第1章
夢小説設定
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夜は、思ったより早く降りてきた。
建物の外が静まっていくのが分かる。昼間はあれだけ響いていた足音も、金属音も、今は遠い。
私は装置の最終確認を終えて、手を止めた。
問題はない。
整備としても、感覚としても。
それでも、指先にわずかな緊張が残っている。
——前夜、だからだ。
部屋を出て、廊下を進む。
目的地は決めていない。ただじっとしているより、歩いていた方が落ち着く気がした。
角を曲がったところで、気配に気づく。
そこにいたのは、リヴァイ兵士長だった。
壁に近い位置。
腕を組み、背を預けるほどではない距離で立っている。周囲を警戒しているわけでも、誰かを待っているわけでもない。
ただ、そこにいる。
視線が合った。
一瞬だけ。
彼は、何も言わない。
私も、すぐには言葉が出なかった。
夜の空気が、間に落ちる。
「……寝られそうか。」
先に、彼が口を開いた。
低く、静かな声。問いというより、確認に近い。
「……少し、歩こうと思って。」
それが答えになっているのかは分からない。でも、嘘ではない。
リヴァイ兵士長は、短く息を吐いた。
「そうか。」
それだけ。
それ以上、踏み込まない。けれど、去りもしない。並んで立つ形になる。距離は、近すぎず、遠すぎず。
私は、前を見たまま言った。
「……明日ですね。」
「そうだな。」
即答だった。
分かっている。分かりきっている事を、わざわざ言った自分が少し可笑しい。
それでも、口に出したかった。
「……大丈夫です。」
何が、とは言わなかった。
怪我の事か。判断の事か。それとも——生きて戻る事か。
リヴァイ兵士長は、こちらを見ないまま答える。
「無理はするな。」
命令でも、叱責でもない。
前に聞いた時と、同じ言葉。けれど前よりも、少しだけ重い。
私は頷いた。
「はい。」
その一言で、十分だった。
彼がそれ以上何も言わない事が、今の私には、何よりも分かりやすい。
沈黙が、続く。
嫌じゃない。むしろ、落ち着く。
——あぁ、と思う。
私は今、この人が何も言わない事を、信頼として受け取っている。
それに気づいて、胸の奥が静かに揺れた。
リヴァイ兵士長はふっと視線を外し、廊下の奥を見た。
「戻れ。体力を温存しろ。」
「……はい。」
今度は、はっきり命令だ。
それでいい。
私は一歩下がり、軽く頭を下げる。
「おやすみなさい、リヴァイ兵士長。」
一瞬の間。
「……あぁ。」
短い返事。
それだけで十分だった。
私は踵を返し、歩き出す。
背中に視線を感じる気がしたが、振り返らなかった。
前夜は、静かだ。
そして——静かすぎるほどの夜が、明日へと続いている。
目を覚ますと、天井が静かにそこにあった。
いつもと同じ。なのに、胸の奥だけが少し早く動いている。
私はゆっくりと上体を起こす。身体の感覚を確かめるように、肩を一度だけ回した。
……問題ない。
ベッドを降り、用意していた制服に手を伸ばす。憲兵団の制服。布の重みが、指先に伝わる。
袖を通し留め具を整えるたびに、意識が少しずつ、外へ向かっていく。
鏡に映る自分を、一瞬だけ見た。
大丈夫。もう、迷っていない。
私は小さく息を吸って、背筋を伸ばす。
──よし、行こう。
そう心の中で区切りをつけ、部屋を出る準備を整えた。
人が集まる場所は、朝でもざわついていた。
馬の気配、革の匂い、装備の金属音。それぞれが、いつもの手順をなぞっている。私は少しだけ立ち止まってから、その輪の中に入った。
「……ユニ。こっちだ。」
低い声。
視線を向けると、リヴァイ兵士長がいた。すでに自分の班は揃っているらしく、こちらを一度見ただけで、顎で示す。
私は小さく頷き、そちらへ向かった。
そのすぐ近くに——エルヴィン団長がいた。
私達に気づくと、穏やかに視線を向けてくる。
「調子はどうだ。」
問いというより、確認に近い声。
私は背筋を伸ばし、はっきり答える。
「準備は、整っています。」
エルヴィン団長はほんの一瞬だけ私を見てから、満足そうに頷いた。
「そうか。」
それ以上は、聞かない。視線が、自然にリヴァイ兵士長の方へ移る。
「では、任せるよ。」
「……了解しました。」
短いやり取り。
エルヴィン団長は踵を返し、歩き出しかけてから、ふと立ち止まった。
「——空の続きを、見られるといいな。」
独り言のような一言。
それだけを残して、エルヴィン団長は踵を返し、人の流れの中へ消えていった。
残された言葉が、遅れて胸に落ちる。
……空の、続きを。
それは、私が口にした夢だった。ずっと前に。
誰かに説明するでもなく、ただ「知りたい」と言っただけの、あの言葉。
喉の奥が、わずかに詰まる。
返事を求められたわけじゃない。
励まされた、というほど露骨でもない。
それなのに——まるで「覚えている」と言われたみたいだった。
私は、視線を落とす。胸の奥に残った余韻を、どう扱えばいいのか分からずに。
その時、ふと気配が動いた。
隣に立つリヴァイ兵士長が、わずかに視線を寄越していた。
私の顔——正確には、その表情の変化を確かめるように。
ほんの一瞬。
だが、見られた。
言葉を受け取った瞬間の、呼吸の止まり方も。
胸の奥に何かが沈んだ、その気配も。
私は慌てて背筋を伸ばす。いつもの自分に戻るように。
リヴァイ兵士長は、それ以上何も言わなかった。眉も動かさない。問いも、評価もない。
ただ、一度だけ視線を外し、前を向く。
——それで終わり。
けれど、その沈黙がなぜか、さっきより重く感じられた。
エルヴィン団長の言葉が、私の中の「先」を指したのだとしたら。
それを見届けたこの人は今、何を思ったんだろう。
問いかけても、答えは返ってこない。返ってこないと分かっているから、私は口を閉じる。
ただ胸の奥に残ったその一言を、そっと、握りしめたまま。
隊列が動き出す。私は、前を向いた。
——空の続きを。
それを見に行くその中に、今は自分も立っている。
そう思えた事実だけが、静かに、足元を支えていた。
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整列が終わり、最終確認の声が飛び交う。
馬の鼻息。装備の擦れる音。出発前特有の、張り詰めたざわめき。
「——空の続きを、見られるといいな。」
独り言のような一言。
それだけを残して、エルヴィンはその場を離れた。
……意味は、分からない。
作戦の話でもない。士気を煽る言葉でもない。周囲に向けたものでもない。
だが——その言葉を受けた瞬間、ユニの呼吸が、わずかに変わった。
ほんの一瞬。
胸の奥に落ちた何かを、確かめるような間。
思わず、眉をひそめる。
——通じている。
それだけは、はっきり分かった。
内容は分からない。だが、共有されている何かがある。
それも、今この場で、あいつと、エルヴィンだけのものとして。
……面白くない。
理由は分からない。言葉にする気もない。ただ、気に入らない。
俺は視線を戻し、装備を確認する部下に短く指示を飛ばす。
余計な事は言わない。聞くつもりもない。分からないなら、分からないままでいい。
——今は。
出発の時刻が近づく。
俺は再びユニを一瞥し、それ以上、何も考えない事にした。