第1章
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夜。
訓練場の熱も、食堂の音も、風呂の湯気も抜けて、廊下には、規則正しい足音だけが残っていた。
私は歩きながら、今日の一瞬を、何度も頭の中でなぞっていた。
考えた覚えはない。判断した感触も、曖昧だ。それでも──確かに、通れた。
(……どうやったんだろう。)
分からないままなのが、少しだけ落ち着かない。
角を曲がった先で、人影に気づく。同時に、足が止まった。
背の高い影が、こちらを見る。灯りに照らされて浮かび上がる輪郭。
──エルヴィン・スミス。
「……まだ起きていたか。」
感情の乗らない声だった。
「はい。今、部屋に戻るところです。」
形式的に答える。
エルヴィン団長は歩みを止めはしたが、距離は詰めない。
「訓練のあとだ。頭が静かにならないのは、よくある。」
断定でも、気遣いでもない。事実を述べただけの口調。
私は、何も言えずに頷いた。
「今日の動き、」
不意に、そう言われる。歩調を合わせたままの声で、指示でも叱責でもない。
「意識してやったわけではないな。」
私は一瞬、考えてから答える。
「……見ていらしたんですね。」
確認するように、静かに。
エルヴィン団長は、わずかに視線だけをこちらへ向ける。
「報告は受けている。それと──少し、目に入っただけだ。」
"監視していた"でも、"評価している"でもない。
本当に、それだけの言い方。
「意識していないなら、今は無理に言葉にしなくていい。リヴァイも、そう言うはずだ。」
歩みを止めずに続ける。
「理由を探すより、同じ状況をもう一度通す方が早い。」
私は、息を吸って頷く。
「……はい。」
「今日のあれは、偶然で終わらせるには、少し綺麗だった。」
淡々としているのに、どこか含みがある。
それ以上は言わず、エルヴィン団長は進行方向を変えた。
夜の廊下に、靴音だけが残る。
翌朝の訓練場は、空気が少し重い。
湿り気を含んだ土の匂い。張られたワイヤーの残響。準備運動の音が、ところどころで途切れている。
私は装置を装着しながら、昨日の夜の言葉を思い出していた。
──理由を探すより、同じ状況をもう一度通す方が早い。
考えるな、とは言われていない。でも、答えを掴みに行くな、とも言われている。
私は深く息を吸い、グリップを握る。
今日は、昨日より少し高く。それだけを決める。
合図。
ワイヤーを撃つ。身体が浮く。一拍、遅れそうになる感覚を、そのまま押し切る。
考えない。高さを取る。視界が広がる。
──あ。
昨日と同じだ。次の位置が、自然に見える。選択肢が、最初から一本しかない。身体が勝手に、そちらへ流れる。
旋回。壁を蹴る。反動を逃がして、もう一段。
完全じゃない。でも、迷いはない。
着地。足裏に伝わる衝撃が、はっきりと現実として残る。
私は息を整えながら、無意識に訓練場の端を探す。
──いた。
腕を組んだまま、リヴァイ兵士長がこちらを見ている。
昨日と同じ位置。同じ距離。けれど──視線が、少しだけ違う。
私は、一歩近づいてから止まる。
「あの……。」
言いかけて、やめる。リヴァイ兵士長の方が、先に口を開いた。
「今日は、昨日より高かったな。」
短く、事実だけ。評価でも、励ましでもない。それなのに──胸の奥で、何かが静かにほどける。
私は小さく頷く。
「……はい。」
それだけ。
リヴァイ兵士長は、もう私を見ていない。別の兵の動きを確認しながら、低く続ける。
「今の感覚、忘れるな。説明できなくなったら、一度同じ高さを取り直せ。」
命令じゃない。助言だ。
私は、もう一度グリップを握る。
──飛べた。
完璧じゃない。でも、昨日よりは。
その一言が、ちゃんと、届いたからだ。
この装置も、昨日より先に進ませたい。
私は、再び壁に向かってワイヤーを撃った。
失敗は、派手じゃなかった。
だからこそ、気づくのが遅れた。
いつも通り、ワイヤーを撃つ。高さを取る。視界が開く。
──いける。
そう思った瞬間。
次の位置を、ほんのわずかに欲張った。
距離は、届く。角度も、悪くない。
判断としては、間違っていない。
ただ──身体がまだ、そこまで戻っていなかった。
反動を受けた瞬間、重心が一拍遅れる。空中で、わずかに軌道がズレた。
──しまっ…!
修正しようとして、さらに判断を重ねる。その一手が、余計だった。
ワイヤーが、想定より早く張り切る。身体が、引き戻される。壁が、近い。
咄嗟に刃を外す。足で蹴る。
──間に合わない。
衝撃。
目の前の壁に、肩から、強くぶつかった。鈍い音がして、視界が一瞬、白くなる。
落下。
地面が、遠い。空気を切る音だけが、耳に残る。
身体が、言う事をきかない。重心が、戻らない。
影が、視界を横切った。
次の瞬間、身体が、強く引かれる感覚。
衝撃は、なかった。ただ、勢いだけが、急に失われる。
「───」
声が、聞こえた気がする。低くて、短い声。
何かに支えられている、と理解するより先に、視界が、暗くなった。
「動くな。」
低い声。リヴァイ兵士長だ。いつの間に、ここまで。
彼の姿を認識した途端、視界も、音もクリアになっていく。
「痛むか。」
問いは、短い。
私は、歯を食いしばって頷く。
「……少し。」
嘘だ。でも、全部は言わない。
「動かせそうか。」
「なん、とか……。」
リヴァイ兵士長は私の装置に一瞬だけ視線を落とし、肩の位置を見る。
「無理に立つな。」
言い切りだった。叱責じゃない。責任追及でもない。ただ、今やるべき判断。周囲が、静かになる。誰も、口を挟まない。
私は、地面に座ったまま、視線を落とす。
悔しさが、遅れて押し寄せる。
──戻ってきたと、思った。
昨日より、今日。さっきより、今。なのに。
一歩踏み出しただけで、簡単に、崩れる。
「……。」
拳を握る。
情けない。甘かった。
リヴァイ兵士長は私の前に立ったまま、言った。
「今のは……悪くねぇ判断だ。」
私は、思わず顔を上げる。リヴァイ兵士長は、私を見ていない。視線は、壁の方。
「身体が追いついてねぇだけだ。分かってて踏み込んだなら、止める理由はねぇ。」
冷たいほど、淡々。でも──
「次は、距離を見誤るな。今日は、ここまでだ。」
それだけ。
私は、ゆっくり息を吸う。
悔しい。でも──否定されていない。
「……はい。」
声は、少し掠れていた。
リヴァイ兵士長はそれ以上何も言わず、立ち上がるのを手伝いもせず、ただ一歩、引いた。自分で立て、という距離。
私は、肩を押さえながら立ち上がる。
痛みは、ある。けれど、折れてはいない。
──失敗した。
でも、止められたわけじゃない。その事実だけが、胸の奥で、静かに残っていた。