第1章
夢小説設定
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壁の門を抜けた、その瞬間だった。
視界が——ひらける。
壁の影が途切れ、遮るもののない空が頭上いっぱいに広がっていた。
近い。思っていたより、ずっと近い。
青は、壁の中で見上げていたそれよりも、色が深い。
雲は低く、風はまっすぐで、何も邪魔をしていない。
……続いている。
どこまで、とは分からない。
でも、ここから先も、まだ先も——空は、続いている。
胸の奥が、きゅっと縮む。理由もなく、息が詰まりそうになる。ただ、見ているだけなのに。それだけで、心が揺さぶられる。
——だめだ。
ここは、外だ。感動して立ち止まる場所じゃない。
巨人の領域。一瞬の油断が、命取りになる。
私は、ぐっと視線を下げた。
地面。地形。前方の配置。隊列。
思考を、無理やり現実に引き戻す。
深く息を吸い、吐く。装置の重みを確かめる。
……大丈夫。
そう言い聞かせるように、もう一度だけ前を見る。
深く息を吐いた、その時だった。
ふと、視界の端に黒が引っかかる。
そちらへ視線を流すと、少し離れた位置に、リヴァイ兵士長がいた。
前を向いている。隊列と地形を見ている——はずなのに。
その姿が、なぜかやけに近く感じられた。
こちらを見ているかどうかは、分からない。
目が合ったわけでもない。
それでも「今、戻れたか」そんな無言の確認をされた気がして、私は無意識に背筋を伸ばしていた。
肩の力を抜きすぎず、入れすぎず。
視線を前へ戻す。
——任務だ。
壁の外の空は、変わらず広い。
そして私は今、確かに——ここにいる。
長距離索敵陣形の展開が、合図とともに始まる。
隊列が、ゆっくりと引き伸ばされていく。
間隔が空き、互いの存在が、距離として意識され始める。
——離れる。
それが、この陣形だ。
私は配置につきながら、自然と視線を探していた。
少し離れた前方。黒い影。
リヴァイ兵士長。
彼も、こちらを見ていた。
ほんの一瞬。確認するような、短い視線。
合図でも、合図じゃなくてもいい。
次の瞬間——
「判断、遅らせるな。」
風に紛れるほど低い声。誰に向けたとも言い切れない距離。
だが、私は、あれが自分に向けられたものだと分かった。
「無理だと思ったら、引け。」
視線は、もう外れている。前方の地形へ、隊列全体へ。
それ以上、何も言わない。
——任せられている。
そう思ったのは、私の勝手な解釈かもしれない。
でも——背中を押された、とは違う。見送られた、でもない。ただ「お前は、分かっているだろうな」と、そう言われた気がした。
私は軽く息を吸い、手綱を締め直す。
視線を前へ。
——行ける。
長距離索敵陣形。
それぞれが、それぞれの視界で、外の世界へ踏み込んでいく。
馬を走らせて、どれくらい経っただろう。
一定の速度。一定の距離。風の音と、蹄のリズムだけが、淡々と続く。
視界は、前だけを切り取ったように単純だった。
草原。起伏。遠くの影。巨人の気配は、まだない。
……静かだ。
その静けさが、壁の中とはまるで違う事を嫌というほど思い出させる。
私は手綱を握る指に、少しだけ力を込めた。
さっきの声が、まだ耳の奥に残っている。
「判断、遅らせるな。」
「無理だと思ったら、引け。」
短くて、余計なもののない言葉。なのに、不思議と反芻してしまう。
前を向いたまま、少し先の列にいるリヴァイ兵士長の背を捉える。
距離はある。だが、視界から外れるほどじゃない。
緑色のマントが、馬の動きに合わせて揺れている。
振り返らない。こちらを確かめもしない。
私は前を見据えたまま、馬を進める。
今もきっと、前方と地形と、隊列の動きだけを見ている。
こちらを気にしていない。確認もしない。合図も、ない。
それでいい。
それが、この陣形だ。
それが——任されている、という事なんだと思う。
胸の奥で、静かに気持ちが整っていく。
怖くないわけじゃない。外は、危険だ。一瞬の判断ミスが、命を奪う。
でも——今は「どう動くべきか」を考えられている。
足は震えていない。視線も、ぶれていない。
……大丈夫。
私は前方の地形に意識を集中する。
風の向き。草の揺れ。視界の端。
何かあれば、判断する。無理だと思ったら、引く。
そう、決めた。
馬は、一定の速度で走り続けている。隊列は、崩れていない。私は振り返らない。
前を向いたままでも、少し先を走るリヴァイ兵士長の背中が、視界に入っている。
それで、十分だった。
しばらく走った頃だった。
風の音と、馬の呼吸と、装置の金属音だけが、一定のリズムを刻んでいる。
——静かすぎる。
そう思った瞬間。
前方、やや左。空に、一本の煙が立ち上った。
赤。
細く、だがはっきりとした色。風に流されながらも、消えずに残る。
……通常種。
誰かが、見つけた。
胸の奥が、きゅっと締まる。初めて見る、壁の外の信煙弾。
話には聞いていた。訓練でも、図でも、何度も確認した。
それでも——実際に上がるのを見ると、意味が、重さを伴って落ちてくる。
『いる』
それだけの合図なのに、世界の輪郭が、少しだけ変わった。
私は、手綱を強く握り直す。
視線は前へ。隊列は、乱れていない。
進路は——変わらない。
赤は、避けるための情報だ。戦うためじゃない。
馬の速度も、呼吸も、まだ、揃っている。
……大丈夫。
視界の先、少し前の列に、リヴァイ兵士長の背がある。
振り返らない。合図もない。
ただ、何事もないように前を向いて走り続けている。
それが「まだ問題ない」という判断だと、今は分かる。
私はその背を視界の端に入れたまま、意識を前へ戻す。
地形。風向き。視界。次に上がるかもしれない色。
長距離索敵陣形は、静かに、機能していた。
赤の煙が、少しずつ薄れていく。
風に流され、形を崩しながら、それでも完全には消えず、空に痕跡を残していた。
隊列は変わらない。誰も声を上げない。誰も立ち止まらない。
それが、この陣形の答えだった。
——次は、どう出る。
そう意識した、その時。
今度は、少し後方。列の中央あたりから。
音もなく、だが確かな速度で——別の色が、空へ伸びた。
緑。
鮮やかで、迷いのない軌道。風に煽られても、方向だけははっきりと示している。
……進路指示。
胸の奥で理解が言葉になるより先に、身体が反応する。
列全体が、わずかに角度を変える。
大きくはない。だが、確実な修正。
赤を避ける。それだけの、最短で、最小の変更。
視線の先で、前を走る兵士たちの背が同じ方向へ流れていく。
誰か一人の判断じゃない。だが、誰かの判断でもある。
——エルヴィン団長だ。
直接姿は見えない。だが、この色、この迷いのなさ。
エルヴィン・スミスが、今も全体を見ている。
その事実が、隊列の中を静かに貫いていく。
馬の動きが、滑らかに揃う。地形の角度が、わずかに変わる。
それだけで、危険は少し遠ざかる。
私は呼吸を整え、視線を前に固定した。
緑は「行け」という合図だ。
止まらない。戻らない。迷わない。
ただ、示された先へ進む。
長距離索敵陣形は、音もなく、色だけで会話を続けている。
その中には——私も組み込まれていた。
緑の煙が、風に引き伸ばされていく。
示された進路へ、隊列は静かに流れ続ける。
——問題は、ここからだ。
そう思った、次の瞬間。
今度は、さらに遠く。視界の端、地平線に近い位置から——濃い色が、空を裂いた。
黒。
一瞬、息が止まる。
奇行種。
ただの「いる」じゃない。
予測が立たない存在。
隊列の中を、目に見えない緊張が走る。
誰も声を出さない。だが、確実に空気が変わった。
馬の脚運びが、わずかに硬くなる。呼吸が、浅くなるのが分かる。
……来るか。
それとも、まだ距離があるか。
判断を待つ時間が、妙に長く感じられた。
次に上がる色は——
黒の位置を、どう扱うか。
視線を前に固定したまま、私は無意識に数を数える。
一拍。
二拍。
その間にも、隊列は止まらない。
そして——空に、再び動きがあった。
今度は、中央。次列の、さらに奥。
迷いのない軌道で。
緑。
二度目の進路指示。
だが、さっきとは違う。角度が、少しだけ深い。
……避ける。
距離を取る判断。
奇行種を"見なかった事にする"選択だ。
列全体が、先ほどよりもはっきりと向きを変える。
それでも、乱れない。速さも、間隔も、崩れない。
黒を視界の端に追いやりながら、進路は、別の線を描く。
——戦わない。
——今は、まだ。
エルヴィン・スミスは、そう決めた。
その決断は、誰の口からも語られない。ただ、色だけが示す。
「今は、通り過ぎろ。」
「目的は、別にある。」
私は馬の首筋に軽く触れ、呼吸を合わせる。
緊張は、消えない。だが、暴れもしない。
視界の端、少し先の列にいる、リヴァイ兵士長の背は——変わらない。
振り返らない。速度も、姿勢も。
ただ、当たり前のように前を走り続けている。
それがこの判断に対する答えだと、今は思えた。
黒は、まだ空に残っている。
だが隊列は、それを背に、先へ進む。
長距離索敵陣形は、危険を「消す」のではなく、「遠ざける」ためにある。
そして今、その役目は——果たされていた。