第1章
夢小説設定
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机に向かい、異動願の用紙を広げた。白い紙は、静かすぎるほど静かに、そこにある。
たった一枚。
けれど、指先が触れた瞬間、それがひどく遠いものに感じられた。
私は小柄で、非力だ。
調査兵団に行けば、足を引っ張るかもしれない。判断の遅れを生み、誰かの命を危うくする可能性だってある。
それに、中央からの特別任務。管理される側である立場は、今も変わっていない。私の意思だけで、簡単に動けるはずがない。
それでも。
ふいに、あの視線がよぎる。
初めて向けられた、探るようで、逃がす気もない目。
エルヴィン・スミス。
問いを投げるだけで、答えは寄越さない人。選ばせない代わりに、立つ場所だけを示す人。
そして、もう一つ。
『……そのまま来るな。』
低く、短い声。当時は拒絶だと思った。でも、今なら分かる。変わらないままでは、来る資格がない。あれは、そういう言葉だった。
用紙を持つ指に、無意識に力が入る。
紙が、はっきりと音を立てた。クシャ、と。
慌てて力を緩めても、もう遅い白い面に、くっきりと皺が刻まれている。一度ついた痕は、簡単には消えない。
……あぁ。これが、今の私だ。
迷いも、恐れも、卑屈さも、全部まとめて押しつけた跡。
胸の奥が締めつけられ、目の奥が熱を帯びる。けれど、視界は滲まない。泣いてしまえば、きっとこの紙を直視できなくなる。
皺の寄った異動願を、そっと机に置き直す。
真っさらではない。でも、それでいい。
この痕ごと、差し出す。
逃げてきたことも、怖がっていることも。それでも行きたいと思ってしまった、この衝動も。
私は、ペンを取った。
ナイル師団長は、書類に目を落としていた。いつもと同じ姿勢、同じ距離感。
「……どうした。」
呼ばれたわけでもないのに、声をかけられる。私は一歩前に出て、用紙を差し出した。
「異動願です。」
言葉にすると、思ったより音が乾いていた。逃げたい、とも。行きたい、とも言っていない。ただ、それだけだ。
ナイル師団長は無言で受け取る。視線を落とした、その一瞬で――皺を見た。ほんのわずか、眉が動く。
「……簡単じゃない場所だ。」
確認でも、忠告でもない。事実を置いただけの声だった。
「分かっています。」
即答だった。言葉の裏に、何かを滲ませる余地もない。
「それでも……ここにはもう、居られません。」
初めて、感情が混じった。声が震えたわけでも、詰まったわけでもない。ただ、誤魔化せなくなっただけだ。
ナイル師団長は、しばらく紙から目を離さなかった。皺の走った中央を、指で一度なぞる。
「……受け取る。」
それ以上は言わない。止めもしないし、励ましもしない。
「正式な手続きで回す。」
その"回す"の先に、誰がいるか。言われなくても分かっている。用紙を戻されることはなかった。それだけで、十分だった。
──────────────
中央憲兵本部の執務室は、いつもと変わらない静けさだった。
書類の山は整えられ、不要な物は一切置かれていない。ここでは、個人の感情も同じように片付けられる。
机の上に置かれた一通の書類に、指が止まった。
憲兵団トロスト区支部から回ってきた、異動願。
名前を見て、すぐに思い当たる。中央から直接、裏の任務を振っている兵士だ。
「……面倒だな。」
低く呟き、書類に目を通す。
形式は問題ない。文言も、理由も、規定通り。
だが──この紙は、こちらが管理している人間から出ている。
本来なら、ここで止める。それが中央のやり方だ。
だが、視線が一行に留まった。
宛先──調査兵団団長、エルヴィン・スミス。
一瞬、思考が走る。
この書類を握り潰せば、彼は何も知らないままだ。だが──不自然に滞れば、必ず嗅ぎつける男。
異動願が出た。それが、途中で消えた。その程度の歪みを、彼が見逃すとは思えなかった。
「……流すしかないか。」
書類を返送する理由は、今は作れない。特別任務の存在も、表には出せない。ならば、形式通り通す。通した上で、こちらが"管理している"事実は変わらない。
判を押す。書類は次の束に重ねられた。
中央憲兵を、通過した。
─────────────
執務机に置かれた書類の束の中に、異質な一通がある。エルヴィンは、それを見ただけで分かった。憲兵団。中央経由。
だが、手は伸びない。
封の色も、紙質も、他と変わらない。形式も正しい。それでも──今、この机にあるという事実だけで十分だった。
「……なるほど。」
声に出したのは、それだけだ。
中央が通した。通さざるを得なかった、という方が正しいだろう。
この異動願は、軽い書類じゃない。彼女一人の意思だけで動くものでもない。それを中央が理解していないはずがない。
それでも流した。
──なぜか。
エルヴィンは椅子に腰掛け、指を組む。封筒には触れないまま、視線だけを置く。
拒めば、理由が残る。止めれば、誰が止めたのかが残る。そして、理由と名前は、いずれ線になる。中央はそれを嫌った。
憲兵団の一兵士が、調査兵団への異動を願い出た。それだけの形にして、流す。波風を立てず、責任も残さず。
──だが。
「……甘いな。」
そう呟いて、エルヴィンはわずかに口角を上げた。
形だけ整えても、届く先は変わらない。この封筒は、最初からこちらに来る運命だった。
彼女は選んだ。逃げ道を残さない形で。
中央は流した。疑念を生まないために。
そして今、この封筒は未開封のまま、彼の机にある。
「受け取った。」
それだけで、十分だった。
エルヴィンは封筒を決裁用の書類の山とは別に置く。あえて、視界に入る位置に。
これは書類じゃない。これは──意思だ。
彼はまだ、読まない。だが、確かに受け取っている。
彼女が、ここまで届かせたものを。