第1章
夢小説設定
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焚き火の前で、私は腰を下ろしていた。
膝を抱えるほど小さくはしていない。だが、背筋も伸ばしていない。
ただ、火を見る。
昨日より、火は落ち着いている。薪のはぜる音も、どこか規則的だ。
……眠くは、ない。
そう思っていた、その時。
「……寝てねぇだろうな。」
低い声が、すぐ後ろから落ちてきた。
振り向くほどでもない。誰の声かは、分かっている。
「今日は……起きてます。」
真面目に、そう答える。
少し間があって「そうか」と短く、それだけ。
それ以上は、何もない。
でも背後の気配は、そのままだ。
近すぎない。遠すぎない。焚き火と私の間に、自然に収まる距離。
その空気が落ち着いたところで──
「満身創痍、って顔だな。」
別の声が、火の向こうから聞こえた。
顔を上げると、エルヴィン・スミスが立っている。
リヴァイ兵士長の方を一瞬だけ見る。けれど、それ以上は気にしない。
視線は、まっすぐこちら。
「……そう、ですね……。」
否定も、肯定も、しきれない。正直な返事だった。
エルヴィン団長は、少しだけ口元を緩める。
「空は、見られたか?」
問いは、短い。
考える余地を、あまり与えない。
「……壁から出た時に、少し。」
それで十分だと、エルヴィン団長は頷いた。
「初回なら、それでいい。」
焚き火を見る視線が、一瞬だけ遠くなる。
「明日、帰還だ。」
その言葉が、静かに落ちた。
胸の奥で、何かがほどける。
「今日は、もう休め。無理に何かを考える必要はない。」
命令ではない。助言でもない。ただの、判断だ。
エルヴィン団長はそれだけ言うと、踵を返す。
去り際、また一瞬だけリヴァイ兵士長と視線が交わる。
言葉はない。それで、十分だった。
しばらく、焚き火の音だけが残る。
やがて、背後から低い声。
「……聞いた通りだ。今日は、余計な事は考えるな。」
「……はい。」
短く、返す。
「明日、戻る。」
確認のような一言。
「……はい。」
それだけで、会話は終わる。
焚き火は、変わらず燃えている。
夜は、静かだ。
その静けさの中で、私は分かっていた。
今、ここに立っていればいい。
それだけでいい。
言葉じゃない。距離でもない。
立ち位置として残ったものが、確かに、ここにあった。
門が、開いている。
巨大な扉の内側に、見慣れた石畳と、人の気配。
シガンシナ区。
馬の蹄が壁の内側の地面を踏んだ瞬間、空気が、はっきりと変わった。
——帰ってきた。
胸の奥でそう実感するより先に、視線が、自然と上を向く。
高い壁。その向こうに広がる、空。
出発前に見上げた時と同じ色のはずなのに、今は、まるで別物のように見えた。
……あの外を、走っていたんだ。
思わず、手綱が僅かに緩む。
その瞬間。
「前を向け。」
低く、即座に飛んでくる声。
反射で、背筋が伸びた。
「すみません。」
短く答えて、視線を前に戻す。
馬の速度を、ほんの少しだけ落とす。隊列に、きっちり合わせる。
横目で見える、揺れない緑のマント。
さっきまでと、同じ距離。変わらない位置。
壁の中に入っても、それは変わらなかった。
——まだ、任務中だ。
私は、そう自分に言い聞かせる。
壁の中は、安全だ。
それでも、気を抜くにはまだ早い。
トロスト区支部へ向かう道。
石畳を踏みしめる音が、ゆっくりと現実を取り戻させていく。
振り返らない。
今は、前だけを見て進む。
それが、ここまで生き延びて帰ってきた兵士の正しい姿勢だと——
もう、分かっていた。
門が閉まる、重い音。
最後尾が通過し石扉が完全に噛み合ったのを合図に、隊列の速度がゆっくりと落ちていく。
馬を降りろ、という明確な号令はない。
それでも、誰もが同じタイミングで理解していた。
ここから先は、歩きだ。
私は手綱を引き、馬から身を降ろす。
その瞬間。
脚に、力が入らなかった。
地面に足は着いたのに、身体の重心が、遅れてついてくる。
ぐら、と視界が揺れる。
反射的に何かを掴もうとして——
差し出された手が、そこにあった。
指先だけ。引き寄せるでも、抱え込むでもない。
ただ掴める位置に、静かに。
私は、思わずその手に触れる。指を、軽く引っかけるだけ。
それだけで、身体はちゃんと立て直せた。
「……ありがとうございます……すみません……。」
息を整えながら、そう口にする。
返事は、ない。
リヴァイ兵士長は何も言わないまま、ただそこに立っている。
私の体重がほんの僅かにかかっているはずなのに、腕の位置は、微動だにしない。
引かれることもない。支え直されることもない。
最初から、その重さが想定内だったかのように。足元も、肩も、ぶれない。体幹が、揺れない。
——あ。
私は、そこで初めて気づく。
この人は"受け止めた"んじゃない。
最初から、倒れない位置に立っていたんだ。
私が立て直したのを確認してから、リヴァイ兵士長は静かに腕を引いた。
それだけ。
何事もなかったように、次の動作へ移る。
——それでいい。
そう言われた気がして、私はもう一度、深く息を吸った。
周囲では、同じように馬を引く兵士たちが歩き始めている。
鎧の音。蹄が地面を打つ音。壁の中の、現実の音。
私は手綱を握り直し、歩き出す。
そのすぐ前。
いつもの距離で、揺れない緑のマントが進んでいる。
言葉はない。けれど、もう迷うこともなかった。
——ここにいればいい。
壁の外で覚えた距離は、壁の中でも、ちゃんと続いていた。
トロスト区支部の門を抜けたところで、隊列はようやく完全に解かれた。
馬の足音が、ばらける。張りつめていた空気が、音もなくほどけていく。
中央付近。
エルヴィン・スミスが馬を止め、短く、しかしはっきりと告げた。
「——解散。」
それだけ。
それを合図に、兵士達がそれぞれの方向へ散っていく。
言葉を交わす者もいれば、何も言わず、そのまま歩き出す者もいる。
皆、限界なのだ。
私は一拍遅れて、流れに乗った。
やっと、終わった。
そう思った途端、身体の奥から、どっと重さが戻ってくる。
——帰ってきた。
その実感だけが、遅れて追いついてくる。
兵舎へ向かおうとした、その時。
「ユニ。」
低い声。
振り向くより先に、誰のものか分かった。
リヴァイ兵士長が、数歩離れた位置に立っている。
相変わらず、無駄のない姿勢。周囲の喧騒の中でも、そこだけは静かだ。
「明日の訓練は無しだ。」
それだけ。
理由も、感想も、付け加えない。
新兵に必要な情報だけを渡す言い方。
「……はい。」
即座に返す。
それで十分だと、お互いに分かっている。
リヴァイ兵士長は、それ以上何も言わない。
ただ一度だけこちらを確認するように視線を向け、すぐに背を向けた。
教えるためだけに来た。
それだけだ。
私は敬礼し、今度こそ、兵舎へ向かった。
自室に戻る。
装備を外す手が、思ったより遅い。
ベルトを外し、上着を脱ぎ、ようやくベッドに辿り着く。
倒れ込むように腰を下ろし、そのまま横になる。
天井が、近い。
壁の外で見ていた空とは、まるで違う。
——戻ってきたんだ。
そう思ったところで、意識が、途切れた。
夢もない。
ただ、深く、何も考えない眠り。
明日の訓練は、ない。
その一言だけが、最後まで頭の奥に残っていた。