第1章
夢小説設定
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廊下の突き当たりで、呼び止められた。
「ユニ。」
名前だった。
呼ばれるのは、初めてじゃない。それでも、足が自然と止まる。
振り返ると、エルヴィン・スミスが立っている。書類は持っていない。視線も、どこか急いでいない。
「時間はあるか。」
問いかけは、命令じゃない。
私は一拍置いて、頷いた。
「…はい。」
「少し、話をしないか。」
理由は言われない。けれど、その言い方は、仕事の段取りとは違っていた。私は何も聞かずに、彼の後を歩く。
連れて行かれたのは、執務室ではなかった。
窓のある、小さな応接用の部屋。椅子が二つと、低い机。それだけの空間。扉が閉まる音が、静かに響く。
「怪我はどうだ。」
先に出たのは、その一言だった。声は低く、淡々としている。
「打撲です。訓練には出ていませんが、日常動作には支障はありません。」
用意していた答えを、そのまま返す。
エルヴィン団長はそれを否定も肯定もせず、軽く頷いた。
「そうか。」
それだけ。本題は、別にある。
一瞬の沈黙。
彼は窓の方に視線を向けた。外は、曇りでも晴れでもない、中途半端な空だ。
「……覚えているだろうか。」
唐突に、そう言われる。窓の外から、視線を戻さないまま。エルヴィン・スミスは、確かめるように続けた。
「君と、初めて言葉を交わした時の事だ。」
胸の奥が、僅かに揺れる。
あの日の光景は、今でもはっきり残っている。忘れる理由が、ない。
「はい。」
短く答えると、エルヴィンはようやくこちらを見る。
だが、その目は私を見ているというより、記憶の向こうを辿っているようだった。
「君が──いつも見上げている空について、疑問を口にしたことがある。あれは、どこまで続いているのか、と。」
私は、息をひとつ飲み込んだ。忘れていたわけじゃない。けれど──あの時の言葉が、ここで拾われるとは思っていなかった。
「……よく、覚えていらっしゃいますね。」
驚きを隠しきれずに言うと、エルヴィンは小さく息を吐いた。笑ったわけではない。だが、どこか柔らいだ声音だった。
「強い言葉ではなかった。だが、私には無視できないものだった。」
視線は、まだ窓の外に向けられている。まるで当時の空と今の空を、重ねて見ているみたいに。
「多くの者は、空を"上"としてしか見ない。壁の内側か、外側か。晴れているか、曇っているか。だが君は、"続き"を見ようとした。」
責めるでも、評価するでもない。ただ、観測した事実を並べているだけの口調。
「それは、どこで生まれた疑問だ。」
少し考える。いつから、と聞かれると、正確な始まりは思い出せない。気づいた時には、もうそこにあったものだから。
「……幼い頃からです。」
言葉にすると、思っていたよりもあっさりしていた。けれど、曖昧にはしたくなかった。
「元々、空を見るのが好きでした。」
それは事実だった。特別な理由があったわけじゃない。ただ、気づくと視線が上に向いていた。
「毎日、雲の形が違う事に気づいて……。同じ空なのに、同じ日は一日もないんだって。」
言葉を選びながら、少しずつ記憶を辿る。
「それに、時間によって太陽の位置が変わっている事にも気がついて──朝と昼と夕方で、影の伸び方も違う。」
膝の上で、指を軽く組み直す。
エルヴィンは、口を挟まない。
ただ、聞いている。
「空は、動いている。でもどこに向かっているのかは、誰も教えてくれなかった。」
少しだけ、間が空く。
「それが……ずっと、不思議でした。」
言い切ると、胸の奥が静かになる。
幼い頃の疑問を、そのまま差し出したみたいだった。
エルヴィンは、すぐには何も言わなかった。
代わりに、窓の外へもう一度視線を投げる。
「……なるほど。」
低く、噛みしめるような声。
「答えを求めたというより、疑問そのものを抱え続けていたわけだな。」
私は、ゆっくり頷く。
「はい。分からないままでも、見上げる事はできましたから。」
それを聞いて、エルヴィンはほんの僅かに、口元を緩めた。
「……君らしい。」
評価でも、褒め言葉でもない。
けれど、不思議と否定も含まれていなかった。
「空は、どこまで続いているのか。答えを急がずにそれを考え続けられる人間は、そう多くない。」
私は、少しだけ視線を落とす。
褒められているのかどうか、分からない。けれど、否定ではないことだけは、はっきりしていた。
「多くの者は、疑問を持った瞬間に、答えを欲しがる。」
「だが君は、疑問そのものを手放さなかった。」
私は、少し視線を落とす。
「……答えを、欲しがった事はあります。」
声を落とす。それは否定ではなく、事実だった。
「川が、どこまで流れているのかが気になって……。流れているなら、終わりがあるはずだって。だから、辿ってみたんです。」
空と同じだった。見えない先が、気になった。
「歩いて歩いて…やっと辿り着いた先にあったのは──壁でした。…とてもがっかりしたのを覚えています。」
期待していた景色とは、違ったから。
「途中で、引き返そうとは思わなかったのか?」
「いいえ。」
答えは、迷わずに出た。
「引き返す理由も、なかったので。」
それから、少しだけ声を落とす。
「……なかなか帰らなくて、両親に心配をかけました。」
叱られた、とは言わない。
でも、心配された顔は、今でも思い出せる。
「それで、どう思った。」
エルヴィンが、問いを重ねる。
私は、言葉を探してから答えた。
「壁があっただけで、終わりだとは思えませんでした。見えなくなっただけで……向こうに、まだ続いている気がして。…だから──」
ほんの一瞬、間を置く。
「川を見るのをやめようとは、思えませんでした。」
言葉が途切れ、部屋に静けさが落ちる。窓の外から、遠くで風の音がした。
エルヴィンはすぐには続けなかった。私の言葉を遮らず、そのまま置いて、確かめるような沈黙を挟む。
視線が、ほんの僅かに私に戻る。
「それを見て、君の中で何か、変わったか?」
哲学的な問いだ。
私は、一度息を吸ってから答えた。
「……分からない、という状態が、怖くなくなった気がします。」
言いながら、自分でも驚く。
けれど、言葉は止まらなかった。
「分からなくても、見ていていいんだって。全部辿り着かなくても、途中に立っていていいんだって。」
しばらくの沈黙。
それから、エルヴィン団長が静かに言った。
「……なら、今と同じだな。」
目を細める。
意図された、穏やかな笑み。
それ以上は語らなかった。
だが、その一言で十分だった。
私の中で、何かが静かに整う。
昨日の失敗も、今日の停止も──線の途中にあるのだと、はっきり分かった。
窓の外の空は、相変わらずどこまでも続いているように見えた。