第1章
夢小説設定
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書類の束に目を落としながら、私は思考を切り分けていた。
今日の業務は滞りなく進んでいる。判断を要する案件もない。だからこそ、余白が生まれる。その余白に、あの視線が差し込む。
扉の近くに立つリヴァイが、何の前触れもなく口を開いた。
「……そういや、」
何気ない声だった。業務の延長線上にある、取るに足らない話題を投げる時の声音。
「前に見学に来てた憲兵団の女。」
私は手を止めなかった。止める理由がなかったからだ。
「あれから、何かあったか。」
──来たな、と思う。だが、それを顔には出さない。
「……いや。」
事実だけを返す。音沙汰は、ない。
「そうか。」
それで終わると思っている声だった。彼自身、深く気にしている自覚はない。ただ、記憶の底に引っかかっていたものが、ふと浮かび上がっただけだ。
だが、私には分かる。
何も起きていないこと自体が、すでに"何か起きている"と。
「妙ではあるな。」
独り言のように零す。
リヴァイがこちらを見る。
「何がだ。」
「何も起きていない事が、だ。」
そこでようやく顔を上げる。
彼女の名前は出さない。出す必要がない。
「彼女は、考える時間を与えられてきた人間じゃない。」
それは憲兵団という組織の話であり、中央という存在の話であり、そして──彼女自身の立場の話だ。
「……中央か。」
短い一言。理解は早い。
「可能性は高い。」
否定もしない。私は最初から、その線で見ていた。彼女の沈黙は、迷いではない。拘束だ。
「だが──彼女はもう、何も考えずに従うだけの場所には戻れない。」
それは希望ではない。観察の結果だ。
リヴァイは鼻で息を吐いた。
「面倒な話だな。」
「あぁ。」
その通りだ。
「だから、こちらからは動かない。」
動けば、彼女から“選ぶ機会”を奪う。
「ただ──確認はしておきたい。」
「確認。」
「彼女がまだ、選べない場所に縛られているのかどうかを。」
事実を知る事と、介入する事は違う。
リヴァイは肩を竦めた。
「様子見ってやつか。」
「結果的には、そうなる。」
彼はそれ以上踏み込まない。踏み込まない事を、彼自身が選んでいる。
「用事作って、顔出すか。」
淡々とした声。私情はない。
──少なくとも、本人の中では。
「トロスト区だな。」
「あぁ。」
それで話は終わった。
リヴァイが扉に手をかけ、振り返りもせずに言う。
「……諦めたなら、それまでだ。」
その言葉に、私はすぐには返さなかった。
諦めた人間は、静かになどならない。諦めきれないからこそ、沈黙する。
「諦めたなら、」
視線を書類に戻したまま、答える。
「ここまで何も起こらないはずがない。」
リヴァイは何も言わず、部屋を出ていった。
私は再び文字を追いながら、思考の奥で確認する。
彼女はもう、境界線の上に立っている。管理される側として生きる事も、自分で選ぶ側に足を踏み出す事も、どちらも可能な位置に。
だから私は待つ。
彼女が「諦めた人間」ではないと分かる、その瞬間を。
◇
ナイルと話すのは、形式的な用件だけのはずだった。憲兵団トロスト区支部を訪ねる理由としては、それで十分だ。
「最近、そちらで動きは。」
当たり障りのない問いに、ナイルは肩をすくめる。
「表向きは、いつも通りだ。問題もない。」
──表向きは、か。
「例の件は。」
ナイルは一拍だけ置いてから、短く答えた。
「中央の判断だ。俺の管轄じゃない。」
それ以上、踏み込む気はない。そして、それ以上を語らせる必要もない。
その時、廊下から足音がして、彼女が現れた。
「……いらしてたんですね。」
声は落ち着いている。表情も、勤務中のそれだ。だが、私には分かる。
これは"何も起きていない人間"の立ち方じゃない。
「突然で失礼した。」
私は、いつも通りに微笑む。探っているようには見せない。
「少し話をしていただけだ。」
ナイルがそう言うと、彼女は小さく頷き「…お茶を淹れますね」と湯を用意し始めた。動作は丁寧で、正確で、乱れがない。
──整いすぎている。
何かを決めた直後の人間が見せる、静けさだ。
(……なるほど。)
彼女は、まだ何も選んでいない。だが選ばされる側であることを、思い出したばかりだ。
隣でリヴァイが壁に凭れたまま、何も言わない。視線は彼女を追っていない。だが、空気は共有している。
用件はそれ以上広げず、席を立つ。帰り際、私は振り返って一言だけ残した。
「……君は、今の居場所を当然だと思えているか。」
問いは柔らかい。だが答えを求めていないことくらい、彼女にも分かるだろう。
一瞬、彼女の手が止まる。湯気の向こうで、視線がわずかに揺れた。
それ以上は言わず、私は踵を返す。扉へ向かう途中、隣を歩いていた男がふいに足を止めた。
「……誤魔化せてるつもりか。」
低く、短い声。視線すら向けない。問いの形をしていても、返事を待つ気配はない。
彼女の呼吸が、わずかに詰まるのが分かる。
それでいい。今は、それ以上は要らない。
私は何も言わずに歩き出す。背後で扉が閉まる音を聞きながら、確信していた。
──彼女は、もう元の場所には戻れない。