第1章
夢小説設定
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執務室に入った瞬間、違和感に気づいた。
エルヴィンの机の上だ。
決裁待ちの書類の山とは、わずかに距離を取って置かれた封筒が一通。
整いすぎている。あえて、視界に入る位置だ。
「……これは。」
問いというより、確認だ。
エルヴィンは椅子に腰掛けたまま、視線だけをこちらに寄越す。
「憲兵団からだ。中央を通っている。」
それで十分だった。
「そうか。」
それ以上、興味はない。通過点がどこだろうと、見るべきものは変わらねぇ。
「……あいつか。」
エルヴィンは否定しない。
封筒を手に取り、中の紙に目を通す。時間は短いが、軽くはない。そして何も言わず、こちらへ差し出した。
受け取り、目を落とす。
形式は整っている。文言も、配置も、いつもの異動願だ。だが──紙の端。明らかな皺。無意識に触れた程度じゃない。
「……逃げ道は、捨てたみてぇだな。」
エルヴィンの視線が、俺の手元に落ちる。
「そう見えるか。」
「他に見えねぇ。」
後悔なら、もっと綺麗に出す。書き直すか、破るか、最初から出さねぇ。
だが、これは違う。
迷いも恐れも、そのまま押し込んで差し出した痕だ。
「……憲兵団向きの選び方じゃねぇ。」
それは評価だった。かつて口にした言葉と、同じ形で。
「……後悔じゃねぇ。」
低く、断定する。エルヴィンは何も言わない。だが、皺から目を離さない。
エルヴィンは静かに書類を受け取り、決裁の山とは別の場所に置いた。すぐに処理するためじゃない。埋もれさせないためだ。
「彼女の意思は、確かにここにある。」
文字の話じゃない。この紙に残った力のことだ。
俺はそれ以上、口を出さない。中央がどう思おうと関係ねぇ。見るべきものは、もう見た。
「……面倒な女だ。」
愚痴でも、突き放しでもない。ただの確認だ。
部屋を出るとき、振り返らなかった。
あの皺の意味を、どう使うかはエルヴィンの仕事だ。
そして──逃げなかった先に立つのは、あいつ自身だ。
廊下に出ると、石造りの壁が音を吸った。執務室の扉が閉まる音さえ、妙に遠い。
足を進めながら、無意識に歩調を落とす。
急ぐ理由はない。だが、立ち止まる理由もない。だから中途半端な速度のまま、考えだけが先に行く。
小さい。背丈も、骨格も。自分から見てすら小さいのだから、他の連中から見ればなおさらだろう。
それでも、あの異動願に残った皺は、体格の話じゃなかった。力が足りない人間の痕じゃない。
迷って、恐れて、それでも離さなかった人間の痕だ。
廊下の窓から差し込む光が、床に細長い影を落とす。あの女の影も、きっとこの程度の濃さだ。薄く、すぐに踏まれる。
『……そのまま来るな。』
見学の時に自分が言った言葉が、遅れて胸の奥で音を立てる。
突き放したつもりはなかった。だが、抱き上げる気もなかった。
変わらないなら、踏み込むな。変わる覚悟があるなら、そのままじゃ足りない。
条件だけを置いた。優しさでも、救いでもない。ただの事実だ。
あいつは、それを受け取った。逃げずに、曲げずに。小さな体で、逃げ道ごと握り潰した。
だから、あの紙が来た。
中央を通って、余計な目に晒されて、それでも形を変えずに。
足が止まる。気づけば、廊下の曲がり角だった。
「……無茶しやがる。」
声は低く、短い。怒りでも、呆れでもない。
止めなかった事実を、今さら確認するだけの言葉だ。
選ばせたのは、エルヴィンだ。
だが、選ぶ条件を叩きつけたのは、自分だ。
──その結果が、あれだ。
小柄で、非力で、それでも逃げなかった。調査兵団向きかどうかなんて話は、ずっと先でいい。
少なくとも、そのままじゃ来なかった。だから来た。
再び、歩き出す。もう、振り返る理由はなかった。