9月/溺れる人魚
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Flower Dictionary
睡蓮/water lilies
スイレン科
花言葉…信頼
多年生の水草であり、地下茎から長い葉柄を伸ばし、水面に浮水葉を浮かべる。花は大型で水面上または水上に抜け出て開花する 。
学名のNymphaeaはギリシアの水の精nymphニンフに由来し、ヨーロッパには花を摘み取ろうとするとニンフによって水中に引きずり込まれるという伝説がある。
─さよならだけが 人生ならば
めぐりあう日は何だろう《寺山修司》─
《溺れる人魚》
しとしとと銀色の雨が降っていた。
頬に落ちてくる雫の温度も、大きさも、速度も変化しない。強まることも弱まることもないそれは、やがて僕の足首まで呑んで。
それでも僕はただ立ち尽くしていた。
足元には降り注ぐ雨が水たまりをつくっていく。それはゆっくりと、けれど確実に水位を深めていって。水面に雫があたる湿った破裂音を意識したときには、僕のみぞおち辺りまでの深さになっていた。
唇に伝ってきた雫はかすかに塩辛い。
ここは海なのかもしれない。そう思った瞬間に下半身に違和感を感じた。視線を落とすと、さきほどまで衣服と靴に包まれていた二本の足は消え、代わりに吸盤のついた足腕が水の中を悠然と漂っている。それを見てやっと、僕はこれが夢の中だと気付いた。
人魚の姿になるのは久しぶりだった。
滑らかな水の感触に、ひくりと脚先が疼く。
水を蹴る。透明なあぶくが視界の端を横切る。
思うままに雨でできた海を揺蕩っていると、かすかに甘い香りが鼻をかすめた。本物の海の中で香りを感じることはないけれど、これは夢の中の海だから。
水分をたっぷり含んだような、どことなく気怠い甘さの香りの方へ進んでいく。
香りがいよいよ強くなって水面から上半身を出すと、ボロボロに朽ちかけた小船が浮かんでいた。
その船に、少女が座っていた。
肩を震わせて泣いている少女のことを知っている気がするのに、思い出せない。生まれては消える泡沫のように。記憶の輪郭を辿ろうとするそばから弾けて遠のいてしまう。
彼女の白い頬を伝って流れ落ちる雫が、音もなく水面に溶けていく。
一定の大きさの雫は、一定の速度で降り続ける。僕が雨だと思いこんでいたのは彼女の涙で、僕が海だと思いこんでいたのは零れ落ちた彼女の涙が溜まったものだった。
彼女の姿があまりにも心もとなく儚げで、水をかいて手を伸ばす。
けれども、透明な水が重さを持ち始めて、僕の行く手を阻んだ。藻掻けば藻掻くほど、彼女との距離が開いていく。
気付けば穏やかだった水面に激しい渦潮が生まれて、僕の身体を呑み込んでいた。
ああこれは夢なのだと、僕は改めて思った。人魚が水で溺れるなんて、現実には不可能なのだから。
白く泡立つ水に視界が覆われて、甘い香りが消えていく。
彼女は最後まで、僕に背中を向けて泣いていた。
彼女を思い出せないのが悔しくて、涙を止めてやることが出来ないのがかなしくて、苦しい。
あぶくの向こうの彼女が光に包まれて、やがて消えた。
「待って、行かないでください!」
そう叫んだ筈なのにどうしてだか喉から鳴り出たのは人魚の言葉で。きっと、彼女には届いていない。
冷たい雫が頬を伝う。僕は彼女の涙の海で泣きながら沈んでいく。
彼女が消えたボロボロの船の上には、代わりに睡蓮の花が咲いていた。
かすかな衣擦れの音と、剥き出しの腕にかかっていた重みが消えて、僕は瞼を持ち上げた。
眼鏡をかけていない薄ぼんやりとした視界の中で、愛しいひと─かつての監督生さん。今は僕の妻であるひとが、身体を起こしてベッドのすぐ脇にある窓の外を見つめていた。
その背中が夢の中の姿と重なって。僕は夢の人物が彼女であったと今更ながら思い出す。途端に、慣れた筈の陸での呼吸の仕方を忘れてしまったかのように胸が苦しくなった。
「アズールさん?」
背後から縋るように抱き締めて、彼女の首に顔を埋める。彼女は一瞬驚いたけれど、されるがままに、僕の胸にその背中を柔らかく預けた。あたたかな体温と、慣れ親しんだ香りを逃したくなくて、僕はさらに回した腕に力を込める。
「怖い夢でも見ましたか?」
「ええ、とても怖い夢を」
「大丈夫、夢は夢だから」
「……なにを見ていたんですか?」
「急に目覚めてしまって。少し、雨の音を聞いていました」
「……何を想って」
「これまでと、これから」
「そのこれからに、ちゃんと僕はいますか」
「当たり前でしょう。病めるときも、健やかなるときも、喜びのときも、悲しみのときも、そしてアズールさんが、陸で溺れそうになったときも。私に掴まってくれたら、息がしやすい場所にちゃんと連れて行ってあげますから」
「あなたにはなんでもお見通しだ」
「アーシェングロット夫人だもの」
そう言って彼女はゆっくり振り返って、僕の瞼にキスを落とした。眼尻が濡れていることにも、きっと気付いている。
抱き締めていたのは僕なのに、回された手はまるで幼い子供をあやすように慈愛に満ちた動きで背中を撫でた。
彼女の香りと体温と、ゆっくりとしたその愛撫を閉じた瞼の暗闇の中で感じているうちに、少しずつ呼吸の仕方を思い出す。胸の苦しさも、喉の詰まりも、背中を走る焦燥感も、徐々に薄れていく。
人魚のくせに溺れるなんて、滑稽だ。
彼女に出逢うまで、愛しさを知った身体がこんなに重くなることを知らなかった。
彼女と過ごす日々は穏やかで満ち足りたものだけれど。
積み重ねた日々や、大切なものが増えるとこうやって時おり、呼吸の仕方や脚の動かし方が分からなくなる。
海の中で、確かに目の前に存在して指先や鰭に触れる水を掴もうとしても決して掴めず、握った傍から溢れ流れていくように。
彼女との幸せがそこにあるのに、いつか溢れていってしまうのではないかと途方もない不安感に襲われて。僕は、溺れる生き物がするように藻掻いて、身体の中に流れ込む不安を吐き出そうと必死になる。ここは陸だから、ジタバタと無様にのたうつ手足にまとわりつく海藻も、呼吸を奪って肺を満たす冷たい水も存在しないのに。
「もう少し、このままで」
「はい、もちろん」
彼女の首に顔を埋めたままつぶやいた声は掠れていて。僕はもう一度、両腕で彼女の身体を抱く。僕たちの間に隙間ができないように。ぴったりと、腕の中に閉じ込める。彼女は大人しくされるがまま。
睡蓮は。
水の精の化身と言われて一部の地域では恐れられているそうだ。
花の美しさに魅せられて摘み取ろうと手を伸ばした者を、水中に引きずり込む水魔。
でも僕は人魚だから、怖くない。
睡蓮の彼女は、泣きながら陸で溺れる僕をやさしく、心地よい水中に沈めてくれる。
だから今は、もう少しだけ。夢の余韻を夜の闇が包んで消し去るまで。こうして、確かに在る最愛と幸福を腕の中に囲っておくことを、赦されていたい。
─愛は海のようにひろく。ふかく。ここちよく。
そしてときたま、くるしい。
End.
睡蓮/water lilies
スイレン科
花言葉…信頼
多年生の水草であり、地下茎から長い葉柄を伸ばし、水面に浮水葉を浮かべる。花は大型で水面上または水上に抜け出て開花する 。
学名のNymphaeaはギリシアの水の精nymphニンフに由来し、ヨーロッパには花を摘み取ろうとするとニンフによって水中に引きずり込まれるという伝説がある。
─さよならだけが 人生ならば
めぐりあう日は何だろう《寺山修司》─
《溺れる人魚》
しとしとと銀色の雨が降っていた。
頬に落ちてくる雫の温度も、大きさも、速度も変化しない。強まることも弱まることもないそれは、やがて僕の足首まで呑んで。
それでも僕はただ立ち尽くしていた。
足元には降り注ぐ雨が水たまりをつくっていく。それはゆっくりと、けれど確実に水位を深めていって。水面に雫があたる湿った破裂音を意識したときには、僕のみぞおち辺りまでの深さになっていた。
唇に伝ってきた雫はかすかに塩辛い。
ここは海なのかもしれない。そう思った瞬間に下半身に違和感を感じた。視線を落とすと、さきほどまで衣服と靴に包まれていた二本の足は消え、代わりに吸盤のついた足腕が水の中を悠然と漂っている。それを見てやっと、僕はこれが夢の中だと気付いた。
人魚の姿になるのは久しぶりだった。
滑らかな水の感触に、ひくりと脚先が疼く。
水を蹴る。透明なあぶくが視界の端を横切る。
思うままに雨でできた海を揺蕩っていると、かすかに甘い香りが鼻をかすめた。本物の海の中で香りを感じることはないけれど、これは夢の中の海だから。
水分をたっぷり含んだような、どことなく気怠い甘さの香りの方へ進んでいく。
香りがいよいよ強くなって水面から上半身を出すと、ボロボロに朽ちかけた小船が浮かんでいた。
その船に、少女が座っていた。
肩を震わせて泣いている少女のことを知っている気がするのに、思い出せない。生まれては消える泡沫のように。記憶の輪郭を辿ろうとするそばから弾けて遠のいてしまう。
彼女の白い頬を伝って流れ落ちる雫が、音もなく水面に溶けていく。
一定の大きさの雫は、一定の速度で降り続ける。僕が雨だと思いこんでいたのは彼女の涙で、僕が海だと思いこんでいたのは零れ落ちた彼女の涙が溜まったものだった。
彼女の姿があまりにも心もとなく儚げで、水をかいて手を伸ばす。
けれども、透明な水が重さを持ち始めて、僕の行く手を阻んだ。藻掻けば藻掻くほど、彼女との距離が開いていく。
気付けば穏やかだった水面に激しい渦潮が生まれて、僕の身体を呑み込んでいた。
ああこれは夢なのだと、僕は改めて思った。人魚が水で溺れるなんて、現実には不可能なのだから。
白く泡立つ水に視界が覆われて、甘い香りが消えていく。
彼女は最後まで、僕に背中を向けて泣いていた。
彼女を思い出せないのが悔しくて、涙を止めてやることが出来ないのがかなしくて、苦しい。
あぶくの向こうの彼女が光に包まれて、やがて消えた。
「待って、行かないでください!」
そう叫んだ筈なのにどうしてだか喉から鳴り出たのは人魚の言葉で。きっと、彼女には届いていない。
冷たい雫が頬を伝う。僕は彼女の涙の海で泣きながら沈んでいく。
彼女が消えたボロボロの船の上には、代わりに睡蓮の花が咲いていた。
かすかな衣擦れの音と、剥き出しの腕にかかっていた重みが消えて、僕は瞼を持ち上げた。
眼鏡をかけていない薄ぼんやりとした視界の中で、愛しいひと─かつての監督生さん。今は僕の妻であるひとが、身体を起こしてベッドのすぐ脇にある窓の外を見つめていた。
その背中が夢の中の姿と重なって。僕は夢の人物が彼女であったと今更ながら思い出す。途端に、慣れた筈の陸での呼吸の仕方を忘れてしまったかのように胸が苦しくなった。
「アズールさん?」
背後から縋るように抱き締めて、彼女の首に顔を埋める。彼女は一瞬驚いたけれど、されるがままに、僕の胸にその背中を柔らかく預けた。あたたかな体温と、慣れ親しんだ香りを逃したくなくて、僕はさらに回した腕に力を込める。
「怖い夢でも見ましたか?」
「ええ、とても怖い夢を」
「大丈夫、夢は夢だから」
「……なにを見ていたんですか?」
「急に目覚めてしまって。少し、雨の音を聞いていました」
「……何を想って」
「これまでと、これから」
「そのこれからに、ちゃんと僕はいますか」
「当たり前でしょう。病めるときも、健やかなるときも、喜びのときも、悲しみのときも、そしてアズールさんが、陸で溺れそうになったときも。私に掴まってくれたら、息がしやすい場所にちゃんと連れて行ってあげますから」
「あなたにはなんでもお見通しだ」
「アーシェングロット夫人だもの」
そう言って彼女はゆっくり振り返って、僕の瞼にキスを落とした。眼尻が濡れていることにも、きっと気付いている。
抱き締めていたのは僕なのに、回された手はまるで幼い子供をあやすように慈愛に満ちた動きで背中を撫でた。
彼女の香りと体温と、ゆっくりとしたその愛撫を閉じた瞼の暗闇の中で感じているうちに、少しずつ呼吸の仕方を思い出す。胸の苦しさも、喉の詰まりも、背中を走る焦燥感も、徐々に薄れていく。
人魚のくせに溺れるなんて、滑稽だ。
彼女に出逢うまで、愛しさを知った身体がこんなに重くなることを知らなかった。
彼女と過ごす日々は穏やかで満ち足りたものだけれど。
積み重ねた日々や、大切なものが増えるとこうやって時おり、呼吸の仕方や脚の動かし方が分からなくなる。
海の中で、確かに目の前に存在して指先や鰭に触れる水を掴もうとしても決して掴めず、握った傍から溢れ流れていくように。
彼女との幸せがそこにあるのに、いつか溢れていってしまうのではないかと途方もない不安感に襲われて。僕は、溺れる生き物がするように藻掻いて、身体の中に流れ込む不安を吐き出そうと必死になる。ここは陸だから、ジタバタと無様にのたうつ手足にまとわりつく海藻も、呼吸を奪って肺を満たす冷たい水も存在しないのに。
「もう少し、このままで」
「はい、もちろん」
彼女の首に顔を埋めたままつぶやいた声は掠れていて。僕はもう一度、両腕で彼女の身体を抱く。僕たちの間に隙間ができないように。ぴったりと、腕の中に閉じ込める。彼女は大人しくされるがまま。
睡蓮は。
水の精の化身と言われて一部の地域では恐れられているそうだ。
花の美しさに魅せられて摘み取ろうと手を伸ばした者を、水中に引きずり込む水魔。
でも僕は人魚だから、怖くない。
睡蓮の彼女は、泣きながら陸で溺れる僕をやさしく、心地よい水中に沈めてくれる。
だから今は、もう少しだけ。夢の余韻を夜の闇が包んで消し去るまで。こうして、確かに在る最愛と幸福を腕の中に囲っておくことを、赦されていたい。
─愛は海のようにひろく。ふかく。ここちよく。
そしてときたま、くるしい。
End.