タロウくんとソノイくんのふたりごはん。


食パン。


ひとりぐらしを始めてから、桃井タロウはあまり自炊というものに熱心にはなれなかった。なんでも人並み以上に熟せる自負はある、事実そうでもある、専門家はさておき家庭で作るレベルでなら満点のものは作れる、のだが。とにかく己のためだけの食というのは味気なく、腹が脹れても「満ち」ない。持ち帰り弁当や惣菜パンの方が遥かにマシで、だからほとんど台所を活用しなかった。
そんな生活が変わったのは、ソノイとの出会いがあってから。うんぬんかんぬん紆余曲折を経て交際ということになり、それまでただ設置されていただけの調理器具にも活用機会が一気に増えた。主に使用者はソノイで、目的もだいたいはおでんであったが。


(……食パン、か。そういえば食べさせていないな)
水曜の昼。同僚が巨大な……ほぼ1斤あるのでは?というサイズのパンをむしりながら頬張っているのを見るともなしに眺めて、ふと思いついたのはそんなことだった。なんでも最近人気の食パン専門パン屋で、チーズ入りや餡子、抹茶などの味付きからプレーンなものまで日替わりであり、夕方前にはほぼ売り切れる、とか。
「うまいのか」
「そりゃもう! ふつーにそのままでもうめぇけど、トーストしたりすると最高だ。このチーズ味ようやく買えたんだ」
「そうか」
「なんだ桃井、お前も欲しかったか? 言ってくれりゃあついでに買ってきてやったのになぁ」
「あ、プレーンなやつなら夕方でも買えるぜ多分。日替わり限定は早めじゃないと厳しいけどなー」
「そうか。帰りに寄ってみる」
口々に言う同僚達から詳しい場所やオススメの味、調理方法などを聞き、脳裏にメモする。独り立ちしてから惣菜パン以外はあまり縁が無かった、こどもの頃の記憶ではジャムを塗ったりした気がする、食事にするならしょっぱいものの方がいいのだろうか、パンとあわせてそういったものも買ってみよう。
思い浮かべるのは美しい蒼。
今日は水曜。ふたりで、ソノイのたべたことのないものを一緒に食べる日。
喜ぶだろうか。喜ぶといい。


小さな間口。こじんまりした店構え。ガラス張りの扉には、店内にはいちどに3組まで、との注意書きが貼られている。店頭の黒板には『本日のパン』の種類と焼き上がり予定時間。いくつかは既に売り切れと書かれている、なるほど人気店というのは事実なのだろう。
時間帯なのかすぐに入ることができた店内にはふんわりと香ばしいパンの匂いが漂っている。物珍しくてきょろりと見回すと、パンがあるのは基本的に店の奥で、客が直接手に取れるのはジャムやバターなどの密封商品だけのようだ。レジ奥、棚の上には袋の上をあけたままのパンがいくつか鎮座している。
「いらっしゃいませ、ご注文は?」
「ホテルパン1斤、6枚切りで」
「チーズパンは完売? ならイギリスパン8枚切り、耳落として」
笑顔の店員に対し先客はすらすらとなにやら応えている。作法があるのか、と考えていると、あっという間にタロウにも店員の声がかけられる。
「ご注文は?」
一瞬詰まるが、脳裏に閃く幼い頃の記憶、陣がごくたまに作ってくれた、たしか、あれは。
「……ホテルパン、の、4枚切り。あと、このイギリスパンというやつの8枚切りを」



「今日は、パンだ」
意気揚々と帰宅して、両手に抱えた袋を差し出すと、ソノイはぱちぱちと目を瞬かせる。量の多さと袋の重みに戸惑っているようだ。
「ぱん、とは、どんぶらにもあるサンドイッチのアレか……?」
言外に、それなら食べたことはあるがと滲ませるソノイに対し、タロウは自信満々で頷き返す。ただ『パン』というだけなら初めてのモノではないが、パンとはいわば日本食における米のようなもの。米を食べたことがあるからと言って丼ものがカウント外にならないように、調理方法が違うならそれは別の料理だ。
「ああそうだな、だが今日のパンは違う。トーストだ、まあ見ていろ!」
手洗いその他を済ませて、コンロの前に立つ。トースターなどというものは無いが、幸いにもグリルがある。そして、タロウの育て親の陣は、あれで拘るタイプの人間だった。
記憶を辿りながら、袋から取りだした4枚切りのパンに切込みをいれていく。四角い中に田んぼの田の字、深くしすぎない程度に、でもしっかりと。刃をいれるとふわりと甘い香り、生の状態でも多分美味いのだろうと期待が高まる。
「ソノイ、その袋からバターをとってくれ。あと、そうだな、紅茶をいれておいてくれるか?」
「わかった。ばたーは……これか」
少し柔らかくなったバターを大きめに切り取る。たっぷりが、美味い。多分。記憶によれば。陣がそう言っていた。
アルミホイルを1度軽く丸めてからひろげなおし、その上にパンをのせる。最初は田を切った側とは反対を上にして、作業中にしっかりと余熱をしておいたグリルに入れる。焦げないよう慎重に見極めながら1分、程よく色づいたところで取り出す。蓋を開けた途端もくもくもわもわたちのぼる香ばしさに目を細めつつ素早くひっくり返し、田の字の四角ひとつひとつにバターをのせて再びグリルに。
じゅんわりと溶けてしみこんでいく黄金、漂うあまい油と焼ける小麦の匂い。完璧なタイミングで取り出すと、そこからさらに四等分。湯で温めておいた皿に乗せて、ちゃぶ台に座るソノイの前に並べてやる。
「さあ、できたぞ! いただきます、だ!」
追加とばかりに、袋からジャムも取り出す。店のオリジナルだという数種類お試しパック。
「どの味がいい?」
尋ねると、ソノイは少し首を傾げて瞬きひとつ。
「そうだな……では、その赤いのを」
「イチゴだな、よし」
果肉感の残る深紅をスプーンでたっぷりとって、ひときれのど真ん中に盛る。均一に美しくひろげることもできるが、ここはあえてランダムに。これもまた、陣のやり方。
どう食べさせようか少しだけ考える。真ん中の方、ジャムとバター部分から先に味わうのもいいが、端のカリカリからさくほくを経てという基本の食べ方がいいだろうか。
「ほら、こぼれやすいからな、少し行儀悪いがこのままこっちから齧れ……あー」
「あー」
片手を受け皿代わり、つまんで口もとにさしだしてやると、あくり、美しい唇が開かれる。薄い焦げ茶に黄金をたっぷりとしみこませた表面に、粒の揃った白い歯がそうっとあてられ、かり、さく、少し強めに噛みちぎって。
「!」
青い目が驚きに見開かれる。最初のかたさと中の感触の違い、香ばしいパンのふちの部分と柔らかくもっちりとした白い部分、そこから中央方向へ進むとじゅわりと溢れるバターの滋味、赤い果実をそのまま煮詰めたような優しくも強い甘み、ぷちぷち種の感触とねっとり潰れる柔らかさ、匂い触感温度味、混ざりあって、いっそ暴力的なまでの『あまい』と『うまい』。もぐもぐ、かみしめてのみこんで、紅茶をひとくち、爽やかな渋みと香気が鼻に抜ける、思わず感嘆の息が漏れる。
「これは……うまいな……」
「だろう? ほら、もっとだ」
促すとまた素直に開く口、さく、もぐもぐ、ごくり、ふたくちみくち、最後のひとくちを押しこむタロウの指先はジャムと黄金色のバターにわずか濡れて、柔らかく美しい唇にパンごと食まれる。
「ん……とれた、か?」
「ああ、すまんな」
軽く舐る舌先、清められた指先で礼の代わりに唇をなぞり擽ってやると、嬉しそうに蒼が微笑む。
「さて、次はどれにする? 違う味にしてもいいし同じ味を食べてもいい。パンもジャムもまだあるし焼くのもすぐだ、全部食べても構わないぞ」
うきうきと尋ねるとソノイは軽く首を傾げて瞬きをする。
「なら、この赤いのをもうひとつ貰えるだろうか」
「いいぞ、イチゴ味が気に入ったか?」
「味が、というか」
はにかむように目を伏せて、整った指先がそっとラベルのイチゴの絵をなぞる。
「この赤はとても美しい。君の色に似ている」

青いジャムがあればよかった、ブルーベリー、いやこれは紫だ、ソノイの青に似た青はあるのだろうか、マスターに今度聞いてみよう。とりあえず残り全てをイチゴジャムトーストにしてソノイの皿に盛り、次のパンの支度をする。今度はイギリスパン。先程のホテルパンより少しふんわりとして、薄いから焼き時間も短めに。裏面を焼いてひっくり返し、マヨネーズと粒マスタードを混ぜたものを薄く塗って、ハムとチーズをのせてまたグリルへ。ぷつぷつふつふつ、チーズが煮えるように焼けたら取り出して、同僚のオススメで買ってみた黒胡椒をガリガリとひいて2、3ふり。途端香りたつ食欲をそそる刺激、なるほど香辛料とは偉大なものだ。
「できたぞ、次はしょっぱいやつだ」
まだふちが小さくふつふついっているのを包丁で半分にザックリ切ると、ぼわりと蒸気があがる。とろけたチーズが糸をひく。
「熱いから気をつけろよ」
少し考えて山型のほうを口許に近寄せてやると、ソノイは素直にあ、と口をあける。じゃく、かりり、ジャムトーストよりは少し硬めの音。噛みちぎる、焼けた小麦の香ばしさあまさ、そこにかぶさるハムの塩気と脂気、とろけるチーズのミルキーな酸味。口を灼くほどではないがハムもチーズもあつあつで、違う種類の脂気が熱で柔らかくとろけて混じり合うのが快い。かみしめると、マヨネーズのまるい酸味と甘さ、粒マスタードのぷちぷち、黒胡椒のぴりりとした刺激、もうひと口を促すよう。
「これも、うまいな」
「だろう?」
「ほら、タロウ、きみも」
「ん」
手にとったジャムトーストを口もとによせてくるので、その手を掴んであぐりとかみつく。ソノイは上品に何口かに分けて食べていたがタロウにとってはほぼひとくちで食べられるサイズだ、指先ごと食んでやると一瞬震えるのが、頬を染めて目線を逸らすのが、可愛いなと思う。
それ自体が甘みの強いパンに、たっぷりのバターとたっぷりのジャム、甘味の暴力。遠い記憶、育て親は甘党で、たまに甘いパンを食べていた。あまさとうまさは脳を幸せにする、と。
過剰な糖分は一時的な誤魔化しにしかならないのでは、と、当時は思ったものだが。節度をもって摂取するぶんには確かに悪くない。エネルギーになる。
ごくん、のみこんで、甘い余韻をすっきりした紅茶で洗い流す。ほんの少しだけ赤い顔をしたソノイの目を見つめながら、あ、と口をあけてやると、ぱちりと瞬いてから軽く苦笑してチーズトーストを口もとに運んでくれる。
「……きみは、時々こどものようだな」
しゃぐり、大きくかじりとる。煮えるほどではないがまだ充分熱く柔らかいチーズが糸を引く。むぐむぐもぐもぐ、ハムとチーズと胡椒とパン、塩気と脂気の暴力、これもまた活力になる。
のみこんで、口の端をぺろりと舐める。甘いのもしょっぱいのも、それぞれ美味い。ソノイと共に食べるなら尚更。
「だめか?」
「ダメでは……無い、な」
お返し、とまたジャムトーストをとってソノイの口もとに運んでやると、ほんの少し困ったように、でも嬉しそうに笑って口をあける。
同じものを同じ食卓で、というのは楽しい。ソノイとなら、互いに食べさせあうのも楽しい。胸が弾む。自分で食べるより美味い気さえする。


「ごちそうさまでした」
2斤のパンは結局全て食べ尽くされた。ジャムも。各種食べてはみたがやはりソノイの気に入りは赤いイチゴジャムらしい。小さな帳面に書きつけているメモにはラベルを真似たのだろうイチゴの絵が添えられていた。また買ってこよう、と脳内に書き留める。朝は米派だったが、たまにならパン食も悪くないだろう。
そういえば、カツサンドやコロッケサンドというものもあるぞと伝えたら興味を持ったようだった。カツサンドといえば思い出すものもある……その時には、こんな日々を過ごせるようになるとは思いもよらなかったが。
なあソノイ、次は何を共に食べようか。

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