タロウくんとソノイくんのふたりごはん。

『たこやき』




信号が点滅して赤になる。早足で歩いていたが間に合わなかったようだ。律儀に止まる桃井タロウの周りをいくつもの音が取り囲む。少しばかり調子の外れた歩行者信号の待機メロディ、発進していく車の唸り、仕事帰りの人々の溜息。人の生活の音。軽く足を踏み変えて見上げる電光掲示板、明日の天気は晴れ予報。かさり、と音をたてるビニール袋、手に提げたそれからはほんわりと温かな気配と、甘く香ばしいソースの匂い。
(早く持ち帰らなければな)
持ち帰りのタコヤキ、だんらんファミリーパック。団欒、も、ファミリー、も、ずいぶんと縁が無かった単語で、レジで商品名を伝える時に、なんだかふわふわとした落ち着かない気持ちになったのは多分余人にはわからないだろう。
1番美味いのは焼きたて、出来たて。口の中が火傷しそうなアツアツを放りこむのが醍醐味。時間短縮というならば『扉』を使って持ち帰るのが最短だが、人の世で生きる以上なるべくそれはしないでおきたい。
信号が変わる。人波の中、ぶつからないよう気を配りながらも早足で歩き出す。かさかさ、揺れるビニール袋、抱えた手に感じる熱。思い浮かべる、部屋で待つソノイの姿。
今日の彼はこの食べ物にどんな顔をするだろう。それを想うだけで、胸の奥がくすぐったいようなわくわくするような、むず痒いような、すぐさま走り出したくなるような気持ちになる。
今日は水曜日。彼が食べたことの無いものを、ふたりで食べる日。


もとより美食家という訳ではなかった。桃井タロウにとって、いや、脳人という生命体にとって、この世界の食品それ自体は滋養にはならない。そこにのせられた『作り手の感情』こそがエネルギー源になる。だからこそ、コンビニ弁当より個人商店の定食を「美味い」と感じていたし、なんでも完璧に熟せるのに自炊をする気にはいまひとつならなかった。他に贅沢をする趣味も無かったこともあり、一人暮らしをはじめてからはほぼ外食で賄っていた。食べる量の割に痩せていると驚かれる原因は、おそらく慢性的な栄養不足だったのだろう。
そんな生活が変化したのはソノイと、うんぬんかんぬんでいわゆる『交際』を始めてからで。
己の為だけにつくられた料理というものの幸福を知った。なんならカップ麺でも、誰かが己の為に湯を注いでくれたというだけで、ひとりで食べていた時と比べ物にならないほど美味いものになると知った。そして、己のことを考えて選んでくれたという付加価値がつくと、店で売られている出来合いのものも、何十倍何百倍美味いものになるのだ、と知った。
そうして。そんな素直な感想を零したところ、ソノイが提案してきたのが『知らなかった料理を知りたい』だった。
「私が知っている料理の種類はまだ少ない。きみが美味しいと感じるものを私に教えて欲しい。そうしたら、私もきみも、幸福を感じる機会が増やせるだろう?」
知識欲旺盛で合理を好む彼らしい提案に、ならばと頷いて。お互い比較的早めに仕事が終わる水曜の夜を『その日』に決めた。

小走りで古ぼけたアパートの前に辿り着く。階段は走らない。他に住人がいなくてもそういうマナーは守るタチだ。音をたてないように鍵をあけると、ほぼ同時に玄関先に出てきたソノイが柔らかく微笑んだ。
「ただいま」
「おかえり、タロウ」
声が重なる。水曜の習慣になりつつあるこの事象が、なぜだかひどく嬉しい。ゆるむ口元をこらえながら、ぐい、とビニール袋を突き出す。
「今日はたこやきだ」
「タコヤキ」
知らない単語を繰り返す時のソノイは首を僅かに傾げる癖がある。その仕草が美しい鳥のようで、タロウは密かに気に入っている。
「ああ、食事……というよりは軽食の類だがな。熱いうちが美味いが、冷めても悪くない」
説明してやりながら靴を脱ぎ手を洗う。なるほど、と生真面目に頷く姿を横目に見ながら、小さくともよく手入れされたちゃぶ台の定位置に座ると、その向かいにソノイも座する。傍らのポットから湯を注いでソノイが茶を淹れる間に、タロウは袋から紙箱を取り出してふたりの真ん中に置く。
「開けるぞ」
「ああ」
目を見交わして、頷きひとつ。
「いただきます」
声をあわせて、それが合図。

ぱかり、と紙蓋をあけると、ほんわりと蒸気。そして甘いソースと微かな青のりの匂い。暴力的な強い甘みの向こう側、油で焼かれた小麦粉と出汁の香りもする。
ファミリーパック、24個入り。8個は基本の青のりとソース、8個はたまごタルタル、8個は季節のオススメだという柚子おろし。
できるだけ急いで持ち帰ったからまだ熱さを感じる。これならば、と、添えられていたかつおぶしパックを封切って基本のものにふりかけると、ぶわりとたつ香り、僅かにうねうねと踊るかつおぶし。
「ほう」
目を細めるソノイは、おでん屋台での経験からか出汁系のものには少しばかり拘りがあるようだ。大将のところで使っているものと比べたらおそらくかつおぶしとしての格は落ちるのだろうが、これは少し安っぽいくらいがちょうどいい。
「ほら、まずはいちばん基本のやつを食べてみろ。青のりとソースだ」
添えられていたぺなぺなの割り箸をぱきりと割って、ひとつつまんで掲げてやると、ソノイは素直にあくりと口をあける。
「中は熱いからな、加減しろ」
ふう、ふう、少しばかり息をふきかけ冷ましてから口もとに運んでやると、恐る恐るというように1度前歯で挟んで、かぷりと噛みつく。白い歯が焦げ茶の球体に食いこんで、ぷつりと割れて、少しとろりとした生地と鮮やかなタコの朱とネギの緑、驚いたように見開かれる群青、慌てて口元を片手でおさえて、ほぐほぐ、はふはふ、熱を逃がしながら咀嚼して、ごくり、動く喉仏、ぱちぱちと瞬き、そっと水を注いだコップを手渡してやると片手で謝意を表しながら半分ほど飲み干す。
「……っ、あつい、な……!」
「火傷はしていないか?」
「ああ、大丈夫だ。しかし、この感触の違いは興味深い……中の具はなんだ? プリプリとしていた」
「タコを切ったものだな。カリカリとトロトロとプリプリ、違う食感がいちどに楽しめるのがタコヤキのいいところだ」
少しばかり涙目で、でも悪い感触ではない、興味深そうに質問してくるソノイに応えながらタロウもタコヤキを口に放りこむ。かりり、硬めに焼かれた表面が割れて、粘膜をともすれば灼くような熱い半固体の生地、ぷりんぷりんしたタコの歯ごたえ、あふあふと口の中踊らせるようにかみしめると海鮮の出汁の凝縮のような旨みがじゅわりと滲む。鼻の奥かすかに感じる青のりの風味、かつおぶしの気配、それら全てを暴力的なまでに強い甘みのソースがまとめあげて渾然一体となり喉をすべりおちていく。とても熱いのに、その余韻が冷める前に、またもうひとつ、口に運びたくなる。
熱いものは熱いうちに。冷たいものは冷たいうちに。温度と食感もまた料理の大切な構成要素なのだと思い知らされる、そんな食べ物。
「少し酸味のある感じのものが入っているな……さっぱりとする、どこかで食べたことがある、か……?」
「ああ、それはおそらく紅しょうがだな。この赤いやつだ」
「ベニショウガ……ああ、練り物にあるな、アレか!たしか、漬物の1種……なるほど」
「好き嫌いはあるようだがな、オレはタコヤキもお好み焼きも紅しょうが入りが好きだ。ほらもうひとつ食え。たまごと柚子おろしとどちらにする?」
具材に興味がひかれたのか考えこみながら食べているソノイに、もうひとつとってやろうと促す。
最初は、知らない食べ物の食べ方を教えるために、だったのだが。素直に口を開けて待つソノイに手ずから食べさせるのはタロウにとってなんとも胸が弾む行為だったので、この『はじめてのものを食べる日』には、食べ方のわかる食物でも最初のひとくちめはタロウが食べさせるのがすっかり習慣になってしまった。
「なら、たまごを」
「よし」
あ、と口をあけるのに、たっぷりのタルタルソースをつけたタコヤキを放りこむ。粗く潰した卵と刻んだ玉ねぎ、マヨソース。冷たいそれと熱い球体が同時に口の中でぶつかる感触はスタンダードなそれとは趣が違うようで、またも驚いた顔をするのが見ていて飽きない。
感想を言いたいのだろうが口の中にものを含んだまま喋るのは礼儀に反する、むむ、もむ、声にならない感嘆を漏らすのが、青い瞳がきらきらと輝くのが、タロウの胸の奥を柔らかく満たす。
(気に入ったようだな)
タロウひとりで食べるのなら基本の青のりソースだけだったろうが、今回はソノイと食べるものだから、同じ味ばかりではないほうが良いかと考えた。何種類かあるメニューの中でたまごを選んだのは、おでんの具材もたまごが好きなソノイだから、と考えてのことだが、どうやら正解だったらしい。
こくり、飲み下して、嬉しそうに群青が笑う。
「……美味いな。まろやかだ」
満足そうな吐息に、タロウもひどく嬉しくなる。自分も、とひとつ口にほうりこむと、熱さと冷たさが口の中で混ざりあって、マヨネーズのまるい酸味と玉ねぎの微かなシャキシャキとたまごの滋味とがタコヤキ本体を包みこんで、基本が最良だと思っていたが、これはこれでなるほど悪くない、というか、過去の記憶より何倍も美味い気がする。
「ああ……美味いな」
むぐむぐ、飲みこんで呟くと、ソノイがまたやわく笑う。
「きみとたべるものは、どれも、美味い」
当たり前のように穏やかな声で囁いて、茶を啜ると、軽く首を傾げて。
「もうひとつ、ユズオロシ、だったか? それはどんなものなんだ?」
「……っ、ああ、それは、だな」
好奇心に煌めく目で質問をしてくるのに、喉が詰まったような気持ちになって、即答できなかったのがタロウとしては少しだけ不満で。でも、その、喉を詰まらせる感情自体は、不思議とあまくて、悪くなかった。


「ごちそうさまでした」
茶を飲み干して、手を合わせて。洗い物と呼ぶにはささやかな食器を片付けると、ソノイは小さな帳面を出して何やら書きつけをはじめる。ちらりと伺うと彼等の世界の文字のようだ。
「ソノイ」
名を呼んで目線で問うと、手を止めて、小さく笑う。
「きみとはじめて食べたものの記録をつけている。どんなものだったか、それを食べてどう感じたか、そういったことを」
脳人の優秀な記憶力が忘れる事などそうそう無いが。それでも、その瞬間の新鮮な気持ちを書き残しておきたい。
「大将にも勧められたのでな、メモ程度だが」
はにかむように微笑むのがひどく綺麗で、見つめていたいのに直視するのは眩しいような気がしてしまう。
「……こちらの言葉はまだ不得手か」
少しばかり目を逸らして問うと、むぐ、と言葉に詰まったような呼吸音。
「っ、書けない訳ではない、が……その、こちらの文字で書いて、きみに、読まれたら、恥ずかしいだろう……」
目元を赤く染めて呟くその顔には、言葉以上に鮮明に、どう感じていたのかが描かれていて。喉が詰まる。胸が膨らんで満ちる。世界の色が鮮やかになって、呼吸する空気さえ甘やかで。
ふたりで食べる食事のもたらすそれが、何倍にもなって押し寄せてきて、眩暈すらする。
食とは生命だ、と、どこかで聞いた言葉の意味を実感する。
ああ、困った、知らずとも生きてこられたのに。これを知ってしまっては、もう手放せそうにない。己の為の欲など、持ってはならないはずなのに。
なあソノイ。次はなにを、共にたべようか。

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