第2章
夢小説設定
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トロスト区支部の訓練場は、久しぶりだった。
石壁と石壁の間。人1人が、やっと通れるかどうかの隙間。
高さも、幅も、不揃いで、意地が悪い。
私は壁に手を当て、深く息を吸った。
……ここだ。
以前は、ここで躓いた。ほんの小さな判断ミス。肩を引っかけて、無理に抜けようとして——怪我をした。
あのときは、「今の、どうやったんだろう」そんな視線が、背中に刺さっていた。
今は——刺さり方が、違う。
「……。」
視線を感じる。数は、前より少ない。でも、重い。
値踏みするような、試すような、期待と警戒が混ざった目。
私は、何も考えないようにする。
壁外調査が近い。
今は、それだけでいい。
「行くぞ。」
合図が落ちる。
私は、一歩踏み出した。
助走は要らない。速度も、最小限。
身体を、斜めに。肩を落とし、肘を畳む。背骨を、少しだけ丸める。
——入る。
以前なら、ここで"詰まる"と感じた場所。
今は、違う。
関節を折りたたむ感覚。身体の厚みが、消える。
壁に触れない。擦れもしない。
するり、と抜けた。
着地。足裏で衝撃を吸収し、すぐに体勢を戻す。
……静かだ。
一拍遅れて、息を呑む気配。
私は、振り返らない。
見る必要は、ない。
できた。それだけだ。
「次。」
淡々と、声が掛かる。
私は壁から離れ、次の位置へ向かう。
途中、強い視線をひとつ感じた。
以前のひそひそとしたものとは違う。あからさまな敵意でもない。
——評価。
私は無意識に指を握り、すぐに力を抜いた。
気にしない。今は、気にしない。
壁外調査が控えている。外に出れば、視線の意味はもっと単純になる。
生きるか、死ぬか。役に立つか、立たないか。
それだけだ。
「……。」
私はもう一度、隙間に向き直る。
呼吸を整え、身体を預ける。
周囲がどう思っているかは、もう分かっている。
だから今は——見ない。聞かない。考えない。ただ、抜ける。壁の向こうへ。
その先にある"外"に備えて。
調査兵団の朝は、いつも早い。
けれど——壁外調査の日の朝は、少し違う。
目覚ましが鳴る前に、意識が浮上する。
緊張というほど強くはない。ただ身体の奥が、すでに"外"に向かっている感覚。
私は静かに上体を起こし、支度を始めた。
制服。装具。
指先で確認するように整えながら、頭の中では自然と前回の反省点をなぞる。
距離感。立ち位置。無駄な動きを減らす事。
そして、今回の配置。
前だ。前線寄り。
事実として受け止める。評価でも、期待でもない。与えられた位置で、やるだけだ。
部屋を出ると、廊下の空気はすでに動いていた。
足音。装備の擦れる音。朝の静けさの中に、出発前特有の気配が混ざっている。
角を曲がった先で、見慣れた背中があった。
「おはようございます、リヴァイ兵士長。」
声を掛けると、リヴァイ兵士長は歩みを止め、こちらを一瞥する。
「あぁ。」
それだけ。
けれどその短い返事に、いつも通りの重さがある。
私は背筋を伸ばし、隣を歩き出す。
——始まる。
それを、静かに実感しながら。
開門前の広場は、静かだった。
馬の鼻息。革具の軋む音。鎧が擦れる、微かな金属音。
号令を待つだけの時間。
私は手綱を握ったまま、前を見ていた。
その横に——足音。
「ユニ。」
呼ばれて、反射的に視線を向ける。
そこに立っていたのは、エルヴィン・スミス団長だった。
距離は、近くも遠くもない。必要な分だけ。
「今回の配置だが、」
淡々と、いつもの調子で。
「無理をしろ、とは言わない。だが——遠慮は、するな。」
一拍。
「君が前に出る理由は、分かっている。」
それだけ。
励ましでも、命令でもない。確認のような声音。
私は、短く頷く。
「……はい。」
エルヴィン団長はそれ以上何も言わず、一度だけ視線を巡らせる。
隊列。門。その向こう。
「帰還を前提に、行こう。」
そう言って、踵を返した。
——その背中を見送ってから、私は、静かに息を整える。
怖くないわけじゃない。でも、迷いはない。
前に出る。役割を果たす。ただ、それだけだ。
号令が、響く。門が、開く。
——壁の外へ。
前回の壁外調査の、あの一瞬が脳裏をよぎる。
エルヴィン団長が、ふとした調子で口にした言葉。
空の続きを、見られるといいな。
あれは、鼓舞でも命令でもなかった。ただ、未来の話をするみたいな声音だった。
私は、手綱を握り直す。視線を上げる。
今日もまた、空は広い。
今回も、生きて戻る。
その先に、まだ続きがあると——そう信じるために。
壁門を抜けた瞬間、空気が変わる。
音が遠い。人の声も、金属の軋みも、壁の内側に置いてきたみたいに薄くなる。
代わりにあるのは——風。草の匂い。そして、広すぎる空。
馬の背で、私は無意識に呼吸を整える。
深く、一定に。
視界の端で、リヴァイ兵士長の背中が揺れている。
距離は、近い。前回より、確実に。
——前に出された。
その事実を頭のどこかで確認しながら、それ以上は考えない。
今は、考える時間じゃない。
号令が飛ぶ。
「——長距離索敵陣形、展開!」
一斉に、馬が散る。
横へ、前へ、扇状に。
訓練で何度も叩き込まれた動き。
身体が、迷わず反応する。
私は、割り当てられた位置へと馬を走らせる。
視線は、低すぎず、高すぎず。
巨人の"間合い"を想定した距離感。
——静かだ。
だからこそ、油断しない。
草原は何もない顔をして、いつも突然、牙を剥く。
前回の反省が、脳裏をかすめる。
判断が、半拍遅れた事。肩に走った鈍い痛み。
……今回は、違う。
身体が軽い。思考と動きが、噛み合っている。
風を切る音の向こうで、ふと、あの言葉が浮かぶ。
——空の続きを。
視線を上げる。
壁の外の空は、今日も、どこまでも広い。
続きがあるかどうかは、分からない。
でも——見るために、走る。
馬の首筋を軽く叩き、私は前方へと意識を集中させた。
長距離索敵陣形は、すでに完成している。
あとは——何が来ても、"兵士"として対処するだけだ。