第1章
夢小説設定
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ナイル師団長に呼ばれた理由は、部屋に入った瞬間に分かった。
机の上に置かれた、黒い封筒。
差出人の名前も、宛名もない。中央の印だけが、無言でそこにあった。
「……これだ。」
ナイル師団長はそれ以上の説明をせず、封筒を差し出した。
私は受け取る前に、一瞬だけ視線を落とす。
封は、切られていない。
それを確認した途端、胸の奥が、すっと冷える。
──そうだった。
私は、選ぶ側じゃない。必要な場所に置かれ、必要なくなれば動かされる。
「内容は──」
言いかけて、首を振った。
「……いいです。」
ナイル師団長は、何も聞かなかった。封筒に視線を落とすこともなく、ただ、黙って頷く。
彼も、知っている。これは彼の仕事じゃない。そして、私の意思が挟まれる余地もない。
中央からの依頼書。
私は、それを何度も受け取ってきた。だから、封を切る前から分かっている。これは選択肢じゃない。
管理される側に渡される、指示書だ。
◇
調査兵団の見学から、数日が経っていた。
通常業務に戻った私は、表面上は何も変わっていなかった。報告書の提出期限も守っているし、巡回も滞りなくこなしている。指摘されるようなミスもない。けれど、自分でも分かる程度には、どこか上の空だった。
その理由を、私は分かっている。制服の内ポケット。まだ、開けていない封筒がある。
中央からの依頼書。
封は切られていない。
ナイル師団長から直接受け取ったまま、私はそれを持ち歩いていた。
──私は、選ぶ側じゃない。
必要な場所に置かれ、管理される側だ。それを、忘れないための封筒。
指先で、紙の端を軽く押さえる。封を切るつもりは、ない。今は。
ほんの数秒頭に浮かんだのは、背筋を伸ばした立ち姿だった。静かで、遠くを見るような眼差し。
エルヴィン・スミス。
──もし、あの人なら。
そう考えて、すぐにやめる。比べること自体が、分不相応だ。
「……どうした。」
書類から顔を上げると、机の向かいにナイル・ドーク師団長が立っていた。
いつからそこにいたのか、気づかなかった。
「どうした、とは…。」
「手は動いてるが、目が合ってない。」
咎めるでもなく、淡々とした声だった。
「……すみません。」
「謝るほどじゃない。」
それだけ言って、ナイル師団長は視線を私の手元へ落とす。整えられた書類に、一度だけ目を通した。
しばらくの沈黙のあと、私は意を決して口を開いた。
「……エルヴィン団長は、」
一瞬だけ言葉を切り、続ける。
「ナイル師団長から見て、どんなお人ですか。」
ナイル師団長は、すぐには答えなかった。
考えている、というより、選んでいる。言うべきかどうかを、ではない。どこまで言わずに済ませるかを。
視線を外し、壁の一点を見る。
「……簡単に読める男じゃない。」
それだけだった。評価でも、説明でもない。
「一緒にいる時間は、長かった。」
それだけで終わらせるつもりだったのか、視線を逸らす。
「……それでも、時々、置いていかれる。」
淡々とした口調だった。恨みでも、悔しさでもない。ただ、事実を並べているだけの声音。
それが、かえって胸に残る。
置いていかれる。
その言葉を、頭の中で反芻する。
隣を歩いているはずなのに、気づけば少し前を行っている。声を掛ける距離にはいるのに、同じ場所には立っていない。
エルヴィン団長という人はそういう人なのだと、ナイル師団長は言わなかった言葉で教えてきた。
腹を決める場所が、外からは分からない。
静かで、穏やかで、だからこそ深いところで何かを切り離している。
……それは、
不意に、別の声が重なった。
『……そのまま来るな。』
低く、短い声。
距離を詰めることを拒むようでいて、切り捨てきらない言い方。
踏み込む覚悟がないなら、変わるつもりがないなら、今のままで来るな。
ナイル師団長の言葉と、リヴァイ兵士長の言葉が、胸の奥で重なる。
どちらも答えはくれない。ただ、戻る場所だけは残している。だからこそ、その先に進むかどうかを決めるのは、いつもこちらだ。
今までの日常を過ごしてきた私なら、そうは思わなかったはずだ。
ただ怖くて、ただ鋭くて、遠い言葉だと思っただろう。けれど、今は違う。
エルヴィン団長の背中を見て、ナイル師団長の沈黙を聞いて、そしてあの一言がまだ、胸に残っている。
『……そのまま来るな。』
それは拒絶じゃない。
変わらないままでは、隣には立てない、という忠告だ。
静かに、だが確かに。
私の中で、何かが動き始めていた。
私はもう、あの言葉を聞く前の私ではいられない。
◇
部屋に戻ると、灯りも点けずに椅子に腰を下ろした。制服のままでも、もう気にならなかった。
机の上に、黒い封筒を置く。
中央からの依頼書。
内ポケットに入れていた時間は長かったはずなのに、こうして正面に置くと、ひどく薄く見えた。
封は、まだ切られていない。
「……。」
息を整える必要はなかった。迷いも、躊躇も、もう残っていない。残っているのは、手順だけだ。
指先で封の端に触れる。
紙の感触は、今まで受け取ってきたものと何も変わらない。
──そうだった。
私は、これを拒む立場じゃない。管理される側として、必要な場所に置かれる。それが、今までの私だった。
ほんの一瞬だけ、誰かの輪郭が頭をよぎる。名前も、声も伴わない。ただ、遠くを見る背中と、低い視線の感触。それだけで、十分だった。
私は封を切った。
音は小さく、あっけない。中身を確認しても、心拍は変わらない。想定外の言葉も、驚くような条件もない。
紙を戻し、封筒を閉じる。
その動作の中で、胸の奥で、何かが静かに切り替わる。
決意でも、覚悟でもない。ただ"元には戻らない"という位置に立っただけだ。
椅子から立ち上がり、ようやく制服のボタンに手をかけた。
夕食も、シャワーも、この後でいい。
今はまだ、夜の途中だ。
けれど確かに、私はもう、同じ場所にはいなかった。
それだけは、はっきりしていた。