第1章
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夜。
仮の拠点は、昼間のざわめきが嘘みたいに静まり返っていた。遠くで誰かが歩く音も、今はもう聞こえない。
簡易ベッドに腰を下ろし、私は膝の上で指を組む。短い髪が、動くたびに首元に触れる。
ここに来てからの事が、頭の中で順番に浮かんでは消える。
団長室で交わした、簡潔なやり取り。
廊下で引き止められ、半ば強引に連れて行かれた部屋。
眉間に皺を刻んで去っていった、リヴァイ兵士長の背中。
立体機動訓練での、半拍遅れる判断。
整備中にかけられた、短い言葉。
それから──
夜、向かいに座ったナナバの声。
訓練兵時代と変わらない距離で、静かに話した夢の続きを思い出す。
「空は、どこまでも続いてる。」
その言葉だけが、胸の奥にあたたかく残っていた。
私は、枕元に置いた立体機動装置の一部を見る。昼間、自分で磨いた金属。触れれば、指に冷たさが残る。
守り方は、知っている。壊さない方法も、間違えない手順も。でも──使いこなしているかと聞かれたら、答えに詰まる。
5年。
安全な場所で、選ばない訓練をしてきた時間。
それを思うと、喉の奥が少しだけ苦しくなる。
──それでも。
私は、ここに来た。
逃げたわけじゃない。流されたわけでもない。確かめたくて、来た。
空の続き。川の行き先。壁の外に、何があるのか。
それを知るには、ここしかなかった。
ベッドに横になり、天井を見上げる。木材の継ぎ目が、ぼんやりと影を落としている。
完璧じゃなくていい。すぐに追いつけなくてもいい。壊れていないなら。まだ、使えるなら。
「……まだ、やれる。」
声に出すと、思ったより静かだった。誰に聞かせるでもなく、誰に認めてもらうでもない。ただ、自分に向けた言葉。
私は目を閉じる。外では、風が壁を撫でる音がした。
明日も、きっと不安は消えない。それでも──ここで、目を覚ます。
◇
朝。
拠点の中に、ゆっくりと音が戻ってくる。足音、金属が触れ合う音、低い声で交わされる短い会話。
私は食堂の入口で、一瞬だけ足を止めた。
昨日の夜よりも、空気が現実に近い。静かだけど、動き出している気配。
配膳台の前に並びながら、無意識に周囲を見る。
知らない顔ばかりの中で──
視線が、ふと合った。
向かいの卓。既に席についていたナナバが、私に気づいて目を細める。ほんの一瞬の間。それから、柔らかく微笑んだ。
私は、反射で肩をすくめそうになるのを堪えて、
ぎこちなく手を上げる。小さく、控えめに。
ナナバはそれを見て、少しだけ笑った。声はかけてこない。
それが、ありがたかった。
席に着き、スープを口に運ぶ。味は、よく分からない。
周囲では、今日の準備の話が進んでいる。
壁外調査。補給。点検。
言葉の端々に、現実が混じる。
私は匙を置き、背筋を伸ばした。
昨日、不安を感じる暇はなかった。動いて、考えて、判断しているうちに夜になった。
今は違う。
動き出す前の、わずかな隙間。その隙間に、不安が入り込もうとする。
──だから。
私は食事を終えると、早めに席を立った。
目的地は、決めていない。ただ、じっとしているのは嫌だった。
通路に出ると、立体機動装置を抱えた兵士たちとすれ違う。準備のための準備。その中で、私は足を止める。
訓練場の方から、ワイヤーの発射音が聞こえた。乾いた金属音。空を切る音。
身体が、そちらを向く。
──やらない理由は、ない。
今の自分が、どこまでできるのか。昨日の続きは、頭の中じゃなく、体で確かめるしかない。
私は立体機動装置のグリップを握り直し、歩き出した。
不安を振り切るためじゃない。不安の正体を、はっきりさせるために。
訓練場には、すでに数人の兵が集まっていた。
壁に向かってワイヤーを撃ち込み、順に宙へ上がっていく。空中で交差する軌道が、乾いた音を残す。
私は端に装置を置き、点検を始めた。
ガス圧。刃の固定。ワイヤーの巻き。グリップの感触。指先で確かめながら、呼吸を整える。
──落ち着け。
飛べないわけじゃない。ただ、感覚が少し遠いだけだ。
装置を装着し、壁に向かう。
一呼吸。
ワイヤーを撃つ。身体が浮き、次の瞬間、視界が切り替わる。
…遅い。
頭で考えた分だけ、初動が鈍る。空中で微調整しながら、無理やり軌道を修正する。それでも、落ちない。壁を蹴り、次の位置へ。
無駄な動きはしていない。けれど、判断に一拍ある。
自分でも分かる。
──訓練兵の頃なら。
そう思った瞬間、集中がわずかに途切れた。
着地。ブーツが地面を叩く。
私は、その場で深く息を吐いた。
「……。」
視線を感じて、顔を上げる。
少し離れた位置に、腕を組んだリヴァイ兵士長が立っていた。いつから見ていたのか、分からない。表情は、いつも通り。眉間に刻まれた皺も、そのまま。用があるのかと思って視線を向ける。
「あの、何か、」
言い終わる前に、声が落ちてきた。
「気にするな。」
短く、それだけ。
評価でも、指示でもない。けれど、視線はまだ私に向いている。
リヴァイ兵士長は訓練場全体を一度だけ見渡し、それから、私にだけ聞こえる距離で言った。
「最初の一手、迷うな。迷った時点で、選択肢は減る。」
淡々と。
「高さを取れ。見える情報を増やせ。」
それだけ言うと、もうこちらを見ない。訓練場の端へ歩いていく。
私はその背中を一瞬だけ目で追って、すぐに前を向いた。
──分かってる。
迷っている自覚はある。
5年分の空白を、頭で埋めようとしてる。
もう一度、グリップを握り直す。
今度は、考えない。
ワイヤーを撃つ。身体が宙に放り出される感覚を、無理やり思考から切り離す。
高く。もっと、高く。
視界が開けた。
……あ。
次の位置が、自然に見える。身体が、勝手に動く。
完全じゃない。でも、さっきより確実だ。
着地。
足に伝わる衝撃が、現実として残る。息を整えながら、訓練場の端を見る。
リヴァイ兵士長はもう、別の兵に視線を移していた。けれど──一度だけ、頷いた気がした。
それで、十分だった。