている。少年は窓をあけ、その隙間から身を乗り出した。
ジェイドが何かを叫んでいる。けれど、汽笛の音に邪魔をされてその言葉は聞き取れない。
「またね!!お父さん……!!ちゃんとお母さんを見つけるんだよ!じゃないと、僕もお父さんと会えないんだから!!またね、また、きっと、必ず会わせてね、二人に!!」
少年の言葉がジェイドに届いたかは分からない。けれど少年は満足だった。紅色の布張りの椅子に背中を預けて、そっと瞳を閉じる。
目覚めたら、父親にまず謝ろう。そして、紅茶を淹れてもらおう。ストレートで飲みたいと言ったら、彼は喜ぶだろうか。それから、ちゃんと伝えよう。寂しかったこと、それを言えずにいたこと。そして、愛していると。
銀河を駆ける列車の線路に沿って、すばらしい紫のりんどうの花が咲いている。
列車は少年を乗せて、夜明けという終着駅へ向かって速度を上げた。
End.
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花言葉…あなたの悲しみに寄り添う。
原産地は世界各地に及び、古くから薬草として利用されている。
光に反応して開花し、曇りの日や夜には花弁を閉じてしまう性質がある。
─ジョバンニはそっちを見て、まるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔が、どおんとあいているのです。その底がどれほど深いか、その奥に何があるか、いくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えず、ただ眼がしんしんと傷むのでした。宮沢賢治 銀河鉄道の夜より
《涙座ステーション》
少年は、ゆっくりと速度を落とす列車の窓から外を覗いた。
そもそもこの列車に乗り込んだ時から、なにが見えても、なにが聞こえても、なにが起きてももう驚かないと心に決めていた。
真夜中に突然、すべてが嫌になって。ここのところ急激に伸び始めて持て余していたひょろりと長い脚がいらぬ音を立てぬように注意を払いながら、そっと家の屋根に登った。
もっと幼い頃からそこは少年の秘密基地だった。
生きていると、自分の中から生まれた筈なのに自分自身で舵を取るのが難しいものがあるということを、まだ短い人生の中で少年は学んでいた。
感情、というものもその一つで。時おり自らの心という目には見えないけれどたしかに存在している場所から生まれる様々な感情に、自分自身が溺れてしまうような心地になる時があった。
戸惑い、焦り、苛立ち、渦潮に呑まれるような。
そんなときに、少年は屋根に登った。夜の屋根は、天鵞絨のような質感の沈黙が満ちていて。波立つ心を鎮めるのにはうってつけの場所だった。
今日も、父親と些細なことで言い合いになった。口でも力でも敵うことがない相手。その相手から漏れた小さなため息。それに、胸が潰れるような音がした。
自分が彼にとって厄介なものに成り下がってしまった気がした。本当は、困らせたくないのに。本当は、褒めてほしいのに。本当は、抱きしめてほしいのに。それが言えずに、黙りこくった少年に父親は小さく息を漏らしたのだった。
ベッドに入ってからも、胸が痛くて眠れなかった。扉の向こうから、音量を抑えて話し合う両親の声が聞こえる。きっと少年のことを話しているに違いない。大好きな母親。尊敬している父親。その二人の誇りでありたいのに、実際は頭痛の種になっていると思うと居ても立っても居られなくなって、忍び足で屋根に登ったのだ。
いつものように漆黒の空に輝く鉱石のような星の川を眺めていると、それが起きた。
初めは星の瞬きだと思っていた。けれどぴかぴか消えたり灯ったりするぼんやりとしたそれがやがてはっきりとした何かを形作り、漆黒の夜空に三角標が立った。目と口をぽかんと見開いている少年の耳に、ごとごとという音が近づいてきて。
眼の前に、鉄道が現れた。窓から見える車内はやわらかな黄色い電燈が並んでいて、少年を誘うように、ゆっくりと停車した。
夢を見ているんだ。と少年は思った。
屋根に登って夜空を見上げているうちに眠ってしまって、これは僕が見ていると夢なのだと。
それならば、と少年は長い脚を踏み出して列車に飛び乗った。持ち前の好奇心に火がついた。夢ならば、なにが起きても構わない。ほんの少しだけ怯える心にそう言い聞かせて、車内へ歩いていくと、列車はため息のような音を吐いてゆっくりと、走り出した。
銀河を駆ける列車に乗った少年は、紅色の布張りの椅子に腰を降ろして車内を見回した。乗客は、少年一人らしい。
車掌が回ってきたらどうしようか。切符は持っていない。夜空に放り出されてしまうだろうかと最初は不安だったが、車掌が現れる気配は一向になかった。
少年は少し安堵して、がたごとと揺れる椅子に身体を深く沈めた。この列車はどこに向かっているのだろう。終着駅に着くまで、夢から醒めないといい。そんなことを考えていると、窓の外の星空に薄ぼんやりとしたオレンジ色の光が現れたことに気付いた。
窓に手をついて外を覗くと、果てしなく続く銀河だったそこに、丘のような場所が現れていた。暗闇でよく見えないけれど、やわらかな牧草が伸びた丘のてっぺんに、素朴な家が立っていた。煉瓦造りのその小さな家の窓からの灯りが、オレンジ色の光の正体だと気付いたとき、列車がゆるりと減速して、停車した。
その家の灯りが、少年を呼んでいるような気がした。理由や根拠なんて、夢の中では意味を成さないだろうと、少年は心の赴くままに列車から飛び降りた。列車は少年を降ろすと、再びため息を一つ吐いて、夜の帳の中に消えていく。残されたのはオレンジ色の灯りの家と、
素朴な造りの扉に、鍵はかかっていなかった。
そっと押すと、オレンジ色の光があたりを照らすように広がる。大きな
少年が一歩踏み出したのと、暖炉横の通路から背の高い男が現れたのはほぼ同時だった。
「おやおや。あなたも迷子ですか?」
「……え、いや……」
「ちょうど良かった。お茶の相手が欲しいなと思っていたところです。ご一緒していただけませんか?迷子同士、おしゃべりでもしましょう」
「僕は迷子じゃありません」
自分を見上げてきっぱりと告げる少年に、驚いたように軽く目を見開いたのは一瞬で、男は
「迷子ではない、それではあなたはここがどこかご存知ということですか?」
「ここは僕の夢の中だよ」
「それは面白い。けれど、ここはあなたの夢の中ではありませんよ。一体どの時空のどの空間かは分かりかねますが、たしかに存在する世界です」
「僕の夢の中の人物のくせに、随分勝手に喋るんだね。君は誰?」
「これは失礼致しました。ジェイド・リーチと申します。ですが、ここは夢ではありません」
「その自信の根拠は?」
「僕は、空間を越える魔術の最中に、ここに辿り着いてしまったものですから」
「空間を越える…?ここに来るつもりだったの?」
「いえ……」
「ふーん、失敗したんだ。君、そんなに大きな身体だけど魔力はイマイチなんじゃないの?変身薬も使ってるみたいだけど、君、すっごく海の匂いがしてるよ」
「おや。僕が人魚であることを見破るとは。どうやらあなたも同種のようですね。ですが変身薬の匂いはしない。珍しい、人魚と人間の
「別に珍しくないだろ」
「場所が変われば、とても珍しい存在ですよ。悪い人に捕まれば研究材料として切り刻まれて、体の部位ひとつひとつをホルマリン漬けにされてしまう世界だってあります」
「ふーん。君もそうしたい?」
「いいえ。僕はこのお茶が冷める前にいただきたい。それだけです」
そう言って男は指先で握ったペンを音もなく振った。すると男の大きな手のひらに乗った
再び男がペンを振ると、少年の眼の前の椅子がそっと引かれた。
自分の夢の中なのに、どうやらこの謎の男のペースに巻き込まれていることが気に食わない気持ちになりながらも、少年は大人しく椅子に腰掛けてあたたかな紅茶を見つめる。
「冷めてしまいますよ。それとも、猫舌ですか?」
「……」
少年は男の質問には答えず、小さな音で指を鳴らした。
すると琥珀色の紅茶がゆっくりと乳白色に染まっていく。
「おやおや。まだケンブリックティーのお年頃でしたか。気遣い不足で申し訳ありません。蜂蜜をお持ちしましょうか?」
「うるさいな、にやにや笑うのをやめてくれない?蜂蜜はもういれた」
「ケンブリックティーを好むお歳の割には、素晴らしい魔力ですね」
「お父さんが教えてくれてるんだ。……僕だっていつか、蜂蜜もミルクも入ってないちゃんとした紅茶を飲めるようになる」
「蜂蜜やミルクの入った紅茶がちゃんとした紅茶ではない、とは思いませんよ。ですが、確かに茶葉によってはストレートでその葉の香りを楽しむのが一番美味しくいただけるものもあります。とはいえ、稚魚のあなたには香りよりもえぐみのほうがまだ強く感じてしまうかもしれませんね」
「僕は稚魚じゃない!!」
少年のあげた大声に応えるように、暖炉の中で薪がひとつ大きく爆ぜた。
男は、悔しさで頬を染める少年を微笑んだまま見つめている。少年はその顔が嫌だった。少年の稚さを、慈しむような、憐れむような。大人特有の、心の内が読めない表情。その表情は嫌というほど覚えがある。
少年の父親も、紅茶が好きだった。父親の淹れる紅茶は絶品で、気難しい取引相手すら彼の紅茶を一口飲み下せば、その態度を緩ませるという評判を父親の幼なじみであり、父親の勤め先の社長であるひとからも聞いたことがある。
父親は家族にも惜しまずその紅茶をふるった。
けれど少年は、どうしてもストレートの紅茶が苦手だった。眼の前の男が言うように、香りよりもえぐみが舌先に感じられてどうしても美味しく感じられない。
それでも少年は、尊敬する父親の愛する紅茶というものを心から味わえるようになりたくて、無理をして、飲み込む。だが父親にはすべてお見通しで、そんな少年にこの男のような、本心の分からない微笑みを浮かべてぱちんと指を鳴らし、少年のカップの琥珀色を乳白色に変える。
「あなたが、僕のために無理しなくていいんです。お酒を好むひとは、我が子との晩酌を心待ちにするといいますが…僕はあなたといつかストレートの紅茶の美味しさを共に分かち合う日を人生の楽しみにしているんですから。早々に奪わないで。それに僕は、ケンブリックティーも大好きです」
そう言って少年の髪を撫でる父親の手のひらはひどく優しかったけれど、その度に少年は父親をがっかりさせている気分になった。
「僕は稚魚じゃない。ストレートの紅茶だってちゃんと飲めるんだ」
少年は甘くて薄い紅茶をひと息で飲み干すと、ティーポットから新たに紅茶を注いだ。茶葉が蒸された紅茶は、先ほどよりも濃い色をしている。まるで苦薬を飲み込むかのように、少年はごくりと大きな音を立てて、一杯目よりもはるかに濃くえぐみの増した紅茶を飲み下した。
そして男に挑むような目を向ける。
「…フ、フフ……あなたのその向こう見ずな負けず嫌い……僕はとても好きです。懐かしいひとを思い出しますね」
「笑うなって言ってるでしょう!!懐かしいひとって誰のことです?」
「長い話になります」
「良いじゃない。夜は長い。まだ僕は眠っていたい、この夢を見ていたい。聞いてあげます」
「憎たらしい稚魚ですね。でも、そうですね。仰るとおり夜は長い。あなたが誰かも分かりませんが、秋の夜長におしゃべりはぴったりです。ところで、お名前を伺っても?」
「僕の名前は……」
答えようとして、少年ははたと言葉を止めた。不思議なことに、自分の名前が思い出せない。
自分は人魚と人間の
「どうしました?」
「僕は……」
その時ふと、窓の外に深い紫の花が星あかりに照らされて咲いているのが、少年の目に入った。
この家の裏庭に面している窓の向こう、庭と線路のへりなった芝草の中に、月長石で刻ざまれたような紫のりんどうの花が咲いていた。
「リンドウ……僕の名前はリンドウ」
「……素敵な名前ですね。おや、この庭にもリンドウが。もうすっかり、秋ですね」
「自己紹介は済んだでしょう。あなたの話を聞かせてよ」
「承知しました。その前にお茶をもう一杯。だいぶ濃くなってしまいましたね。これにはミルクと蜂蜜がぴったりです」
「……嫌味な奴って言われない?」
「よく、言われます」
男は楽しげに笑って二杯目の紅茶にたっぷりのミルクと蜂蜜を注ぐと、すきっと伸びた背筋のまま語り始めた。
「僕は魔法士を育成する学校に通う学生です。そこは闇の鏡に選ばれし者たちが集う学び舎。あなたも魔力があるということは、親族に魔法士がいらっしゃるのでしょうから話を聞いたことがあるのでは?
そこで僕は、恋をしました。相手は魔力を一切持たず、異世界からやってきた少女。驚きました?ええ、僕たちも驚きましたよ。詳しい経緯は誰にもわかりません。とにかく彼女は異世界から僕たちの世界にやってきて、帰る術を探しながらもこの世界で生活して…そして、僕と恋に落ちた」
「元の世界に帰りたいのに、君と恋に落ちたの?それって、」
「愚かですか?そうかも知れません。僕自身も、まさかこんな形の恋をするなんて思ってもみませんでしたから。ヒトと人魚という種族の違いだけでなく、生きる時空まで違う二人の恋。おとぎ話なら悲劇になるでしょうか?それともめでたしめでたし?」
「その結末を知ってるのは君でしょう。いいから続きを聞かせてよ」
「憎たらしい稚魚だって言われませんか?」
「さっき君に言われたのが初めてだよ」
「おやおや、それは失礼を。そう急かさないで。夜はまだ長いのですから。……彼女は、そうですね。とても不思議なひとでした。魔力もこの世界の常識も持たない、海ならばすぐに丸呑みにされてしまうであろう雑魚。けれども、どうしてだか人を惹きつける。人だけでなくトラブルも惹きつけやすい性質のようでしたが、その度に彼女の聡さや、呆れてしまうほど負けず嫌いなところ、向こう見ずだけれど、信じたくなってしまうような芯の強さを目の当たりにして。僕はすっかり彼女に夢中になってしまったんです。そして幸運なことに、彼女もまた、僕の気持ちに応えてくれた。いじらしく、かわいらしい恋の物語です」
「…その惚気、いつまで続くの?」
「あなたが話せと言ったのに…酷いです。シクシク……」
「その泣き真似、騙される人いる?」
「つれない方。安心してください。素敵な恋の物語はここでおしまいです。やがて彼女は、元の世界に帰る術が見つかって、帰ってしまいました」
「帰った……?君を置いて?」
「ええ、仕方ありません。彼女の重荷には、なりたくありませんでしたから」
「でも、だって……君は、帰ってほしくなかったんじゃないの?」
「そうですね……でも彼女の人生です。彼女が帰ると決めたのなら、見送るしかありません。とはいえ、人魚は執念深い生き物。ですからこうして、空間を越える魔術を見つけて彼女を探そうとしたのですが」
「失敗して、僕の夢にきた」
「あなたの夢の中という意見には賛同できかねますが、失敗したという点は認めざるを得ません。希少な材料はすべて揃えて、星の巡りも完璧だったのですが、仕上げの材料である人魚の涙の質が少々…まずかったのかも知れません」
「人魚の涙?」
「ええ、裏市場では高値で取引されるという噂の人魚の涙。恋に落ちた人魚が、恋する人を想って流した涙です」
「それなら、君がぴったりのものを創り出せるじゃない」
「ええ……スパイスを吸い込んで無理やり流した涙だったから、針路が狂ったのかも知れません」
「……馬鹿なの?なんでそんなやり方したんですか。君がその人を想って涙を流せばいい、簡単なことじゃない」
少年が呆れたように言うと、男の
「僕は、彼女が居なくなってから、泣けなくなってしまったんです」
「………そんな、」
「苦心して得た材料と魔力を削った挙げ句、よく分からない場所に飛ばされて途方に暮れていたところこの家を見つけました。ひとまずお茶を淹れて考えようと思っていたら、あなたが現れたというわけです」
「よくそんな状況でお茶を飲もうなんて思いましたね」
「途方に暮れていましたから。一杯のお茶は、頭の整理にぴったりなんですよ。それにしても、あなたの匂いを感じた時は幸運に感謝しましたが……ぬか喜びでしたね。人魚の血が流れてるとはいえ、恋には縁遠い稚魚。人魚の涙は手に入りそうもない。残念です」
「君、友達いないでしょう」
「海育ちですから。やるか、やられるか。海では気を許した次の瞬間、相手の胃袋の中です」
「そんなふうに生きてたのに、好きな人には逃げられちゃったんだ」
「あなた、友達いないでしょう。……さて、これで僕のお話はおしまいです。次はあなたの話を聞かせてください。リンドウさんは、どうやってこの場所に?」
男が首を傾けて少年に尋ねる。
物腰は丁寧なのに、決して舵を取らせない。男の思う速度で、男の思う方位にしか進ませない。そのやり方は、まさに海の生き物のそれだった。自分の夢の中であるのに、まるで少年が男のテリトリーに迷い込んでしまったかのようで、不服だった。
けれどもあの列車に乗ったのも、この家に入ったのも、すべて少年の意思だ。ここは自分の夢。ならば悪いようにはならない。なったとしても、目が醒めれば全て消えてなくなるのだから。だったらもう少しだけ、この男の舵に身を任せてみようと、少年は背筋を伸ばした。
「言ったでしょう?ここは僕の夢の中だって。夜中に家の屋根に登って、そのまま眠ってしまって…そうしたら夢の中に、夜空を走る鉄道が現れた。それに乗り込んで、この家を見つけて降りた。そうしたら君、ジェイドさんがいた。それだけです」
「おや、やっと名前で呼んでくださいましたね。それにしても夜中に屋根に登るなんて……なぜそんなことを?」
「別に……ただ一人になりたいときにそうしてるんです」
「危ないじゃないですか。夜中にベッドを抜け出すなんて、ご両親が心配しますよ」
「しないよ……僕は頭痛の種なだけ」
「そう言われたのですか?」
「言わない。でも二人とも、きっとそう思ってる。僕はお母さん似なんだ。髪の色も目の色もお母さんと同じ。お母さんは人間で、ジェイドさんの恋人と同じで魔法は使えない。でも、どんなときでもどんな人でも、楽しく優しい気持ちにさせる人。お父さんは人魚で魔法士で、とっても強くて賢い。みんなに頼りにされてる。でも僕は……お母さんみたいに人を楽しませることもできないし、魔力だって人並みだもん。本心では二人共がっかりしてるんだ」
少年は言葉を切って、唇を噛み締めた。語りながら涙が零れ落ちそうだった。けれどこの男の前で泣くのは、少年の小さなプライドが許さなかった。唇を噛み、拳を握りしめて、必死に涙を落とさないように耐えた。
その時男が、席を立ち、お茶のおかわりをと言って通路に消えた。少年はホッとして、ついに零れ落ちた一雫の涙を袖口で拭う。
誰にも言えなかった、心の内をさらけ出して、すっきりしたような、恥ずかしいような、落ち着かない気持ちだった。あの男は、自分の夢の中の人物だから。この気持ちを知られたとしても、目が醒めれば消える相手。だから大丈夫だと言い聞かせて、手のひらで頬を軽く叩く。涙が完全に乾いたところで、男が湯気をあげるポットを手に戻ってきた。
今度はミルクから煮出したのだろうか。ポットから注がれる紅茶は初めから乳白色をしていて、ほのかに甘い香りが漂う。
少年がそれを飲み下すのを見てから、男が口を開いた。
「リンドウさんは、なぜご両親があなたに失望していると思うのですか?」
「……もうすぐ、弟か妹が産まれるんだ」
「それはそれは、おめでとうございます」
「お母さんはそれで疲れやすいし、お父さんも仕事で忙しいのに家のこともやって……大変だから、僕は、手伝わなきゃって思って。……でも、助けようと思ってやったことは全部失敗。うまくいかない。助けるどころか、余計な手間を増やしてしまう。二人の力になりたくて、僕がいて助かるよ、ありがとうって言われたくて……やればやるほど、逆効果」
「いじらしいですね。ですが、余裕がない時に手間が増えるのは確かに厄介です」
「ほらね、そうでしょう。きっと二人もそう思ってる。もし、産まれた弟か妹が僕よりもうんと良い子で、魔力も強くて、賢かったら?お父さんもお母さんも、僕なんてどうでも良くなる。僕なんかより、その子を好きになる。だったらそうなる前に嫌われたほうが苦しくないやって思って、今日お父さんにひどいこと言ったんだ。そうしたら怒らずに、ため息つかれた。……僕に愛想を尽かしたんだ」
「……なんて退屈なお話なんでしょう。驚きました」
男が小さく呟いた言葉に、少年は顔をあげた。
男は、人を苛立たせるような慇懃さを携えた微笑みを浮かべて、肩を震わせていた。金とオリーブの瞳に憐れみ、蔑み、苛立ちを滲ませて鋭く少年を射抜く。少年は一瞬言葉を失い、そして遅れてやってきた怒りに背中がびりびりと燃えるような心地がした。
「ジェイドさんに何が分かるんですか!!」
「分かりますよ。まるで稚魚だ。傷つく前に傷つけてしまえ。なんて、愚かなんでしょう。僕を見て、気づいて、抱きしめてと望みながら、逃げ出して。本当の気持ちを隠しているのはあなたなのに、それに気付かないご両親の心を勝手に決めつけて被害者ぶっている。本当に退屈なお話です。もっと楽しいお話が聞けると思っていたのですが……残念です。ねえ、リンドウさん。あなたは一言でもご両親に言いましたか?寂しいと。言っていないでしょう。どうしてですか?」
「……っ…っうるさい!!ジェイドさんだって、ジェイドさんだって、言ったんですか?!その人に、行かないでって一言でも言ったんですか?!」
「それは……」
「言ってないでしょう!行かないでって言って、拒絶されるのが怖いから!だから、負担になりたくないからなんて耳ざわりの良い言葉で誤魔化して…本当は帰ってほしくなかったくせに!でもその本心を言って、断られたら怖いから、立ち直れないから、傷ついてしまうから、言えなかったんだ!!だから泣けないんですよ!!悲しみに蓋をして見ないふりをして!あなただって稚魚だ!臆病で、ワガママで、どうしようもない稚魚だ!僕と一緒だ!!!!」
少年は立ち上がり、男の傍で怒鳴った。怒鳴りながら、大きな涙を幾粒も流して。とめどなく流れるそれはまるで天の川のように少年の頬を伝い、オレンジ色の灯りにきらきらと輝く。
少年の言葉はやがて嗚咽に変わり、小さな拳で男の胸を幾度も叩きながら、ただひたすら泣きつづける。夜の銀河に、少年の少年らしい無垢な泣き声が、鐘の音のように響き渡っている。
男は少年にされるがまま、乱れた髪が色違いたがいの瞳を隠している。
「言えない……言えるわけない、でしょう……僕にとって、かけがえないたった一人のひと、その人に全てを捨てて僕を選んでほしいなんて、それを伝えて、拒絶されたら、僕はどう生きたらいいのか、分かりません……言えるわけ、ないでしょう……」
男の掠れたような声に、少年はようやく顔をあげた。
見上げた男の顔から、先ほどまでの慇懃な微笑みは消えていて。ひどく疲れ切ったような表情で胸に当てられた少年の拳をそっと握って降ろさせた。
「……でも、諦めきれないから追ってきたんでしょう……」
「ええ、失敗してしまいましたが……。リンドウさんの仰るとおり、愚かで臆病なのは僕も同じですね。僕は彼女の心を永遠に失うのが怖くて、自ら手離した。そして往生際悪く、こうして世界と世界の狭間で迷子になっている。……どうしようもない稚魚です…もう一度会えたら、本心を伝えるのにそれすらももう、許されない……」
「ジェイドさん……」
「どうしてあなたが泣くんですか」
「分かりません…でも、気持ちがわかるから…傷付くのが怖いっていう気持ち……」
「……そうですね、とても、怖いです。知っていますか?この銀河のどこかには、巨大な暗い孔があいているんです。ブラックホールといいます。その底がどれほど深いか、その奥に何があるか、分かりません。眼をこすって覗いても、なにも見えず、ただ眼がしんしんと傷むだけ。それでも見つめていると、やがてそれに呑まれてしまうような予感がするんです。僕は、彼女を失ってしまうと思ったとき、その孔を覗いてる心地でとても怖かった。その孔に落とされる前に、逃げ出した。もしかしたら、その孔を二人で渡る方法があったのかもしれないのに。でもそれを拒絶されるのが怖くて、笑って、送り出したんです。……彼女がそれで、傷付くかもしれないことは見ないふりをして……」
ふと男の声が、かすかに湿り気を帯びる。すると少年の額に、あたたかななにかがぽつりと降ってきた。
「ジェイドさ……」
「え……?」
少年の額にぽつり、ぽつりと降り注ぐあたたかな雫。それは男の金とオリーブの瞳から流れ出していた。男は、虚を突かれたように瞳を瞬かせ、長い指先で頬を伝う雫を掬い、黙したままそれを見つめた。
少年もまた、息を呑んで透明の雫が零れ落ちる様を見ていた。
「ジェイドさん!!涙です!ジェイドさんが泣いているんですよ!!」
「まさか……そんな、」
「ほら、そんなぼうっとしてないで、早く涙壺を出してください!希少な材料なんですから!」
「ええ……、そうでした」
男は少年に急かされるようにしてポケットから珊瑚で作られた小指の先程の小瓶を取り出す。
濡れた睫毛の縁に小瓶をあてがうと、一雫、また一雫と透明の涙が小瓶に落ちていった。小さな小瓶は瞬き三度ほどでいっぱいになり、少年はきゅっと音を立てて蓋を閉める。男はまだ呆けたように栓をされた小瓶をただ見つめていた。
「ジェイドさん、泣けましたね」
「ええ、泣けました」
「これで、会えますね」
「ええ、会えます」
「ふ、ふふ……ふふふ」
「なにが可笑しいんですか……フフ、ああ、僕まで、フフ、フフフ……移ってしまいました…フフ困りましたね…」
男と少年は、壊れたラヂオのようにひたすら笑い、涙を流した。地べたに座り、額を互いに預けて、まるで旧くからの友人同士のように。
ひとしきり泣き笑ったあと、どちらともなく立ち上がり、互いにすきっとした顔で向き合う頃には東の空がほのかに白み、明けの明星が姿を現していた。
「これから、薬の調合をします。でもその前に喉が乾いたので紅茶を淹れようと思うのですが。リンドウさんもお付き合いいただけますか?」
「いいですよ」
「では、お湯を沸かしてきますね」
「あ、ジェイドさん。ミルクも蜂蜜もなしで」
「おや、そんな背伸びをしなくても」
「背伸びじゃありません。ストレートを飲みたい気分なんです」
「承知いたしました。美味しく淹れさせていただきます」
やがて男が運んできた紅茶は、花と果実の香りの湯気をあげていて、その香りは少年の泣き腫らし、笑い疲れた身体に心地よく滲みていくようだった。
「いただきます」
「熱いのでお気をつけて」
「……」
「いかがですか?」
「……おいしい」
少年が、目を見開いてそう言うと、男は満足げに微笑んだ。その微笑みは、なんの含みもないもので。少年はなぜか懐かしい親しみのような感覚を感じた。その理由を探ろうとしても、靄がかかったように、遠のいていく。
「光栄です」
「ありがとう、ジェイドさん」
「こちらこそ、リンドウさん」
その時、遠くの方から汽笛の音が響いた。車輪が線路を滑る地響きのような振動が、二人のいる家をかすかに震わせる。
「あれに乗らなきゃ」
「帰るんですね」
「起きないと、お父さんとお母さんが心配するから」
「そうでした。ここはあなたの夢の中、でしたね」
「そうだよ。僕は家に帰る。夢から目覚めないと。ジェイドさん、君はちゃんと、今度は間違えないで。その人のところに行くんだよ」
「ええ、次は迷子にはならなそうです」
「それじゃあね。その人に弱虫ジェイドさんをよろしくって伝えて」
「まったく憎たらしいな稚魚ですね」
「迷子になって大泣きした大きな人魚に言われても痛くも痒くもないよ」
「目覚める前に、ホルマリン漬けになってみますか?」
「遠慮しとく」
大きなため息のような音がして、窓の外に鉄道の巨大な身体がゆっくりと停車する。
少年は、男に手を差し出した。男は、慇懃な仕草でその手を握り、大人にするように丁寧にお辞儀をした。
家の外に出ると、夜の
一度だけ振り返って男に会釈をして、少年は列車に乗り込む。
「あ……」
少年を呑み込んだ列車がゆったりと加速を始めたその瞬間に、少年は全てを思い出した。
自分の本当の名を。母親と父親の顔を。名前を。そして、出会った男ジェイドが誰であるかも。
「……………!」
テノールの声が、汽笛の向こうに響く。
思い出したのは、男もまた同じだった。テノールの声は、少年の名を呼んでいた。本当の名を。
既に丘の家は遠く、ジェイドの姿も指先ほどの大きさになっている。少年は窓をあけ、その隙間から身を乗り出した。
ジェイドが何かを叫んでいる。けれど、汽笛の音に邪魔をされてその言葉は聞き取れない。
「またね!!お父さん……!!ちゃんとお母さんを見つけるんだよ!じゃないと、僕もお父さんと会えないんだから!!またね、また、きっと、必ず会わせてね、二人に!!」
少年の言葉がジェイドに届いたかは分からない。けれど少年は満足だった。紅色の布張りの椅子に背中を預けて、そっと瞳を閉じる。
目覚めたら、父親にまず謝ろう。そして、紅茶を淹れてもらおう。ストレートで飲みたいと言ったら、彼は喜ぶだろうか。それから、ちゃんと伝えよう。寂しかったこと、それを言えずにいたこと。そして、愛していると。
銀河を駆ける列車の線路に沿って、すばらしい紫のりんどうの花が咲いている。
列車は少年を乗せて、夜明けという終着駅へ向かって速度を上げた。
End.